ヘブライ人への手紙 26
「彼らは我が契約にとどまらず」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙8章1-13節
旧約聖書 詩編84編1-13節
わたしたちの現実
 H兄の呼びかけで集められた何首かの教会短歌が、きれいなお花の写真入りでプリントされ、集会室の掲示板に発表されています。そのなかに詠み人しらずの歌が三首ありました。

あつまれば花咲く会話の教会談思い出きそう学びでの刻

教会に是非来てみてね たのしいよ お祈りするといい事あるよ

夏期学校協力しあい助け合い夏の思い出は降り続く雨

 実は、中高科の夏期学校に参加した子どもたちの歌です。教会で過ごす一日の楽しさ、そこに集う仲間への友情、神さまのお守りを感じる喜びが、真っ直ぐに表されています。その喜び、楽しさの中に降り続く雨の鬱陶しささえも忘れ、吹き飛んでしまっています。このように真っ直ぐに、神さまの愛、教会の楽しさというものが歌えてこそ信仰者でありましょう。
 私もチャレンジさせていただきまして、こういう歌を読みました。ただし、子供たちの屈託のない歌とは、だいぶ趣が違います。

聖書(みふみ)読む我のまぶたに睡魔来て同じ行をば繰り返し読む

 歌としての不出来はご勘弁いただくとしまして、情景はご理解いただけるかと想います。一日の業を終え、床に就く前に聖書を開いて読もうとするのですが、眠気が襲ってきてなかなか読めないということがあるのです。神さまの言葉を聞こうとする熱心はあるのですが、眠気にまけてしまう。《心は燃えても、肉体は弱い》(『マルコによる福音書』14章38節)と、祈りながら寝てしまった弟子たちを、イエス様が起こされた時のお言葉が聖書にありますが、まさにそれが私の現実であり、そしてもしかしたら皆さんの現実ではないかと想像するのです。

 教会の礼拝を休みたくはないのだけれども、もっと教会に献金したいのだけれど、もっと教会でご奉仕をしたいのだけれど、儘ならぬ事情がそれをゆるさない。この儘ならぬ事情とは、決して自分勝手なことではなくても、この世に身を置いて生きている限り、この世の生活というものがありまして、それも大切に守らなければなりません。仕事、健康、子どもたちの養育、親孝行、地域社会とのつながり・・・こういった世の生活を守るということも、たいへんな努力を続けなければならないことでありまして、他方ではもっと霊的なこと、信仰的なことに身を浸していたいと願いつつも、なかなかそれが適わないという現実があるのであります。

 イエス様は、そういう私達の現実を「肉体の弱さ」と表現されました。荒川教会にも、本当に神さまや教会を愛しながらも、ご高齢のゆえに、ご病気のゆえに、教会にいらっしゃれない方がおられますが、そういう肉体的弱さというよりも、罪ある者としての心の弱さ、この世に生活する者としての現実、そういう人間としての弱さ、世の現実を持つがゆえに御言葉に従い得ない者になっているということが言われているのであります。

聖書(みふみ)読む我のまぶたに睡魔来て同じ行をば繰り返し読む

 「同じ行をば繰り返し読む」と詠みましたが、これは眠くて聖書がなかなか読めないということばかりではなく、信仰生活そのものが居眠りをしてしまって、神さまの言葉を何度聞いても、ちっとも前に進まない現実でもあるのです。それは、神さまを愛する私たちにとって、笑うことができないたいへん由々しきことです。心はあっても、御言葉に従い得ない様々な弱さや事情を私達が抱えているということです。たとえれば、ご馳走が目の前にたくさんならんでいて、お腹も空いているのに、お金がないために、食べることが出来ないようなものです。私たちは、神さまの愛と祝福がどんなに素晴らしいものかを知っています。罪深き現実の中で、神さまの愛と祝福に飢え渇いています。しかし、神さまのお言葉を守れないために、それを自分のものにすることができないのです。

 
 
わたしたちの願い
そういう現実はあるとしても、やはり私たちの願いは神さまとともにあることである違いありません。今日は詩編84編を合わせて読ませていただきました。これは神殿に詣でた人が、「ああ、いつまでもずっとここで住んでいられたらいいのになあ」と、その喜びと、しかしそこを離れまた厳しい世の生活に戻らなければならない現実との狭間で詠んだ歌です。

 万軍の主よ、あなたのいますところは
 どれほど愛されていることでしょう。
 主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。
 命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。
 あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り
 つばめは巣をかけて、雛を置いています。
 万軍の主、わたしの王、わたしの神よ。
 いかに幸いなことでしょう
 あなたの家に住むことができるなら
 まして、あなたを賛美することができるなら。


 イスラエルは、四国ぐらいの広さです。生活に追われている貧しい人などは、滅多にエルサレム神殿に詣でることなどできるものではなかっただろうと思います。一年に一度、エルサレムにいければ良い方で、数年に一度であったかもしれません。11節にはこうあります。

 あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。

 《千日》は、もちろん比喩でありましょうが、計算すれば約三年です。もしかしたら、三年に一度ぐらいしか宮詣がゆるされない現実の中に生きている人が詠んだ詩篇なのかもしれません。一生に一度の宮詣という人もあったかもしれません。いずれにせよ、それだけに神殿を詣でた感激も大きかったでありましょう。そして、そこを離れがたい切ないほどの気持ちが起こってくるのです。

 主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。
 命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。3節


 祭壇に巣をかけているツバメすらうらやましく見えてくる。家に帰るより、神殿の門にずっと立っていた方がましだと思えてくる。しかし、この人は世の現実に戻っていかねばならないのです。

 この宮詣の話と、先ほどの肉の弱さのゆえに御言葉に従えない、信仰が進まないという話はまったく別の話のようですが、あるところで繋がっているのです。どちらも、本当に神さまのいらっしゃるところに自分も居たいのです。しかし、それを許さぬ事情がある。そこが共通しているのです。いつまでも神さまのもとに留まりたいという願いはあるけれども、自分の体や心の弱さ、この世の現実というものに身を置いている者としては、どうしてもそちらに引きずられてしまう。それは人間の避けられない現実です。

彼らは我が契約に留まらず
『ヘブライ人への手紙』8章8〜12節に記されていることも、実はそういうことが背景にあるのです。これは、『エレミヤ書』31章からの引用です。エレミヤは、アナトトという町の、祭司の子として育ちました。そして若き日に、神さまに預言者として召し出されたことが、『エレミヤ書』1章に記されています。それは、南王国ユダを、ヨシヤ王が治めてきた時のことでありました。ヨシヤ王というのは、8歳で王様になり、31年間国を治めたとあります。後にも先にも、彼のように力を尽くして神さまに立ち帰った王様はいなかった、と言われる立派な王様でした。

 ヨシヤ王は、荒れ果てたままにされている神殿の修理を命じます。こうして神殿の修理が始まると、古い文書が発見されます。それは、人々に忘れ去られていた、律法の書でありました。今日、『申命記』の元になった書だと言われています。ヨシヤ王は、この書を読んで、自分たちがいかに神さまをないがしろに生活してきたかということに気づき、愕然としました。今、国はバビロン帝国の勢力に脅かされて、滅亡の危機にある。それは、自分たちが神さまの御言葉を少しも守ってこなかったからだと悟り、発見した律法書に基づいて、徹底した宗教改革を行うのです。神殿にまで祭られていた偶像やその祭壇をすべて取り除き、また偶像礼拝に仕えていた者たちを追い出し、そして長らく行われていなかった過越の祭りを国を挙げて行ったのでありました。

 エレミヤが預言者になったのは、このような時代でした。エレミヤは、喜んでヨシヤ王の改革に協力したに違いありません。しかし、ヨシヤ王が死んでしまうと、次の王様は、また偶像礼拝を復活させてしまいます。そのために主の怒りがイスラエルに臨み、10年ほどでバビロン帝国によって亡ぼされてしまうのです。

 そのような時に、エレミヤ書31章の神の言葉がエレミヤに与えられました。『ヘブライ人への手紙』8章が引用しているのは、その一部でありますが、エレミヤ書31章の一番大切な部分が、ここにあると言ってもいいでありましょう。その中心は、神さまが人間と結んでくださる「新しい契約」です。その内容は本当に素晴らしいもので、エレミヤ、神さまに新しい契約の幻を示されているときは、楽しい夢を見ているようであった、と記しています。廃墟と化した絶望の都エルサレムにあって、嘆きの預言者とよばれたエレミヤでありますが、この新しい契約を示されたときは、子どものように胸が躍ったのであります。

 この新しい契約の話をするまえに、古い契約のことを話しておかなければなりません。『ヘブライ人への手紙』8章7節にこう記されていました。

もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。

 《最初の契約》、つまり古い契約には欠けたところがあった。この契約は、ひと言で言えば、私たちが神さまの御言葉を守って生きるならば、神さまは、私たちの神として私達を愛しお守り下さるという約束です。しかし、あの詩編詩人が祭壇に巣をつくる鳥さえうらやましいと言った神殿も壊され、城壁も壊され、家々には火を放たれ、神の都といわれたエルサレムはまったくの廃墟となってしまいます。アブラハムの選びから始まり、モーセを通して律法や幕屋を与えられ、ヨシュアによってカナンに国を建て、ダビデによって力を増し、エルサレムが首都にさだめられ、ソロモンによって繁栄し、神殿が建てられ、このように神の民として歩んできたイスラエルの歴史が、ここでまったく途絶え、失われようとしている。なぜでありましょうか。9節をごらんください。《彼らはわたしの契約に忠実でなかった》と記されています。文語訳では《彼らは我が契約にとどまらず》であります。

 《最初の契約》、つまり古い契約の欠点とは、人間が神さまの御言葉を守り続けることができなかったということにあったのだというのです。ヨシュア王のように、力を尽くして神さまにもとに立ち帰ろうとする時もありました。しかし、結局はそこに《留まることができなかった》というのであります。聖書を読もうとしても、睡魔に襲われて読むことができなくなってしまう。これも同じ事です。いつまでも神殿に留まりたいと思っても、生活のことを考えたらそうもいかないという詩編の詩人にしても同じ事であります。

 《彼らは我が契約にとどまらず》、これが古い契約の、欠点であると言われるのは、たまたま信仰の弱い人の場合はそうであるというのではなく、すべての人においてこれが当てはまってしまうからなのです。どんな人も、アブラハムであろうが、モーセであろうが、ダビデであろうが、どんなに信仰的に立派だと思われる人であっても、ずっと離れずに神さまの御言葉のうちに留まり続けることはできなかったのでありました。

 その原因は、私たちの罪にあります。私たちは、たとえ神さまへの愛と信仰に溢れておりましても、なお罪人なのです。神さまのもとに留まり続けることができない、霊的な貧しさをもっているのです。それを悲しむのは、神さまはもちろんのことですが、自分自身が一番切なくなく思っていることだとも言えるのではありませんでしょうか。そういう切なさが表れているのが、あの宮詣の詩編なのです。これを読みますと、どんなにこの詩人が神さまとともにあることを慕い求めているかがよく分かります。しかし、そこに留まり続けることができない現実に生きているのです。それは直接的な詩人の罪ではないかもしれませんが、そのような神さまとともに生きることができないような罪深き世の中に身を置いて生きているということなのです。

 先週もお話ししましたが、ゲツセマネの園で眠りこけてしまった弟子たちもそうです。イエス様の苦しみの場に、共にいてくれと頼まれるということは、イエス様と本当に親密な交わりの中に招かれたということを意味していました。弟子たちはそのことを喜び、是非ともイエス様と共に目を覚まして祈っていたと思ったでありましょう。しかし、それができなかったのです。これについては三浦綾子さんが語っている言葉があります。

 私は十三年にわたる長い療養生活を経験している。その間、九度も入院し、さまざまな病人と、その病人を取り巻くさまざまな人々を見てきた。そして肝に銘じたのは、人間の死は、所詮、死にゆく人間ひとりの一大事でしかないということであった。
 むろん、ただひとりの子が死のうとしている時、あるいは唯一の頼りにしている夫が死のうとしている時、周囲の人も共に必至な思いになる。が、それに限度がある。死線をさまよう日が長くなれば、死んでいく人の悲しみや苦しみよりも、自分の看病の疲れや、経済的な不安のほうが大きく感じられてくる。すべての人がそうではないにせよ、大半の人が非情の片鱗をちらちらと見せるようになる。・・・
 イエスは岩にひざまずいて祈っている・・・右手に遠く近づきつつある一隊は、イエスを捕らえて殺すとする輩である。キリストの一大事であるこの時に、三人の高弟たちは、正体もなく眠り込んでいる。イエスが血の汗を滴らせて祈っているというのに、彼らは共に祈る体力もない。これは、私たち人間の非情さを思わせる姿である。しかし、イエスは言われた。「げに心は熱すれども、肉体は弱し」と。
 私たち肉体を持つ者は、人間の限界の中に生きている。いかに心に思っていても、肉体が疲労困憊すれば、心について行くことはできない。「げに心は熱すれども、肉体は弱し」と言われたイエスの言葉が、私の胸にあたたかく呼びかけるのを、今日まで私は幾度か経験してきた。なんと、深い人間洞察の言葉であろうか。


 三浦綾子さんは、イエス様の一大事にも眠りこけてしまう弟子たちの姿に、人間の非情さを見て取ります。非情さというのは、人間としての思いやりのなさです。しかし、こういう非情さは誰にでもある。それは彼らの個人的な弱さといよりも、人間ならば誰でももっている弱さ、肉としての人間の限界ではないかと、弟子たちの失敗に理解を示し、同情しているのです。

 しかし、私は三浦綾子さんが「非情さ」という穏やかならぬ言葉を使っているところに、もう一歩踏み込んだ考察というものが隠されていると思うのです。三浦さんは、どんな愛し合っている家族であっても、病人の苦しみや悩みをとことん分かち合うということは難しいもので、気持ちがあっても身が持たないのだと言われます。それはそうだと思います。しかし、それを非情さと言ってしまったら身も蓋もありません。非情さというのは、人間らしい感情を持っていない、冷血さのことです。家族の看護を一生懸命にやってきて、とうとう疲れてしまった人間を、非情というのにあまりにも酷のような気がするのです。

 けれども、そこを敢えて三浦さんはこの「非情さ」という言葉を使っていると思うのです。それは、そこに人間の中に根深く存在する罪というものを見るからではないでしょうか。愛する者と共にありたい。神さまとともにありたい。その気持ちがどんなに強くても、それだけではどうすることもできない自分の現実を抱えている。それが人間の罪だという認識であります。

 「彼らは我が契約にとどまらず」ということも、そのような人間の罪を語っているのです。真面目であっても、一生懸命であっても、精一杯していても、私たちのうちには常にそれに逆らうような力や、足を引っぱるような弱さがある。抗いがたい罪がある。それが《最初の契約》の欠けたるところなのです。

 しかし、神さまはそのような神さまとの約束をどうしても守りきれない私達に対して、第二の契約を用意してくださった。その新しい契約の担い手が、イエス様です。8章6節を見てみましょう。

しかし、今、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます。更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約の仲介者になられたからです。

 イエス様は、「彼らは我が契約にとどまらず」という私たちの現実を越えて、私たちを神さまと共に生きる者としてくださるのです。そういう新しい契約の中によって、私たちを神さまと固く結びつけてくださる大祭司なのです。
 新しい契約の内容については、次回、改めてお話しさせていただきたいと思います。今日は、私達の罪の現実が本当に儘ならぬものであり、私達の熱心や努力ではどうにもならないものであるということ、しかし、それを越えて神さまとともに生きる道がイエス様によって開かれているのだということを覚えて、私たちの救いはただイエス様にのみあるのだということを、感謝をもって確認させられたいと願うのです。
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聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
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Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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