ヘブライ人への手紙 17
「我等には大祭司、神の子イエスあり」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙 第4章14-16節
旧約聖書 イザヤ書 第42章1-4節
神の言葉なるイエス・キリスト
 『ヘブライ人への手紙』は、「神、御子によって語り給へり」というたいへん印象的な言葉で始まっています。そこから4章13節の「神の言葉は生命あり能力あり」というところまでが、『ヘブライ人への手紙』の第一部です。その主題は、「神さまが御子イエス・キリストをとおしてわたしたちに呼びかけておられる。その神さまの声を聞き、それに応答することこそが、救いの第一歩である」ということなのです。

 詳細は忘れましたけど、ある死刑囚が獄中でキリスト教に回心し、本当に罪を悔い改めて誠心誠意の謝罪の気持ちを込めた手紙を、被害者の遺族の方に書き続けたそうです。被害者の遺族は、それらの手紙を受け取っても決して封を切らず、読もうとしませんでした。そういうことが何年も続くのです。しかし、ある時、ふと届いた手紙をあけて読んでみた。その方は、その手紙を読みましても、罪を赦す気には少しもなれませんでしたが、そこに書かれている言葉が自己満足のためのものではなく、真の悔い改めの言葉であることが分かります。そして、この死刑囚に会いたいと思うようになるのです。そこから始まったこの死刑囚との交際は刑が執行されるまで続き、死刑廃止運動にも身を投じたというお話しでありました。この遺族の方は「決して彼をゆるしたわけではない」といいました。しかし、「人でなし」としか考えられなかった死刑囚も、自分と同じひとりの人間であるということが、彼との交際を通して分かったというのです。死刑囚の誠心誠意の手紙は、自分の罪やこの遺族の方の悲しみは消すことはできなかったかもしれません。しかし、自分が与えた遺族の方への深い傷、憎しみや恨みといったやり場のない思いからは救うことができたのです。遺族の方にしましても、失った人生が戻ってきたわけではありませんが、死刑囚の手紙を読むことによって、その悲しみの中にうずくまっていたところから立ち上がることができたわけです。

 わたしたちは、どんな声にでも耳を傾ければ良いということではありません。しかし、わたしたちを愛し、救おうとして呼びかけておられる神さまの声、これに耳を閉ざしたままでよいでありましょうか。《今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない》と、『ヘブライ人への手紙』はこの言葉を三度も繰り返し、神の言葉を聞くことの大切さを訴えてきたのであります。どんなに力ある救いの言葉でありましても、心を開いて聞かなければ何にもならないのです。しかし聞くならば、暗闇から、罪の絶望から抜け出す一歩を歩み始めることができるようになります。神の言葉自身が、わたしたちの中で生きて働き、清め、力づけるからです。それが「神の言葉は生命(いのち)あり能力(ちから)あり」ということなのです。

 もう一つ大事なことがあります。神さまはいろいろな時に、いろいろな方法でわたしたちに語りかけておられます。たとえば自然の美しさや神秘が神さまの偉大さをわたしたちに語りかけてくる。わたしたちの心にある良心が、善悪の教えを語りかけてくる。人生に起こるさまざまな出来事の中に、神さまの御旨を語りかけてくる。身の回りの人たちのアドバイスを通して、神さまの言葉を聞く。そういうことがあります。しかし、わたしたちが聞くべき神さまの言葉の中心はイエス・キリストにあるのです。

 なぜなら、御子なるイエスさまによってしか伝えられない御心を、神さまはイエスさまによって語ってくださったからなのです。イエスさまだけがわたしたちに語ってくださっていることがあるのです。だから、イエスさまに聞かなくてはならない。イエスさまに聞くとは、イエスさまのお話しを聞くということだけを言っているのではありません。イエスさま御自身を生ける神さまの言葉と信じて、受け入れ、わたしたちの心に持つことなのです。

 神さまがイエスさまによって語ってくださったこととは何でありましょうか。それこそが、『ヘブライ人への手紙』の本論でありまして、今日から読み進めていく4章14節から10章にわたって書かれていることなのです。しかし、これまでお読みしてきた第一部、つまり本論に対する序論部分と言ってもよいと思いますが、その中にも幾つかそのことが語られてきました。神さまの御子なるイエスさまが、わたしたちと同じ人間となられ、同じ試練を味わわれ、もったいなくも罪深いわたしたちを兄弟として愛してくださったこと。ついには十字架にかかり、死をもって悪魔を亡ぼし、わたしたちの罪の贖いとなってくださったことであります。神さまは、御子の命をわたしたちに与えてくださったのです。そこにこそわたしたち人間に与えられた神さまの最も深い御心があるということなのです。これを聞かずしてどうしていいだろうかというのが、ここまでの『ヘブライ人への手紙』がわたしたちに伝えてきたことなのです。
大祭司イエス・キリスト
 そして今日のところから、あらためてわたしたちはイエスさまがまたとなき救い主であるということを学ぶことになります。今日お読みしました御言葉は、その第二部の導入部分にあたるのです。14節をもう一度読んでみたいと思います。

 さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。

 ここに第二部の主題が示されています。一つは、わたしたちには大祭司、神の子イエスが与えられていると言うことです。ユダヤの人々は、神さまと自分たちの生活を結びつけるための務めをもった祭司という人たちを大切にしてまいりました。その祭司たちの長が、大祭司であります。

 みなさんは自分と神さまを結びつけるものは何だとお思いでしょうか。神さまの愛でありましょうか。あるいはわたしたちの信仰でありましょうか。愛にしろ、信仰にしろ目に見えるものではありません。たとえば、神さまがわたしたちを愛して下さっているということは、どのように分かるのでしょうか? 人生というのは良いことばかりあるわけではありません。わたしはもう神さまに見捨てられたのではないかしらん? と疑い、信じられなくなることだって起こるかもしれないのです。あるいは自分には神さまに愛される資格がなくなったと思い込んでしまう時もあるかもしれません。信仰も同じです。自分が信じられるときはいいけれども、信じられなくなったら、神さまとわたしたちの結びつきはなくなってしまうということになるのです。

 ユダヤの人々は、神さまと自分たちの結びつきを、そういう主観的なものに頼ってかんがえませんでした。神さまがお立てになった祭司、特に大祭司が、神さまとわたしたちを結びつけて下さっていると考えたのです。神さまの愛を信じられなくなるような現実においても、自分がいかなる罪人であっても、大祭司が神さまとわたしたちの間に立って、絆となってくださると考えていたのです。だから、わたしたちは神さまと一緒に生きることができるのだと信じるのです。

 『ヘブライ人への手紙』もそうなのです。神さまの愛を感じるとか、わたしたちの信じる気持ちがすごく強いとか、そういう主観的なことではなくて、イエスさまがいらっしゃるということ、それが神さまとわたしたちの絆の確かさなのだというわけです。悲しいことや辛いことばかりで、神さまの愛が見えなくなることがあるかもしれません。自分なんか神さまに愛されるはずがないと思ってしまう時もあるかもしれません。今まで素直に信じられていたことが、信じられなくなってしまうこともあるかもしれません。そういう時にも、《わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられている》ではないか、と語るわけです。

もろもろの天を通過された
 《もろもろの天》とあります。わたしたちが住んでいる人間界が「地」であるとするならば、それとは違った次元にあるのが「天」であります。「天」という一つの言葉で、神さまがおられるところを指す場合もありますが、《もろもろの天》というのはちょっと違います。神さまの住む天上界と人間界の間に、わたしたちを脅かすさまざまな霊たちが住む世界がある。つまり悪霊たちの住む世界です。神さまの世界でもない、人間の世界でもない、そういうところに住む霊たちがいるのです。そういうところを、イエスさまは通過されて、わたしたちの世界にまで降りてきてくださったということが言われているのです。

 このように申しますと、神さまの世界と人間の世界の間に幾重にも世界があって、そういうところを一段一段通り抜けてわたしたちの人間界に辿り着いてくださったということをイメージするかと思います。しかし、そうではないのです。15節にこう記されています。

 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。

 イエスさまはあらゆる点において、わたしたちと同じ試みに遭われたと言われています。あるいは2章10節にもこういうことが書かれていました。

 多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。

 《救いの創始者》とはイエスさまのことでありますが、イエスさまが数々の苦しみを通して、完全な救い主にならなれたのだというのです。では、最初は不完全であったのか? わたしたちがしばしば色々な試練を通して強くされるように、イエスさまもそうだったのか? 違うのです。イエスさまは神さまと本質を同じくする神の御子でありました。そのようなお方がわたしたちと同じ人間となり、わたしたちの兄弟となるためには、多くのものを脱ぎ捨てなければなりません。ある意味で弱く小さくならなければなりません。そのためのような道を経て、イエスさまは神さまの御子でありながら、わたしたちが友と呼べるような救い主、わたしたちの側に立つ大祭司になってくださったのだということなのです。

 ラーゲル・レーヴというスエーデンの女流作家が書いた「ともしび」というお話しがあります。日本で「ニルスのふしぎなたび」という子供向けのお話しが、NHKでアニメ化され有名です。また女性としてははじめてノーベル文学賞を取った方でもあります。

 イタリアのフィレンツェにラニエロという腕自慢の荒くれ男が住んでいました。彼は十字軍に参加し、そこでエルサレム奪還の一番の手柄を立てることに成功しました。その武勲が認められ、エルサレムの聖墳墓教会のイエスさまのお墓の前に灯されているともしびをわけてもらうことになったのです。ラニエロはそれを大変な名誉だと思います。そして、蝋燭にともした聖なるともしびを自分の国の教会の聖母マリアの前に献納することにしたのです。

 こうしてラニエロはエルサレムからフィレンツェまでともしびを運ぶ旅に出ました。ところが、これが最初思ったよりも実にたいへんな試練の多い旅となったのでありました。馬が走ると風で火が消えてしまいます。ですから、そろりそろりと行かねばなりませんでした。それでも火がゆれるので、彼は考え、馬に後ろ向きに乗って火を守りました。夜になると虫がとんできて蝋燭の火を消そうとします。ラニエロはうかうか眠ることもできず、火の番をしなければなりませんでした。盗賊に襲われることもありました。ラニエロの怪力をもってすれば盗賊が束になってかかってもわけがないことでしたが、そのためには蝋燭の火を投げ出さなければなりません。そこでラニエロは盗賊の欲しいままに金品や衣服を与え、蝋燭の火を守ったのでした。

 ボロボロのマントひとつで、馬に後ろ向きに乗り、蝋燭の火を大切に守り、そろりそろりとラニエロは道を行きました。町に入ると、人々はラニエロを見て「きちがいだ、きちがいだ」と囃し立てます。プライドを傷つけられたラニエロはとうとう堪忍の緒が切れて拳を振り上げますが、その拍子に蝋燭を落とし、火が消えてしまいました。しかし、幸い草むらに火がうつり、ラニエロはそれを再び蝋燭に移して火を失う危機を免れたのでした。

 十字軍に恨みのある農民に襲われた時もあります。しかし、ラニエロはマントについた火を消すことも後回しにして、蝋燭の火を守りました。ラニエロはこういう旅をしながら、小さくか弱い蝋燭の火を守るためには、争う力ではなく静かさや慎重さや優しさが必要なことを悟るようになります。

 またラニエロは自分の力だけで蝋燭の火を守ることができたのではありませんでした。予備の蝋燭がなくなったとき、それを分けてももらったり、寝ている間に雨がふったとき小鳥がそれをまもっていてくれたり、いろいろな奇跡も経験します。こうして、ラニエロがようやくフィレンツェまで蝋燭の火を運んだときには、ラニエロは優しく、忍耐強く、思慮深いまったくの別人に変わっていたという話です。

 イエスさまはラニエロのように乱暴者であったわけではありません。しかし、聖なる神の御子であるイエスさまが、罪深く弱く小さき者と友となるまで身を低くされるには、多くの試練を経て御自分を小さくか弱い者にされることが必要だったのであります。それが《もろもろの天を通過された》という意味でありましょうし、《あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた》ということも意味でもありましょうし、《数々の苦しみを通して完全な者とされた》という意味なのです。

大胆に恵みの御座に

 イエスさまは、そのようにわたしたちの大祭司となってくださいました。神の知恵、力、聖さをもってではなく、わたしたちの愚かさ、弱さ、罪深さに対してまったき同情と憐れみをよせてくださるお方となって、わたしたちと神さまを結びつけてくださるのであります。

 ですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。(4:14b)

 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。(4:16)

 これが、第二部の二番目の主題です。わたしたちと神さまを結びつけてくださる絆である大祭司イエスさまをしっかりと信じること、そしてイエスさまに頼って大胆に神さまに近づく者となるということです。

 あまり認めたくないことではありますが、わたしたちの信仰はしばしば失われます。洗礼を受け、喜びに溢れた信仰を言い表しても、信仰生活が失われてしまう人がいるのです。七五三という子供の成長を祝う祭りがあります。かつて子供が健康に育つことが難しい時代、三歳になった、五歳になった、七歳になったとお祝いをしたのです。荒川教会でも子供たちの七五三のお祝いをするのですが、ある牧師さんは、わたしたちの教会では洗礼を受けた人の七五三をお祝いする。洗礼を受けて三年、五年、七年をお祝いするのだとおっしゃっておられました。それぐらい洗礼を受けてから信仰生活を続けるということは難しいことなのでありましょう。

 どうして信仰生活が失われてしまうのでしょうか。いろいろな理由があると思います。しかし、ひとつ言えるのは、「信仰が足りなかった」というだけでは済まされないということです。わたしたちの弱さもありますが、それをつけ込んで働く力があるのです。わたしたちを信仰から引き離そうとするサタンの力だと言ってもよいと思います。

 サタンは「誘惑者」、「告発者」とも言われます。誘惑というのは「こっちの水は甘いぞ」ということですね。神さまなんか信じていてもいいことはない。こうした方がもっとよいということをわたしたちの心にささやきかけてくるわけです。ある方とお話しをしていたら、その方も以前に中学ぐらいまで教会に通っていたということが分かりました。「どうして行かなくなったのですか」と聞きますと、あっけらかんと「もっと楽しいことができて、教会に行く暇がなくなったものですから」と言われてしまいました。それは部活であったり、友だちとの遊びの時間であったり、趣味の時間ということでありました。信仰生活をしておりましても、そういうことができなくなるわけではないのです。しかし、サタンはあたかもそのように誘惑するのです。そして、わたしたちを信仰生活から引き離してしまうのです。

 それから告発というのは、わたしたちの資格を責めてくるわけです。あなたには神さまに祈る資格があるのか? 神さまに愛される資格があるのか? あなたはこんな罪を犯したではないか? あなたは偽善者ではないのか? そう言われて、「いいえ、違います」と答えられる人はまずいません。そして、自分のような人間は神さまにふさわしくないなどと言って、信仰生活から離れてしまうのです。

 このように自分自身の弱さとは別に、それにつけいる働きがあるのです。それは自分を越えた力でありますから、誘惑や告発を感じないということはできません。誰でも感じるのです。しかし、そういう弱さや破れを感じつつも、なおイエスさまの恵み深さにすがりついていくことが、わたしたちの信仰です。何の闇もなく、破れもないところをいくのではないのです。弱き者として、愚かなる者として、不十分なる者として、とても信仰者と呼べないと思いつつ、なおこのような者を憐れみ、招き給うイエスさまがおられる。その恵みにすがりつくのです。

 『ヘブライ人への手紙』は、《大胆に恵みの座に近づこうではありませんか》と言っています。「大胆」というのは、1955年訳の口語訳では「はばかることなく」とあります。「遠慮するな」ということです。実際、わたしたちには遠慮などしている余裕はないのです。イエスさまに憐れんでいただき、救っていただくしかない人間なのです。しかし、神さまは「遠慮するな」と、わたしたちに語りかけてくださっています。そのみ恵みにすがって、「イエスさま、わたしを救ってください」と近づいていくのが、まことに謙遜なる信仰ではありませんでしょうか。悪魔の誘惑や告発など振り切って、イエスさまの恵みの御座に近づく者でありたいと願います。
 
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