ヘブライ人への手紙 45
「多くの証人に囲まれたれば」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙11章32-12章1節
旧約聖書 ダニエル書3章13-18節
神の言葉を聞くこと
 11章には、旧約聖書に登場する信仰者たちの姿が描かれ、信仰とはかくなるものだと、力強く語られています。これまでアベル、エノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセについて書かれているところを学んできました。前回、お読みしたところには、モーセだけではなく、ヨシュアと娼婦ラハブについても記されていましたが、時間の都合上お話しができませんでした。しかし、これについてはもうよろしいかと思います。『ヘブライ人へのて紙』も、ここまで語り続けてきて、このように言うのです。

これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。(32節)

 わたしも、ひとりひとり具体的な話をするのをやめて、この『ヘブライ人への手紙』に示されている信仰とは何かということをまとめることにしたいと思います。

 すでに繰り返し申し上げてきていることでが、この『ヘブライ人への手紙』は、「神、我等に語り給へり」という言葉に始まっています。神様が、この世界に、そのなかに生きる私たちに一人一人の人生に、語りかけてくださっている、そこからキリストの救いについて語り始めるのです。これについては『ローマの信徒への手紙』の中にこのような言葉もあります。

神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。(『ローマの信徒への手紙』)

 神様は、御自分の知恵や力を、そしてこの世界に対する愛を、天地万物を通して、私たちにお示し下さっているのです。イエス様も、「空の鳥、野の花を見なさい。神様の愛がそこに示されている」と仰いました(『マタイによる福音書』第6章25節以下)。神様は、人間的な言葉でお話しくださっていなくても、御自分の御業をもって、この世界に、その栄光を映し出してくださっています。私たちはそれを十分に知ることができるはずなのだ、と語られているのです。

 ところが、実際には神様がお造りになったこの世界にあって、神の栄光を讃えるどころか、神の存在まで認めない人もいます。人間の心が、神様に対して曇っているからです。たとえば、洗礼を受けると、見慣れていた風景の中のあちこちに教会があったということに気づくという経験をします。いつも見ていたはずなのに、心がそこにないとその存在が認識できないのです。人間関係でも同じ事がありましょう。いくらSOSのサインを出している人がいても、その人への思いやりをもっていないと、その大事なサインを見逃してしまいます。自分のことばかりを考えていると、たとえ身近な人であってもその気持ちがわからなくなってしまうのです。同じように、神様がご自分のことを私たちに示してくださっていても、神様に対する無関心、傲慢、不信感、反抗心によって、それが見えくなっていることがあるのです。

 しかし、そういう愚かなる人間のために、神様はさらなる仕方でご自分を示されました。それが「神、御子によって語り給へり」ということです。天地万物は、静かに神様の栄光を物語っています。それは、私たちが心の目や耳を研ぎ澄まさなければ分かりません。しかし、イエス様が私たちにお語り下さるときは、もっと積極的です。今年のイースターのメッセージで、私はこういう話をしました。復活のイエス様が信じられず、幽霊でも現れたかと恐れる弟子たちに、イエス様は、手を見せたり、足を見せたり、魚をもってきて食べてみたり、「ほら、幽霊はこんなことをしないだろう」とお示しになりました。さらに頑なに疑い続けるトマスには、あなたの指をわたしの釘後に入れてみなさいと、手を差し出されます。そんな風に、なりふり構わなずと言ってもよいと思いますが、イエス様は必死になって、信じない者たちに信仰を与えようとされるのです。

 私たちも同じではないでしょうか。神様に対しても、人に対しても、私たちの心は堅く閉ざされていたかもしれません。それを打ち破るかのように、イエス様が力強く関わってくださったのです。もしかしたら私たちはそっとしておいて欲しいと願っていたかもしれません。愚かさの中にあったとしても、罪のなかにあったとしても、そっとしておいてくれるならば、その方が楽だからです。しかし、イエス様は、私たちをそっとしておいてはくれなかったのです。

 神様がヨブに語りかけるとき、《主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった》(『ヨブ記』40章6節)とあります。イエス様もまた、そのように私たちの人生に嵐を送り込み、混乱や迷いを起こさせ、否応なしに私たちの心を神様に向けさせるのです。それは、ある意味、苦しい時期ですが、そのことを通して、私たちはイエス様に目を向け、イエス様の教え給う神様の愛の御心を知ったのです。

 信仰とは、そのような神様の語りかけを聞き、それに私たちのすべて、すなわち全身全霊をもって、応答することであります。そのことを、『ヘブライ人への手紙』は10章19節から語り始めます。《信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか》(10章22節)、《ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者》(10章39節)になろうではありませんかと、私たちの信仰、言い換えれば神様への応答を促し、11章で、信仰によって神様に応答として生きた人々の名を連ねているのです。
信仰のかたちはさまざまである
ここを読んで気づかされることは、信仰にいろいろな形がある、ということです。人に与えられているものは、体力にしろ、知力にしろ、性格的なものにしろ、みな違います。また生きている時代、場所、環境によっても、人生は異なってきます。そのようにひとりひとりに与えられている特別な人生の中に、神様の存在を認め、語りかけてくる神様の聞き、自分のすべてをもって神様に応答していくこと、それが信仰です。ですから、人が違えば、信仰の形も違ってきます。ある人にとっては、現実に変革を起こすことが信仰の形であるかもしれません。しかし、別の人には、あるがままの現実を受け入れることが信仰の形であることもあるのです。

 お医者さんとしてハンセン病の方々の精神的ケアにもあたられた神谷美恵子さんという方がおられます。その経験などを生かして『生きがいについて』という著書を書いておられますけれども、そのなかにハンセン病になってからキリスト教に回心なさったひとりの患者の手記が紹介されています。少し長いのですが、ご紹介させていただきたいと思います。

 「・・・らいである自分がこれから生きていくことは無意味であると思えたのです。・・・生きる意味を見つけ出すことが出来ないにもかかわらず、もう死へ踏み切ることはなかなか出来ませんでした。死のうという決心はにぶる、しかし、生きるのも辛いというせっぱつまった気持ちでした。色々考えてもその気持ちを解決できなそうな考えは出てきませんでした。
 こんな気持ちになっていた時、たしか診断を受けた日か三日だったと思いますが、突然、それまで考えていたこととは何の脈絡もなしに、自分は生かされているという思いが起こりました。自分が生きているのではなく、生かしてくれる者がある。それは、神ではなかろうか、神によってであることが、考えるまでもないこととして非常に強く感じられました。単純な考えではありましたが、神があるということは疑いのないことであり、その神が自分の生を支えていてくれる。生は自分自身だけのものではないのだ、という風に思えたのです。それと同時に、依然としてらいに対する不安はなくなりはしなかったのですが、たとえらいであっても、生きているということは決して無意味なことではなく、何か使命があるにちがいないと思われました。その時、どういう使命があるかというところまでは深く考えませんでしたが、もしらいの治療の研究のために役に立つことがあれば、そうしたいと思いました。そして、これらの思いが起こった結果、それまでの死のうという考えはまったくなくなってしまいました。」(神谷美恵子、『生きがいについて』、みすず書房、240-241頁)


 ハンセン病にかかった人々は、隔離され、差別され、これまでの人生を棒に振りました。先日、ハンセン病の後遺症をもった方とお話をする機会があったのですが、その方の話を聴くにつれ、国の差別と偏見に満ちた誤った政策の罪深さ、そしてそのことを何も知らずに多くの時間を生きてきた自分の愚かさ、罪深さというものを感じさせられました。

 それにも関わらず、今お読みしました方の手記を読みますと、ご自分の病気の苦難と差別の中に生きることを神に与えられた自分の人生だと前向きに受け入れています。それは、決して、神様がこのような差別をゆるしておられるという意味ではありません。神様がそのようなことをなさるわけがないのでして、これはまったく人間の罪と愚かさが招いたことです。それにも関わらず、神様はその罪深い出来事とその悲惨さの中に深く関わり、このように生きる勇気や希望を与えてくださったり、そこで深い愛と知性をもって仕える神谷さんのような方や、今日はご紹介できませんが井深八重さんのような献身的な看護師を送って下さったりしているのです。

 私たちは、何か不幸や試練があると、どうして神様がいらっしゃるのに、このようなことが身に起こるのかと言います。それはまったく勝手な言い分です。私たちが、神様がいなくても幸せになれたというならば話は別ですが、そうではないのです。神様の御心を守らないで、私たちはこの世界にさまざまな不幸を招いてしまった。それは神様のせいではありません。しかし、神様はこの世界をお見捨てにならず、このような仕方で関わり、私たちに救いの道を開いて下さっているのです。

 私たちは、それぞれが生かされている場で、その人生をもって、この神様の招き、導きを聞き、答えていくこと、それが信仰です。少し大胆な言い方かもしれませんが、信仰とは、キリスト教の教義を受け入れて、それをそのまま信奉することではありません。聖書にしても、教会にしても、キリスト教教義と言われるものにしても、それを通して生ける神に出会うことこそ大事なのです。そして、ひとりひとりが生ける神に答える生き方をすることなのです。

 33-38節に名こそ挙げておりませんが、信仰者たちの生き様について記されています。《国々を制服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ》とは、ヨシュアによるカナン征服や、ダビデ王のことが言われているのかもしれません。《獅子の口をふさぎ》とは、ダニエルが迫害されライオンの穴に放り込まれたときのことでしょう。《燃え盛る火を消し》は、やはり『ダニエル書』に記されているシェドラク、メシャク、アベドネゴが、ネブカドネザルの像を拝まなかったために燃えさかる炉の中に放り込まれた時のことです。《剣の刃を逃れ》は、エリヤ、エリシャ、エレミヤなどが当てはまります。《弱かったのに強くされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました》は、ひとりではありませんが、真っ先に思い浮かぶのはギデオンです。《女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました》とあるのは、エリヤによって死んだ息子を生き返らせてもらったサレプタの婦人、エリシャによってやはり死んだ息子を生き返らせてもらったシュネムの婦人がいます。

 これらの人々は、信仰によって、何らかの形でこの世における勝利を手にした人々です。しかし、今申しましたように信仰にはさまざまな形があるのです。35節後半からは、信仰によって別の形の生き方をした人たちのことが語られます。《他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました》とありますのは、旧約聖書の外典である『マカバイ書』に出てくる話であろうと思われます。律法学者エレアザルや七人の信仰者が、シリアの王に迫害を受け捕らえられたとき、神に背くよりも殉教を選んだという話です。次に、《また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました》とあります。これはエレミヤが同胞から受けた迫害を思わされます。《彼らは石で撃ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、》、石で撃ち殺されたのは、預言者ゼカルヤです。のこぎりで引かれたのは、伝説によれば預言者イザヤです。剣で殺された預言者はたくさんいますが、エレミヤの時代、同じように主の言葉を語っていた預言者ウリヤです。《羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました》とあります。これも旧約外典に出てくる話で、シリアの王に迫害された信仰者たちは、その信仰をまっとうするために、自分の財産を残したまま逃げだし、ここに書いてあるように地をさまようことになったようです。

 これらの人々は、信仰によって世に勝利したというよりも、信仰のゆえに世に敗北した人々です。少なくともそのように見えます。しかし、彼らの心情としては、まったく違っていました。《世はかれらにふさわしくなかったのです》と言われています。つまり、彼らにとってこの世はそんなに価値のあるものではなかった。この世で名を挙げるとか、何かを築くとか、そういうことは、彼らの人生の目的の中になかったのです。彼らは、より高い神の目的のために生きたのだというのです。
信仰の目標
 信仰とは教義を受け入れることではなく、生き様であるということを申し上げました。だからこそ、人生が様々であるように、信仰の形も様々です。しかし、その目指すところ、それは神様の御国に生きるということでした。『ヘブライ人への手紙』11章のなかにつかわれている言葉で言い換えるならば、神に喜ばれる者になること、神に認められる者になること、神に近づく者になること、天の故郷に帰ることです。彼らは、そのような願いと祈りをもって、また揺るぎない希望をもって、この世の旅する旅人として生きたのです。
 ところで、今日お読みしました最後に、少し奇妙なことが言われています。39-40節です。

 ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手にいれませんでした。神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。

 私たちなどより遙かに素晴らしい信仰に生きたと思われる人々でありますが、聖書には《わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです》というのです。彼らと私たちの違い、それはイエス・キリストを知っているかどうか、この点にしかありません。イエス・キリストによってもたらされる罪のゆるし、新しい命、復活、神の国・・・私たちは、旧約聖書の時代の信仰者が切望していたものを見ているのです。その喜び、感謝をもって、神様の愛と招きに答えて参りましょう。
 12章1節にはこう記されています。

 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。 
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(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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