Jesus, Lover Of My Soul
信仰生活の証し
 
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■洗礼を受けて
20代 女性
 私が、福音を福音として受け取るようになったのは、ごくごく最近のことだと思います。小さい頃から聖書は与えられ、読む本も「ハイジ」や「ナルニア国物語」「聖書物語」と、福音に触れる機会は小さい頃から人一倍ありました。苦しい時、悩んでいる時、聖書を開くこともありました。でも、それはあくまでも道徳・倫理としての規範を知るためであって、救いを求める気持ちは、全くありませんでした。
 聖書を疑ったことは一度としてなく「神様を信じますか」と聞かれればいつでも「ハイ」と答えてきました。でも、実際には、神様と私をつなぐものが理解できなかったのです。私に罪があり、私を救うために、イエス様が十字架にかかってくださったということも知っていました。でも、それは神様が勝手になさったことで、私がお願いしたことじゃないんだから、どうして感謝しなくちゃいけないのか分からなかったのです。

 年を取るに従って、葬儀や出産祝いなどで偶像礼拝を強いられる機会が増えてきたとき、何の躊躇もなく線香を上げたり戒名で人を呼ぶといった行為をお断りするように導かれました。が、今考えるとそこにどれほどの信仰心があったかは怪しいものがあります。
 この日本において、私は少し変ったタイプの人間であると受取られがちです。この「変っている」ことの言い訳として、今まで生まれ育ってきた環境や受けた教育などをいちいち説明することの面倒くささを、たった一言で説明する言い訳として「信仰があるから」という言葉で代用してきたような気がします。また、時には人と自分は違うんだという自己満足を充足させるための礼拝出席であったと思います。
 このように、私にとって、教会に行くことや信仰があると証しすることは、長年のあいだ、人と心を開いて理解しあう面倒くささから逃れるための言い訳でしかありませんでした。聖書を読むことも食前の祈りも、証しすることも奉仕も、全て都合の良い時に利用するためのただの手段にすぎませんでした。
 外見上は、しっかりと聖書に立っているように見せながら、心は全く神様から離れたところにいるという、神様を侮った生活を、つい先日まで送っていたわけです。

 それが、昨年に入り、何の前ぶれもなく、礼拝出席を急き立てられたのです。ところが、25年間も、すぐ間近にいながら最も離れたところでさ迷っていた羊は、あまりに急に「主日礼拝を守ること」「教会につらなること」を強く示され、拒絶反応の方が先に立ってしまいました。
 示されてから礼拝に出席するまでの間は、神様との格闘の毎日でした。食事が喉を通らなくなり、食べてもサンドウィッチ1切れがやっと、という毎日でした。寝ても覚めても、イエス様の幻に追いかけられ、とうとう「もう逃げられないんだ」というあきらめの気持ちで、荒川教会の主日礼拝に出席したわけです。
 ただ、神様の存在・十字架の贖い・永遠の命これらを疑ったことはなく、それでいてこれらの出来事と、現在の自分を結び付けることができずにいた私にとって、受洗という壁は非常に高かったです。私にとっての受洗とは、自分の全生涯を主と結び付けること、つまり献身するという意味であり、そう導かれなければ受けるべきものではない、と考えていました。
 しかし、不思議なことにこの1年間教会生活や友人との交わり、青年キャンプ・信仰訓練会といった教会行事や超教派行事に参加する中で、少しずつ御言葉と自分自身が結びついてきたのです。
 そして、何よりも徹底的に変えられたのは、祈らずにはいられなくなった、ということです。毎日のように、祈りの力をまざまざと示される内に、聖書を開き、跪いて祈ることなしには生活することができない自分に変えられていきました。毎日の生活が、完全に主に捉えられているという確信が与えられたのです。「神様が私の毎日の歩みを支えて下さっているという確信を与えてください」という愚かな祈りを、完全な形でお聞き入れ下さったのです。

 受洗直前、国府田先生を通して、聖霊様に話し掛けるように示されました。今は、常に共にいてくださる聖霊様と語り合い、相談しながら毎日の生活を送っています。とても不思議な温かい、子供のように無邪気な方との交わりの中で日々信仰を新しくされているという実感があります。
 聖書読みの聖書知らず、という言葉がありますが、私などがまさにその通りだったのではないでしょうか。聖書の中の、自分で理解できること、受け入れられることだけを選り分けて受取る読み方は、キリスト教の異端信仰に通じるものがあります。通読せずに、都合の良いところだけを読むという読み方はまさに異端の取る手段なわけですが、私はそのようにして聖書に触れてきたわけです。
 しかし、今でも全てを心から受け入れているのか、というと少し疑問があります。神様の裁き主としての御性質を心から受け入れているとは言えないのです。福音は、受け入れる者にとっては良き音ずれですが、受け入れない者にとっては裁きの知らせでもあります。福音の性質を考えると、伝道には迫害がつきものです。でも、迫害を恐れて、都合の良いことだけを伝えていては、福音を歪めてしまうでしょう。
 にも関わらず、私には主の裁きの日にも、救われない人間がいる、という事実を心から理解することができないのです。自分の愛する家族や親友が、滅んでいく存在だということをどうしても、受け入れることができません。彼らが救われるように、祈り伝道することは当然としても、でも、神様が1人の人間をも滅びずに救って下さる、という確信があるのです。この救いの確信と、裁き主なる御性質が結びつかず、黙示録を読むと悩んでしまいます。

 洗礼を受けたら、救われた喜びが湧上がってくるものだと思っていました。ところが、そのような喜びはほとんどなく、救われない人がいる、という事実に目を向けられるようになったのです。洗礼は確かに恵みであり感謝なことです。でも、私にとっては、まだ救われていない多くの人々の存在を強く感じさせることでした。受洗直後から、自分の愛する友達が、町が、国が救われずにいる、という事実が胸に迫ってきます。苦しみで、祈らずにはいられない毎日をすごしています。こんな思いを与えられるのであれば受洗なんかしなければ良かった、と思ったこともあります。
 神様は正しく導かれる方です。そして、きっと、正しく裁かれる方です。でも、私には主の裁きが心に迫って感じられたことがありませんでした。今、主は私の目を、救われずに滅んでいく人々の方に向けられ、何かを伝えようとなさっています。裁き主としての主の御性質を少しずつ示されています。
 今私は、聖霊様に「裁き主」としての神様の御性質を教えてもらいながら、黙示録を読みデボーションをしています。主の御性質を正しく受け入れた時、きっと力強く主を証しするものに変えられるのではないか、と期待しています。主が私のために用意してくださっている計画が何なのか、とても楽しみです。

 どうか、これからの歩みを、祈り支えてください。
 
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日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人  電話/FAX 03-3892-9401  Email: yuto@indigo.plala.or.jp