ヘブライ人への手紙 47
「弱り果ててはならない」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙12章1-13節
旧約聖書 詩編139編
命のかたち
 先週、人生には宿命や運命というものが存在すると申し上げました。いうなれば人生には黙って受け取るしか他に道のない儘ならぬものがあるのです。しかし、それこそは生きとし生けるものすべての命の創造者である神様が、私たちひとりひとりに愛をもって与えてくださった「命のかたち」なのです。

 小さな物語を紹介しましょう。とある婦人が、自分の十字架は他の人の十字架よりも格別につらく、重たいと嘆いていました。できれば他の十字架に取り替えて欲しいと考えていたのです。

 この十字架とは、私が言うところの「命のかたち」のことだと言ってよいと思います。《自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい》とイエス様は仰いました(『マタイによる福音書』16章25節)。自分の十字架とは、人生のどこかに刺さったやっかいな棘のようなものではなく、パウロが《わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです》(『フィリピの信徒への手紙』1章21節)と言ったように、神様に与えられた「命のかたち」を否定せず、自分の人生として受け入れて生きることそのものだといえます。

 さて、自分の十字架の重さに意気阻喪としていた婦人は、ある夜、夢をみました。その夢の中で、彼女はたくさんの十字架が置かれている場所に導かれました。大きいもの、小さいもの、美しいもの、みすぼらしいもの・・・そこにはいろいろな十字架がありました。その中から、黄金と宝石が散りばめられている麗しい十字架を取り上げ、「これならば喜んで負える」と選び取りました。しかし、黄金や宝石の重みに、彼女の体は耐えられませんでした。次に、これならと思って、花々を彫刻した愛らしい十字架を取り上げ、背負ってみました。しかし、花々の持つ棘が彼女の体を無惨に傷つけました。いろいろ物色して、とうとう彼女は一本の粗末な十字架の所にきました。宝石もなく、彫刻もなく、ただわずかばかりの愛の御言葉が記された十字架です。その十字架を手にとってみると、それはどの十字架よりも軽く、負うのに一番たやすいことが分かりました。

 その時です。天から光が射し込み、その十字架を照らしました。十字架を見て、彼女は愕然としました。それは、彼女自身が拒絶していた古い十字架だったのです。彼女は、再びこれを発見したのでした。

 この物語は、私たちは神様がひとりひとりに格別なる愛をもって与えてくださった「命のかたち」を、自分の人生として生きることになかにこそ幸せがあるし、神様の喜びがあるのだということを教えています。だから、『ヘブライ人への手紙』も、私たちにこう告げているのです。

自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか(1節)

 《自分に定められている競走》を走るとは、自分の「命のかたち」を生きることであり、それはまたわたしたちが負うべき「自分の十字架」を担い続けることでもあります。決して、楽なことではありません。忍耐が要ります。しかし、忍耐というのは、何かを成し遂げるために必ずついてまわるものなのです。

 忍耐とよく似た我慢という言葉もあります。我慢は、もともと「我を張り通すこと」を意味していました。神様がこれがあなたに定められた競走だ、命のかたちだ、十字架だとお与え下さった人生に対して、「否、これはわたしの願う人生ではない」と我を張り通すのです。しかし、どんなに我を張り通したところで、神様が与えてくださった以外の命のかたちを生きるわけにはいかないのですから、常にそこには不平不満や反抗心や敵わない絶望感といった消極的な感情が鬱積してしまいます。それが我慢です。

 他方、忍耐とは、神様が与えてくださった命のかたちを受け入れるのです。そして希望をもって、やがて現れる素晴らしいものを待ち望みつつ、今ある試練に耐え忍ぶ、これが忍耐です。

 やがて現れるものとは何でしょうか。それは私たちが神様の愛と祝福を余すことなく自分のものとして受け取り、神の子らとして祝福された輝かしい命を生きるようになることです。愛ある神様は、私たちの愚かさ、傲慢さ、頑なさ、罪深さ、それをひとつひとつ取り除いて、私たちをそのような祝福ある命へと導こうとしてくださっています。だから、3節にはこう記されているのです。

あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。

 私たちの罪のために死んでくださった十字架の主を思い見よ、と言われています。イエス様の十字架は、私たちの希望です。そこには罪深い私たちへの神様の愛があります。罪のゆるし、罪の清め、新しい命への復活があります。イエス様の十字架によって、私たちは神様の子として生きることをゆるされ、その力を与えられ、やがて受けるべき祝福が約束されているのです。

 ヨハネはこのように告げています。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。(『ヨハネによる福音書』3章16節)

神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。(『ヨハネの手紙1』4章9-10節)

 神様は、私たちへの愛と、救いと、祝福に関するすべてのものを、イエス様によって私たちに与えてくださるのです(フィリピ4:19)。だから、イエス様を仰ぎ見つつ、イエス様を思い見つつ、私たちに定められた競走を忍耐をもって走り抜こうと言われるのです。

信仰の危機
 4節に、このような言葉があります。

あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。

 あなたがたはもっともっと罪を犯さないように努力をしなければならない、そのように言われているかのようです。しかし、たった今、イエス様の十字架によって私たちの罪がゆるされ、浄められるというお話しをしたばかりです。私たちの罪は、努力や熱心によって浄められるものではないことも、これまで何度もお話しをしてきました。ここで言われている罪とは、恵みの主に対する反抗です。イエス・キリストが救い主であることを否定することです。

 おそらくこの言葉の背景には、迫害ということがあったのでありましょう。あなたがたはまだ、自分たちの信仰が脅かされるような力を目の当たりにしていない。信仰を守るために血を流さなければならないような経験をしていない。しかし、これからそのようなことが、あなたがたに襲いかかることは十分にあるのだよと、警告を発しているのです。

 日本という社会においても、信仰を守ったり、理解されたりすることの難しさを感じます。しかし、クリスチャンになったら法律の保護が受けられないとか、牢屋に入れられるという状況ではありません。そういう意味では、血を流すような戦いをもって信仰を守っているわけではありません。けれども、信仰の危機は迫害だけではありません。私たちが人生において経験する出来事の中には、信仰を放り出したくなるような出来事がたくさんあるのです。神様なんて本当にいるのだろうか? 神様に自分は見棄てられているのではないか? 自分は神様の愛も救いも受けとる資格を失ってしまったのではないか? 自分には信仰を貫く力がないのではないか? そのような疑い、迷い、失望に陥ることがあります。それでもなお信仰を守り抜くためには、《血を流す》、つまり自分の命を賭してもなお信仰に立つという覚悟が必要になるのです。

 いつであったか、シャドラク、メシャク、アベドネゴの信仰についてお話ししたことがありました。三人はバビロンの王ネブカドネツァルの金の像を拝むことを拒否しました。そのために燃えさかる火の中に投げ込まれることになってしまいます。その時、三人はネブカドネツァル王にこう答えました。

「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうではなくても、御承知ください。わたしたちは王様の神々に使えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません」

神様は救ってくださると信じる。しかし、たとえそうでなくても、信仰を棄てることはない。なぜ、このように言えるのでしょうか。神様がしてくださらないということがあったとしても、神様の愛と真実は不変であり、信じるに価することだからです。

 自分の知恵や感情で神様の思いを量ろうとするならば、私たちはこのことをなかなか理解できないでありましょう。神様の愛が感じられない。神様が遠く感じる。神様から嫌われたように感じる。神様の気持ちがわからない。神様のなさることが納得できない。私にもそういうことがあります。しかし、私がそのように感じる、考えるということと、神様の御心にある真実とは異なります。神様がはるか遠くに感じられ、自分に何の感心を示していないかのように思える時でさえ、神様は私たちの近くにおられ、私たちに対する愛に溢れ、私たちを導こうとしてくださっているのです。

 そのことをとてもよく物語るお話しが聖書にあります。イエス様が十字架におかかりになって三日目のことです。まだ復活を信じていない弟子たちは、イエス様を失った哀しみと、不安と、失意のどん底におりました。その中の二人の弟子が、エルサレムから11キロほど離れたエマオという村にむかって歩いているときのお話しです。ふたりは、自分たちがすべてを賭け、すべての望みを託してきたイエス様が、十字架で無惨な死を遂げてしまった。イエス様はもういないのですから、自分たちの信仰はもはやこれで終わりだと思っていました。しかし、彼らがそのように落胆の道を歩いている時に、イエス様が一緒に歩いてくださっていることを、まったく認識していなかったというのです。

 聖書はその事実をこのように告げています。

ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。(『ルカによる福音書』24章13−16節)

 私たちが信仰の危機に直面するときも同じなのです。救い主などいない。神様の愛などない。祈りは聞かれなかった。信じていたのに救われなかった。そのように神様の愛もイエス様の救いも信じられなくなってしまうことがあります。しかし、それは神様の愛やイエス様が離れてしまったのではなく、そのことが分からなくなってしまったということに過ぎません。私たちにそれが感じられないからと言って、神を不真実だと決めつける理由にはならないのです。ある人がこういうことを書いていました。「何も起きていないときでも、神にあっては何かが起こっている」その通りです。

 だから、私たちの信仰の基礎を、自分の揺れ動く感情や、限りある知恵においてはいけません。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」と言われたイエス様のみ言葉、聖書の約束の上にしっかりと土台を据えるべきなのです。そうするならば、たとえ私たちの知恵や感情が神様の愛、イエス様の救いを認識できないときでも、み言葉によって私たちは信仰を保つでありましょう。イエス様は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われたではありませんか。それならば、私たちが感じようと感じまいとイエス様は共に居てくださるに違いないのです。
霊の父
 『ヘブライ人への手紙』12章5-13節は、そのような神様の真実と深い愛を、どんな時にも信じ続けなさいというのです。

あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。(7節)

肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。(10節)

およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。(11節)


 書かれていることは、難しくありません。しかし、まさに落胆のなかにあるとき、信仰の危機にあるとき、ここに書かれているような霊の父としての不変の神様の愛を信じ切ることは、決して容易なことではありません。いったいどうしたら、この困難さを乗り越えることができるのでしょう。

 さきほどのエマオへの道をゆく二人の落胆した弟子たちの物語はそのことも私たちに示唆を与えてくれます。イエス様はふたりに近づき、まだ御自分に気づいていない弟子たちに、み言葉を説き明かされました。

イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。(『ルカによる福音書』24章25-27節)

それを聞いているうちに、弟子たちの心は徐々に変化していきます。消えかけていた信仰の火が再び燃え出すのを感じたというのです。

二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。(32節)

 私たちの心が信じられようと信じられまいと、かならずみ言葉に耳を傾け続けることが、私たちの信仰を助け、強めるのです。

 山谷伝道所を開設なさった中森幾之進牧師にこのようなエピソードがあります。中森先生は徳島県の寒村の貧しい農家に生まれ、弟や妹たちの面倒を見ながら苦学して商業高校を卒業しました。そして、神様に仕える者になるために関西学院神学部で、昼間は学生として学び、夜は仕事をし、苦学をしながら研鑽の時を過ごします。

 しかし、それを妨げるようなこと、またキリスト教に失望するようなことが幾つも先生の身の上に起こりました。被差別部落や農民組合での活動の故に特高に取り調べられたり、過労と栄養失調で病気をしたり、弟が強盗傷害罪を働いたり、住み込みの仕事を失って仕事と住む場所をいちどに失ったり、あげくには欠席が多い事や思想犯として拘留された事を理由に神学部まで退学をさせられてしまうのです。

 中森先生はまったく絶望し、神とキリストを呪い、餓死しようと決心をします。そして、聖書と赤鉛筆とタオル一本を持って有馬の山奥に行きまます。山の中で聖書を開くと、何も食べず水だけを飲んで三日間、これまで赤線を引いた箇所に全部赤鉛筆で「ウソ」と書き込んでいきました。

 四日目の朝、もしや読み落としがあったら自分の死は恥になると思い、再度聖書を開きました。すると、イエス様と並んで十字架に処刑された二人の犯罪人を描いた所が目に留まりました。一人はイエス様を呪い、もう一人はこれを戒め、御国に入るとき思い出してくださいと頼んで受け入れられた箇所です。その時、一条の光が中森先生の魂を貫きました。自分はあの犯罪人のように主を呪ったが、今もう一人の犯罪人のように主に赦され受け入れられているという主の大きな愛に包まれているのを実感し、「主よ、中森を赦してください。中森の死を私に死なせてください。そして中森をあなたの子として愛し生かしてください」と祈り、喜びと希望に満たされて山を下りました。帰ってみると、不思議にも、ある教授の執り成しで卒業できるようになっていましたというのです。

 中森先生は信じようとして聖書を読んだのではありませんでした。しかし、声にならない祈り、叫びをもって聖書を読んだのでありましょう。み言葉は死んだ文字ではありません。生きた神様の言葉です。そのみ言葉が私たちの信仰を支えてくれるのです。「み言葉によって、我に力を与えたまえ」、私どもの教会が掲げました2009年のみ言葉を、私たちの祈りとして支えてとしたいと願います。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

お問い合せはどうぞお気軽に
日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人 電話/FAX 03-3892-9401  Email:yuto@indigo.plala.or.jp