ヘブライ人への手紙 50
「神は焼き尽くす火なり」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙12章25-29節
旧約聖書 ホセア書11章1-11節
焼き尽くす火
 『ヘブライ人への手紙』は、まだ13章が残されていますが、今日お読みしました12章25〜29節をもって本論を閉じているとも言われています。13章は、少し長めの結びの言葉だと位置づけることができるのです。そうしますと、この『ヘブライ人への手紙』というのは、非常に印象的な言葉をもって本論を閉じていることになります。

実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。

 神様は焼き尽くす火である、このような言葉を本論の最後に記した意味に、今日は思いを馳せたいのです。

 まず私たちが思うことは、神様が焼き尽くす火であるならば、どうして神様に近づくことができようかということです。旧約聖書に「ウザ打ち」と言われる事件があります(『サムエル記下』第6章)。ダビデが、エルサレムを都に定めた時のことです。ダビデは、神様の御臨在の象徴である主の箱を、エルサレムに運び入れようとしました。主の箱は、それまでキルヤト・エアリムに安置され、祭司アビナダブがそれを守っていたのですが、アビナダブの子ウザとアフヨが、それをエルサレムに運び入れることになったのです。主の箱は、そのために特別にあつらえた新しい車に乗せられ、アフヨが先頭を歩き、ウザが後方を守るという形で慎重に運ばれました。ところが、運んでいる途中、車を引く牛が何かに躓いたかよろめいたかして、主の箱が車から落ちそうになります。これはたいへんということで、ウザが咄嗟に手を伸ばし主の箱を押さえて支えました。すると、神様は主の箱に触れたウザをその場で打ち、ウザは主の箱の傍らで死んだというのです。

 もちろん、神様の御臨在の象徴である主の箱に、むやみに触れてよいものではないことはわかります。しかし、ウザは、主の箱が車から落ちないようにと支えたのです。それにも関わらず、ウザは不敬罪で神に打たれ死んだ。この理不尽をダビデは怒った、と聖書は記しています。そして、「どうして主の箱をわたしたちのもとに迎えることができようか」と言って、エルサレムに運び入れるのを中断してしまうのです。まさに、神様は何者をも寄せ付けない神、近づく者を赦さず、焼き尽くす神です。

 これは、律法において御自分を示された神様の姿でもあります。先週は、シナイ山でイスラエルに律法が与えられた時のことをお話しいたしました。神様がご降臨されると、シナイ山は雷鳴と稲妻と黒雲で覆われ、民はみな震え上がりました。自分たちは神様に亡ぼされてしまうのではないかという恐怖を味わったのです。律法はそのような体験を伴い、神様の言葉として与えられました。つまり律法は、これを守れば神様に近づけるなどという安易なものではない。むしろまったく逆で、そういう安易さをもって、怖れなく神様に近づくようなものを容赦しない神様というものを教えるために与えられたものなのです。

 先週の説教をした翌日の月曜日、荒川区の諸教会でお仕えする牧師たちの祈祷会がありました。その際に、ちょうど律法の話がでましたので、私が説教したことについて少しお話し、ご意見を伺いました。「わたしたちは律法が好きだ」というお話しもさせていただきました。すると、ある老牧師が「その通りですね」と言いながら、「律法というのは行おうとするからいけないのだ。律法は畏れるためのものです」と教えてくださいました。なるほど律法というのは、イエス様の仰っておられるように、本当に守ろうというならば、心の中で悪いことを考えることすらゆるされなくなるのです。そうでなければ守ったことにならない。しかし、そんなことはとても不可能です。だとしたら、律法は、私たちが神様に近づくことができないような罪人であるということを気づかせるためのもの、神様への恐れを忘れないためのものなのです。

 だからといって、神様は「わたしに近づくな」と言っているではありません。神への恐れを常に感じながら生きること、それが神の前に生きることであり、そのことを神様は願って律法をイスラエルにお与えになったのでした。
恵みを拒むな
 しかし、『ヘブライ人への手紙』は、神様はそのような律法によってではなく、福音によって私たちに語り、私たちを招いてくださっているのだということを申し上げてきたのです。「神、御子によって我等に語り給へり」ということから始まり、御子は天使に勝れり、モーセに勝れり、アロンに勝れりということを語り、イエス・キリストこそ私たちの贖罪を成し遂げ、私たちと神様を結びつけてくださる唯一の、永遠の、そして完全な大祭司であるということを教え、この御方によって私たちが大胆に神様に近づくことができるのだと言ってきたのです。

 今日お読みしましたところにも、《あなたがたは語っている方を拒むことがないように気をつけなさい》と言われています。「神、御子によって語り給へり」でありますから、語っている方とは、イエス様のことです。イエス様を拒むなというのです。拒むなとは、迫害の時に踏み絵を踏むなということ意味もあるでしょう。しかし、それだけではありません。10章29節にこういうことが言われているのです。

神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に価すると思いますか。

 イエス様を拒絶するということは、イエス様の十字架を足げにすることです。私たちは、自分の行いによってではなく、ただイエス様の十字架で流された血によって、罪をゆるされ、神様の子とされました。その十字架の血を汚れたものとみなし、無意味なものとすることなのです。

 それはどういう時に起こりますか? 私たちは福音ではなく、律法によって生きようとする時ではありませんか? イエス様の福音、つまり神の愛、ゆるし、恵みによってではなく、自分の行いによって救われようとするときではありませんか? あるいは、それによって自分を裁いたり、人を裁いたりして、絶望するときではありませんか? それは、イエス様が十字架で流された恵みの血を、無駄なのものだと断じることだからです。

 私たちが救われるか、救われないか。私たちが神様の御前に立つことができるか、できないか。私たちに資格があるか、ないか。それはただ一つのことにかかっています。イエス様の十字架に、それを与える力があるかどうかです。もしわたしたちが自分は救われないとか、御前に立つことができないとか、資格ないというのならば、それはすなわちイエス・キリストの恵みの霊を侮辱していることになるのです。だから、「あなたがたは語っている方を拒むことがないように気をつけなさい」というわけです。

神を恐れよ
 さらに、『ヘブライ人への手紙』はこのように語ります。

もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか。

 これも『ヘブライ人への手紙』の冒頭の言葉を思い起こさせます。

神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。(1:1-2)

 《地上で神の御旨を告げる人》とは、預言者たちのことでありましょう。そして、《天から御旨を告げる方》とは、イエス様のことであります。神様は、イエス様によって私たちに恵みの言葉を語ってくださっている。この恵みを拒むならば、私たちに救いはないということを言っているのです。

 みなさん、恵みによって救われるとは、ただで救われるということです。こんないいことはない。しかし、先週もお話ししましたように、人間は恵みよりも律法を愛する傾向にあります。律法が好きなのです。なぜでしょうか? その理由は、結局、自分を誇りたいからでありましょう。

 恵みによって救われる場合には、自分を誇ることができないのです。ただイエス様だけが誇りあるものとされるのです。私たちが受け入れなければならないのは、このことだけなのです。しかし、それがなかなか難しい。人間は、時として自分を神様より正しいとか、偉いと思ってしまう傲慢な存在だからです。
揺り動かされる地
 ですから、まずそういう傲慢さが崩されないと、人間は神様の愛、イエス様の恵みの前に自分を委ねることができません。律法の目的は、私たちの誇りや拠り処を揺るがすことにあるのです。ウザ打ちの話もしましたが、私たちはどんなに人間として正しくあったとしても、なお神様の聖さに御前に立つことができない存在です。そういう神様の厳しさを知ること、それが私たちを遜らせ、神様の恵みを求める者にするのです。

 イエス様がいらしたときに、まっさきにその恵みに預かった人々は、この世で貧しい人、また罪深い者、自分自身に何もよいものがないことを知っている者たちでした。それに対して、ファリサイ派の人たちや律法学者たち、また祭司長たち、この世の王などは、イエス様を迫害したのでした。なぜなら、イエス様が自分たちの誇りを揺るがし、崩そうとされたからです。

 イエス様は律法を否定されたのではありません。むしろ、律法を成就するのだと言われました。そして、心の中で悪いことを考えただけでも、それは律法を犯したのと同じだという厳しいことを仰ったのです。このイエス様の厳しさは、私たちに律法を守ることを不可能ならしめ、ただ恵みによるほか救いはないのだという結論へと導くためでありました。

 『ヘブライ人への手紙』はこう言っています。

あのときは、その御声が地を揺り動かしましたが、今は次のように約束しておられます。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」この「もう一度」は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。

 神様の御声は地を揺り動かした、と言われています。これは直接的にはシナイ山のことでありましょうが、それだけではなく自分が作り上げた人生観、世界観が揺り動かされるということでもあるのです。神なしに、人間が己を誇って作り上げたものは、みな神様によって揺り動かされ、壊されるということです。これが律法の時代でありました。しかし、『ヘブライ人への手紙』は、「もう一度」と語ります。もう一度、今度は地だけではなく、天をも揺り動かされるような激しい破壊が起こります。それは、イエス様によって引き起こされます。律法は地を揺るがし、イエス様は天と地を揺るがすということです。

 揺るがされる「天」とは何でしょうか? あまりそういうことを書いている本はありませんが、私は神様御自身のことではないかと思うのです。

 今日は、『ホセア書』11章を併せてお読みしました。1〜7節には、イスラエルの背反と、それに対する神様の激しい怒りが記されています。しかし、8節になりまして、それが突然、変わるのです。

ああ、エフライムよ、
お前を見捨てることができようか。
イスラエルよ
お前を引き渡すことができようか。
アドマのようにお前を見捨て
ツェボイムのようにすることができようか。
わたしは激しく心を動かされ
憐れみに胸を焼かれる。


 神様の御心が揺り動かされ、怒りの炎は愛の炎として燃え上がり始めるということが書かれています。イエス様が地だけではなく、天をも揺り動かすということ、それはこのように神様の御心を揺り動かし、神様の怒りの炎を愛の炎にしてくださるということではありませんでしょうか。

 イエス様は、律法以上に厳しく「私たちには何もいいものがないのだ」ということを突きつけます。たとえば、「あなたがたはわたしを離れては何もできないのだ」ということを言う。しかし、そのように自分に頼ることをやめ、神様の御心をさえ揺り動かし給うイエス様の十字架により頼む者となることによって、私たちは本当に揺るぎない者とされるのです。

このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。
 
 《感謝しよう。感謝の念をもって》と記されています。私たちが生きるのは、この感謝によって、です。自分を誇るためではない。救われるためでもない。ただ感謝をもって、感謝のために、神様に喜ばれる者になりたいという祈りを持つ者にされ、自分を神様に献げて仕える者になろうというのです。

 感謝とは何か。それはお陰様であることを認めることです。誰のお陰様なのか。イエス様のお陰様です。つまり、感謝するとは、すべてのことにおいて、私たちへのイエス様の恵みが溢れていることを認めることなのです。自分を誇ったら、感謝は溢れてきません。イエス様の恵みを疑ったら感謝は溢れてきません。恵みの主、イエス様を信じ、受け入れるときに感謝は溢れてくるのです。

 この感謝をもって神様を礼拝する。それが《神に喜ばれるように仕えていこう》ということです。仕えるというのは、何よりもまず神様を礼拝することだからです。

 そして、最後の言葉があります。神は焼き尽くす火であるというのです。これは神の審判を意味する言葉だと言ってよいと思います。人はこの神の審判に耐えることができません。しかし、イエス様の恵みは神様の焼き尽くす火の中をくぐり抜けることができるのです。神様は焼き尽くす火です。だからこそ、私たちは少しも自分に依り頼むことができません。どんな善い業も、どんな悔い改めの涙も、イエス様の恵みなしに神様に嘉せられることはないのです。神様は焼き尽くす火である。このことを私たちが忘れるならば、イエス様を忘れるでありましょう。ゆめゆめイエス様を忘れるなかれ、その恵みから離れるなかれ、神様は焼き尽くす火である、その審判に耐え得るにはイエス様の恵みに守られるしか方法はないのだということが、この『ヘブライ人への手紙』の警告なのです。
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