ヘブライ人への手紙 48
「努めて聖潔を求めよ」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙12章14-17節
旧約聖書 申命記29章15-20節
御言葉に聞くこと

すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。

 私たちが、クリスチャンとしてどのような生活をしたらいいのかを、端的に言い表したみ言葉です。しかし、「木を見て森を見ず」という言葉もあります。このみ言葉だけを見て、聖書全体、あるいは『ヘブライ人への手紙』全体をみようとしないならば、きっと私たちはこの聖書のみ言葉を本当の意味で理解することはできません。

 たとえば「平和」とは何か? 「聖なる生活」とは何か? 私たちは、それなりのイメージを持っています。私の場合でしたら、平和というのは人に対して怒ったり、怒鳴ったり、非難したりないで、自己主張を抑え、いつも優しく和らぐことだというイメージがあります。あるいは「聖なる生活」というのは、罪を犯さず、罪深いことを考えもせず、いつも祈り深く、自分の利益を求めず、神様のために、人のために生きる生活というイメージがあります。そのようなイメージをもって、ここに書かれていることを読むとどうなるか? ああ、自分はダメだ。とてもクリスチャンなどとは言えない。わたしは神様に愛される人間ではない。主を見ることなど適うはずもなく、きっと地獄に堕ちるだろうと、深い失望感に陥ってしまうのです。みなさんはいかがなのでしょうか?

 私が申し上げたいのは、「平和」に対する私のイメージや理解、あるいは「聖なる生活」というものに対する私のイメージや理解は、私がこれまで生きてきたなかで培われてきた考え方や生き方によるものに過ぎないということなのです。たとえ多くの人のイメージや考え方と合致するものであったとしても、聖書の言っていることと一致しているかどうか、そこが重要です。聖書にきちんと聞かずして、私が持っているイメージや理解だけで、このみ言葉を読みますと、それは決して聖書が言わんとしていることを聞いているということにはならないのです。

 何度も繰り返し申し上げてきましたように、この『ヘブライ人への手紙』が「神、われらに語り給へり」という言葉をもって始まっています。自分が神様をどう思うか、何をいいたかではなく、神様がわたしたちに何を語っておられるのか、そのことに耳を傾けること、そこに私たちの救いがあるし、私たちの生き方で一番大事なことであるというのです。「平和」とは何か。「聖なる生活」とは何か。それは私たちがどう思うかではなく、神様がわたしたちに語りかけている「平和」、「聖なる生活」の意味するもの、それを聞き取らなくてはいけないのです。そのためには、「木を見て森を見ず」ではいけないのでありまして、いつも聖書全体を見ながら、今日、私たちに語られている平和、聖なる生活ということを、新たに学ぶことが大切です。

 そこで、私たちはもう一度、この『ヘブライ人への手紙』全体が語りかけていることに目を向けたいと思います。今も申しましたように、冒頭にはこう書かれていました。

神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。(1章1-〜2節)

 「神、語りたまへり」、「神、御子によって語りたまへり」、これは『ヘブライ人への手紙』を読むとき、たえず思い返さなければならない大事なみ言葉です。わたしたちが信仰というものを考えるとき、どうしても、自分はどう思うか、どう感じるか、信じられるか、信じられないか、関心があるか、ないか、そういうところから出発します。そうではなくて、神様が私たちをどう思っているか、どうのように感じているか、私たちをどのように取り扱っておられるのか、そのことを神様がわたしたちに語ってくださっている。それを聞くということが信仰の第一なのです。「自分が」ではなく、「神様が」という主客を転倒させること、そうして読まなければ聖書はわからないのです。
 これについてはパウロもローマの信徒への手紙のなかで、「信仰は聞くことに始まる」ということを言っております。

実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。(ローマの信徒への手紙 第10章17節)

 『ヘブライ人への手紙』の本論の要点は二つです。1章から10章までが、神様はこれまで律法や神殿礼拝を通して、あるいは預言者を通して、語りかけてくださってきたけれども、そのすべてに勝る神の言葉としてイエス・キリストが私たちに与えられた。そして、その言葉に聞くならば、私たちはイエス様によってすべての罪をゆるされ、浄められ、神様の至聖所に、言い換えれば神様の懐に入ることができるのだということです。

 そして、第二部に入ります。それが11-13章まで、今、私たちが読んでいるところです。ここには、それは神様がイエス・キリストによって私たちに語ってくださった言葉、それを聞き、それに応える生活をしよう。それが信仰だということなのです。

 そして、11章には旧約聖書に出てくる信仰者の姿がいかに神様の言葉に応える生活をしてきたかということが描かれています。12章になりますと、私たちもそれに続く者となろうと、その信仰生活を励ます言葉が続いているわけです。先週は、試練についてお読みしました。試練というのは当座は哀しくて辛いものだけれど、そこには父なる神様の子どもたちに対する愛に満ちた深い御心があるのだから、希望をもって忍耐しようではないかということです。
イエス様によって
 それに続くこととして、《すべての人の平和を、また聖なる生活を追い求めなさい》と語られているのです。これは私たちの不信仰を責めるための言葉ではなく、励ます言葉です。しかも、ただガンバレというのではありません。それだったらイエス様がいらなくなってしまう。まだイエス様がいらしていない時代、旧約聖書の時代に人々が律法を守ろうと一生懸命に生きていたけど、それを守りきれなかったというおはなしと同じ世界に生きることになってしまうのです。

 いったい救いと何か? それは自分ではどうにもならない現実から、誰かによって助け出してもらうということです。そして、その「誰か」とはイエス様である、これが聖書の語っていることです。これが森であって、今日のみ言葉そのなかにある一本の木なのです。そこを見落としてはいけません。パウロがガラテヤ教会の人たちに、非常に厳しい言葉をもって、このように語っています。

ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。(3:1-7)

 自分の業ではなく、神の恵みによって救われたのに、どうしてあなたがたはまた自分の業に頼る生活に戻っていくのかと嘆いている、いや呆れているのです。

 パウロがこれほど厳しくとがめるには理由があります。私たちが自分の業に頼る生活に戻るとき、私たちを救うために命を捨ててくださったイエス様の十字架が無駄にされてしまうからなのです。イエスの十字架が犬死になってしまう。そのことがパウロを怒らせるのです。

 ですから、聖書には「〜しなさい」という言葉がありますけれども、その時に「イエス・キリストの御救いによって」ということが言外に含まれていることを忘れてはいけません。それを抜きにしたら、もうそれはキリスト教ではなく、聖書は道徳の教書と同じになってしまうのです。

苦い根
 そこで私たちはあらためて平和と聖なる生活を追い求めるということについて考えてみましょう。これは、イエス様が私達に与えてくださった平和、イエス様が私達に与えてくださった聖なる生活です。

 それならば、平和とか聖なる生活ということを言う前に、私たちがまず求めなくてはならないのは、私たちの救い主であるイエス様であり、イエス様によってもたらされる神の祝福であります。そのことが15節に言われているのです。

神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい。

 《苦い根》という言葉が出て来ます。これは『申命記』29章17節の言葉が背景にあるのでありましょう。

今日、心変わりして、我々の神、主に背き、これらの国々の神々のもとに行って仕えるような男、女、家族、部族があなたたちの間にあってはならない。あなたたちの中に、毒草や苦よもぎを生ずる根があってはならない。

 《心変わり》という言葉が印象的です。これは、心がほかのものを追い求めてしまうことです。神様に救われ、神様に愛され、神様に従う約束をしたのに、神様をないがしろにして他のものを求めるようになってしまう。ここでは偶像礼拝のことが言われているのですが、偶像礼拝とは、神様でないものを一番にすることですから、それがお金であれ、仕事であれ、家族であれ、それが神様に代わって第一のものとなれば偶像礼拝なのです。その結果、わたしたちがいくら金持ちになろうと、出世しようと、家族仲良く過ごそうと、それは神から与えられたものではありません。苦い根から出た苦よもぎであり毒草であるというのです。

 申命記はつづけてこういうことをいいます。18節、

もし、この呪いの誓いの言葉を聞いても、祝福されていると思い込み、「わたしは自分のかたくなな思いに従って歩んでも、大丈夫だ」と言うならば、潤っている者も渇いている者と共に滅びる。

 苦い根から生じた苦よもぎや毒草を、神の祝福だと思い込んでしまうことがないようにと言われています。実際、そんなことが有り得るから、こういう警告がされているのです。この世の成功、誉れ、富、自信、平安、楽しみ、そういうものが実は自分の足許を救う、あるいは人に悪影響を与えることがあるのです。
 イエス様に根をおろす
 『ヘブライ人への手紙』はさらにエサウの話をします。16-17節

また、だれであれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです。あなたがたも知っているとおり、エサウは後になって祝福を受け継ぎたいと願ったが、拒絶されたからです。涙を流して求めたけれども、事態を変えてもらうことができなかったのです。

 エサウは狩りから帰ってきて、非常にお腹が空いていました。するとヤコブがレンズ豆の煮物をつくっていた。そこでそれを食べさせてくれと頼むのですが、ヤコブは「では長子の特権と交換しましょう」と言います。長子の特権とは家督を継ぐ権利です。そんな大切なものを一杯の煮豆と交換するわけがないとおもいますが、エサウは「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」と言って、あっさり長子の特権を譲ってしまったのでした。

 どんなにお腹が空いていても、一時的な空腹で死ぬことはありません。けれどもエサウは、刹那の苦しみが永遠の苦しみに思えてしまったのでしょう。もちろん満腹し、正気に返るとエサウは非常にそのことを悔しがります。そして、自分はヤコブに騙されたと、ヤコブを恨むようになります。しかし、本当は、ヤコブが騙したのではなく、エサウが自分でそれを棄てたのでした。

 『ヘブライ人への手紙』は、このエサウのように、私たちが一時的な喜び、楽しみ、安心を得るために、イエス様によって与えられる神の祝福という大事なものを棄ててしまってはいけないと言っているのです。それは刹那の快楽を求めて彷徨う淫らな行為だ、後先を考えない俗悪な行為だというのです。このように神の恵みから逸脱することがないように、しっかりイエス・キリストに根をおろしていること、それがクリスチャンの生活の一番にあることです。

 そうしますと、「聖なる生活を追い求める」とは、立派な生活をするということではなく、イエス様を離れないことを意味しているのではありませんでしょうか。罪を犯し、あやまちを冒し、愚かさを露呈するようなことは、人間として避けられません。そういう人間の弱さを非難しているのではないのです。弱い者ならば弱い者として、イエス様を離れるなということです。それが聖なる者になること、つまりイエス様のものとなることなのです。弱い者であるのに、自分は大丈夫だと思い、自分の知恵や力に頼むことが、実はイエス様を離れ、聖なる生活を棄てることになるのです。

 平和を追い求めるということもそうです。これは聖なる生活、つまりイエス様に依り頼み、依存する生活と別々のことではありません。アダムとエバが食べてはならないと神様に言われていたこの実を食べてしまったとき、神様との関係が壊れてしまいました。しかし、それだけで終わらず、二人は互いの裸を覆い、またアダムは罪をエバになすりつけたということが書かれています。神様との関係が壊れると、人間関係にもヒビが入るということが言われているのです。そして、逆も真なりでありまして、神様との関係が回復することによって、人間との関係も正されるようになります。愛が回復するのです。

 平和を求めること、聖なる生活を追い求めること、それはまずイエス様の恵みに根ざした生活をすることなのです。そこから、イエス様の祝福として、私たちに聖なる生活、平和が芽生えてくるわけです。

 では、なぜ『ヘブライ人への手紙』は、イエス様を求めよと言わずに、平和、聖なる生活を追い求めよというのでしょうか。それは本当の平和、聖なる生活、つまりを人間との正しい関係、神様との正しい関係を追い求める生活には、さまざまな挫折や苦労が伴います。もし、自分の力で実現しようとしたら、諦めるしかないのですが、イエス様は求めよ、そうすれば与えられる、捜せ、そうするば見いだす、門を叩け、そうすれば開かれると言われました。つまり、追い求めることによって、私たちはイエス様の道を歩むことができるのです。

 挫折や苦労を味わうことは必至ですが、イエス様の約束を信じ、決して諦めることなく、平和の道を、聖なる生活を歩み続けようとする。そうすると、そこに本当にイエス様の御業としかおもえないような素晴らしい出来事が起こります。きっと起こります。私たちは、イエス様によって神の子とされたのですから、勇気をもって、希望をもって、歩み続けることが大事なのです。
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