ヘブライ人への手紙 37
「信仰は見ぬものを真実とするなり」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙11章1-3節
旧約聖書 列王記上12章20-24節
生きる意味の喪失
 第二次世界大戦中、ナチスに捕らえられ、強制収容所を経験したヴィクトール・フランクルという精神科医がいます。彼は、生きるか死ぬかのギリギリの限界状況を耐え抜いて、終戦を迎え、その時の体験に基づいて、人間の生きる意味を、精神科医として語り続けました。

 強制収容所で、何が行われたのか? 一言で言えば、人間の尊厳の剥奪です。ナチスに捕らえられた囚人たちは、生かす価値のある人間と生かす価値のない人間に選別されました。生かす価値のある人間とは、労働力になる人間、そして人体に実験の材料になる人間です。それにすら値しない人間は、ガス室などで簡単に命を奪われました。たとえば、子どもなどは身長120センチに満たなければ、それだけで有無もなくガス室送りとなったのでした。

 収容所送りにされた人たちも、決して人間としての尊厳を与えられて扱われたわけではありません。怪我をしたり、体力がなくなったり、病気になったりして働けなくなければためらいなく殺されました。彼らは収容所にいる間、絶え間なく「生かしておく価値がある人間か、そうでないか」という審判を受けなければならなかったのです。フランクルはこう語っています。

 強制収容所では、私たちは、「スープをやる値打ちもない」といって非難されることさえしばしばでした。そのスープといえば、一日に一度きりの食事として与えられたものでした。しかも私たちは土木工事を果たして、その経費を埋め合わせなければならなかったのです。価値のない私たちは、この身にあまる施しものを受け取るときも、それにふさわしい仕方で受け取らなければなりませんでした。囚人はスープを受け取るとき、帽子を脱がなければならなかったのです。
 さて、私たちの生命がスープの値打ちもなかったように、私たちの死もまた、たいした値うちはありませんでした。つまり、私たちの死は、一発の銃弾を費やす値打ちもなく、ただシクロンBを使えばよいものだったのです。
 おしまいには、精神病院での集団殺害が起きました。ここではっきりしたのは、もはやどんなみじめなあり方でも「生産的」でなくなった生命はすべて、文字どおり「生きる価値がない」とみなされたということです。(『生きる意味と価値』)


 人間には尊厳があります。尊厳とは、存在自体がおごそかで尊く侵しがたい、ということです。たとえば、ダイヤモンドには価値があります。しかし、尊厳があるとはいいません。ダイヤモンドは、その色、透明度、大きさ、カットの美しさなどによって、価値が変わります。宝物になる場合もありますし、工業的な利用価値をもった石にもなるのです。工業的にも利用できないほどの大きさもないものは、たんなる屑として捨てられるだけでありましょう。人間は、そのように利用価値ではかられる存在ではありません。誰の役に立たない者であっても、それどころか人に迷惑ばかりかける悪人であっても、ただ人間であるという、それだけで、何人も侵してはならないおごそかな尊さをもっている、それが人間という存在です。収容所の囚人は、その尊厳が奪われていたのでした。

 しかし、このように人間の尊厳が奪われているのは、収容所の中だけのことでしょうか? 私たちが生きている世界もまた役立つ人と役立たない人、できる人とできない人、そのような基準で人間の優劣に選り分ける世界であるような気がします。そして落伍者には「お前はスープをやる値打ちもない」と冷たく言い放つのです。しかし、そのように言っている人も、いつ自分がそのように言われる者になるかわからないという不安を抱えています。

 なぜ、日本のように豊かな社会で、それなりに社会保障も進んでいる世の中で、年間に三万人もの自殺者がでるのでしょうか? 人間を尊厳あるものとして敬うのではなく、その人の利用価値や能力の有無によって選り分ける世の中は、人間の生きる意味や価値をたえず脅かし続ける世の中だからです。この世の中では、毎日毎日多くの人々が、ナチスの収容所のように「お前はスープをやる値打ちもない」と言われ続けているのです。

生きる意味の獲得
 フランクルは、そのような生きる意味が奪われ続ける収容所の中で、なお生きる意味を見いだして生き抜いた人でした。生きる意味のないところで、生きる意味を見いだすとはどういうことなのでしょうか? 別の言い方をしますと、わたしたちは人生の絶望といかに闘うことができるのかということです。フランクルはこう答えます。

「私はもはや人生から期待すべき何ものも持っていないのだ。」これに対して人は如何に答えるべきであろうか。
 ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点変更なのである。すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。そのことを我々は学ばねばならず、また絶望している人間に教えなければならないのである。(『夜と霧』)


 私たちは、人生にいろいろな願いを込めて生きています。それが、人生に期待することです。しかし、人生は、思わぬ方向に歩き出します。そして、私たちが人生に込めた願いが、すべて潰れてしまう。自分の望むものを、何も人生に期待できなくなってしまう。それが、絶望でありましょう。この絶望から這い上がるためには、人生に願いを込めたり、人生に期待してはいけないというのです。むしろ人生の方が、われわれに期待しているのだというのです。

 これは、なかなか分かりにくいことだと思います。しかし神様を考えると分かるのです。私たちの人生に、いろいろなことが起こります。自分の望んでいることとはまったく違ったことが起こるのです。先週お話ししました内村鑑三の愛娘が病死ししたということもそうです。その時に、私たちは、人生に思い描いていた夢が破れる、という経験をします。自己中心的な人生観は、必ず絶望するのです。自分では、人生に意味を与えきれなくなってしまうのです。

 けれども、その人生の背後に、神様の働きを見るならば、まったく違った見方ができます。人生は、私たちが思い描くのではなく、神様がわたしたちに与え給うものである。このように、自己中心的人生観から、神中心の人生観へと転換すると、私たちの身に何が起ころうと、そこには、神様の御心があるということになります。その神様の御心を私たちが正しく生きること、それが生きる意味であるということになるのです。

 新約聖書『ヨハネによる福音書』9章に、生まれつき目の見えない盲人の話があります。弟子たちは、不自由な目をもって生まれてきた男の人生を、哀れに思ったのでありましょうか、イエス様に「あの人が生まれつき目が不自由に生まれてきたのはなぜですか。本人の罪でしょうか。親の罪でしょうか」と尋ねました。するとイエス様は、弟子たちに「ただ彼の上に神の業の顕れん為なり」とお答えになっています。つまり、神様が彼に対する御心を行うために、そのような人生をお与えになったのだということです。

 ここにも、人生に期待するのではなく、人生に期待されているという視点変換があるのです。目が見えなければ何も出来ない。自分の人生に良いものは何も期待できない。そういう絶望もありましょう。しかし、視点を変えてみる。そうすると、目が見えない人生は、神様が私にあたえてくださった人生である。その人生を正しく生きることが、わたしに生きる意味を与えるのだということになるわけです。フランクルは、学者として神様という言葉を語ることになしに話していますが、言わんとしていることはそういうことなのです。

 もう一つ、旧約聖書にはこのような話があります。イスラエル王国は、ダビデ、ソロモンと全盛期を迎えます。しかし、ソロモンの子レハブアムが王位を継承する時、家臣ヤロブアムがクーデターを起こし、王国が二つに分裂してしまうのです。イスラエルは12部族に分かれているのですが、ヤロブアムは10部族を掌握し、イスラエルの王に即位しました。ソロモンの子レハブアムを支持したのは、ユダ族とベニヤミン族の二部族だけでした。レハブアムは、この事態をなんとか収拾し、王権を奪還しなければならないと思い、ヤロブアムに対して兵を起こします。ところがレハブアムのもとに預言者シェマヤが来まして、神様の御心を伝えたのでした。

『主はこう言われる。上って行くな。あなたたちの兄弟イスラエルの人々に戦いを挑むな。それぞれ自分の家に帰れ。こうなるように計らったのはわたしだ。』(列王記上12章24節)

 ヤロブアムに対して兵を起こす。これは、ダビデの家を守ろうとする、レハブアムとしては当然の願い、行動だと思うのです。レハブアムは、全イスラエルの王となるべきだったのに、ヤロブアムの反乱で、二部族の王となってしまった。神の民イスラエルが分裂してしまった。それをもう一度ひとつにするのは、ダビデ家を継いだ王の当然の使命だ、と考えたでありましょう。ところが、神様は「この事は我より出でたるなり」とおっしゃったのです。分裂という悲しむべき事態、どうみても良いこととは思われない事態もまた、その背後に神様の御心があるのです。

 それを聞いてレハブアムは兵を引きます。気持ちの上では、分裂という事態をそのままにしておくのは、忍びがたいものがあったでありましょう。しかし、自分の思いを実現させることが国を治めることではなく、神の思いを実現させることが国を治めることであると、レハブアムは考えたのでありましょう。

 私たちの人生もそうです。いろいろなことを人生に期待するのは仕方ありません。わたしも同じです。けれども、思い通りにならないとき、わたしは「このことは我より出でたるなり」との御言葉を思い出すのです。そして、神様が与えてくださった人生を生きることにこそ、自分の人生の意味があるのだと思うのです。そうしたときに、「ああ、これが神様の御心であったのだ」という答えが与えられます。自分の願いを実現させることを、生きる意味とすれば、必ず絶望します。しかし、神様の願いを実現させようとして人生を受け取り、そこに生きる意味を見いだす人は絶望しませんし、必ず慰めを得るのです。



神様の御心を信じる
 今日、お読みしました『ヘブライ人への手紙』11章1節にこう記されています。

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

 信仰とは、第一に、望んでいる事柄を確信することであり、第二に、見えない事実を確認することであると、明解に語られております。

 まず望んでいる事柄を確信するということですが、わたしたちが望んでいる事柄には、いろいろなものがあります。今申し上げてきた言葉で言えば、わたしたちが人生に期待するものがたくさんあるのです。けれども、わたしたちが人生に期待するもの、つまり私たちの願い、希望は、必ずしも実現しません。しかし、神様が与えてくださった人生、たとえそれが私たちの願いとはかけ離れたものであったとしても、その人生を生きることにこそ生きる意味があると信じることが大事なのです。

 御言葉は、そういうことを語っています。《望んでいる事柄》とは、私たちがこうあって欲しいという願いや希望ではないのです。信仰者にとって望んでいる事柄というのは、神の御心が実現されること、それ以外のものではないからです。

 それは先週学びました10章35-36節を読んでもわかることです。

だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。

 《自分の確信を捨ててはいけない》と言われています。この確信とは、神の御心を行って約束をされたものを受けることだと言うのです。「この事は我より出でたることなり」という神様が与えてくださった人生を生きることです。それが苦しいことであっても、自分の願いを諦めることであっても、それを受け取って生きることです。そこには大きな報いがあると約束されています。どんな報いなのか、それは最初から分かっているわけではありません。その報いを受けるには、忍耐が必要です。しかし、大きな報いがあるということは、そこにこそ生きる意味があるのだということでありましょう。

 ですから39節にはこういわれている。

わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。

 たとえ自分の望みが打ち砕かれようとも、またそれを捨て去らなくてはならいとしても、ひるむことなく、「この事は我より出でたることなり」という神様の御心に生きることによって、私たちは命を得る、つまり本当に意味で生きるということ尊さを、悦びを、知るのだということなのです。このように、《望んでいる事柄》を確信するとは、神様に与えられた人生を希望を持って生きるということ意味なのです。

 そして、《見えない事実を確認することです》とも言われています。見えない事実を確認するとは、3節にこう記されています。

信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。

 私たちが生きているこの世界も、人生も、すべては、神様によって存在し、支えられているものです。ですから、目に見えるものではなく、それを目に見えないところで支えているものに目を注がなければならないのです。しかし、それが分かるのはただ信仰によってだけです。

 お話しの最初に、人間の尊厳という事を申しました。人間の価値は、見た目の麗しさであるとか、健康状態であるとか、知力、体力などの能力であるとか、性格とか、そのように目に見えるところで判断されるものでありましょうか。そうしますと、価値あるものと価値のないものという選別が起こります。そして、いつ自分が価値のないものにされるか分からないという不安とか、実際に価値のないものにされてしまった絶望とか、そのような生きる意味の喪失、あるいは剥奪ということが起こってくるのです。

 しかし、イエス様は、そのような人間の目に見えるところで判断される価値ではなく、すべての人に与えられている人間の尊厳を、こういう言葉で教えられました。

 あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。(『マタイによる福音書』5章43-46節)

 太陽は、その光を生きとし生けるものにくまなく降り注いでいます。そのように神様は、その愛を、あなたがたや、あなたがたにとって価値ある者に対してだけではなく、あなたがたにとって価値のない人間や、敵対する人間にもあますことなく注がれているのだと、イエス様は教えておられるのです。

 このイエス様に真っ向方から対立していたファリサイ派の人たちは違いました。神様に愛される値打ちのある人間と、そうでない人間がいると考えていました。しかし、イエス様は「そうではない、神様に愛されていない人間はいないのだ」と仰っておられるのです。それが神様に愛されていない人間はいない。これが人間の尊厳の源にあることです。そして、それは目に見えない事実なのです。ただ神様への信仰だけがそれを悟ることができるものです。

 もっと言えば、私たちが神様の与え給う人生を、たとえそれが多くの忍耐を必要とするとしても、それを生きるとき、その結果として、ああ、やはり神様の愛がここにあるのだ、やはり見えない事実が私たちを支えているのだと、知ることできるのです。

 今日は、信仰についてお話しをしました。私たちを、この世界を愛し、支え給う神様の御心、愛、その見えない事実を信じ、それに基づく生き方をすること、それが信仰だと言えましょう。そして、そのような生き方だけが私たちにどんな時にも希望、生きる意味を与えつづけ、また慰めと報いをもたらすものなのだということを心にしっかりと受け取る者であいたいと願います。
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