321受けている恵みを思え

わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。

(『ヨハネによる福音書』第1章16節)
 失ったものばかりを思って、過ぎた日々を振り返る人もいます。そのような人は、来る日も来る日も、悲しみ続けることになるでしょう。たとえ、新年を迎えようとも。しかし、御言葉は、《わたしたちは皆・・・受けた》と告げています。多くのことを失ってきたかもしれませんが、誰でもみな、神様の贈り物を、豊かに受けているのです。自分は、神様から何を受けているのか。それを静かに考えてみることが重要です。それを発見したとき、ほんとうに新しい日々を、感謝と喜びに満ちた日々を、生きることができるようになるのです。

322いらだつな

悪事を謀る者のことでいら立つな。
  怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。     

(『詩編』第37編1節、8節)
 他人にいらいらすることがあります。怒り、嫉妬、不満、失望などが、心のなかで熱せられ、抑えられなくなるのです。たしかに、問題は相手にあるのかもしれません。しかし、過度に熱くなってはいけないと、御言葉は警告します。熱くなれば、信仰者として冷静に振る舞うことができなくなます。神様にではなく、自分の気持ちに従ってしまうという過ちを犯します。そこから良い結果は生まれません。主に信頼し続けることなしに、私たちが善い業を行い続けることはできません。主がすべてを支配して下さるように祈り、待ち望み、信頼するべきなのです。

323祈りは愚痴ではない

私は、見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう。   

『ハバクク書』第2章1節(新改訳)
 祈りは、愚痴ではありません。必要や助けを繰り返し訴えていながら、その答えが来ることを信じもせず、待ち望みもしていないならば、それは祈っているのではなく、愚痴をこぼしているだけなのです。愚痴をこぼす者は、地上のことばかりを見て、失望しています。答えは、天の神様からきます。祈る者は、訴えると同時に、天の御業、天の声に期待しなくてはなりません。耳を澄まし、目を凝らし、注意深く、忍耐強く、祈りの答えを待ち望み、めぐみを捕らえようとするのです。そうでなければ、天の救いを受け取り損ねてしまうでありましょう。

324落ち着いて信頼せよ

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたは、これを望まなかった。

『イザヤ書』第30編15節
 窮地にあって、私たちの心は震え、混乱します。何もしないでじっとしていることはできないのですが、何ができるのか、何をすべきなのかがわかりません。神様に祈っていても、祈っているだけでは十分ではないのではないかと、心が落ち着きません。そのような時こそ、神様に信頼して、心を静かにすることが必要なのです。私たちを救うのは、世の知恵や力ではありません。まして自分の知恵や力でもありません。独り子さえ惜しまずお与えくださる天の父なのです。神様の愛と力に立ち帰ることに、私たちの力があるのです。

325感謝を忘れていないか

もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。

 『テモテへの手紙一』第6章6節
 勤労には、報酬があります。大きな報酬を得たいならば、誰もしたくない仕事をするか、人よりも多くの働きをするべきです。しかし、信仰は勤労ではありません。信仰は、イエス様の血潮の恵みによって、無償で与えられた恵みに応えるための道です。信仰によって恵みを得るためには、まず恵みに感謝をすべきであると、御言葉は教えるのです。信じても何も良いことがないではないか、と不満に思う人は、与えられているものに感謝する心を思い起こしましょう。そのような信仰こそ、私たちの生を豊かにする最善の道なのです。

326御言葉は種である

良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。

 『マタイによる福音書』第13章23節
 御言葉は種です。種は、発芽し、根を張り、養分や太陽の光を吸収しながら成長し、花を咲かせ、豊かな実を結びます。そのように御言葉は、あなたを神様とその恵みに結びつけ、そこから豊かな糧を吸収し、あなたのうちに成長し、多くの実を結ぶものとなります。そのために、あなたは《良い土地》でなければなりません。それは、御言葉を聞こうとし、自分の生活に結びつけて理解するものになることです。そうすれば、御言葉それ自身が、あなたのなかに働き出します。

327幼子のように祈る

あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。

 『ローマの信徒への手紙』第8章15節
 祈りは、聖霊の贈り物です。聖霊は、私たちの心に、天の父なる神様へのまったき愛と信頼とを与えてくださいます。それによって、私たちは幼な子のごとき大胆さをもって、天の父なる神様との愛の交わりの中に飛び込むことができるのです。どう祈るべきか、何を祈るべきかを迷ったり、考えたりする必要はありません。そのようなことを考えるのは、恐れに満ちた奴隷が厳格な主人に訴える場合です。私たちは奴隷のようにではなく、幼な子のように、神様に近づくことができるのです。

328豊かさの代価

あなたの御名を呼ぶ者はなくなり
 奮い立ってあなたにすがろうとする者もない。
 あなたはわたしたちから御顔を隠し
 わたしたちの悪のゆえに、力を奪われた。

 『イザヤ書』第64章6節
 世の知恵と力に守られ、豊かさを享受するためには、お金がかかります。お金を得るために、誰もが忙しく働きます。他方、天の力に守られ、その豊かさを経験して生活するためには、祈りが必要です。祈りは、天の祝福を受け取るための代価なのです。世の忙しさを理由に、祈る時間を犠牲にしている人は、天の祝福を犠牲にしているのです。私たちは、世によってではなく、神様によって世を力強く、豊かに生きる者であるべきであることに気づかなければなりません。

329イエス様は地獄のなかにおられる

この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。

『ヘブライ人への手紙』第4章15節
 生活があまりにも過酷で、もう祈れないと感じる時があります。自分の人生に救い主など初めからいなかったのだと思える時があります。「死にたい」「生まれてこなかったほうがよかった」という嘆きだけが、人生の正解であると感じます。そのような時、イエス様が苦難を嘗め尽くされたことを思い起こすようにと、御言葉はあなたに語っています。イエス様は、地獄のなかにもおられるのです。だから、あなたは大丈夫です。不信仰を携えてでもいいから、大胆にイエス様の救いを望み続けましょう。

330裁くのではなく共に歩む

大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。

『ヘブライ人への手紙』第4章15節
真の助けを必要としているのに、イエス様の御許にいくことが容易ならぬ人がいます。たとえ体に障碍がなくても、過酷な生活で傷き、絶望し、霊的な力を持てない人がいます。そのような人の不信仰を裁き、悔い改めを求めることに意味があるでしょうか。優しさと忍耐をもって、彼らと共に歩み、イエス様の御救いもとに連れて来ることが先決です。イエス様は、そのような私たちの執り成しをもって、御許に横たえられた人々を、惜しみなく癒やしてくださいます。

331感謝して受け入れるならば

神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。

『テモテへの手紙一』第4章4節
《感謝して受けるならば》という条件に留意しましょう。この度、私は思いがけず病に倒れ、9日間の入院をし、多くの方にご心配や迷惑をかけました。反省もしました。しかし、感謝とは何の関わりもないようなこの出来事のなかにも、神様の恵みと出会うことが許され、その恵みを豊かに受け取ることができましたから、私は喜んでいますし、恵みに相応しく歩もうと決意を新たにしています。上記の御言葉は、どんなことのなかにあっても、私たちが神の恵みと出会うことができるということを約束しているのではないでしょうか。

332イエス様が戸を叩いてる

見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。

『ヨハネの黙示録』第3章20節
クリスチャンの願いは、心のうちにいつもイエス様との親密な交わりを実感していることです。しかし、御言葉は、私たちがそれを願うより先に、イエス様が私たちとの交わりを願い、心の扉を叩き続け、内側から扉を開くのを待っておられると教えています。心の扉を、イエス様に開き、イエス様をお迎えしたいと願いのは、そのノックの音を聞くからなのです。悩み、悲しみ、空虚感、失望感・・・それこそ、イエス様があなたの心の扉を叩く音ではないでしょうか。

333正しい自己愛

隣人を自分のように愛しなさい。

『マタイによる福音書』第22章37節
イエス様は、単に「隣人を愛しなさい」と言われたのではなく、《自分のように愛しなさい》と教えられました。自分を愛していなければ、他者を愛することができないということでしょう。他方、自己愛があまりに強いために、他者を愛せないということがあるのも事実です。そこで考えなければならないのは、正しい自己愛と歪んだ自己愛があるということです。ただ自分を甘やかすばかりの自己愛ではなく、自分を大切にする生き方がきちんとできる自己愛を持つことが大切なのです。

334神の栄光を求めよう

どうして、主は我々をこの土地に連れて来て、剣で殺そうとされるのか。 

『民数記』第14章3節
約束の地カナンを目前にして、民の足はすくみました。そこには自分たちよりも強い人々が先住していたからです。彼らは失望し、嘆き、モーセに不満をぶつけました。自分では太刀打ちできない困難のなかで、私たちも「どうして神様は私をこんな窮地に立たせるのだろうか」と訴えたくなります。しかし、神様が導かれたというならば、そこは神様が主役となられ、その全能の御力とあふれるばかりの恩寵が表される舞台なのです。神様は私たちを救い出して下さるだけではなく、生涯忘れることができない素晴らしい出来事を見せて下さるに違いありません。

335信仰者と農夫

涙と共に種を蒔く人は
 喜びの歌と共に刈り入れる。  

『詩篇』第126編5節
信仰生活はしばしば聖書のなかで農夫の生活に喩えられます。農民の生活の一番の特徴は何でしょうか。それは祈りと忍耐と感謝です。惜しみない努力を注ぎながらも、蒔いた種を芽生えさせるのも、実らせるのも、すべては自然の恵みだからです。だから、農夫は祈りと忍耐と感謝を忘れません。人生も同じです。知恵や力も必要です。勤勉さも必要です。けれども、実りを与えてくれるのは神の恵みなのです。人生にも祈りと忍耐と感謝が必要です。それが信仰生活です。良い日も、悪い日も、恵みの神様に感謝しつつ、祈りと忍耐をもって為すべき務めを励みましょう。

336悪霊からの解放

霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。

『マルコによる福音書』第9章18節
悪しき習慣や依存、圧倒するような怒り、恐れ、憎しみの感情が、自分を惨めな存在に貶めていると気づいているひとは少なくありません。聖書は、このように自分を縛り付け、生来を生きることができなくしている力を悪霊と語ります。自分も、家族も、主の弟子たちも、男の子を悪霊から解放することができませんでした。このように、多くの人が、悪霊とどう戦ったら良いのか分からず苦しんでいます。イエス様のもとにきて、ありのままを報告するまでは。

337主は共に歩み続けてくださる

わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。

『ルカによる福音書』第24章21節
エマオに向かう弟子たちは「わたしたちは望みをかけていました」と言いました。望みは失望に終り、信仰は無益だったと言ったのです。しかし、主は彼らと共におられました。そのような彼らをなお見捨て給うことなく、彼らと共に歩み続け、語りかけてくださっていたのです。それを認めることができない不信仰を、主は「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く、すべてを信じられない者たち」と嘆かれます。あなたの望みと信仰は大丈夫でしょうか。「望みをかけていました」ではなく、「望みをかけています」と言える者にしてくださるよう祈ろうではありませんか。

338恵みは報酬ではない

五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。

『マタイによる福音書』第20章9-10節
朝からたくさん働いた人も1デナリオン、夕方5時に来て少し働いた人も1デナリオン。正しい報酬とは思えません。この譬話は、「罪の赦し」という神様からの贈り物は、決して報酬ではないことを物語っています。それは報酬以上のものです。正しさ以上のものです。正しさをもってではなく限りない愛をもって、報酬としてではなく溢れる恵みとして、神様はこの贈り物をお与えくださるのです。

339イエス様は道である

わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

『ヨハネによる福音書』第14編6節
道には、いろいろな人が通ります。地図を片手に迷いながら歩いている人もいれば、毎朝通う慣れた道をまっしぐらに自転車を走らせて、通勤を急ぐひもいます。うつむいて独り歩く人もいれば、友達とおしゃべりしながら楽しそうに歩いている人もいます。防犯に目を光らせて歩く町会の役員もいれば、下心をもって歩いているかもしれません。「道」は、誰に対しても「お前は通ってはいけない」と言いません。イエス様も同じです。「神様のもとにいく唯一の道である」とは言われましたが、「どんな人ならばこの道を通ることができる」などという条件はおつけになりませんでした。

340自然は神ではないが・・・

野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。

『マタイによる福音書』第6編28節
花が美しい季節になりました。日本人は、草花を単なる鑑賞の対象物として見る以上の心をもって愛でてきました。古来の歌をよめば、咲き盛る花だけではなく、咲く前の花、散りゆく花、落ちて踏まれた花、枯れた花などが詠まれています。形状的な表面の美ではなく、花のもつ命に心を寄せて愛できたといってもいいかもしれません。それは、花でも鳥でも、自然のいのちに働いておられる神様の御業を見なさいと言われたイエス様の教えに通じるものがあったと言えるかもしれません。日本人の間違いは、自然を神様そのものとしてしまったことです。自然は神様ではありません。しかし、自然の中には生きて働き給う神様がおられ、ご自分を私たちに現して下さっているのです。

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