ヘブライ人への手紙 35
「真の心と信仰とをもて神に近づくべし」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙10章19-25節
旧約聖書 ヨシュア記3章9-17節
神に近づく
 『ヘブライ人への手紙』は、第一部と第二部に分けることができます。第一部は、これまで読んできたところで、「イエス・キリストこそ唯一の、永遠の、完全なる救い主である」ということが語られていました。今日から、第二部に入ります。第二部の主題は何か。それが今日お読みしました19〜25節に記されています。この部分は、新共同訳では七つの文章によってなっていますが、ギリシャ語の原点を当たりますと、長い一つの文章となっています。1955年訳の口語訳聖書は苦労しまして、それに少しでも近くなるように、これを二つの文章でまとめています。

 兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。また、約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、愛と善行とを励むように互に努め、ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。

 これが一つの文章であるということは、この文章全体の主語と動詞があるということです。主語は《わたしたちは》ということでありますけれども、動詞は何かといいますと、22節の《神に近づこう》(新共同訳)というのがそれにあたります。つまり、この文章のすべての言葉は、《神に近づこう》という一点に集中するのです。

 ちょっとくどい言い方になりますが、「イエスの血によって聖所に入れるという確信をもって、神に近づこう」、「イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのだから、神に近づこう」、「わたしたちには神の家を支配する偉大な大祭司がおられるのですから、神に近づこう」、「心は清められ、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われているのだから、神に近づこう」、「約束してくださった方は真実なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようにしっかり保って、神に近づこう」、「ある人たちの習慣に倣って集会を起こったりせず、むしろ励まし合って、神に近づこう」、「かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合って、神に近づこう」、そのようにこの部分は語られているわけです。
神に近づく二つの側面
 このように読んでみますと、「神に近づく」という言葉を中心に、二つのことが語れていることに気づきます。

 一つは、イエス様の御救いによって、神に近づこうということです。イエス様の清めの血によって、イエス様が開いてくださった新しい道によって、偉大な大祭司のとりなしによって、清められた者として神に近づこうということであります。

 もう一つは、信仰によって神に近づこうということです。希望をしっかりと保って、集会を怠らずに、励まし合って、神に近づこうということが言われているのです。私たちが、神様に近づこうとするとき、この二つの側面が必ず大切になってきます。

 そもそも、「神に近づく」とはどういうことなのでしょうか。先日、このようなラジオ番組の録音を聞きました。一人の少年がラジオ番組のパーソナリティに、自分の経験した哀しみ、つまり大好きな牛が怪我をして殺さなければならなかったことを神様に祈って、神様の答えを聞いたことを語っているのです。

Hey Mike can I talk to you?
「ハイ、マイク、しゃべってもいい?」

You bet Loagn,What's up?
「勿論さ、どうしたんだい?」

hmmmmm.....I want to tell you something that God just me....
「う・・・ん・・・話したいことがあるんだ・・・神様が僕に言ったこと・・・」

Okey?
「OK」

Last night my dad was roping this calf....and this calf had been born from a really old cow...she,she didn't have really...the greatest milk...she didn't have like the vitamin C stuff...(sniff)
「昨日の夜、僕のパパが子牛にローピングしてたんだ。この子牛はね、とっても年とった母親から生まれたの。あんまりお乳もよくなくって、ビタミンCがないとか、そんな感じで・・・(グスッ)」

Okey...?
「大丈夫?」

Hold on...Mom.....
「ちょっと待って、(ママ・・・)」

So cute I guess his Mom is talking him...
「(あは、可愛いな、きっと母親が話しかけたんだろう)」

(off phone)I'll talking right now. I'll be up in a second...
「(今、電話で話ししてるの、ちょっと待ってて)」

but...sorry about that...but anyway...she broke her back...and...theis morning I went up out and put her down myself...
「ごめんなさい。そ、それでね、その子牛が背骨を骨折したんだ・・・で・・・今朝、僕が自分で殺さなきゃならなかったんだ。

I was talking to God and I was asking God why?
僕は、神様とお話ししてて、それで尋ねたんだ、どうしてって・・・

She was special....
この子牛は僕にとって、とてもスペシャルだったのに・・・

And God said...
そしたら、神様が言ったんだ。

"You know Logan, My Son was sepcial..."
"..but He died for a purpose..."
ローガン、知ってるかい?私の息子もスペシャルだったんだよ。そして、ひとつの目的のために死んだんだ。

It's kind of tyhe same thing...
それと同じことなんだよ。

the calf was close to me... and God's Son was close to Him...
その子牛は、僕にとても近かった。神様の息子も、神様にとても近かった・・・」

Logan,you're so right...It's true.Think you're going to be okey?
「ローガン、君はとても正しいよ。本当さ。大丈夫かい?」

Yea,I'll be fine...but I just wanted to tell you guys that...that it's so important
「うん、大丈夫。僕、どうしても皆に、この大切なことを話したかったんだ。

just remember when you lose a loved one or pet...always remember that God gave His son too...and He understands....
もし、皆のなかに誰かとっても愛していた人やペットを亡くしたりした人がいたら、覚えていてほしい。神様も、自分のひとり子を亡くしたんだと。

he will always undersatnd... he will always,just run to Him
そして、神様はわかってる。いつでもわかってる。

logan, you're wiser than you know buddy
「ローガン、君はとても賢いよ。きっと君が思っている以上に。」

Well,sometimes Idon't think I'm wise...Ah trust me, I've done a lot of stupid stuff...But I've learned from it.
「うーん、時々僕は賢いと思えないけど・・・本当だよ、バカなことをたくさんやらかしててきたよ。・・・でも、そこから学んでる。」

yeah,but see buddy that's what makes you wise. Somebody that learns from their mistakes.
「そうさ、バディ。多くの人達が、間違いから学ぶのさ。」

Oh I just figured I better call and share with you guys...love you.
「じゃ・・・皆とこの話しを分かち合った方がいいと思ったんだ。Love you!」

Love you too...

Bye...

Bye bye.

             (リンク 「Logan, the Sky Angel Cowboy」)

 神様に近づくというのは、この少年のように深い悲しみの中で、神様に問い掛け、神様の声を聞きながら生きていくことだと言っていいかもしれません。けれども、この少年のように神様を親しく感じて、哀しいとき、困ったとき、あるいは嬉しいときに、ごく自然に神様に近づき、語りかけ、またその声を聞き取りながら生きていくということは、残念なことですが、誰にでもたやすくできることではないのです。

 そこで、先ほどの二つの側面が大事になってきます。一つは、イエス様の御業に注目することです。もう一つは、イエス様を心から信じて自分を委ねることです。『ヘブライ人への手紙』は、まず第一部でイエス様の御業に注目をしました。そして、これから第二部において、イエス様を心から信じて自分を委ねることについて語り始めるのです。

 わたしはよく言うのですが、イエス様のしてくださったこと、してくださること、この二つによって救われるということが「福音」です。私たちが何をしてきたか、何ができるかによって救われるのではないのです。それならば、私たちは安楽椅子に腰掛けていればいいのかというとそうではありません。イエス様の御業を信じなければならないのです。福音書には、イエス様がナザレの村にお帰りになった時、彼らはイエス様を信じることができなかったので、イエス様は御業をなさることができなかったと記されています。イエス様の御業は、信仰によって受け取るものなのです。

 信じるとは、心の、あるいは魂の状態でありまして、私たちの行動とは別の問題です。けれども、信じるということを、私たちの行動によって示さなければならない場合もありましょう。たとえば、「委ねる」ということです。何か自分で手に負えない難しい問題が起こる。病気ということもあるかもしれませんし、何かやっかい事が降りかかってくるということもあるかもしれません。そういう時、私たちは私たちを愛してくださる神様を信じ、問題を神様に委ねることができます。委ねるとは、神様の御手に預けるということであります。ですから、その問題はもう私たちの手にはないのです。しかし、信仰がありませんと、自分の手にもあまるのに、神様に渡すことも出来ない。そういう状態になってしまうのです。

 子どもがオモチャを壊してしまった。自分ではなおせないので、お父さんに預けます。お父さんは、壊れたオモチャを器用に直します。これが委ねるということです。しかし、お父さんが「直してあげるから貸してご覧」と言っても、子どもが、オモチャをお父さんに預けなかったらどうでしょうか。あるいは、預けはしたものの、お父さんのやっていることに「それは違うのではないか」とか、「こうした方がいいのではないか」とか、口を出したり、手を出したりしたら、どうでしょうか。私たちはそれを同じ事を神様にしていることがあります。信じるということは、それをすっかり委ねるという態度で表すことなのです。

 あるいはまた、信じるということは、「従う」という行動が必要があります。今日は、出エジプトを果たし、モーセによって荒れ野の旅を導かれ、ようやくカナンの地に入ろうとする時に、ヨルダン川を渡ろうとするイスラエルの民のお話をあわせて読みました。民数記3章15節には、《春の刈り入れの時期で、ヨルダン川の水は堤を越えんばかりに満ちていた》とあります。これでもう私たちは《こんな時期の悪いときに》と思ってしまうのです。しかし、神様は《主の箱を担ぐ祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると、川上から流れてくる水がせき止められ、ヨルダン側の水は、壁のように立つであろう》と言われます。この言葉を信じて、祭司たちはとうとうと流れるヨルダン川の水の中に足を踏み入れるのです。すると、神様がおっしゃったとおり、ヨルダン川の水はせき止められ、イスラエルの民は干上がったヨルダンの川底を渡ることができたというのでありました。このように信じるということが、たとえ意味がわからなくても、不可能に思えても、従うこと、服従すること、そういう行動によって示されなければならないことがあるのです。

 先ほどのローガン少年は、この二つを合わせて行ったと言えるかも知れません。自分自身の哀しみ、理不尽な思いに固執せず、それを神様に委ねました。さらに大好きな子牛の命も神様に委ねました。そのうえで、自分で子牛の命を神様にささげたのです。なぜ、少年にそのようなことができたのか? それはイエス様を献げてくださった神様の愛を信じたからです。神様がイエス様を献げてくださったから、それができたのです。そうしますと、ローガン少年は、何かをしたのではなく、ただ神様、イエス様を信じたのだということもできます。ただ、その信仰を、委ねるという行動で、あるいは従うという行動で表したのです。そこに、おそらくは彼しか経験できないような聖霊の慰めと祝福が与えられたのでありましょう。だからこそ、ラジオ番組で、それをみんな伝えたいという気持ちさえ起こったのです。

信仰と行い
 よく行いによってではなく、信仰によって救われるのだと申します。その通りです。しかし、信じるという魂の状態は、行動によって示されなければならないことがあるのです。それがなければ、信じているとは言えないことがあるのです。私たちには、信仰による行動が必要なのです。しかし、このように申しますと、速まって信仰もないのに行動する人がいるから誤解されるのです。祈ることも、委ねることも、従うことも、あるいは礼拝の出席も、奉仕も、献金も、すべてこれは信仰による行動です。まず信仰ありきなのです。そういう行動を真似すれば信仰があるのと同じになるわけではないのです。

 二つの違いは、とても微妙なところですから、多くの人が一度や二度、過ちに陥ります。しかし、信仰による行動とそうでない行動にははっきりとした違いがあるのです。それは、希望による喜び、平和、愛が魂に満ちているかどうかということです。恐れが生じる時もありましょう。哀しみを禁じ得ないこともありましょう。しかし、そのような現実にもかかわらず、神様が、イエス様が、してくださることへの希望が、私たちの心を支配しているならば、そこには必ず人知を超えた神の平和が訪れます。しかし、もし信仰がなければ、畏れも哀しみも私たちに絶望だけをもたらすのです。

 わたしは、けっして不信仰を裁いているのではありません。イエス様が私達にしてくださったこと、してくださること、そのことをしっかりと見つめ直すことによって、そういう不信仰から抜け出して、どうか真心をもって神様に近づこうではありませんか。そのように私たちが不信仰から救われるよう互いに励まし合って歩もうではありませんか。
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