ヘブライ人への手紙 53
「恩恵の汝らと偕にあらんことを」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙13章20-25節
旧約聖書 詩篇119編65節
聖書を忍耐強く読む
 約1年半にわたって、『ヘブライ人への手紙』を読みながら礼拝を守って参りましたが、今日が最終回となりました。回数にしますと、今日が53回ということになります。わたしの説教は40分ぐらいですから、時間にすれば35時間20分ということになります。なんでこんな計算をしてみたかといいますと、この『ヘブライ人への手紙』の最後、22節にこんなことが書いてあるのです。

兄弟たち、どうか、以上のような勧めの言葉を受け入れてください、実際、わたしは手短に書いたのですから。

 《手短に書いた》というのです。「いったいどこが手短なの?」と突っ込みたくなってしまう言葉です。妙なことを思いつきまして、パソコンを使って、『ヘブライ人への手紙』の文字数を調べてみました。すると19,357文字という計算結果がでました。次に、先週のわたしの説教原稿の文字数を調べました。こちらは7,442文字でした。『ヘブライ人への手紙』は、意外にも、わたしが毎週している説教原稿の二回半分の分量だったのです。このような教会宛の手紙というのは、当時から教会の礼拝で読まれ、説教のようにみんなで聞いたと言われていますが、わたしの説教を基準に計算しますと、約1時間40分かけて朗読されたことになります。大学の授業だって90分ですし、本格的な講演会ならそのぐらいの時間の話を聞くこともあるかもしれません。

 それを、私たちは35時間もかけて読んできたわけです。それでも十分に語り尽くしたとは言えません。それだけの、いやそれ以上の内容がこの手紙にはあると言ってもいいのです。そう考えますと、この手紙は、なるほど手短に書かれているといえるのかもしれません。

 これは『ヘブライ人への手紙』に限ったことでないでしょう。聖書は、『創世記』から『ヨハネの黙示録』まで、決して短い書物とは言えませんが、百科事典に比べたらずっと短い。決して読み切れないものではないのです。しかし、この中で語られている内容は、2000年かけて人類に読まれ、研究されてきても、まだ語り尽くせない。それが聖書です。このような書物を、私たちがこうして身近に聞くことができるということは、本当に感謝なことだと、わたしは思います。

 『ヘブライ人への手紙』の著者も、そういうことを言いたいのではないでしょうか。この使徒が書こうとしたことは、イエス様とはいかなる御方かということです。イエス様がいかに優れた、完全な、限りない救い主であるか。イエス様が私達に与えられているということは、どれほど慰めに満ちたことであり、希望に溢れたことか。そういう言葉に尽くせない神の恵みについてです。そして、そのイエス様の与えてくださった救いの恵みを、私たちの経験として味わいなさいということが書かれていたのです。これだけのことを、約1時間40分の説教にまとめているのですから、手短に書いたというのは決して大袈裟なものとは言えないでありましょう。

 手短とはいえ、決して手抜きではありません。一字一句選び抜かれた言葉で、イエス様と信仰に関する大切なことを、2000年間読み継がれても耐えうるような内容をもって、ぬかりなく記してあるのです。だから、これらの言葉を大切に読んで欲しい。そして、《受け入れてください》というのです。

 この「受け入れる」という言葉は、しっかり聞くということですが、「我慢する」とも訳せる言葉です。必ずしも耳に心地よい言葉ではないかもしれない。一度で何もかも分かるような手紙ではないかもしれない。実際、ちょっと難しい。だけど、本当にあなたがたに必要な、大切な、そしてあなたがたを喜びに溢れさせることができるような言葉なのだから、そのつもりで忍耐強く、この手紙を読み、味わってくださいということなのです。それに十分見合う内容があるからです。これは聖書の読み方全般に言えることではないかとも思います。
何が幸せか
 さて、20-21節には、この手紙の結語にふさわしい祝祷(祝福の祈り)が書かれております。祝福というのは、聖書独特の言葉ではなく、世間でも祝い事の挨拶などにおいてしばしば使われる言葉です。その単純な意味を申しますと、天から賜る幸せということでありましょう。

 しかし、何が幸せかということはあまり突き詰めて考えられていないことが多いのではないでしょうか。たとえば、何でも願いを叶えてくれる魔法のランプを手にしたら、私たちは何を願うでありましょう。あれやこれやと思いつくかも知れません。でも、それが全部手に入ったら、私たちは本当に幸せになるのでしょうか? もしかしたら、幸せになると思って願ったことが、不幸の種になってしまうということもあるのではないでしょうか?

 ヘッセの『メルヒェン』という短編集の中に、「アウグスツス」という作品があります。ある不幸のために夫を亡くし、貧しく、寄る辺ない暮らしをしている、身重の若い女性がおりまして、男の子を産みます。ところが洗礼式の時に名付け親になってくれる人がいないので、隣に住んでいたちょっと不思議な印象を持つビンスワンゲルという年寄りに頼むのです。ビンスワンゲルは快く引き受けてくれ、赤ん坊の洗礼式が済むと、母親にこのように言います。

 「エリザベートさん、あんたはお子さんのため、これまでにもう定めし、いろいろ美しいことや善いことを願ったことであろう。そこで、お子さんにとっていちばんよいと思われることを考えてみなさい。それがほんとになるように、わたしが骨を折ってあげよう。あなたは坊やのためにと思う一つの願いをもってよい。だが、一つだけだよ。それをよく考えなさい。今晩わしの小さなオルゴールが鳴るのが聞こえたら、その願いを坊やの左の耳に言いなさい。そしたら、それがかなえられるだろう」

 ビンスワンゲルが去ったあと、エリザベート夫人は、けげんな思いをもちながらも、ゆりかごに眠るアウグスツスの顔を眺め、美しい願いをいろいろ考えます。金持ちにしたらよかろうか、美しくしたらよかろうか、男の子だからつよくしたらよかろうか、利口にしたらよかろうか・・・しかし、それで本当に幸せになるかどうか気がかりが残ります。

 その夜、ビンスワンゲルの言ったとおり、隣の家から美しいオルゴールの音が聞こえてきました。エリザベート夫人は、オルゴールが鳴り終わるまでに願い事を決めなければと頭をフル回転させるのですが、考えれば考えるほど頭がゴチャゴチャになってしまう。そのうちにオルゴールの響きがだんだん低く弱くなってきます。今すぐに願い事を言わなければ間に合わなくなってしまうと思った彼女は、アウグスツスの左の耳元でこう囁くのです。「みんながお前を愛さずにはいられなくなるように」と。

 果たして彼はそのような人間として成長していきます。しかし、彼は結局のところ幸せにはなれなかったのです。彼は愛されることが当たり前となり、もはやどんな愛を受けても心の渇望をしずめることができなくなり、空虚な気持ちでいっぱいになってしまいます。どうしてか? 彼は自分を愛してくれる人々を愛することができなかったからなのです。

 私が申し上げたいのはこういうことです。幸せを祈る、祝福を祈ると申しましても、何が幸せなのかということが分かっていなければ祈れないのではないか。これだと思って祈ったとしても、それが間違った願いであったら、幸せになれないのではないか、ということなのです。
祝福の祈り
 では、『ヘブライ人への手紙』はどんな祝福の祈りをするのでしょうか。20-21節を読んでみましょう。

永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。

 まず主語をみてみましょう。主語は、《平和の神が》であります。平和とは、戦いが完全に終わった時に訪れる安息でありましょう。人生の戦いにはいろいろな戦いがあります。日々の糧を得るための仕事も戦いの一つでありましょう。人間関係にも敵意や確執があります。恐れや不安、また罪責感、劣等感といった心の戦いもあります。私たちを祝福し、私たちに幸せをお与え下さる方がいらっしゃるとするならば、そのような私たちの戦いを完全に終わらせて、安息を与えることがおできになる神様でなければならないでありましょう。そのような神様を、《平和の神》と呼んでいるのであります。

 この平和の神は、まず《わたしたちの主イエスを死者の中から引き上げられた》御方であると語られています。この地上にいらしたイエス様は私たちとまったく変わることのない弱さをもった御方でした。しかも、貧しいお方でした。経済的にはもちろんのこと、地位や名誉も持たない、この世的にはまったく塵泥に等しい御方でした。その上、人々から棄てられ、弟子たちに裏切られ、何も悪いことをしていないのに、それどころかひたすら神様への愛と信仰に生きたにもかかわらず、十字架にかけられることになり、「どうかこの盃を取り除いてください」と祈りながらも聞かれず、極悪人のひとりとして汚名を着せられ、十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれて亡くなられるという経験をした方でした。イエス様はこの世でもっとも惨めな方だったと言ってもよいと思います。私たちも辛いこと、悲しいことをはそれなりに経験いたしますが、イエス様と共に十字架につけられていた強盗のひとりがいみじくも言ったように、私たちは神様に裁かれて当然の罪人であります。しかし、イエス様は罪を犯されていなかったのにそのような死を経験されたのですから、イエス様以上に理不尽を、惨めさを、敗北感を味わった人間はいないと言っていいのです。

 そのようなイエス様をそのどん底の死から、まったき敗北から引き上げてくださり、新しい命、永遠の命を授け、天の御座に座らせてくださった神様、こうしてイエス様を、天の大牧者としてくださった神様、それが平和の神様です。その御方が、私たちに何をしてくださるようにと祈るのか。

御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。

 すべての戦いを終わらせ、安息を与えてくださる平和の神が、そして人から見棄てられ、神から見捨てられた死を死なれたイエス様を、その塵泥の中から引き上げて天の御座に座らせてくださった偉大な御力をもって、すべての良いものをわたしたちに備えてくださる。もっと端的に言えば、イエス様にしてくださったことを、イエス様にしてくださったのと同じ御力をもって、私たちにしてくださるようにと祈る。それが、この祝福の祈りなのです。

 なぜ、そんなことを祈ることができるのかと言えば、《御心に適うこと》《御心を行うために》と繰り返されていますように、それがイエス様を私たちに与えてくださった神様の御心であるからです。神様は、イエス様にしてくださったのと同じことを、同じ御力をもって、私たちにしようとしてくださっているのです。そのことを、この『ヘブライ人への手紙』はこれまで言葉を費やして語り続けてきたのでした。そして、「わたしは手短に書いたのだから、どうか忍耐をもってよく読み、その真意を分かって欲しい」と言っているのです。それは、神様が与えようとしてくださっているこの祝福に、みんな与って欲しいと言うことです。
祝福にあずかるために
 今日は、この手紙の最終回でありますから、今一度、この手紙がこの祝福に与るために何を語ってきたのか、まとめてみたいと思います。

 第一に、神の言葉を聞くということです。『ヘブライ人への手紙』は、「神語り給へり」と告げることから始まっていました。そして、何よりも御子によって、神様は私達に語っておられると言うのです。その語りかけに耳を傾けること、それがすべての始まりとなるのです。

この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され、更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証ししておられます。(2章3-4節)

「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。」(3章7節、15節、4章7節)

指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい。この人たちは、神に申し述べる者として、あなたがたの魂のために心を配っています。彼らを嘆かせず、喜んでそうするようにさせなさい。そうでないと、あなたがたに益となりません。(13章17節)

もちろん、聞けばいいということではなく、聞いたことに注意深くあることです。

だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。(2章1節)

 この注意深くある、気をつけるということも、祝福に与るために大事なこととして、『ヘブライ人への手紙』の中に繰り返されてきたことでした。

兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。(3章12節)

だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。(4章1節)


神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい。(12章15節)

また、だれであれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです。(12章16節)

あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。(12章25節)

 神のみ言葉に注意深くあること、罪の誘惑に注意深くあること、時を待つことに注意深くあること、何がほんとうに大切なことであるかに注意深くあること、いろいろなことが言われていますが、注意深くあるとは、さまざまな危険を知り、それに対する警戒を怠らないということでありましょう。警戒を怠るのはどういう人か? 自分を過信する人です。ですから、大事なことは、いつもみ言葉によって自分を省みて、謙遜になることです。

 第三に、イエス様のことを思えということです。

だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。(3章1節)

こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。(12章1〜2節)

 イエス様と同じことをせよというのではありません。そんなことは言われていないのです。そうではなく、神様が、イエス様にしてくださったこと、そのおなじことを、同じ御力をもって私たちにしてくださるというのですから、イエス様のことを考え、イエス様を見つめていると、そこから私たちに対する神様の恵み深い御心が見えてくる。それが私たちの希望をしっかりと支えることになるのです。

 第四は、大胆に前進せよということです。

だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。(4章16節)

だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。(6章1-2節)

それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。(10章19-22節)

すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。(12章14節)


 いくら近づこう、前に進もう、追い求めようと言われても、信頼というものがなければ勇気がでません。しかし、大丈夫です。イエス様がすべてのことを成し遂げてくださいました。み言葉を信頼し、イエス様を見つめることによって、はじめて私たちは恵みの御座に、神の御前に大胆に近づき、成熟から成熟へと進むということができるようになるのです。

 神のみ言葉を聞くこと、自らを過信せず常に謙遜であること、イエス様のことをいつも思っていること、そして信頼をもって、真心をもって神様の招きに応え、神様に向かって前進すること、それが、いってみれば信仰ということなのです。どうか、このような信仰をもって、イエス様によって与えられる神様の素晴らしい祝福に与る者になりたいと願います。25節、

「めぐみがあなたがた一同と共にあるように」アーメン
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