ヘブライ人への手紙 38
「アベルの血の声、地より叫べり」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙11章1-4節
旧約聖書 創世記4章1-16節
信仰とは何か(復習)
 人間の命と動物の命には大きな違いがあります。動物の場合、食べることも、寝ることも、恋をすることも、身を守ることも、基本的には本能が支配することです。人間は違います。人間にもそのような本能があります。しかし、その本能が完全な形では機能していないのです。最低限の命を守るような本能は働いています。しかし、動物のように生活様式全般を強く支配するわけではないのです。

 それは動物本来の本能が壊れているという言い方もできますけれども、そのような本能から自由な命をもっていると言った方がよいでありましょう。この自由によって、わたしたち人間の生活は単調さから脱却し、豊かな生活様式をもつようになったのです。

 しかし、この自由というのがくせ者でありまして、何をしてもいいということは、何をするのが一番いいことかを、常に自ら考えて行動しなくてはならない、ということでもあるのです。あらかじめ道が決まっているところを歩け、といわれるのが本能による生き方だとすれば、まったく道のない荒れ野に放り出されて、好きなようにどこにでもいけ、と言われて生きるのが、自由な生き方なのです。

 別の言い方をしますと、動物というのは食べるものがあり、寝るところがあり、身体が健康であれば、悩みもなく生きていくことができます。しかし、自由である人間は、衣食住が足りても、健康であっても、生きる意味を自分で見いださなければ生きていく力を失うのです。そこに生きていく上での迷いが生じる。悩んだり、苦しんだりする。過ちも犯す。誰もが自由であることを望んでいますが、自由であるということは、その生き方を自分で決断したり、その行動の結果を自分自身で負ったりしなければいけないという、重荷や弱さが伴うことでもあるのです。

 ですから、人間にとって生きる意味を知るということは、非常に大切なことです。しかも、その生きる意味は、何かあるとすぐに失われてしまうようでは意味がありません。人間の生活には、自分から招かなくてもいろいろなことが起こりますが、そういう招かざる客が来るたびに、ぐらぐらとしてしまうような生きる意味では、生きる力にはならないのです。何があっても揺らがないような、人生の確かさをもって、これがわたしの生きる意味だと言えるものが必要です。

 先週、ヴィクトール・フランクルという精神医学者のお話をしました。フランクルは、ナチスの強制収容所の囚人となるという体験を通して、彼の生活を支えていた一切を失うという深い絶望を経験し、それを生き抜いた人です。彼にとって家や財産を失うということなど、ほんの小さなことでした。もっと大切なもの、大きなものを、彼は失ったのです。家族や友人から引き離され、その安否さえも定かでありませんでした。生き甲斐でもあった精神医学者としての仕事も勉強もできなくなりました。それどころか、最低限の人間らしい生活もゆるされませんでした。たとえば風呂に入ることも、歯を磨くこともゆるされず、寝返りも打てないすし詰め状態のタコ部屋に寝かせられ、毎日スープ一杯で、苛酷な強制労働に従事させられたのでした。おしゃべりをしたり、散歩したり、その程度の小さな幸せを喜ぶ自由すらありませんでした。その上、健康を害したり、怪我をしたり、労働ができなくなれば、生かしておく値打ちのない人間とみなされ、すぐにでも処分されるという緊張を毎日のように強いられていたのでした。

 フランクルは、このような人間の限界状況とも言える強制収容所を生き抜くことが出来たのは、決して頑強な身体をもった人間ではなかった、それはその中にもなお生きる意味を見いすことができた人間だった、と証言しています。生きる意味の一切を失ってしまった絶望の中で、なお見いだすことができる生きる意味こそ、本当に人間を強く生かすことができる生きる意味だと言えましょう。フランクル自身、そのような生きる意味を再発見し、収容所から解放された後、精神医学者として人間の生きる意味について、特に絶望の中にあってもなお存在する生きる意味について語り続けたのでした。

 それは何か? 先週、そのことを丁寧にお話ししたのですが、一言で言うと、生きる意味は、自分で造り出すものではなく、神様から与えられているものだと信じることなのです。自分で「ああしたい、こうしたい」と造り出した生きる意味というのは、それに向かって順調な時はいいのですが、逆境になりますと、「もうダメだ」とか、「こんなことをしていて何の意味があるのだろう?」とか、必ず生きる意味がぐらついてしまうことがあります。ましてや強制収容所のようなところでは、もはやどんな生きる意味も見いだせないという絶望に陥ります。

 しかし、そのように自分自身で生きる意味を見いだせない状況も、わたしを愛するためにこの命を授け、それを支え、導いてくださっている神様の御手よって与えられているのだということを信じるのです。自分自身では、いったいなぜこんな苦しみを生きなければならないのか、耐え続けるばかりの人生を生きなければならないか、その意味はわかりません。しかし、神様には何かご計画があって、このような人生を私に与えてくださっているのだ、だから、その神様に応えて生きよう、これが私たちの生きる意味となるのです。実際、フランクルはそのように限界状況に耐え、解放されたあかつきにはその体験をもとにより素晴らしい働きをするようになりました。

 なぜ、私たちが命を受け、今ここに存在しているのか? 何のために生きなければならないのか? どこに向かって生きていくのか? 私たちはその問いに答えることができません。ただ神様がわたしたちを愛し、私たちに命をあたえ、人生を与え、憩いのみぎわ、みどりの牧場へと導いてくださっている。その見えない事実を信じ、私たちの信頼を神様に委ねながら、生きること、それが信仰なのです。

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。(1節)

 《望んでいる事柄》とは、「私たちの願うもの」という意味ではありません。もっと広い意味で、私たちの将来の幸せを信じるということです。どうしたらそれが信じられるのか? 見えない事実、つまり私たちに命をあたえ、それを支え、導いておられる神様の愛を知るということです。

信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。

 私たちの日常生活は、決して当たり前の生活ではありません。そこには色々な縁があったり、運があったりします。たとえば、荒川教会とのつながりということもそうでありましょう。そういうことのなかに神様の深い御心をみて、感謝の生活を送ること。それが見えない事実を確認するということでありましょう。

昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。(2節)

 信仰とは頭で考えることではなく、私たちの人生の中にそのように見えない神様の御心があることを信じ、それを支えとする生き方なのです。その体験の積み重ねが、私たちの信仰生活なのです。ですから、『ヘブライ人への手紙』の著者は、私たちの信仰を呼び覚まし、励ますために、信仰とは何かということを、《信仰とは望んでいる事柄を確信し・・・》と信仰の言葉で説明するだけではなく、この人たちの生きざまをみなさいと、信仰に生きた人々を列挙するのです。それが、この11章なのです。
信仰によって生きる
さて、その信仰者列伝をこれからしばらく読み続けるのですが、最初の信仰者として登場してくるのがアベルです。

 なぜ、アベルなのでしょうか? これはたいへん意義深いことだと思います。アベルは神様が全人類の祖としてお造りになった夫婦、アダムとエバの息子でありました。アダムとエバはご存知のとおり、神様が全人類の祖としてお造りになった人間で、神様と共に楽園に暮らしていました。けれども罪を犯して、楽園を追放されてしまったのです。その後、アダムとエバは二人の息子をもうけます。

さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。

 最初に生まれたのがカインでありました。カインが生まれたとき、エバは《わたしは主によって男子を得た》と喜びの声を上げたと記されています。罪を犯し、楽園を追放された人間が、なお神様から喜びをあたえられているという、とても興味深い記事です。しかも、子どもが与えられたということは、そこで生きることを神様に許されているということでありましょう。

 カインに続いて、アダムとエバはアベルをもうけました。

彼女はまたその弟アベルを産んだ。

 わりと最近まで、らい予防法とか、優生保護法などによって、病や障碍のために子どもを生むことが事実上ゆるされなかった人々がいます。あなたの遺伝子は悪い遺伝子だから子どもを生んではいけないというのです。しかし、神様は罪を負った人間に対して、あなたは性根の悪い人間だから、あなたの血を継ぐ子どもを生んではいけないとは言われないのです。人間が増えることを望んでおられます。罪を犯し、楽園を追放されてもなお、「生めよ、増えよ、地に満ちよ」との祝福は撤回されなかったのです。

 このことに、神様と私たちの関係の大前提が示されているのではありませんでしょうか。人間は、神様に罪を犯し、楽園を追放されてしましました。人間は、もはや楽園にいたときにように神様の歩まれる音を聞いたり、神様のお声を日常的に聞いたりするようなことができなくなってしまいました。しかし、神様は、その人間が神なしに生きることを望んでおられるのではなかったのです。神様は、人間が神様を見ることなしに、神様の愛と祝福を信じ、神様と共に生きることを望んでおられたのです。それが信仰によって生きるということなのです。

 そして、そのような信仰によって生きることが求められた最初の人間が、アダムとエバが楽園を追放されてから生んだカインとアベルでした。『創世記』には、カインとアベルが、神様を礼拝する姿が記されています。

アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。

 《主のもとに献げ物として持ってきた》とあります。これは楽園の外の話ですから、神様に直接お会いして献げ物をしたということではありません。祭壇を築いて、そこ神様を礼拝し、献げ物をしたのです。祭壇による礼拝、あるいは今私たちがしているような礼拝堂における礼拝、それは楽園の外にいる人間が、目に見えない神様を礼拝するために作られたものです。

 逆に言うと、私たちがこうして礼拝堂に集って礼拝するとき、ここが楽園の外であるということを意識させられるのです。しかし楽園の外にありながら、こうして主の御前に生きることが許されているという恵みを覚えるのです。
カインとアベルの献げ物
 さて、カインとアベルの物語はその祭壇で二人揃って神様を礼拝していることから始まります。

主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。

 神様はアベルを顧み、カインを顧みなかった、と記されています。しかし、その理由が書いてないので、カインでなくても理解に苦しむ、なんとも腑に落ちない場面です。逆に、《カインは激しく怒って顔を伏せた》とありますが、むしろその気持ちに親近感を覚えるのです。

 なぜ、神様はアベルを顧みて、カインを顧みなかったのか。その理由を考えるのに、多くの説教者が頭を悩ませています。私もそのひとりです。よく読んだり聞いたりする説明は、カインの献げ物をする姿勢に本当の信仰がなかったからだ、というものです。そして、しばしばその根拠とされるのが、『ヘブライ人への手紙』11章4節です。

信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。

 信仰によって、アベルはカインより優れた献げ物を献げたと書いてあります。優れた献げ物とは何でしょうか? 『創世記』4章4節によりますと、《アベルは群れの中から肥えた初子を持ってきた》とあります。つまり、アベルは多くあるものの中から一番良いものを選別して、神様への献げ物をしたのです。他方、カインについては《土の実りを主のもとに献げ物として持って来た》と記されています。出来映えのいいものを選別して持ってきたとは書いてありません。ただ持ってきたのです。このアベルとカインの心の違いが献げ物の違いであるという説明です。これは、ある程度、説得力をもった説明だと思います。

 他の説明には、アベルは血を流す献げ物とした。小羊の血、それはキリストの十字架につながるもので、神様はそれを喜ばれた。しかし、カインの献げ物は血を流すものではなかった。だから神様はカインの献げ物ではなく、アベルの献げ物が喜ばれたのだという説明もあります。これは聖書的根拠にも乏しいこじつけで、ちょっと乱暴な解釈だと思います。神様は小羊を喜ばれ、穀物を喜ばれなかったというのは、神様のご性質からして違うのではありませんでしょうか。

 やはり、ここで問題にされているのは、献げ物が何であるかというよりも、献げ物をする人の心、信仰だろうと思うのです。その点がアベルとカインの違いだったのだと思います。
カインの不信仰
 ただ私は、アベルはいちばん善いものを献げ、カインはありきたりのものをささげたという解釈も、それなりの説得力を感じるのですが、ちょっと違うのではないかと思っています。先ほど、私は信仰とは頭で考えることではなく、生活の中に神様を認め、神様の御心を信頼する生き方だということを申しました。ですから、もちろん聖書の言葉が私たちの体験に勝るのですが、自分の生活の中で、あるいは人間の生活の中で、ここに書かれているようなことがアベルの信仰がどのように体験されるのだろうかということを考えるのです。

 まず、カインの体験です。これは、私たちがしばしば目の当たりにする現実だということが分かるのです。同じように神様を礼拝している兄姉姉妹たちがいます。しかし、ある人は「神様を信じているからこんなにいいことがあった」と喜んでいるかと思えば、ある人は「神様を信じてこんなに一生懸命に祈ってきたのに、哀しいこと、辛いことを経験している」と言う。その時、私たちは神様に祝福された人の礼拝は優れた礼拝だといい、神様から不幸を賜った人の礼拝を劣った礼拝と言えるのでしょうか? 決してそんなことはないのです。

 誰よりも信仰の深い人が、誰よりも大きな苦難を神様から賜るということがしばしばあるのです。人間の体験としては、こんなに神様を信仰し、礼拝してきたのに、神様はわたしを顧みてくださらなかったということになるかもしれません。けれども、神様の御心としては、どちらかを喜び、どちからを疎んじたということではないのです。扱い方が違ったのです。

 カインが経験したことも、そういう事だったのではありませんでしょうか。カインもアベルと同じ気持ち、同じ信仰をもって、アベルと優劣つけがたい献げ物をした。けれども、アベルは明らかなる祝福を受け、カインにはその祝福が隠されていた。そのことを主はアベルに目を留められたが、カインに目を留められなかったと表現してあるのではないでしょうか。

そうすると6-7節の神様の言葉の意味も分かってくるのです。

主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」

 《どうして怒るのか? どうして顔を伏せるのか?》と、神様はカインに聞いています。もし神様がカインの献げ物を本当に顧みていないのなら、神さまはこんな意地悪なことを言うでありましょうか? これについてもひとつの説明は可能なのです。『出エジプト記』33章19節で、神様は「わたしは恵もうとする者を恵み、あわれもうとする者をあわれむ」と言っておられます。つまり、誰を恵むのかは神様の自由であるということです。この自由を、カインは「神様はこうあるべきだ」と裁いている。それに対して神様が「どうして怒るのか」と問うているのだというのです。確かに、私たちは神様の裁量権を侵すことはできません。しかし、同時に神様が決していたずらに人を不親切に扱う方ではないということも信じていいのではないでしょうか。

 私が思うのは、こういうことです。神様は、カインの献げ物もアベルの献げ物と同じように受け取っておられた。しかし、それぞれに対する神様の扱い方が違ったのです。アベルには祝福を隠さなかった。カインには祝福を隠されたのです。なぜ、カインに対する祝福を隠されたのか、そこはわかりません。けれども、そのことが何か意味をもってくるはずでした。たとえば、聖書にはこのようなことが言われています。

神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。(『コリントの信徒への手紙1』12章18-26節)

 神様は、みんなを同じようにお造りにならないで、《ほかよりも弱く見える部分》とか、《ほかよりも恰好が悪いと思われる部分》とか、《見苦しい部分》《見劣りのする部分》をお造りになるのだということが記されています。そして、それは決してそのような部分を他の部分よりも祝福しておられないということではなく、むしろそのような部分を通して全体が愛によって一つに結ばれることを願っておられるのだと言われています。

 カインとアベルの兄弟もそうだったのではありませんでしょうか。神様は先に生まれたカインではなく、後に生まれたアベルに多くを与え、それによって兄弟が互いにいっそう強い絆で結ばれることを願われたのかもしれないのです。たとえそうでなくとも、神様がカインに対する祝福されたということには必ず神様の深き御心のあることでした。しかし、カインはそれを信じようとしませんでした。見えない神の祝福を信じなかったのです。そして、神様に対して怒り、顔を伏せたのです。この時、カインは信仰なき者になりました。

 だから神様は、カインの信仰を励まそうとして、《もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。》と言われたのではないでしょうか。神様は「お前は正しいのだ。わたしはわたしのやり方であなたに報いる。しかし、今ここで私に対して顔を伏せてしまったら、あなたは罪に捕らえられることになるのだよ」と言っておられるのです。

 結局、カインは神様の自分に対する取り扱いに対する不満を納めることができませんでした。神様の見えない隠された愛を、信じることができなかったのです。そして、神様を信じなければ、自分の怒りを正しいとするほかありません。カインは、その怒りにしたがって行動し、弟アベルを殺してしまったのでした。

  
アベルの信仰
 ところで、問題はアベルの信仰です。小羊を献げたアベルが地の産物を献げたカインに勝る献げ物をしたわけではないであろうと、今わたしは申しました。さらにいえば、カインが神様とアベルに恨みをもったように、アベルもまた神様とカインに恨みをもったかもしれません。なぜなら、アベルは何も悪いことをしていないのに殺されてしまうのです。神様は、アベルをころしたカインにこう言っています。

お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。

 もちろん、これは恨みの叫びであります。それはカインに対する恨みもあったでしょうが、神様に対する恨みもあったかもしれません。なぜなら、なぜなら、アベルがそのようなことになったのかということを考えていきますと、神様のカインに対する取り扱いが間違っていたのではないか、というところに行き着くからです。もし神様がカインにも等しく恵みを与えておられたら、兄弟は仲良く暮らせたのに、誰だってこの物語を読む者はそう思うのです。そうしますと、カインもアベルも、どちらが立派であったということは言えない。カインとアベルはほとんど何もかわりがないのです。

 しかし、一つ決定的な違いがあります。それはカインは神様に対して顔を伏せた。アベルは神様に向かって叫んだということです。立派なことを叫んだのではありません。カインと神様への恨みを叫んだのです。『ヘブライ人への手紙』12章24節にはこう記されています。

新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血・・・

 キリストの血が「父よ、彼等をゆるしてください」と叫んだほど、アベルの叫びは立派ではありませんでした。間違いなくアベルは復讐を叫んだのです。呪いを叫んだのです。しかし、それにしてもアベルは神様に向かって叫んだ。カインのように顔を地に伏せることはなかった。これがアベルの信仰と呼ばれているのです。

 信仰とは立派に生きることではありません。私たちは立派には生きることができないのです。苦しさ、哀しさ、やりきれなさ、恨み、辛み、妬み、そねみ・・・そのような思いから逃れることができません。しかし、神様は楽園から追放したアダムとエバをも愛し、喜びをあたえてくださるお方なのです。罪人をも愛し、共に生きようとしてくださる方なのです。それを信じ、自分の弱さ、貧しさ、罪深さにもかかわらず、臆することなく神様に顔を上げて生きようとする。それが信仰なのです。ただこの信仰によってアベルとその献げ物は正しいとされたと、ヘブライ人への手紙は語っているのではないでしょうか。

その信仰によって、正しい者と証明されました。

 正しい者だから信仰者なのではなく、罪人でありながらも神様に向かって顔を上げて生きる信仰によって、神様の憐れみを受け、正しいと認められるのです。

アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。

 そうです。アベルこそは最初の信仰者であり、信仰とは何かということを一番深いところで教えていると言ってもよいでありましょう。それは、信仰とは、正しさや立派さを身につけることではなく、どんな時にも神様に向かって顔を上げて生きることだということなのです。このような者に、神様の愛と憐れみによって与えられるのが「信仰による義」です。アベルは、そのことを今もなお語り続けています。

 みなさん、私たちの人生、生活、心には、いろいろな波風が立ちましょう。深い罪に落ちることもありましょう。神様への恨みが募ることを抑えられないときもありましょう。しかし、どんな時にも神様に顔を上げ続け、神様に向かって叫び続けること、それが信仰なのです。そのことをアベルから学びたいと思います。
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