ヘブライ人への手紙 31
「多くの人の罪を負はんが為に」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙9章23-28節
旧約聖書 詩篇111編
恥ずべき十字架

 「ねえ、先生」

 教会学校が終わって、玄関で子どもたちや帰る方々を見送っていますと、ユウタ君という小学校1年生の男の子が話しかけてきました。

「先生、イエス様の十字架の絵をみるとさあ、ほかにも十字架にかかっている人がいるんだけど、あれはだあれ?」

「あれはね、泥棒さんだよ」

「ええっ? どうして泥棒がイエス様といっしょに十字架にかかっているの」

 これは、キリスト教信仰の一番大切なことを問う質問です。こういうことを、玄関先の立ち話でいきなり尋ねてくるから、子どもは本当に鋭いといいますか、侮れない存在です。そういう時に、咄嗟に適切な言葉で、小学校1年の子どもにも納得できるような返事をしてあげられてこそ、すぐれた牧師だと思うのですが、わたしはしどろもどろになってこんな風にこたえました。

「どろぼうさんはね、悪いことをしたから十字架にかかったんだよ。でも、イエス様は何も悪いことをしていないんだけど、悪いことをしたどろぼうさんが神様のところに行けるように、いっしょに十字架にかかってくれたんだよ」

 あとになって、ああ言えばよかった、こう言えばよかったとしきりに反省したのですが、まだ続きがあるのです。ユウタ君は、わたしの説明を聞いて納得できないという風にいいました。

「ふーん、ぼくはお弟子さんかと思ったんだ」

 ユウタくんは、お弟子さんたちは当然、イエス様についていくはずだ、と信じていました。たとえ火の中、水の中、どこにでもイエス様に従うのが、お弟子さんであるはずだ。何も間違っていません。子どもでも、分かることなのです。ところが、実際にはこの時、お弟子さんたちは怖くなって、イエス様を見捨てて、みんな逃げてしまったのでした。本当に情けない話です。わたしは、この事実をユウタ君に告げるのをためらいました。そして、ついに伝えることなく、彼を見送ってしまったのでした。これもやはり、ちゃんと伝えればよかったかなあと後悔しています。

 イエス様は、神様のお子なのに、なぜ泥棒くんだりと十字架にかかっているのか? なぜ弟子たちは、イエス様を神のお子と信じながら、一緒に十字架にかかっていないのか? ユウタ君から質問を受けて、わたしが後で思いましたのは、イエス様の十字架は、子どもでさえ変だと思うような出来事が、つまり子どもにさえ説明できないような恥ずかしいことが、そこで平然と行われたことなんだなあということであります。当時、もっとも信仰深いと思われていた人たちが、神様のお子なるイエス様を、泥棒と一緒に、十字架につけてしまったのです。イエス様を心から崇拝している弟子たちが、イエス様を見捨てて逃げてしまったのです。十字架とは、このような子どもにちゃんと説明できないような、理屈の通らないことが、平然と行われている出来事だったのであります。

逆転現象の十字架
 この十字架のわかりにくさは、いったい何なのでしょうか。それはこの十字架の上で、逆転現象が起こっているからだと思うのです。神様が罪深き人間を裁くはずなのに、罪深き人間が神のお子を裁いている。神様が身を低くしてへりくだり、人間がふんぞり返っている。つまり、神様が人間となり、人間が神様になっているのです。

 実は、こういうことは、十字架の上ではじめて起こったことではありません。アダムとエバが、禁断の木の実を口にしてしまったのは、「これを食べれば神のようになる」という、誘惑の言葉を聞いたからでした。バベルの塔を築いたのは、人間が、技術力をもって、神に並ぶ者になろうとしたからでありました。こういう聖書の古い話が物語っているように、人間は、常に自らの知恵、技術、権力、富、武力を増し加えることによって、「もう神様はいらない」、「わたしが神にとってかわった」ということを誇らしげに語ってきたのです。

 それに対して、神様は、自らの正義を示すことなく、力を示すことなく、常に身を低くして人間に愛をもって仕えてきました。もし神様が、御自分の正義と力をもって人間に臨まれるならば、これまでに何千回、何万回となくノアの箱舟のような出来事が起こっていたでありましょう。あの大洪水が起こる前、神様はこう言われました。

わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。(創世記6章7節)

 悪しきものを赦さない。裁きを加える。ある意味、これこそ神様らしい姿です。しかし、神様は大洪水のあと、後悔したことを後悔してこう言います。

人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。(創世記8章21節)

 そして、生き残ったノアの子たちを《「産めよ、増えよ、地に満ちよ」》(創世記9章1節)と祝福するのです。

 神を神とせず、自らが神のごとくになろうとする人間と、そのような人間に、愛と忍耐をもって仕え給う神。その極みにあるのが、十字架なのです。神を殺すという人間の罪の極み、そのような人間の座にまで降りて身を低くし、人間と共にいようとする神の愛の極み、それが十字架です。

 前にもお話ししたことがあるのですが、神学生の時、わたしはイエス様の十字架の愛に溢れるという経験をしました。しばらくして、教会の牧師さんから、月報に載せるので、愛唱聖句と短い感想を書いてくださいと言われました。わたしは、《イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた》(マタイによる福音書27章38節)の御言葉を選び、その感想の中に「十字架にかかり給うイエス様の罪深さのゆえに、わたしは救われた」と書いたのです。そうしましたら、校正の段階で、「国府田君、イエス様の罪深さというのは変でしょう」と、別の言葉に直すように注意を受けました。

 ところが、あとになって知ったのですが、ルターという人は、わたしよりももっと大胆に、「キリストが私どものために死んでくださったとき、キリストが罪人になり、わたしはキリストになった」だから「わたしは神の前に出た時にわたしがキリストですと言える」と言ったそうです。「わたしがキリストになる」なんて、あまりに図々し過ぎて、わたしにはとても言えません。神学的な厳密さから言っても、適切な表現ではないかもしれません。しかし、そういう言葉でしか言い表せないような、イエス様の愛、恵みの深さ、救いの確かが、十字架にはあるのです。パウロも、十字架とは《神の弱さ》《神の愚かさ》(コリントの信徒への手紙1 1章25節)と、大胆に述べています。普通の言葉では言い表せない神の知恵、神の力というものを述べるのにあたって、敢えて《神の弱さ》《神の愚かさ》というのです。

天を清める十字架
 今日お読みしました『ヘブライ人への手紙』ですが、ここにも、ちょっと考えると間違っているのではないか、と思えるようなことが、大胆に書かれています。それは23節です。

このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。

 《天にあるものの写し》とは、これまで読んできたところを見れば分かるのですが、地上の聖所のことです。臨在の幕屋、あるいは神殿、あるいは地上の教会をも含めていいかもしれません。それらのものは、《天にあるものの写し》なのです。だから、決して完全なものではありません。倒れることもあれば、罪に染まることもあります。だから、常に清められる必要があるということは、よく分かる話です。

 しかし、ここには《天にあるもの自体》、つまり神様のいまし給う天国です、それがイエス様の十字架に血によって、清められなければならないといわれているのです。裏返しに言えば、天国が、罪で汚れているということです。天国とは聖なるところで、汚れたもの、罪など一切ないところなのではないでしょうか。だから、私たちのような罪人が、天国に入るためには、イエス様の十字架によって清められる必要があります。けれども、『ヘブライ人への手紙』は、そのことも言っているのですが、それだけではなく、天国もイエス様の十字架によって清められる必要があるというのです。

 天国の汚れとは何か? それは神様の怒り、哀しみ、憂いのことではないかと想像します。別の言い方をすれば、人間の罪に対する神様の記憶です。みなさんも、他人の罪をゆるしてはいるのだけど、何かをきっかけに悪しき思いが甦ってきて、怒りや哀しみがふつふつと湧いてくるということがあるのではないでしょうか。神様も、何をきっかけにして、人間の罪を思い出さないとも限りません。少なくとも、私たちは、そういう恐れを抱くのです。それを、天国の汚れと言ってよいかどうかは別として、イエス様の十字架とは、人間の罪を清めるのみならず、そういう神様の心をも清めてくださる、わたしの罪に対する記憶を消してくださるということなのです。十字架の救いの確かさに対する感動が、こういう言葉を言わしめているのでありましょう。
過去も未来も清める十字架
 それから25-26節にはこういうことが書かれています。

また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。

 地上の聖所では、大祭司が年に一度、山羊の血を携えて至聖所に入り、自分自身の罪と、民の罪のための贖いをいたしました。この日を、旧約聖書では、「贖罪の日」と呼んでいます。これは毎年、行われる大切な祭りでした。しかし、イエス様が御自身の血を携えて、天の聖所に入られたのは、これとは全然レベルの違う話だと、『ヘブライ人への手紙』はいっているのです。もし、これと同じだったら、イエス様は一度ならず、天地創造以来、毎年、十字架にかからなければならなかったであろうと言うわけです。実際には、イエス様の十字架というのは、ただ一度のものであり、それで完全なる罪の贖いが成し遂げられたのでした。

 これだけでは、いったい何を言いたいのか分からないという方もありましょう。ここで注目に価する言葉は、《天地創造の時から度々苦しまなければならなかったはずです》と部分です。イエス様はたびたび苦しまれたのではありません。ただ一度、十字架にかかられた。それが天地創造以来、アダムとエバの罪をも贖うものだったのです。イエス様の十字架による罪のゆるしが、どれほどの広がりをもっているのが、深さをもっているのか、そういうことがここで言われているのです。

 最後に、ヘブライ人への手紙はこのように書いています。

また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。

 福音派の指導者として有名な牧師さんが、この聖書の箇所で「人間は死んだら裁きを受ける。その時、クリスチャンは天国に行き、ノンクリスチャンは地獄に行くのだ」という説教をしておられました。クリスチャンが天国に行くということは、聖書にはっきりと書かれていますから、問題ありません。ところが、ノンクリスチャンが地獄に行くというのは、実は聖書にはっきりと書いてないことです。

 誰でもすぐ分かるように、ノンクリスチャンにもいろいろなノンクリスチャンがいます。日本のような異教の地においては、生涯の間に一度も福音を聞く機会がなかったという人もおりましょう。そうすると、それは洗礼を受けなかった人の怠慢というよりも、福音をその人に語らなかった教会の怠慢ということになるのではありませんでしょうか? あるいは洗礼を受ける間もなく、世を去っていく幼い命もたくさんあります。

 あるいは、ユダヤ人はどうなのか? イエス様が生まれる前の人たちはどうなのか? その人たちも、ノンクリスチャンです。『ヘブライ人への手紙』は、天地創造以来の罪を、イエス様は十字架で贖ってくださった、と言っているのです。それほど確かな救いなのです。わたしは、クリスチャンであるとかないとか、そういうことは、イエス様の十字架の救いの確かさにさしたる影響はないと思っているのです。大切なことは、イエス様が誰を救おうとなさったのか、ということなのではないでしょうか。洗礼を受けた人なのか? それとも神なき救いなき人生を生きている人なのか?

 最初に、ユウタ君のお話をしました。イエス様と一緒に十字架にかかっているのは誰か? それを考えれば分かるのです。ユウタ君は、イエス様がどろぼうなんかと一緒に十字架にかかっているのを知って、「ええっー」と、体をのけぞらせて、声を上げて、驚きました。そうなのです。イエス様は、そのような、本来、イエス様と一緒にいるはずがないような人と共にいようとして、十字架にかかってくださったのです。そのことを考えれば、クリスチャンだから救われるとか、ノンクリスチャンだから地獄行きだということは、簡単には言えないのではありませんでしょうか。

 十字架の救いの確かさ、そのことを深く心にとめたいと願います。

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