ヘブライ人への手紙 42
「アブラハムの試みられし時」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙11章17-19節
旧約聖書 創世記22章1-19節
行き先も知らずに
 アブラハムは、現在のシリア・アラブ共和国にあるハランという町で、静かな落ち着いた生活をしておりました。しかし、「わたしはあなたを祝福の基とするために選んだ。これからわたしの示す地に行きなさい」と、神の声を聞きます。彼は、その声に従い、妻のサラ、甥のロト、また使用人や家畜などを連れて約700キロの旅をします。そして、現在のパレスチナにあたるカナンの地にやってきたのです。

 すると、また「この地をあなたの子孫に与えよう」との神の声が聞こえました。子孫! この時、アブラハムはすでに75歳で子供はいませんでした。どうして子孫のことなど考えられましょうか? しかもカナンの地は空き地ではありません。すでに大勢の人々が暮らしていた広大な土地なのです。そこに何の縁も力も持たない人間が、どうしてその土地を自分のものにすることができましょうか? まったく考えられないことでした。

 「風が吹くと桶屋が儲かる」という落語があります。八っあんが熊さんに「風が吹くと桶屋が儲かる」と言います。まったく筋道がみえない結びつきに、熊さんはきょとんとしてしまいます。神様の言葉は、まるで八っあんの言葉のようです。そこへ至るまでの道のりがまったく見えないのです。しかも桶屋が儲かるどころの話じゃありません。子どもを産めない身のサラに子どもが与えられるとか、たくさんの人が住んでいる広大なカナンの地があなたの子孫のものになるとか、地上のすべての民はあなたによって祝福されるとか、大言壮語も甚だしい。
 しかし、八っあんには八っあんなりの理屈がありました。熊さんが「どうして風が吹くと桶屋が儲かるのか」と聞くと、八つぁんは「春風がぴゅーと吹くと、砂ぼこりでみんなの目がやられる。なかには不潔な手で目をこするのもいるから、たくさんのひとが盲人になってしまう。そういう人たちが盲人になって三味線を弾いて生計を立てるようになる。三味線を作るために猫皮の需要が増えて、たくさんの猫が殺される。町に猫がいなくなる。猫がいなくなるとネズミが増える。ネズミが増えると桶がかじられる。それでみんな新しい桶を買うようになる」と、まあ手の込んだ話なのですが、それを省略すると「風が吹くと桶屋が儲かる」という話になるのです。神様が思いがけないことをおっしゃるときにも、神様のお考えがあるのです。決してほらを吹いているわけではありません。しかし、神様は神様であるがゆえに、その考えは八っあんのそれよりも理解不能です。そして八っあんの話よりも確実なのです。

 『ヘブライ人への手紙』11章8節をみますと、アブラハムは、《行き先も知らずに》神様に従ったと記されています。ここに、信仰のひとつの形があります。理解や納得づくめで神様に従うのではなく、たとえそこに至る道は見えなくても、約束なさった方は真実である、けっして嘘はないと信じて、「神様のおっしゃることですから」と従う。それが信仰なのです。

 理性や知性がいらないわけではありません。しかし、理性や知性が納得しなければ、一歩も前に進まないというのではいけません。今お読みしている『ヘブライ人への手紙』11章は信仰者列伝とも云われるところのです。信仰について語るとき、理屈ではなく、信仰者ひとりひとりの生き様が語られます。信仰は、しばしば理屈で説明できないことを、神様を信じるがゆえに引き受け、そこに生きることです。信仰の正しさは、結果を見るしかありません。ですから、12章1節にはこう記されています。

こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。

 「風が吹けば桶屋が儲かる」という理屈はわからなくても、もしそれが正しければ、実際に桶屋が儲かっている姿をみることになりましょう。それをみれば、「ああ、そうなんだなあ」と分かるのです。しかし、風が吹いても桶屋が少しも儲かっていなければ、その前提が嘘になります。神様の言葉も、私たちの頭がついていけないときがある。しかし、それが真実であるということは、多くの証人たちが示している。それを見てあなたも信じる者になりなさい、と励ますのです。

 信じる者になる、私たちもその結果を経験することになります。その経験が、自分自身への励みにもなります。さらに、他の人々を励ますことができるようになります。聖書を読むことは何よりも大事なことですが、教会の兄弟姉妹たちの姿を見て信仰を励まされることや、自分自身の受けた恵みを伝えて兄弟姉妹を励ますことが、信仰生活には大切なのです。
天の故郷
 アブラハムは行き先も知らずに、ただ約束なさった方は真実である、その言葉に嘘はないと信じて、住み慣れた故郷を捨て去り、約束の地カナンに住むことになりました。他人の土地で暮らすのですから、いろいろと片身の狭い思いをしながらあちこちへと移住を続け、天幕での侘びしい暮らしだったに違いません。けれどもアブラハムはもうこんな苦労の多い暮らしは嫌だと云って、もといた町へ帰ろうなどとは思いません。どうしてでしょうか? 彼が求めていたものが、物質的に安定した暮らしでははく、魂の満ちたりた人生だったからです。

 アブラハムがカナンの地に入って、最初に祭壇を築き、神様を礼拝した場所は、カナンの地のほぼ中央に位置するシケムという場所です(創世記12章)。ここで、彼は「この土地をあなたの子孫に与える」という神様の言葉を聞いたのでした。ヤコブもそこに住み、ヨセフの遺体もここに葬られました。新約聖書には、ここにヤコブが掘ったとされる井戸があって、イエス様が休んでおられるとサマリア人女性がその井戸に水を汲みにやってきたというお話しがあります(『ヨハネによる福音書』4章)。いわゆる「シカルの井戸」と云われているお話しです。

 生きるために必要なものは、金や銀ではありません。文明社会に生きていますと、お金がなくては生きていけないといいますが、沙漠の真ん中ではいくらお金があっても役にたちません。生きるために必要なのは水であると知る者たちは、ヤコブの掘った井戸を大切に大切に守り続け、またその水を分け合って生きてきたのでありましょう。

 生きるために本当に必要なものは何かということを勘違いして生きている人たちは、ほんとうの必要に無頓着で、そうでないものに執着しているのです。そこからいろいろな弊害が起こってきても当然です。物質的に豊かであっても少しも幸福感をもっていない人たちが多いのは、そういうことに起因するのではないでしょうか。

 イエス様は、サマリア人女性に、この井戸の水よりももっと大切なものがあるということを教えてくださいました。それは肉体の渇きを癒す水ではなく、魂の渇きを癒す水です。アブラハムが求めていたのは《天の故郷》と書かれていましたが、それも同じ事です。神様の愛と祝福の中に住まうこと、それが、私たちが生きるために必要な魂の水であり故郷なのです。
イサク奉献
 今日は、そのアブラハムが受けた試練の話です。子供が生まれなかったアブラハムとサラに、奇跡的に男の子が授けられました。イサクと名付けられた男の子はすくすくと成長していきます。神様が授けてくださった子であり、多くの子孫が約束されているのですから、当然といえば当然といえましょう。ところがある日、神様はアブラハムに「イサクを焼き尽くす捧げ物としてささげよ」と言われたのでした。創世記22章1-2節

これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

 いくら信仰心の篤いアブラハムでも、これは本当に従いがたい言葉だったに違いありません。何度も神様に御心を変えてくれるように哀願したでしょうし、苦しみ抜いたでありましょう。しかし、聖書はそのようなアブラハムの心理描写について一切語りません。ただ翌朝には、アブラハムの心は決まっておりまして、イサクを連れてモリヤの山に向かうのです。22章3-10節、

次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。

 アブラハムは刃物を振り上げ、いままさにイサクめがけて振り下ろそうとします。そのとき、もはやアブラハムによる子殺しは行われたも同然でありましょう。それゆえに神様はアブラハムの信仰を認め、アブラハムに中止を求めます。11-14節

そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。

 アブラハムは、自分の独り子であるイサクを愛する以上に、神様を愛しました。住み慣れたハランの町を棄てて、カナンの地で侘びしいテント暮らしをすることも神様の従うための犠牲でした。しかし、イサクを献げるというのは比べものにならないほどのことです。自分の願う歓び、幸せ、親としての情のすべてを犠牲にして神様に従うことです。アブラハムはその信仰を貫きました。神様は、このアブラハムに非常に満足されたと、記されているのです。
神の声
 しかし皆さん、このアブラハムの信仰的英雄行為は誰でも素直に受け入れられるものではありません。たとえば、信仰のためならば、子供を殺すこともゆるされるのだと、私たちは考えてもいいのでしょうか? それは「神のために」と云って、自爆テロを行う人たちとどこが違うのでしょうか? かつてオウム真理教が行ったような信仰の名のゆえに殺人とどこが違うのでしょうか? さらに、私たちにはもうひとつの神の言葉があります。「人を殺すなかれ」というものです。これは神様の至上命令ではないのでしょうか? イエス様は隣人の命を愛することを何にも勝る教えだと云われたのではないでしょうか? それなのに、神様はここで「あなたのイサクを殺してわたしに捧げなさい」と云われる。
 そこで私たちがまず考えるのは、これは本当に神の声なのだろうかということなのです。もし、みなさんが同じ言葉を聞いたらどうでしょうか? まっさきにそのことを疑うのではないでしょうか? たしかに「あなたの子を殺せ」という声が聞こえた。しかし、どうしてそれが神の声だとわかるでしょうか? 
 グリム童話に「おおかみと七匹の子ヤギ」という話があります。お母さんヤギが七匹の子ヤギに留守番をさせ、森に食糧をとりにいくのです。お母さんヤギは子ヤギたちに「オオカミに気をつけるように」と言って聞かせてから、森へ出かけました。お母さんが心配したとおり、しばらくするとオオカミがやってきました。子ヤギたちが留守番をしている家の戸を叩き、「お母さんだよ、あけておくれ」と云うのです。しかし、子ヤギたちは声がしわがれているので戸をあけませんでした。
 オオカミは白墨を食べて声をきれいにすると、また子ヤギたちのところへ行き、「お母さんだよ、あけておくれ」と云います。しかし、オオカミの黒い足が見えたので、やはり子ヤギたちは戸を開けませんでした。オオカミはまた考えて、手を小麦粉で白くぬりました。そして子ヤギたちに「お母さんだよ、あけておくれ」というのです。子ヤギたちはこんどはすっかり信用して戸を開けてしまいます。そして、オオカミに食べられてしまうのです。
 物語としては、あとでお母さんが助けてくれるのですが、わたしたちも神様の声だと思っていたら、悪魔だったということがないと言い切れるでしょうか? 聖書には悪魔も光り輝く天使の姿をして現れることがあると書いてあるのです。
 「あなたの子を焼き尽くすささげものとしてささげなさい」という声を聞いたとき、わたしたちは、どうしてそれが神の声だと知ることができましょうか? もしかしたら自分の頭がおかしくなったのかもしれません。あるいは神様ではなく、悪魔の声であったのかも知れません。そうではなく確かに神の声であるということをどこで確信すればいいのでしょうか? 
 その答えは、私たちひとりひとりが聞き分けるしかないということです。もし私がアブラハムのお友達で、アブラハムから相談されたら、「君、それは絶対に神の声ではない」とアドバイスするでしょう。なぜなら、神が自分の子を殺せなどというわけがないと思うからです。そして、そのことは90パーセントは正しいのです。しかし、あとの10パーンセト、私たちはそうとは言い切れない部分が残ります。もしかしたら、神様には何か特別なお考えがあるのかもしれません。そうです。神様は、私たちひとりひとりに特別な人生をお与え下さるお方なのです。私たちが神様によって大量生産された人間ではなく、一人一人神様の手で心を込めて作られ、存在させられているのだとしたら、他の人にはそうであっても自分だけは違うという命のあり方、人生というものがあってしかるべきなのではないでしょうか。この10%というのは、神様とわたし、あるいは神様と信仰者ひとりひとりの間で交わされることでありまして、他のだれも介在できないような部分なのです。
 もう少し分かりやすくいいましょう。殺してはいけない。戦争はいけない。離婚してはいけない。中絶してはいけない。自殺してはいけない。それは誰もが了解できる神様の御心です。しかし、一人一人のケースにおいては、神様が特別な御心を示されることがあるのです。ヒットラーを本気で暗殺しようとした牧師もいます。聖書には、神が戦争を命じ給うことがあります。イエス様が何の抵抗もせずに十字架にかかるのは、一種の自殺行為です。離婚や中絶の是非、脳死の是非、臓器移植の是非などは極めて今日的な問題ですが、私たちはそういう問題に直面したときに、ただ「聖書にこう書いてあるから」ということだけではなく、本当に真剣に苦悩しながら神様に向き合い、問い掛け、そこで一般論としてではなく、自分自身の生き方に対して神様が何を求めておられるのかということを聞かなければならないのです。そして、そこで神様の声を聞いて従う人に対して、私たちは誰もそれが良いとか悪いとか軽率なことは言えなくなってしまうのではありませんでしょうか。
 アブラハムのイサク奉献にしてもそうです。これはアブラハムに示された神様の御心でありました。決して一般化できない話なのです。ただ、こういうことは言える。私たちにもまた神様は特別なみ言葉を語ってくださっているということです。それを聞きながら生きる信仰こそ、生きた信仰だと言えましょう。
 このアブラハムのイサク奉献の話で思うのは、子供を捧げるほどの信仰ということではありません。人によっては子供を受け入れて見守り続けることのほうがよっぽど難しいこともありましょう。私たちの人生はみな違うのです。同じ人間ですから、90%は共に分かち合うことができるかもしれません。しかし、あと10%においては、私たちひとりひとりが神様に向き合って神様の声を聞き、それに従わなければならないのです。そして、この特別さというのは、しばしば悩ましいことです。みんなと同じではないのですから、孤独で苦しいのです。病気もそうでしょう。障害を身に負うということもそうでしょう。また、まじめに生きていても、人生には仕事の挫折、結婚の挫折、子育ての挫折、介護の挫折などさまざまなことが起こります。そういう人生の不条理の中で、神様は特別なるみ言葉を私たちひとりひとりに投げかけてくださっているのです。それを聞き、その不条理を神様の御心として受け入れること、そのようなことを通しても神様は私になお祝福を用意してくださっているのであるということを信じ、それに従うこと、それがイサク奉献ということではありませんでしょうか。

 信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。(『ヘブライ人への手紙』11章17-19節)

 「イサクから生まれる者があなたの子孫である」と神様御自身が言っておられるにもかかわらず、そのイサクを殺して捧げよと神様が言われる。あきらかに矛盾です。そういう神様の矛盾を私たちも経験する。たとえば神様を信じて生きてきたのに、どうしてこのような試練に遭うのか、そういうことがあります。しかし、いっけん破滅に向かっているかのような人生において、なお神様を信じる。「神が人を死者の中から生き返らせることもおできになる」という神様の無限の可能性を信じるのです。それがここに見られるアブラハムの信仰なのです。
神の声
 しかし問題を感じます。このアブラハムの信仰的英雄行為は、誰でも素直に受け入れられるものではありません。信仰のためならば、子供を殺すこともゆるされるのだと、私たちは考えてもいいのでしょうか? それは「神のために」と云って、自爆テロを行う人たちとどこが違うのでしょうか? かつてオウム真理教が行ったような信仰の名のゆえに犯す殺人とどこが違うのでしょうか? 

 さらに、私たちにはアブラハムに与えられた御言葉とは別に、もうひとつの神の御言葉があります。「人を殺すなかれ」というものです。これは神様の至上命令ではないのでしょうか? イエス様は隣人の命を愛することを何にも勝る教えだと云われたのではないでしょうか? それなのに、神様はここで「あなたのイサクを殺してわたしに捧げなさい」と云われる。どういうことでしょうか。

 そこで私たちがまず考えるのは、これは本当に神の声なのだろうかということです。もし、みなさんが同じ言葉を聞いたらどうでしょうか? まっさきにそのことを疑うのではないでしょうか? たしかに「あなたの子を殺せ」という声が聞こえた。しかし、それが、どうして神の声だとわかるでしょうか? サタンかもしれないではないですか!

 グリム童話に「おおかみと七匹の子ヤギ」という話があります。お母さんヤギが七匹の子ヤギに留守番をさせ、森に食糧をとりにいきます。お母さんヤギは子ヤギたちに「オオカミに気をつけるように」と言って聞かせてから、森へ出かけました。お母さんが心配したとおり、しばらくするとオオカミがやってきました。子ヤギたちが留守番をしている家の戸を叩き、「お母さんだよ、あけておくれ」と云いました。しかし、子ヤギたちは声がしわがれているので戸をあけませんでした。

 オオカミは白墨を食べて声をきれいにします。そして子ヤギたちのところへ行き、「お母さんだよ、あけておくれ」と云いました。しかし、オオカミの黒い足が見えたので、やはり子ヤギたちは戸を開けませんでした。オオカミはまた考えて、手足を小麦粉で白くぬりました。そして子ヤギたちに「お母さんだよ、あけておくれ」というのです。子ヤギたちはこんどはすっかり信用して戸を開けてしまいます。そして、オオカミに食べられてしまったのでした。

 物語としては、あとでお母さんが助けてくれるのですが、わたしたちも神様の声だと思っていたら、サタンだったということがないと言い切れるでしょうか? 聖書にはサタンも光り輝く天使の姿をして現れることがあると書いています。

 「あなたの子を焼き尽くすささげものとしてささげなさい」という声を聞いたとき、わたしたちは、それがどうして神の声だと知ることができるのでしょうか。もしかしたら自分の頭がおかしくなったのかもしれません。あるいは神様ではなく、サタンの声であったのかも知れません。そうではなく確かに神の声であるということをどこで確信すればいいのでしょうか。

 結局、私たちひとりひとりが聞き分けるしかないのです。もし私がアブラハムのお友達で、アブラハムから相談されたら、「君、それは絶対に神の声ではない」とアドバイスすると思います。なぜなら、神様が自分の子を殺せなどというわけがないと思うからです。そして、そのことは90パーセントは正しいのです。しかし、あとの10パーンセト、私たちはそうとは言い切れない部分が残ります。もしかしたら、神様には何か特別なお考えがあるのかもしれません。そうです。神様は、私たちひとりひとりに特別な人生をお与え下さるお方なのです。私たちは、神様によって大量生産された人間ではなく、一人一人神様の手で心を込めて作られ、存在させられています。そうだとしたら、他の人にはそうであっても自分だけは違うという命のあり方、人生のあり方があってしかるべきなのではないでしょうか。この10%は、神様とわたし、あるいは神様と信仰者ひとりひとりの間で交わされることでありまして、他のだれも介在できないような部分なのです。

 もう少し分かりやすくいいましょう。殺してはいけない。戦争はいけない。離婚してはいけない。中絶してはいけない。自殺してはいけない。それは誰もが了解できる神様の御心です。しかし、一人一人のケースにおいては、神様が特別な御心を示されることがあるのです。ヒットラーを本気で暗殺しようとした牧師もいます。聖書には、神が戦争を命じ給うことがあります。イエス様が何の抵抗もせずに十字架にかかるのは、一種の自殺行為だと言う人もいます。離婚や中絶の是非、脳死の是非、臓器移植の是非などは極めて今日的な問題ですが、私たちはそういう問題に直面したときに、ただ「聖書にこう書いてあるから」ということだけではなく、本当に真剣に苦悩しながら神様に向き合い、問い掛け、一般論としてではなく、自分自身の生き方に対して神様が何を求めておられるのかということを聞かなければならないのです。そのようにして神様の声を聞いて従う人に対して、誰もそれが良いとか、悪いとか、軽率なことは言えなくなってしまうのです。

 アブラハムのイサク奉献にしてもそうです。これはアブラハムに示された神様の御心でした。決して一般化できない話なのです。ただ、こういうことは言える。私たちにもまた神様は特別なみ言葉を語ってくださっているということです。それを聞きながら生きる信仰こそ、生きた信仰だと言えるのです。

 このアブラハムのイサク奉献の話で思うのは、子供を捧げるほどの信仰ということではありません。人によっては子供を受け入れて見守り続けることのほうがよっぽど難しいこともあります。考えなくてはならいのは、私たちの人生はみな違うということです。同じ人間ですから、90%は共に分かち合うことができるかもしれません。しかし、あと10%においては、私たちひとりひとりが神様に向き合って神様の声を聞き、それに従わなければなりません。この特別さは、しばしば悩ましいことです。みんなと同じではないのですから、孤独で苦しいのです。病気もそうです。障害を身に負うということもそうです。また、まじめに生きていても、人生には仕事の挫折、結婚の挫折、子育ての挫折、介護の挫折などさまざまなことが起こります。そういう人生の不条理の中で、神様は特別なるみ言葉を、私たちひとりひとりに投げかけてくださっているのです。それを聞き、その不条理を神様の御心として受け入れること、そのようなことを通しても神様は私になお祝福を用意してくださっているのであるということを信じ、それに従うこと、それがイサク奉献となのです。

 信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。(『ヘブライ人への手紙』11章17-19節)

 「イサクから生まれる者があなたの子孫である」と神様御自身が言っておられるにもかかわらず、そのイサクを殺して捧げよと神様が言われる。あきらかに矛盾です。そういう神様の矛盾を私たちも経験する。たとえば神様を信じて生きてきたのに、どうしてこのような試練に遭うのか、そういうことがあります。しかし、ともすると破滅に向かっているかのような人生において、なお神様を信じる。「神が人を死者の中から生き返らせることもおできになる」という神様の無限の可能性を信じるのです。それがここに見られるアブラハムの信仰なのです。
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