「飼い葉桶のキリスト」
新約聖書 ルカによる福音書2章1-21節
旧約聖書 イザヤ書11章1-10節
アウグストゥスとキリスト

 アドヴェント・クランツの四本のローソクにすべてが火がともされて、2003年のクリスマス礼拝を迎えました。今日、世の光としてお生まれ下さった救い主イエス様の愛と平和がみなさんの上に豊かにありますようにと祈りつつ、クリスマス・メッセージを申し上げます。

 イエス様がお生まれになったのは、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスが天下を取っていた時代です。「すべての道はローマに通ず」という言葉がありますけれども、彼は地中海をぐるりと囲むヨーロッパの国々、アフリカ北岸の国々、小アジア、シリア、パレスチナといった国々のすべてを自分の支配下に治めていました。そして、彼はこれらの国々に住む人間が一人残らず自分の民であるということを確認するために、全領土の住民に「住民登録をせよ」との勅令を出したというのであります。

 もっとも、実際には、このような住民登録は一つの号令のもと一斉に行われたのではなく、州ごとに、地域ごとに、行政組織が調えられていく過程の中で、それぞれ時期を異にして行われたようです。エジプトや南フランス地方では、紀元前10年頃にローマ帝国による住民登録が行われたという記録が残っています。ユダヤを含むシリア地方で住民登録が行われたのは紀元前8年頃だと言われています。聖書には、「キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた」とありますが、歴史の資料に照らし合わせてみると、確かにキリニウスは紀元前8年にはシリア州を監督するような公的な立場にいたようです。しかし、実は総督になったのはもう少し後のことで、紀元前6年のことだったということも分かっています。その辺の誤差はルカの勘違いだったのかもしれません。いずれにせよ、各地の監督や総督のもとで行われた住民登録というのはすべてアウグストゥスの権威を背にして行われたことでありますから、聖書に「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録せよとの勅令が出た」と書いてあることは決して間違いではないのです。

 その時の世の中というのは、確かにアウグストゥスの世の中でありまして、彼こそ王の王であり、平和の君であり、号令一つでどのようにでも世界を動かすことができる歴史の支配者であり、彼の築いたローマ帝国の礎は固く、いついつまでも続くものだと、誰もがそう信じ切っていたのです。しかし、聖書は、本当の世界の王は彼ではない、歴史を支配しているのも彼ではない、従って世界中の人々は誰一人彼の民ではない、彼の国は永遠ではない、と宣言するのです。そして、マリアとヨセフが旅先のベツレヘムで、宿る場所もなく、仕方なく家畜小屋の中で生んだ男の子のことを語ります。

 「人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」(2:3-7)

 「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」という言葉が象徴的に言い表していますように、イエス様はこの世の中の片隅で、まったく日の当たらない場所で、その産声を上げられました。今でこそ、私たちは、ローマ帝国が滅び、栄光は過去のものになってしまったことを知っています。しかし、当時、アウグストゥスの帝国が、そのように滅び去るものであると考える人はひとりもいませんでした。ところが聖書は、最初から、アウグストゥスではなく、家畜小屋の中で産声を上げ、ほとんど誰にも顧みられることなく、飼い葉桶を揺りかごとして寝かされた男の子のこそ、やがて世界の中心となる御方、すべての人々を神の権威と愛に満ちたご経綸をもってご自分の民とされる御方、世界の歴史を導く御方、しかも永遠の御国を築く御方なのだと紹介しているのです。

 実際どうでありましょうか。それから2000年経った今、アウグストゥスは、今や誰をも支配をしていません。アウグストゥスの民はこの世に一人もいません。一方、イエス様の民はどうでありましょうか。世界人口は55億人と言われますが、そのうち19億人がクリスチャンです。そして、今日も、私たちの教会においてひとりの姉妹が新たにイエス様の民に数えられました。このようにイエス様の御国は、今なお世界に広がり続け、その民を増やしているのです。

 私たちは今、イエス様が天の王座に座して、人間の世界を治めておられる姿を直接見ることはできません。しかし、イエス様はご自分の民によって世を治め、導いておられます。「自分自身のようにあなたの隣人を愛せよ」「敵を愛せよ」「互いに仕え合いなさい」とイエス様は言われました。2000年の間、イエス様の民は、御言葉を守ることによってイエス様の御国が来ることを信じ、倦むことなくイエス様の愛と平和による支配がこの世に実現するようにと祈り続けてきました。また、御心を行うために、いつも率先して社会参加をし、社会貢献をしてきました。日曜学校運動から始まって学校を建設し、すべての子供達に平等に教育を与えようとする義務教育の先駆的な役割を果たしたのは、そのようなイエス様の民です。いちはやく慈善活動を行い、貧民救済に乗り出したのも、イエス様の民です。病院を建設し、愛の業としての看護の実践を先駆的に行ったのも、イエス様の民です。酷使されてきた労働者の人権を訴え、人種差別や女性差別の問題と取り組み、反戦運動、平和運動を推進してきたのも、イエス様の民です。そして、現在でもイエス様の民は、環境保護をめぐる問題や、生命の尊重をめぐる問題(安楽死、死刑制度)などに積極的な役割を果たしています。

 昔アウグストゥスが築いたローマの都は、今や遺跡として、瓦礫として残されているだけですが、イエス様の愛の御国は、御言葉を信じ、御言葉を行うイエス様の民によって、教育、文化、技術、医療、福祉、人権運動、平和運動、環境保全運動など、様々な領域で実を結び続けているのです。イエス様が今も生ける御方であるということは、このように御言葉に聞き従い、御心を行うイエス様の民がいるということによって証明されるのではないでしょうか。

 アウグストゥスの民は今はひとりもいないけれども、今もなおイエス様の民はいるという事実を、心に留めたいと願います。クリスマスは、イエス様がまことの王としてお生まれになった日であるならば、同時にクリスマスは、イエス様の民が生まれた日でもあるのです。私たちは今誰の民でもなく、イエス様の民としてこの世を、人生を、神様の愛を頂き、イエス様の光の中に生きる幸せをゆるされていますけれども、それは私たちの真の王としてイエス様がお生まれ下さったということに始まっているのです。内村鑑三はクリスマスについてこのような話をしています。

 「クリスマス! この日をすべての人の誕生日となさくなてはなりません。私どもの敵も味方も、みな再びこの日に生まれ変わらなければなりません。世界万国の人がみなこの日をその誕生日と定むるに及んで初めて本当の平和が地上に臨むのであります。主一つ、信仰一つ、バプテスマ一つ、神すなわち万民の父は一つ(エペソ4:5-6)、しかり、誕生日一つ」

 クリスマスというのは、イエス様がお生まれになっただけの日ではない。私たちがみんながイエス様の民として、神様の子どもとして、新しく生まれることができる日だということを改めて思い、感謝をしたいと思います。そして、その喜びをもって、もう一度イエス様の民として「互いに愛し合いなさい」という言葉を胸に、地上の日々を兄弟姉妹と共に歩んでいこうとする決意を新たにしたいとのであります。


飼い葉桶のキリスト
 
 さて、もう一つ、イエス様が飼い葉桶に宿られたという点について学びたいと思います。今日お読みしましたイエス様御降誕の物語には、「飼い葉桶」という言葉が三度も繰り返し語られているのです。一つは、すでにお読みしましたが、マリアがベツレヘムでイエス様をお生みになったとい場面です。6-7節

 「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。」
 
 もう一つは、その夜、ベツレヘムの郊外で野宿をしていた羊飼いたちに、天使たちが現れて告げた言葉の中にあります。10-12節

 「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

 三つ目は、この天使の言葉を聞いて、「さあ、ベツレヘムに行って、主が知らせてくださった出来事を見てこようじゃないか」と出かけて行った羊飼いたちが、マリアとヨセフ、そして飼い葉桶に寝かされている乳飲み子を捜し当てたという場面です。

 「天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。」

 こうしてみますと、明らかに「飼い葉桶に寝かされている」ということが、イエス様のお誕生の象徴的な出来事として強調されているということがよくお分かりだと思うのです。ダビデの町ベツレヘムということも繰り返されていますが、「飼い葉桶」ということがどうしても気になるような書き方がされているわけです。

 いったい、この「飼い葉桶」にはどんな意味が込められているのでしょうか。聖書には「客間には彼らの泊まる場所がなかったからである」ということが書かれています。宿屋が込んでいて泊まる部屋がなかった。ところが、マリアは身重で臨月になっていましたから、とても野宿をさせるわけにはいかないと考えたヨセフが無理に頼み込んだのか、あるいは宿屋の親切からか分かりませんが、家畜小屋に泊めてもらうことになったというのです。ところが、その晩、マリアはその家畜小屋で月が満ちてイエス様を生みます。そして、イエス様を白い布でくるみ、飼い葉を入れる桶に藁をしいて、そこに寝かせたというのです。

 しかし、これはただの偶然ではなかったのだと、天使たちは告げ知らせたのです。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」 飼い葉桶の中に寝かされている乳飲み子、これこそが救い主の徴なのだというのです。どんな徴でありましょうか。

 第一に、飼い葉桶というのは、暗くて、じめじめして、どろどろと汚くて、悪臭を放っている、そういう私たち人間の心を象徴しているのです。イエス様は、そのような人間の心を裁かず、否まず、かえって自分の住まう場所としてくださる愛に満ちた、恵みに満ちた御方なのです。

 よく、教会に友達を誘うと、「わたしは教会になんかにいく柄じゃないから」とか、「私みたいな人間は教会には行けない」というようなことを言われてしまうことがあります。きっと、教会には心の清い、立派な人がいっぱいいるのだろうと思っているでありましょう。しかし、幸いにも、教会はそのように近寄りがたい聖人君子の集まりではありません。イエス様は、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9:13)と言われました。教会というのは、飼い葉桶のような汚い、どろどろとした心をもった罪人の集まりなのです。

 人間というのは根っからの悪人というのはいないのです。生まれたときから、人に敵意をもち、世の中を憎んでいる人などいません。しかし、その後の人生の中で、罪の力に敗北し、罪の縄目でがんじがらめに心を縛られてしまっている人間がいます。パウロは、私には「善をなそうとする心はあっても、それを行う力がない。わたしはなんと惨めな人間であろう」と言いました。そのような惨めな思いしか持てない人間の心に中に、イエス様は罪を赦す神様の愛をもって宿ってくださったのです。そして、あなたは決して惨めな人間なんかではない。このように心に神様を宿して、神様の子どもとして生きることができる人間なのだよということを教えてくださったのです。

 第二に、飼い葉桶というのは、要するに家畜の餌箱であるということを忘れてはなりません。つまり、イエス様はご自分を私たちのまことの食べ物としてお与えになるために、世にお生まれ下さったのだということです。イエス様はこのように言われました。

 「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」(ヨハネ6:53-57)

 イエス様が、私をあなたがたの真の食べ物として食べ、真の飲み物として飲みなさいと言っておられます。自分を与えるといっても、いろいろな与え方がありますけれども、人を生かすために自分を食べ物として与えるというのは究極の与え方でありましょう。自分を生かすのではなく、人を生かす愛の究極の表現が、「私を食べなさい」ということだと思うのです。そして、食べ物というのは、私たちの中で私たちを生かす命となるわけです。イエス様は神様の愛をもって私たちの罪を赦してくださるだけではなく、私たちを神様の肉体、神様の霊によって生かす新しい命となってくださったのです。それによって、私たちが罪に打ち勝ち、永遠の命をもつ神様の子供として生きることができるようにしてくださったのです。どのような人生にも打ち勝って、神様の御国に生きることができる者としてくださったのです。

 また内村鑑三の言葉でありますが、彼はこのように言っています。

 「キリストは余に金を賜らない。食事または衣服、家屋または土地を賜らない。位階または勲章または地位を賜らない。キリストは余に学問を賜らない。されどもキリストは余に己を賜うた。神と人とを愛する心を賜うた。忍耐と希望と歓喜とを賜うた。しかり、彼は余に神を賜うた」

 「イエス様は、私に神様を与えてくださった方である。」という言葉が、どれほど大きな賜物について語っているのか、どうかそのことを深く思い、感謝の心に溢れたいと願います。
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