ヘブライ人への手紙 13
「今日と称うる間に日々互に相勧めよ」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙第3章7〜19節
旧約聖書 申命記 第11章26〜32節
過去は変わる!
  目が見えず、耳が聞こえず、口も利けない、三重苦に生きたヘレンケラーの話は有名ですが、実は、わたしたちも三重苦を負って生きているのです。「取り越し苦労」、「持ち越し苦労」、「今日の苦労」です。

 「取り越し苦労」というのは、先々に起こるかも知れない苦労を、先取りしてあくせくと悩んでしまうことです。フランスの哲学者モンテーニュは、『エセー』の中で、「私の生涯は、おそろしい災いに満ち満ちたものに思われた。しかし、そのほとんどは実際には起こらなかった」と書いています。モンテーニュも取り越し苦労して悩んだのです。また、「持ち越し苦労」というのは、こういう言葉は本当はないのですが、過ぎてしまったことをいつまでも引きずって、ああすればよかった、こうすればよかったと、いたずらに後悔したり、くよくよと悩んでしまうことをいいます。そのようにまだ起こってもいない苦労を背負い込み、そのうえ悩んでもどうしようもない過去の苦労も引きずり、さらに「今日」という一日の苦労に向かって生きている。それがわたしたちの三重苦です。

 しかし、神さまのみ言葉はわたしたちにこう告げています。

 今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。
                       『詩編』118編24節


 わたしたちが過去にどのような罪を犯していようとも、どのような深い傷を負わされていようとも、どのような後悔をしてようとも《今日こそ主の御業の日》、神さまは、今日、あなたのために御業をなしてくださる。あなたは、今日、神さまの御業を見る、というのです。それならば、過去をくよくよと悔やむ必要はありません。過去に解決できなかった問題があるとしても、後悔することが山ほど在るとしても、今日、そのすべてを神さまの力ある御手にお委ねすればよいのです。

 そうすると、過去は変わります。過去の事実は変わりませんが、意味が違ってくるのです。過去はもはやわたしたちの人生を苦しませ、不幸にする諸悪の根源ではなくなります。今日、わたしたちに神さまの素晴らしい栄光を経験させるための過去となるのです。もはや過去にくよくよする必要はなくなるのです。万事を益としたもう神さまの素晴らしい御業によって、すべてがわたしたちの祝福になるからです。

 クリスチャンとして深い信仰を持った詩人の島崎光正さんは、『信徒の友』の中で、読者投稿の詩の講評を書いておられましたから、お名前をご存知の方も多いかも知れません。ご自身が障がい者でもあられましたので社会福祉の活動なども一生懸命になさった方でした。島崎さんの生い立ちはたいへん不幸です。先天性の脊髄の病気で生まれつき両足が不自由でした。生まれて一ヶ月後にお父さんが病気で亡くなりました。お母さんは生まれたばかりの光正さんを信州の父方の実家に預け、自分は長崎の実家に帰ります。しかし、彼女は子供と生き別れたことを悩み、発狂してしまいます。そして、精神病院に二十年入院して、そのまま亡くなったのでした。島崎さんはついに生前のお母さんに一度も会うことができませんでした。

 お父さんお母さんのぬくもり、思い出、血と肉を分け合った兄弟、あたたかい家庭、そして健康な足・・・普通の人が当たり前のように持っているものを、島崎さんは持たずに生まれ、持たない者として生きていかねばなりませんでした。その孤独や心の暗さ、悲しみを、詩に綴りながら青春を過ごします。しかし、島崎さんは行き詰まってしまう。その行き詰まりの中で、キリスト教と出会います。そして、29歳の時に洗礼を受けるのです。イエスさまの愛と救いを知った島崎さんは、祈りと言ってもいいような「わが上には」という詩を綴りました。

 「わが上には」

 神様
 あなたは私から父を奪われました。母を奪われました。
 姉弟もお与えになりません。
 その上、足の自由を奪われました。
 松葉杖をお貸しになり、私はようやく路を歩きます。
 電柱と電柱のあいだが遠く、なかなか早く進めません。
 物を落しても楽に拾えません。
 乳のにおいを知りません。
 母の手を知りません。
 私は何時も雪のつもった野原の中に立っていました。
 鳥の羽も赤い林檎の実も落ちていませんでした。
 私は北をたずねました。
 けれども知らない人は答えました。それは、南であろうと。
 私は南に行きました。
 また別の人が答えました。それは、北であろうと。
 生まれて三十年経ちました。
 私は今、机の上にかさねたノートを開いてみるのです。
 此処には悲しみの詩が綴ってあります。
 神様
 これがあなたのたまものです。
 おそらくこほろぎの鳴く夜ふけ
 母ある者は、布団の裾をたたかれ安らかに眠りについたでしょう。
 妻ある者も抱き合いながら眠っていったでしょう。
 母はふたたび起きて見るでしょう。
 けれども、私は眠らずに覚めて書きました。
 こんなにぎっしり
 落花のように手帳を埋めました。
 足ある者は、遠く旅立つひまに
 私は更に埋めました。
 おお、幾年月・・・・
 私の詩は琴のように鳴りました。
 森のように薫りました、いたみは樹液の匂いを放ちました。
 神様、これがあなたのたまものです。
              『悲しみ多き日にこそ』島崎光正選詩集


 島崎さんは、この詩の中で、今まで自分が苦しみ、悲しみを、その詩を「あなたのたまもの」、つまり神さまの恩寵として感謝して受け取り直したということを書いておられます。そのように受け取り直すことによって、その詩が、つまり島崎さんの暗く哀しくジメジメとした青春が、「琴のように鳴り、森のように薫り、いたみは樹液のように匂いを放ちました」というのです。

 このように過去は変わります。神さまの御手のなかで、どんな暗い過去も、神さまの恵みの輝く過去になるのです。
明日のことを思い煩うな
 では、将来の心配についてはどうでありましょうか。モンテーニュは、いろいろと心配したけれど、実際にはほとんどが取り越し苦労だったということを言っているわけですが、イエスさまは神さまの愛に基づいて、わたしたちにこのように教えてくださっています。

 『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。(中略)あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。(『マタイによる福音書』第6章31-34節)

 明日のことが、将来のことが心配で、今日のことが手に着かないということがあります。しかし、イエスさまは、天の父なる神さまが、わたしたちの必要をすべて知っていてくださるのだから、明日のことを心配せず、《まず、神の国と神の義を求めなさい》と言われました。それは、神さまのまったきご支配の中に生かされることを願うということです。自分の支配する王国に生きるのではなく、自分の義しさを主張するような生き方でもなく、神さまの治め給う王国の中に生き、神さまの義を尊ぶ生き方をするということです。そうすれば、あなたは神さまの民、神さまの子なのだから、神さまがあなたを愛し、守り、あなたを支えてくださるのだということなのです。

 これは、欲しいものを何でも神さまが与えてくださるという意味ではありません。先週もお話ししましたが、わたしたちの願いを取りに行くのではなく、神さまがくださるもののうちにわたしたちの必要が充満しているということなのです。よく知られた『病者の祈り』という詩があります。

 「病者の祈り」

 大事をなそうとして
 力を与えて欲しいと神に求めたのに
 慎み深く従順であるようにと
 弱さを授かった

 より偉大なことができるように
 健康を求めたのに
 より良きことができるようにと
 病弱を与えられた

 幸せになろうとして
 富を求めたのに
 賢明であるようにと
 貧困を授かった

 世の人々の賞賛を得ようとして
 権力を求めたのに
 神の前にひざまずくようにと
 弱さを授かった

 人生を享楽しようと
 あらゆるものを求めたのに
 あらゆることを喜べるように
 生命を授かった

 求めたものは一つとして与えられなかったが
 願いはすべて聞き届けられた
 神の意にそわぬものであるにかかわらず
 心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた
 私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ


 神さまは、わたしたちの考えや方法によってではなく、それよりもはるかに素晴らしい神さまの考えや方法によって、わたしたちを祝福して下さいます。神さまの方法に従えば、病者も健康な人より幸せになれるのです。貧しき人も金持ちよりも幸せになれるのです。悲しみ多き人も、何の苦労も知らない人よりも幸せになれるのです。そのことを信じ、神さまの御業に祈りを込めて生きるならば、わたしたちは明日を思い煩うことはありません。将来に何が起こるかを心配する必要はありません。先週もお話ししましたが、生ける神さまが共にいてくださるならば、何があっても大丈夫なのです。
今日という日のうちに
 わたしたちは取り越し苦労も、持ち越し苦労もいりません。「今日」を大事にしなければなりません。それが神さまのみ言葉の教えるところです。しかし、「今が楽しければそれでいい」というような刹那的な人生が奨められているのではないのです。まったく逆です。神さまは永遠なお方です。神さまの愛と祝福、イエスさまの赦しと恵み、それは昨日も、今日も、明日も、変わることがありません。そういう神さまの永遠の祝福の中に、わたしたちは招かれているのです。もし、この神さまの招きに応じ、すべてを神さまに委ねるならば、わたしたちの罪深い過去は清められ、暗澹たる将来は希望の光に輝き、今という時を感謝と喜びと希望をもって生きることができるようになる。そういう「今日」を、生きるということが大事なのです。

 「神、御子によって我らに語り給へり」、『ヘブライ人への手紙』の冒頭に書かれている言葉です。そして、わたしたちがこの一年の標語に掲げている言葉です。わたしたちはいつもこの神さまのみ言葉に立ち帰る必要があると思います。神さまはわたしたちを愛して下さっている。神さまはその愛の交わりの中に招き入れて、わたしたちを永遠の安息に与らせようとして下さっているのです。その招待状はどこにあるのか。その入り口はどこにあるのか。それはイエスさまにあるのだということなのです。ですから、わたしたちはイエスさまに出会い、イエスさまを信じ、イエスさまをわたしたちの人生の中に生ける方として迎え入れなければなりません。その時に、神さまが与えてくださる永遠の安息の中にある「今日」という日を、わたしたちは生きることができるようになるのです。

 イエスさまを家にお客さまとして迎えたマルタとマリアという姉妹の話があります。二人は共にイエスさまを信じ、慕っておりましたが、イエスさまがいらしたとき、二人のとった行動は対称的でした。マルタは、イエスさまをおもてなしするためにせわしく働きます。他方、マリアはイエスさまのそばに座って、じっとイエスさまの言葉に耳を傾けます。マルタは、そのマリアをみて自分だけが忙しく働いているのは解せない、マリアも自分と一緒に働くべきだと思い始めます。そこで、マルタは、イエスさまに対して文句を言うのです。「イエスさま、あなたはわたしだけが働いているのをみて、何ともお思いになりませんか?」と。

 これはどう考えてもおかしいですね。普通は、マリアに文句を言うはずです。しかし、マルタはイエスさまに文句を言いました。それではっきりするのは、マルタとイエスさまの間には溝ができてしまっていたということです。マルタは、わたしたちが教会の奉仕を一生懸命にするのと同じように、イエスさまのために一生懸命に働いていたのです。でも、やればやるほどイエスさまとの間に溝ができてしまった。最初はイエスさまをお迎えした喜びで、イエスさまの心にぴったりと寄り添っていたはずなのに、いつしか溝ができてしまったのです。どうしてでしょうか?

 イエスさまはマルタに答えます。

「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(『ルカによる福音書』10章41-42節)

 イエスさまは、働くことは必要ないと言っているのではないのです。しかし、《必要》には、すべての人にとって無くてならぬ根源的、絶対的な必要と、大事ではあるけどその次なる《必要》であり、人ぞれぞれに異なる必要というものがあるのです。金持ちであっても、心貧しい人がいます。五体満足であっても、何もできない人がいます。家族があっても、孤独な人がいます。逆に、島崎光正さんのように普通の人が当たり前のように持っているものを持たない人であっても、病者の祈りの著者のように願ったものが何一つ適わなくても、神さまのたまものに感謝して、讃美して、生きることができる人がいるのです。その違いは、根源的な必要を充たしているかどうかにあります。

 イエスさまは、マルタが根源的な必要を求める前に、他の必要を求めていることをご注意なさったのです。たとえば「腹が減っては戦が出来ぬ」と言います。根源的な必要が充たされてなければ、闘うことも、働くこともできないのです。根源的な必要、それは「イエスさまといっしょにいる」ということです。そのことに充たされていなければ、しばらくは頑張れてもすぐに力尽きてしまうのです。

 マルタがそうだったのです。マルタはイエスさまにお会いして喜びました。でも、イエスさまと一緒にいるという喜び、幸せを十分に味わい、充たす前に、その他の必要に目を注いでしまった。ですから、イエスさまがそこにいらっしゃるにもかかわらず、イエスさまとの間に溝ができてしまったのです。しかし、マリアはイエスさまの御前に心ゆくまでひざまずいていた。あれをやらなければならない、これをやらなければならないと思ったかも知れないけれども、まずイエスさまと一緒にいるということをわが第一の必要としていた。それでいいんだとイエスさまは言われたのでした。

 「神、御子によって我らに語り給へり」であります。まずわたしたちはイエスさまの前に座り、そのみ言葉に耳を傾け、神さまの安息の中に招き入れられている幸いを経験しなくてはなりません。イエスさまこそ、神の安息への招待状であり、入り口だからなのです。『ヘブライ人への手紙』3章1節にこう記されていました。

 だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。

 イエスさまは、神さまがわたしたちに使わしてくださった「使者」であり「大祭司」であるお方です。なによりもまず、このお方に出会い、このお方を知り、信じ、受け容れなければ、わたしたちの人生は本物になりません。根源的な必要にぽっかりと穴を空けたままの人生を生きることになるのです。過ちに満ちた過去を引きずり、恐れに満ちた将来を望み、悩みと苦労だけがある今日を生きる人生になるのです。だから、神さまのみ言葉は、約束と警告を込めて、こう語るのです。

 「今日、あなたたちが神の声を聞くなら
  神に反抗したときのように、
  心をかたくなにしてはならない」(3:15) 


 「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。(3:13)

 過ぎ去った日々のこと、まだ来ぬ日々のことをくよくよしても何もできません。しかし、今日、わたしたちにはできることがあります。使徒たり、大祭司たるイエス・キリストの前にひざまずき、わが人生の主として受け容れることです。イエスさまをわが主として受け容れること、それが出来るのは昔ではなく、明日ではなく、今日です。わたしたちが生きているのは、いつだって今日だからです。そうすると、人生が変わります。過去も、未来も変わります。島崎光正さんの言葉を借りれば、琴の調べのように安らかに鳴り始め、森のように薫り始め、樹液の甘い匂いを放ち始めるのです。
励ましあうこと
 最後にもう一つ、今日のみ言葉からわたしたちが学ばなければならないことを申し上げたいと思います。それは、不信仰についてです。わたしたちは、自分の不信仰を言い訳するかのように自分の弱さを嘆きます。しかし、12節にこう記されています。

 兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。

 「信仰のない悪い心」、不信仰は弱き心ではなく、悪しき心だというのです。否、不信仰こそわたしたちがもっとも恥ずべき、悲しむべき、そして悔い改めるべき罪なのです。なぜなら、不信仰とは生ける神を離れてしまうことだからです。イエスさまと共にいるという根源的な必要の充たしが、すべての善き力の源であるように、不信仰はあらゆる罪の根源なのです。

 ですから、13-14節にこう言われています。

 あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。――わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。

「日々、励まし合うことが必要だ」と、神さまのみ言葉はわたしたちに教えてくれています。何を励ますのか? 信仰を励ますのです。最初の確信を最後まで持ち続けることができるように、励まし合うのです。そのために、神の恵みによって、わたしたちはこの荒川教会の兄弟姉妹の絆につなげられたのです。独りでではなく、共に信仰するのです。信仰を守り抜く闘いを、キリストに繋がり続ける闘いを、共にするのです。それが教会です。兄弟姉妹です。互いに愛し合い、慰め合い、励まし合って、信仰の道を歩み続ける教会でありましょう。


 
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
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