ヘブライ人への手紙 43
「信仰によって生きる」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙11章20-22節
旧約聖書 コヘレトの言葉2章1-11節
人生の空しさ
 太宰治に『トカトントン』という作品があります。昭和20年8月15日、太平洋戦争に従軍していた主人公は、兵舎前の広場に整列させられ、玉音放送をかしこんで聞いていました。すると中尉が前に立ち「聞いたか。戦争は終わった。しかし、われわれ軍人は、上陸してくる敵に対して最後まで抗戦を続けよう。そして最後にはひとり残らず自決して、天皇にお詫び申し上げるのだ」と檄をとばしまそた。主人公はその中尉の悲壮な覚悟に感動し、「自分も死のう、それがほんとうなのだ」と奮い立ちました。ところが、その時です。兵舎の方から金槌で釘を打つ「トカトントン」という音が聞こえてくるのです。それを聞いたとたん、まるで憑きものが落ちたみたいに主人公の熱い思いがスーッとひいてしまいます。そして、白々しい気持ちになって、リュックサックに荷物を詰め、故郷に帰っていくのでした。

 その後、彼は郵便局で働き始めます。その仕事の合間を見つけて、小説を書くことに熱中します。そして、いよいよ明日にも完成かという日の夕暮れ、彼は小説の最終章をどんな風にしようとかとあれこれ考えていますと、また「トカトントン」というあの音が聞こえてきました。それを聞いた途端、また心がしらけてしまいました。小説なんかどうでもいいと思えてきて、最終章を書くどころか今まで書いてきた100枚の原稿を鼻紙にしてしまいます。

 小説書きに飽きた主人公は、郵便局の仕事に生き甲斐を見いだそうとします。平凡であっても日々の仕事を一生懸命にやることが高尚な生き方ではないかと思えてきて、がむしゃらになって働き出すのです。ところがまたもやあの「トカトントン」という音が聞こえてきます。彼は一気にやる気をなくし、まったく無気力な郵便局員になってしまうのです。

 次に主人公は恋をします。片思いですが、思い詰めて苦しいほどの恋でした。自分からアタックすることもできず悶々としていますと、思いがけないチャンスが訪れます。彼女の方から、彼を誘ってきたのです。浜辺でデートをして良い感じになってきたところに、あの「トカトントン」という音が聞こえてきます。そして、あれほど熱かった恋が急に醒めてしまったのした。

 その後、主人公は政治運動、社会運動にのめり込みます。そのたびに、「トカトントン」でその熱も冷めてしまう。スポーツにも打ち込みます。やはり「トカトントン」でしらけてしまう。何をやっても「トカトントン」という幻聴が聞こえてきて、その途端に空しさに襲われてしまう。彼は、このことを私淑する先生に相談しました。するとこういう返事がきます。

 拝復。気取った苦悩ですね。僕は、あまり同情してはいないんですよ。十指の指差すところ、十目の見るところの、いかなる弁明も成立しない醜態を、君はまだ避けているようですね。真の思想は、叡智よりも勇気を必要とするものです。マタイ十章、二八、「身を殺して霊魂をころし得ぬ者どもを懼るな、身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ」この場合の「懼る」は、「畏敬」の意にちかいようです。このイエスの言に、霹靂を感ずる事が出来たら、君の幻聴は止む筈です。不尽。
 
 「十指の指差すところ、十目の見るところの、いかなる弁明も成立しない醜態」とは、誰もが知っている、そして抱えている人生の醜態があるということです。醜態とは、見苦しさです。格好良く、スマートに生きようなどと考えているから、そんな気取った苦悩に陥るのだと、先生は云ったのです。

 もしかしたら、太宰は、この作品を書くにあたり、旧約聖書の『コヘレトの言葉』が頭にあったのかもしれません。コヘレトは、この世の賢者となることも、大事業を興すことも、あらゆる快楽をむさぼり求めることも、何か目新しいと思えることを求めることも、何もかもが空しい、どんな努力も無意味だと言い切っています。虚無的で、投げやりな言葉が、これでもかといわんばかりに連ねてあるのが『コヘレトの言葉』なのです。

 コヘレトは、多くの屋敷を構え、立派な庭園、果樹園をいくつも所有し、男女の奴隷、家畜、金銀財宝、秘宝、人々が羨むようなもの一切を手入れます。そして快楽と愉悦の日々を送ります。そして、こういうのです。

目に望ましく映るものは何ひとつ拒まず手に入れ
どのような快楽をも余さず試みた。
どのような労苦をもわたしの心は楽しんだ。
それが、労苦からわたしが得た分であった。
しかし、わたしは顧みた
この手の業、労苦の結果のひとつひとつを。
見よ、どれも空しく
風を追うようなことであった。
太陽の下に、益となるものは何もない。
     (『コヘレトの言葉』2章10-11)


 《しかし、わたしは顧みた》という言葉が、ちょうど「トカトントン」の役目を果たしています。何かを追い求めて熱中しているときには苦労も苦労とは思えないほどなのですが、それが成し遂げられていざ自分が何を手に入れたのか、どれほどの満足が得られたのかということを考えてみると、となんに空しさに襲われてしまうというわけです。

なんという空しさ
なんという空しさ、すべては空しい
        『コヘレトの言葉』1章2節


 これが『コヘレトの言葉』を初めから終わりまで貫いている思想です。もっとも、こういう世の無常は、聖書に限らず『平家物語』にしても、『方丈記』にしても、洋の東西を問わず、まさに十目の見るところ十指の指すところあまねく語られていることです。今ご紹介した2章10-11節などは豊臣秀吉の「露とおち露と消えにしわが身かな難波のことも夢のまた夢」という辞世の句を思い起こす一文ではないでしょうか。秀吉もまた、貧しい農民から天下を治めるまでに昇り詰め、栄華を極めながらも、結局は空しさに襲われるのです。

 コヘレトが語る最大級の虚無は9章1-3節にあることです。そこには善人がかならずしも幸せになるとは限らない。悪人が必ず不幸になるとは限らない。善人も悪人も、神を礼拝する人にも、しない人にも、愛する人にも憎む人にも、結局は同じようなことが起こるのだ。その上、最後にはみんな死んでしまう。そういうことが書かれています。3節だけ読んでみます。

太陽の下に起こるすべてのことの中で最も悪いのは、だれにでも同じひとつのことが臨むこと、その上、生きている間、人の心は悪に満ち、思いは狂っていて、その後は死ぬだけだということ。

 生きている意味を根本的に揺るがすような言葉です。人生がこんなものならば、苦労しながら生きる意味はあるのかと思えてくるのです。
希望はあるのか?
 なぜ、『トカトントン』や『コヘレトの言葉』のお話しをしたかと申しますと、いったいアブラハムはこのような空しさを感じなかったのだろうかと思うからです。

 アブラハムは、「あなたの子孫は星の数のようになる」、「この土地をあなたの子孫に与える」、「あなたは地上のすべての国民の祝福の基となる」という神様の約束をいただきました。この神様の約束を信じて、財産として所有していた住み慣れた土地を離れ、これからどうなるかもよくわからないまま見知らぬ土地に移り、寄留者として肩身の狭い思いをしながらの侘びしいテント暮らしを始めました。いろいろな苦労や危機や絶望を経験しますが、アブハムは自分の国に帰ろうなどとは思わず、神様の約束を信じ続けました。しかし、その結果、彼が得たものは何でしょうか? ただひとり息子のイサクとその孫の姿をみただけでした。『ヘブライ人への手紙』も、13節ではっきりと彼は信仰を抱いて死んだが、約束のものは手に入れなかったと書いているのです。

 アブラハムは空しくならなかったのでしょうか? いったい何のために神様を信じてきたのか? 信じたがゆえに、さまざまな悩みと苦労を背負うことになったけれど、それにどんな価値があるのか? はたしてアブラハムはそういうことを考えます。『創世記』15章をみますと、アブラハムは神様に直截に問い掛けます。「わたしに何をくださるというのですか。」、「本当にそれをくださるということをどうしたら知ることができるのですか」 

 『コヘレトの言葉』には、「わたしは見た」、「見極めた」、「調べた」、「観察した」という言葉がよく出て来ます。たとえば、8章16-17a節にこう言われています。

わたしは知恵を深めてこの地上に起こることを見極めようと心を尽くし、昼も夜も眠らずに努め、神のすべての業を観察した。

 コヘレトはこの世界を客観的に、冷静に見つめる観察者です。そこから、世の中の空しさや人生の不条理を浮き彫りにしているのです。そこから何か良いもの、明るいものが生まれてくるようにはとても思えない。それがコヘレトのいっていることです。アブラハムもそうです。これまで経験してきたこと、今の現実を冷静に見るかぎり、何の希望も持ち得ない。そう思ったのです。

 しかし、観察者には、決定的な限界があります。観察者が知ることができるのは、すでに起こったことと、今起こっていることだけである、ということです。それを材料にして未来を予測することはできるかもしれません。けれども天気予報だって外れるし、経済学者の予想だって外れるように、未来については何も分からないというのが本当なのです。悲観的な予想しかできないとしても、実際にそのようなことが起こるかどうかはその時になってみないと分かりません。

 アブラハムは絶望と悲観のなかで、もう一度約束をしてくださる神様の声を聞きます。この世界のすべてものが虚無に服しているとしても、神様はその外にいるお方です。そのお方が、この世界の内側に語りかけてくださる。『ヘブライ人への手紙』の最初に出てくる「神、我らに語り給へり」ということが、ここに起こるのです。

 太宰の「トカトントン」はこの世界の内側から、あるいはその世界に属して生きる主人公の内側から聞こえてくる声です。それを聞くと、何かも空しくなってしまう。しかし、神様の声は、この空しさの外から、この世界の創造者として、この世界を祝福するお方として語りかけてくる声です。この声を聞くことによって、アブラハムの信仰は励まされ、再び奮い立つのです。

 聖書が語る希望、祝福は、この世のもつ空しさや不条理を知らないから語れるような希望や祝福ではありません。『コヘレトの言葉』に限らず、聖書はこの世の空しさや不条理を、そのなかで私たちが無意味の中を生きていることを百も承知の上で、それでもなお、その上にそそがれる神様の愛のまなざし、語られる約束のみ言葉、それが希望であり、祝福なのです。「神、われらに語りたまえり」、ここにこの世界の希望があるのです。その言葉を聞くことが祝福なのです。
片足を引きずりながら歩く
 信仰者というのは、片足を引きずりながら歩く者ではないかと思います。アブラハムとその子イサクの信仰を受け継いだヤコブという人がいます。アブラハムにしてみれば孫です。このヤコブは、お父さんやお兄さんを騙したために、父の怒りと兄エサウの憎しみを買い、家にいられなくなってしまいました。そこで家を離れ、しばらくの間、母方の叔父の家に身を寄せて暮らします。そこで結婚し、子供をもうけ、また財産も築いて、いよいよ故郷にかえろうという日がきました。ところが、故郷が近づくにつれて、ヤコブは兄エサウと再会することを恐れ、不安に感じるようになります。ちょうどヤボクの渡しにさしかかったとき、彼は妻や子どもたちを先に渡らせ、ひとり後にのこると「祝福してくださらなければ、あなたを去らせません」と格闘するような祈りを捧げたのです。

 ヤコブが、ヤボクの渡しを渡るように、私たちもさまざまな人生の渡しを渡らなければなりません。さまざまな問題や災いや、病いや、老いた、最後に死の川波を越えていかなければならないのです。私たちの人生を空しさの中に流し去ろうとする激流のような世の力に抗して、私たちがしっかりとした者として生きていくためには、必ず祈らなければなりません。祈るとは、この世界の内になるものにではなく、この世界を支え、祝福することのできるこの世界を超越した神様に向かって語りかけるということです。

 私たちのもののような小さき者がどんなに必死に叫んでも、その声がこの世界の外なる方に届くとはとても思えないことです。けれども、聖書は「祈りはかならず神様に届くのだ」と約束してくれています。それは私たちの叫びが大きいからでもなく、清らかであるからでもなく、神様がわたしたちの祈りを求め、その声を聞こうとしていくださっているからです。ヤコブはヤボクの渡しで格闘するような祈りをささげて、神に勝ったと言われていますが、人間が神に勝てるはずがありません。もし勝ったとしたら、それは神様がヤコブに負けてくださったのです。そうです。神様は、人間に負けることも厭わず、御自分を低くし、私たちの人生を、この世界を支え、祝福することができるお方なのです。

 ところが、ヤボクの渡しで神様の祝福を得たヤコブは、腿を傷めて、足を引きずってあるくようになった、と聖書に記されているのです。格闘中に、神様がヤコブの腿の関節に触れたのが原因です。私は、この足を引きずるヤコブの姿に、神に祝福された者の姿を見るのです。この世界を弱さと破れ、貧しさと惨めさをもって足を引きずっている。この世の空しさ、自分の貧しさ、儚さ、そういうものを認めないのではない。認めるのです。その上で、このような者に愛なるまなざしを注ぎ、声をかけ、力強き御手を伸ばしてをささえてくださるお方がおられる。足を引きずりながらでも神様に支えられて激流を渡り、恐れや不安を払拭して希望をもって歩き続けていくことができる者とされた。それが祝福された者の姿なのです。

 私たちもこの世にある限り、弱さと破れをもって生きることを、惨めな醜態をさらして生きることを避けられません。太宰治は、このような空しさに耐えうる「真の思想とは、叡智よりも勇気を必要とするのです」と、作品のなかで語ります。勇気とは、この空しさを受容して生きていく勇気のことではありませんでしょうか。その勇気はどこから来るのか? 「身を殺して霊魂をころし得ぬ者どもを懼るな、身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ」とのイエス様のお言葉が雷のように心に響き渡り、私たちの運命がこの空しい世界によってではなく、神によってこそ左右されるのだということを知ることだというのです。その時、「トカトントン」は聞こえなくなるだろうというわけです。

 アブラハムも、イサクも、ヤコブも、ヨセフも、その子らも、そうです。だからこそ、彼らはこの世を生きていく上でもっとも大切なこととして、神の祝福を子らに祈るのです。

信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました。信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与えました。

 信仰によって、信仰によって、信仰によって、と記されています。信仰とは、この世界を観察者となることではなく、この世界を越えたところから私たちに向けられている神様の祝福に目を注ぐことです。そこから語られてくる神様の言葉に耳を傾け、そこに約束されていることを信じて生きることなのです。
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