ヘブライ人への手紙 21
「我は必ず汝を恵み恵まん、殖やし殖やさん」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙6章13〜20節
旧約聖書 イザヤ40章27-31節
絶望を知るクリスチャン
 クリスチャンとは、絶望を知っている人たちだと言ってもいいかもしれません。先日、福祉施設「からしだねの家」の後援会で、会報の「伸木便り」が出され、その巻頭に小さな文章を書かせていただきました。「からしだねの家」という名称から想像がつきますように、志をもった二人のクリスチャンの方が、福祉の理想を求めて立ち上げた施設です。荒川教会の方々も含め、たくさんのクリスチャンの方々が、応援してくださっています。しかし、キリスト教主義を全面に打ち上げているわけではありませんので、キリスト教とまったく関係ない方々も多いのです。そういうこともありまして、できるだけそういうキリスト教色を出さないで、しかもクリスチャンとしての文章を書くということが、私には求められます。

 これが、たいへん難しいのです。たとえば、「私のように取るに足らぬ無きに等しい者が後援会長などさせていただいて」という文章を書きましたら、「国府田さん、そこまで自己卑下する必要はないでしょう」と言われて書き直されてしまいました。「たとえどんなに小さな献げ物でも」ということを書いたら、「国府田さん、『小さくてもいい』なんて書いたら、お金が集まらないんじゃないか」と言われてしまいました。三年経ってもなかなか後援会の輪を広げられなかった反省を書いておりましたら、「国府田さん、これじゃあみんなが不安になるから、もっとみんなを励ます文章にしてほしい」と言われてしまった。なるほどなあ、と思いながら、しかし嘘や法螺はふけませんから、なんとか後援会の皆さんに一生懸命になってもらえるような文章にと苦心したわけですが、成功しているかどうかわかりません。

 なぜ、クリスチャンではない人たちに分かってもらう文章を書くのが難しいのか。それは、「神様の恵み」を、ストレートに語れないからです。神の恵みに対する信仰、祈り、これについて語れないと、私には何も語ることがなくなってしまう。せいぜい「取る足らぬ無きに等しい者」とか、「小さな献げ物」とか、「先行きの見えない将来」とか、そんなことしか語ることがないのです。「それにも関わらず、私たちを支え、守り、導き給う神様の恵みがある、だからみんなでがんばりましょう」と書きたいのですが、そのまま書けないから、「石の上にも三年」なんていうぼかした言い方になってしまいます。これでは、肝心な部分がボケてしまって、自分は何もできなかったということだけははっきり言っているわけですから、全体としてなんだかやる気のない、希望のない文章になってしまうのです。

 そういうささやかな苦労をしながら、私は、「クリスチャンは、世の中で最も絶望した人たちである」ということを、つくづくと考えさせられました。世の人たちは、「自信を持て」といいます。クリスチャンは、「自分を信じることなどできない」といいます。世の人たちは、「一生懸命に頑張ればなんとかなる」といいます。クリスチャンは、「人間的な努力や熱心などでは、けっして成し遂げられないことがいっぱいある」といいます。世の人たちは、「これは私がしたことです」と自分の功績や成功を誇りにします。クリスチャンは、「神様の恵みです」といいます。世の人たちは、「お金があれば、なんとかなる」といいます。クリスチャンは、「どんなにお金があっても、安心できない」といいます。世の人たちは、自分の愛、善意、正義を語ります。しかし、クリスチャンは神様の愛、善意、正義を語ります。そして、自分については、罪しか語れません。

 先日、電車に乗っていて、こんな光景を目にしました。若い女の子が、電車の扉が閉まる時に、わざと雑誌のようなものを挟んで、いたずらをしているのです。電車は扉がちゃんと閉まらないと発車しない。それをおもしろがっていたのでしょうか。迷惑なことです。ある男性が。大きな声で注意し始めた。「お前たちだけの電車じゃないんだぞ」と叱りつけている。女の子たちは、見も知らぬ男性に叱責されてびっくりし、怯えていました。私は男性が暴力でもふるうようなら止めに入らなきゃいけないと思いながらも、少しはお灸をすえられた方が、女の子たちの身のためだと思って、静観しておりました。ところが、男性の言葉はだんだん過激になっていきます。「お前たちなんか、日本からいなくなればいいだ」とまで言い出しました。なんでそんなことまで言えるのか? おそらくこの男性は、日頃からよほど若者たちの傍若無人ぶりを、腹に据えかねていたのでありましょう。しかし、この人の生活にも、ひとさまに顔向けできないようなことが、幾つかはあると思います。そういうことを棚にあげて、よくそこまでいうなあと思ってしまいました。

 だいだい世の中の人たちは、そんなもんなのかもしれません。自分の罪を棚にあげていられるということは、自分はそんなに悪いことをしていない、ほどほどの善人であると思っている。クリスチャンには、それがなかなかできないのです。いつも自分の罪を見つめてしまう。他人の罪を見ても、自分も同じ罪人なんだよなあと思ってしまう。いや、むしろ自分の方が、もっとたちの悪い人間ではないかとさえ思ってしまう。クリスチャンは、自分にも、世の中にも、深い絶望をおぼえている人たちなのです。

神の恵みという希望
 しかし他方で、どんな深い絶望の中にも、必ず神の恵みという希望を見いだしているのが、私たちクリスチャンでもあります。

 今も申しましたように、自分を信じろと言われても、自分を信じられない。しかし、自分が信じられなくても、自分を支えてくださる神様の恵みを信じて、希望を持つことができる。それがクリスチャンなのです。努力や熱心で何でも成し遂げられるという楽観は持ち合わせていません。しかし、どんなに挫折をして、失敗をしても、なおそこに神様の恵みという希望があります。それがクリスチャンです。

 世の人たちは、一見、自信に満ちあふれ、希望に溢れているように見えますが、いったんそれを失うとたいへん弱いのです。たとえば破産する、過ちをおかす、病気になる・・・信じていたものを失うことは、いくらでも起こり得ます。そうなるともう何も希望がありませんから、もうダメだ、死にたい、何の望みもないということになってしまうのです。ところが、神の恵みに望みを置く私たちは、絶望から出発しています。その絶望の中に、なお存在する神の恵みという希望を見いだしているのです。ですから、どんなに絶望しても、もうダメだ、お終いだとは言いません。そのような絶望の中から、神の恵みを求め、祈り、信じ、期待し、そこに希望を置いて生きるのです。
神の約束と誓い
 『ヘブライ人への手紙』6章18節にこう書いてあります。

それは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたちが、二つの不変の事柄によって力強く励まされるためです。この事柄に関して、神が偽ることはありえません。

 《希望を持ち続けようとして世を逃れてきたわたしたち》とあります。《世を逃れてきた》とは、もうここには望みがないと、世に対して深く絶望したということです。しかし、その絶望のどん底で、神様に希望を見いだしたのです。

 その時、神様は、私たちの希望を、《二つの不変の事柄によって》、力強く励ましてくださった、と語られています。《二つの不変の事柄》とは、神の約束と誓いです。二つといいますが、何か別々のことがあるわけではありません。約束だけでも、それは神様の約束でありますから確かなもの、不変のものなのです。しかし、私たちを更に励ますために誓いによって、それをいっそう確かなものにしてくださった。ですから、《二つの》というより「二重の」と言ったほうがいいのかもしれません。17節にこう記されています。

神は約束されたものを受け継ぐ人々に、御自分の計画が変わらないものであることを、いっそうはっきり示したいと考え、それを誓いによって保証なさったのです。

 変わることのない約束を、これは絶対にはかわることがないものだよと、わざわざ誓いによって保証してくださったというのです。それは、信じることに弱き私たちを激励し、必ず神様の約束を受け取る者とならせるための、神様の愛なのです。

 いった神様は誰に何を約束し、誓ってくださったのでありましょうか。そのことが13-15節に書かれているのです。

神は、アブラハムに約束をする際に、御自身より偉大な者にかけて誓えなかったので、御自身にかけて誓い、「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす」と言われました。こうして、アブラハムは根気よく待って、約束のものを得たのです。

 《わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす》、文語訳で申しますと、「われ必ず汝を恵み恵まん、殖やし殖やさん」と、神様はアブラハムに約束してくださった。ただ約束してくださったのではなく、御自身に誓ってその約束の真実であることを保証してくださったのであります。

 ここで、アブラハムの人生についてお話しできれば一番いいのですが、そこまでの時間がありません。『ヘブライ人への手紙』が、ここで私たちに言いたいのは、今から4000年も前に、アブラハムに与えられた神の約束と誓い、「われ必ず汝を恵み恵まん、殖やし殖やさん」との祝福の御言葉は、今も私たちに語り続けられているのだ、ということです。それどころか、イエス・キリストを通して、この祝福の御言葉はますます力強く、私たちに語りかけているのです。

 最初にも申しましたように、クリスチャンは、この世に絶望した人間です。ひとりひとりがさまざまな人生経験を通して、たとえ学問を積んでも、財産があっても、健康でいられても、人生の空しさから逃れることができない、と知りました。しかし、同時に、そのようなこの世の暗闇の中に届く、一筋の光を見たのです。それはこの世のものではなく、天の神様のもとから、人間を照らす真の光として来てくださったイエス・キリストです。

 イエス様は、神様がアブラハムの人生に語られたように、私たちの人生にも「われは必ず汝を恵み恵まん、殖やし殖さん」との神様の約束を、誓いを、語りかけてくださいました。アブラハムの場合、不妊の妻サラが年老いて月のものもなくなり、まったく子を産む能力がないにもかかわらず、神様の御業によって子が与えられたという奇跡をもって、神様がいかに無から有を生み出すお方であるか、絶望をも希望に変え給うお方であるかということが示されました。これも本当に大きな希望でありますが、イエス様は、私たちにそれ以上のことを示してくださいました。罪深い私たちの罪を清めて神の子にしてくださり、死ぬべき滅ぶべき私たちに復活の新しい命をあたえてくださったのです。そして、肉なる者としての絶望、罪人としての絶望に沈む私たちに、「我は必ず汝を恵み恵まん、殖やし殖やさん」との神の祝福の言葉を与えてくださったのです。

恵み恵まん、殖やし殖やさん

ところで、「恵み恵まん、殖やし殖やさん」と私が読んでおります御言葉は、新共同訳では《わたしは必ずあなたの祝福し、あなたの子孫を大いに増やす》とあります。しかし、ギリシャ語原典では、文語訳のように動詞を重ねて「恵み恵まん、殖やし殖やさん」となっているのです。わたしは、敢えて「恵み、恵まん。殖やし、殖やさん」との訳をもって、皆さんにお話しをしております。二重、三重にも神さまの恵みは私たちを包んでいてくださる。そのことを、この言葉はよく表しているからです。

 「恵み恵まん」とは、神様の愛で私たちを包み、その破れたところをさらに恵みで包んでくださるということでありましょう。恵みを受けても、その恵みに答えることができないのが、私たちの罪であります。しかし、神様がその罪をも愛で包んで、さらに恵みを加えてくださる。それが「恵み、恵まん」ということです。

 また「殖やし殖やさん」とは、命の祝福であります。私たちの命は生きれば生きるほど、老いと言うこともありますが、それだけではなく、いろいろな苦しみや悲しみを背負って傷つき、疲れ果て、枯れていきます。しかし、そのように消耗していく命を、豊かな命の源としてくださる。苦しみや悲しみも、また肉の死をも、新しい命、豊かな命の源としてくださる。一粒の麦が死んで多くの種を結ぶように、私たちの命もまたそのような豊かさを持つものとされるというのであります。それが「殖やし、殖やさん」との祝福であります。

 『わが涙よ、わが歌となれ』という闘病日記を読んだことがあります。原崎百子さんという牧師夫人をしておられた方が肺ガンになり、43歳の若さで亡くなられました。とても感銘深い闘病記なのですが、子どもたちに宛てて書いた手紙の一部をご紹介したいと思います。

 去年の五月からお母さんが度々熱を出すものですから、きっぱりお父さんに実は言われたのです。教会学校と文庫をやめるか、アルバイトをやめるか、どちらもやめないならお手伝いさんを頼む、この三つのうちからどれかを選ぶようにと。ああ、時間をあの時点まで戻すことが出来たなら! あの時、今日のことが予測出来てたら! その少し前、二月末にお母さんは人間ドックにはいりましたね。あの折、あまり丈夫な心臓ではない、正確には「非常に丈夫な心臓とは言えない」と言われたほかは、内臓が全体に下がり気味といわれただけで、かえって目下申し分のない健康状態と折り紙をつけられました。何しろ体力測定は「A」、二十代の若さと出たのですもの。今にして思うと、あれが、去年いくら熱を出しても腎盂炎にのみ限定して何となく油断してしまった理由でした。おまけに十月、あまり熱を出すからうつした腎臓のレントゲン。あれがまた「心配いらない、気にせずにもっと太れ」という結論だったのです。もしも、もしもあの時、胸のレントゲンを一枚でも撮っていたら! クリスマスの準備のころ、肋骨の一箇所が押すと痛かった。あの時さっそく平田外科へ行っていたら! 一月十八日に風邪をひいたとき、肋骨の辺に鈍痛を覚えたのに、その後咳が続いたときもついにレントゲンというものを撮らなかった。人間的に言えば、どれもこれも失敗です。子どもに対する最低限の責任さえ果たし切れないこの私の無責任を、私はやはりあなたたちに申し訳なく、すまなく思います。
 ごめんなさいね。どうかゆるしてください。(中略)
しかし、一方で、神さまのゆるしがなければ小鳥一羽も地に落ちることがない、というのはどういうことなのかー
 お母さんのこの病気がすでに手遅れになっていることについては、それは一方で人間的失敗の積み重ねにちがいないのだけれど、その意味でお母さんはあなたがたに申し訳ないだけではなく神さまに対して本当に怠慢であったとお詫びするほかないのだけれど、しかしそのことをも、もっと大きく大きく包み込んでいる神さまのみ手の中でこのことが起こっていることを思うと、お母さんは赦しを乞いつつ、しかしただの後悔といったものでなく、御旨をかしこみ畏れて、それに黙って従うことしか出来ません。それだけが今お母さんのなすべき真に積極的な行為でしょう。そして、信じ従う中で、お母さんは子どもたちに、長生きするよりももっといい、もっと別のものを与え得ると今確信しています。

 私がこの手紙で深い感銘を覚えますのは、あの時こうしておけばよかった、ああしておけばよかったと、たくさん後悔しながら、そしてそれを自分の失敗、怠慢、罪深さとまで思いながら、それにかかわらずそれを大きな大きな愛で包んでくださる神さまの恵みというものを信じておられる、その信仰です。そして、まだ子育てが終わらない四人のお子さんを残して、世を去っていくことを無念に思いつつも、なお最後まで神さまに従い続けるならば、私が長生きするよりももっと素晴らしいものを子どもたちに与えることができる、神さまは私の命をそのように最後まで尊いものとしてくださるという信頼です。まさに「われは必ず汝を恵み、恵まん。殖やし、殖やさん」との神さまの祝福を信じての言葉だと思うのです。

 このように破れても破れても、神さまの恵みは私たちを包んでくださる。その命を豊かなものと、祝福の源としてくださる。そのような神の恵みに、私たちは希望を持つのです。破れないという希望ではありません。倒れないという希望ではありません。破れても、倒れても、神さまは私に恵みを加えてくださる。命の豊かさを与えてくださる。そういう希望です。19節、

わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。

 絶望の中で、なお持つことができる希望でありますから、これほど安定した希望はありません。この希望は絶望から始まるわけですから、絶望がないのです。

《至聖所の垂れ幕の内側に入って行く》ということ、そして次の20節に記されています《先駆者として》のイエス様、あるいは《メルキゼデクと同じような大祭司》、これらのことについて今日はお話しできません。次回以降に、ご一緒に学んでいくことにしたいと思います。一つだけで申し上げれば、私たちにこのような確かな希望を与えてくださったのは、イエス様であるということなのです。イエス様に望みを置くならば、私たちはこの世でどんな絶望を経験していようとも、この世でもっとも希望ある者にされるのです。
 
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