ヘブライ人への手紙 10
「イエスを思い見よ」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙3章1-6節
旧約聖書 エレミヤ書31章-6節
1-2章の復習
 『ヘブライ人への手紙』は、ひとりで読んでいても、なかなか難しい書物であるかもしれません。しかし、ところどころに信仰の核心をずばりと言い当てた珠玉の御言葉が出てまいります。とくに文語訳聖書で読みますと、心に響きます。たとえば、

 神・・・御子によりて我らに語り給へり (1:1-2)

 旧新約聖書を通じて最も重要な主題が、ここに端的に言い表されていると言っても過言ではありません。神様が私たちに語っておられるということは、神様がわたしたちとの交際を求めておられるということです。もっといえば神様がわたしたちを愛してくださっているということです。神様と人間との交わりの回復、そのために人間が神様に立ち帰ること、それこそ神の願いである。そして人間の救いである。そのために神様はイエス様をお遣わし下さった。これが聖書の根本主題なのです。

 ところが、話はそう単純ではありません。神様も人間を求めている。人間も神様を必要としている。それならば何の問題がないはずなのですが、これがどうしてなかなかうまくいかないのです。なぜうまくいかないのでしょうか。このこともまた『ヘブライ人への手紙』は、実に見事に言い表しています。2章1節です。

 この故に我ら聞きし所をいよいよ篤く慎むべし。恐らくは流れ過ぐることあらん。 (2:1)

 やはり文語でお読みしましたが、私たちの手にしている聖書では「だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと押し流されてしまいます」と書かれています。つまり、聞くことが大事なのです。聞くと言うことがちゃんと出来ていないから、すれ違って変な方向へ流されていってしまのだと、御言葉は教えているのです。

 人間同士でもそうですが、聞くということはたいへん難しいことなのです。聞くことは、相手の言わんとしていることを相手の身になって注意深く受け止めることだからです。しかし、大抵の人は、十分に聞く前に、自分の考えで相手を推し量ってしまいます。あるいは聞くよりも、自分の話を聞いてもらいたくてうずうずしている人が多いということもあります。そういうことを、私たちは神様に対してしまっているのです。神様の言葉をちょっと聞くと、すぐに「そんなことは信じられません」とか、「でも、現実はこうではありませんか」と、自分の知識や経験で物を言ってしまう。神様は私達の経験や知識などより遙かに優れた知恵と経験をお持ちです。それを忘れてしまっているのです。それから、神様にお祈りをするのは悪いことではないのですが、「あれをしてください」、「これをしてください」と自分の願いを述べるだけで、神様の御心に耳を傾けようとしないという人もいます。ですから、せっかく神様が答えてくださっているのに、それが分からないのです。そして、神様はちっとも答えてくださらないと、自己主張の上塗りをしてしまうわけです。

 そうではなく、「神、御子によりて我らに語り給へり」、「この故に我ら聞きし所をいよいよ篤く慎むべし」と、『ヘブライ人への手紙』は教えます。もっと神様の言葉を、御心を、一所懸命に聞きなさい。全身全霊をもってイエス様に聞きなさいということです。そうすると、神様の大いなる救いが見えてくるというのです。

 その大いなる救いとは何か。これまた実に端的な言葉で示されていました。2章9節です。

 ただ御使いよりも少しく卑しくせられしイエスの、死の苦難(くるしみ)を受くるによりて栄光と尊貴とを冠らせられ給へるを見る。これ神の恩恵(めぐみ)によりて万民のために死を味ひ給はんとてなり。

 神の御子なるイエス様が、罪人の一人に数えられるまでに卑しく謙られ、十字架にかかって死んでくださった。一見、弱さ、貧しさ、挫折と思えるこのようなイエス様のお姿こそ、実はイエス様の最高の素晴らしさであって、そこにこそ万民を救うイエス様の愛、恵みが現れているのだということです。それはこのような言葉でもいい表されています。2章11節

 この故に彼らを兄弟と称ふるを恥とせず

 イエス様は、神の御子でいらっしゃるのに、喜んで私たちのような罪深く、卑しい人間と血と肉を分け合う兄弟になってくださったのです。

 以上が、これまで読んできました1-2章の復習です。『ヘブライ人への手紙』は確かにちょっとクドクドとしていまして難しいのですが、逆にこのようなポイントとなる御言葉をおさえておきますと、言わんとしていることがくっきりと浮かび上がってきて、ある意味でとっても分かりやすいのです。
悲しくてやりきれない
 今日からは3章を読んでまいります。1-2章は主に「イエス様はいかなる救い主であるか」ということが書かれていました。3-4章には、そのイエス様を信じる私たちの暮らしについて書かれていると言ってよいかと思います。

 暮らしと言いますと、私たちはただちに衣食住のことを考えるかもしれません。ブランド物のお洋服をたくさん持っていて、美味しい物をたくさん食べて、広い大きな家に住んでいれば、あの人は良い暮らしをしていると言ったりします。経済的な支えがあれば暮らしが立つといいます。しかし、人間の暮らしというのは、そのような物質的なものによって良くなったり、支えられたりしているものでしょうか。そうだとしたら、贅沢な暮らしをしている人は皆、幸せ人であるはずです。なぜなら良い暮らしとは、幸せな暮らしであるはずだからです。ところが金持ちがすなわち幸せではないということを、私たちはよく知っているのではないでしょうか。

 『信徒の友』に「ヒット曲の神学」という面白い企画があります。同志社大学教授の関谷直人先生が執筆されているのですが、神学というのはちょっと大袈裟で、信仰者の目から見た社会学と言った方がいいかもしれません。五月号は1968年にヒットした「悲しくてやりきれない」というフォーク・クルセダーズの歌でした。著名なサトウ・ハチローの詩に、メンバーの加藤和彦は曲をつけたものです。私は60年代、70年代のフォークソングが好きで、今でもよく聴くのですが、この歌もお気に入りの一つとなっていましたので、興味深く読ませていただきました。

 「悲しくてやりきれない」

 胸にしみる 空のかがやき
 今日も遠くながめ 涙をながす
 悲しくて 悲しくて
 とてもやりきれない
 このやるせないモヤモヤを
 だれかに告げようか

 白い雲は 流れ流れて
 今日も夢はもつれ わびしくゆれる
 悲しくて 悲しくて
 とてもやりきれない
 この限りないむなしさの
 救いはないだろうか

 深い森のみどりにだかれ
 今日も風の唄に しみじみ嘆く
 悲しくて 悲しくて
 とてもやりきれない
 このもえたぎる苦しさは
 あしたも続くのか


 実は、この曲がヒットした当時、他にも「悲しき雨音」、「悲しき鉄道員」、「悲しき願い」など、私はよく知らないのですが、そんなタイトルの歌が流行したそうです。では、当時の日本がそんな悲しい時代だったのかというと、高度経済成長のまっただ中にあり、日本の国民総生産は世界第二位になり、霞ヶ関ビルが建設され、カラーテレビの普及が始まり、二年後には大阪万博が開かれる。物質的な豊かさという意味では万事が上向きの時でありました。それこそ人々の暮らし向きがどんどん良くなっていった時代だったのです。

 そんな時代に、「悲しくて 悲しくて とてもやりきれない。限りないむなしさの救いはないのだろうか。このもえたぎる苦しさは、あしたも続くのか」と歌う曲が、多くの若者に共感され、ヒットするというのはどういうことなのか。関谷先生は、預言者エレミヤを引き合いに出しながら、こんな風に考察しておられます。

 「悲しみの預言者」と称されたエレミヤは、ユダ王国の崩壊を民に告げるのであるが、人々は聴きやすい言葉を好み、「夜もすがら泣き、頬に涙が流れる」(哀歌1章2節)のような思いに耳を傾けようとしなかった。一見、平和で幸せそうな世界の中で、多くの人々は、そこに潜む「罪の現実」を悲しむ目を持っていなかったのである。
 「悲しくてやりきれない」という歌に共感した若者たちは、繁栄の一途をたどっていた日本の風景の背後に潜む、多くの矛盾を感じ取っていたのではあるまいか。「やるせないモヤモヤ」を抱えながら、その時代を嘆いていた多くの若者の姿がそこにはある。今、「この限りないむなしさの救いはないだろうか」という歌声は、一つの求道の叫びとして響いてくるのである。


 たとえば、経済的繁栄の陰に、公害問題がある。三億円事件が起こる。東大紛争が起こる。また国際的にはベトナム戦争が泥沼化している。キング牧師が暗殺される。ケネディ大統領が暗殺される。1968年とはそういう年でした。人間の知恵や力で人々の経済的、物質的な暮らし向きはどんどん向上してきた。そこに明るい未来が見えている時はいいのですが、そうではないということがだんだん見えてきたのがこの時代だったのではないかということなのです。どんなに物質的に豊かになっても、人間の罪の現実には蓋をすることができないだという現実を見るとき、「悲しくてやりきれない」という気持ちが起こってくるのではないでしょうか。しかし、そういう悲しみを感じるということが、虚栄の暮らしから抜けだし、真実に良い暮らしを見いだすために大切なことだと、関谷先生は言っておられるのです。
真実に良い暮らしとは
虚栄ではなく、本当の良い暮らしとは何でしょうか。それは私たちの本当の貧しさを豊かにすることができる暮らしであります。本当の貧しさは、経済的貧しさ、物質的な貧しさにあるのではなくて、心の貧しさにあるのです。心の貧しさとは、一言で言えば自分の存在に対する不安です。

 自分はなぜ生きているのだろうか?
 生きていることにどんな価値があるのだろうか?
 辛いことに耐える意味はあるのだろうか?
 楽しくても、それはいつまで続くのだろうか?
 死んだからどうせお終いじゃないか?
 自分はどうせひとりぼっちではないか?

 自分の存在の価値、意味、目的、将来、死などに対する答えを持てない不安が、私たちの心に人生に対する確信のなさ、誇りのなさ、希望のなさという貧しさを生み出しているのです。そして、聖書によれば、こういう不安のさらに深い根っこにある原因は、神様の愛を裏切り、背いている罪にあるのです。人間は神様によって造られた。ですから、人間の命の意味も、価値も、目的も、守りも、祝福も、みんな神様の愛のうちにあるわけです。しかし、その神様の愛を裏切り、神様に背き、神様を捨ててしまった人間の罪、それが人間を確信のない、誇りのない、希望のない、不安な存在にしてしまっているのです。

 パスカルは、人間の心にはぽっかりと大きな穴が開いている。その穴は神様の形をしていて、神様以外のものでは決して満たすことができないのだということを言っていますが、本当にその通りだと思うのです。どんなに経済的、物質的に豊かであっても、才能があり、強靱な肉体をもっていても、この心の貧しさ、あるいは空しさは消えないのです。見ないようにする、ごまかすということはできるかもしれませんが、それはいつか表面化してしまうことなのです。
 罪のために失ってしまった神様の愛、祝福、守りというものを、私たちの心に回復しなければ、私たちは本当の意味で良い暮らしを贈ることができないのです。確信のある、誇りのある、希望のある、安息のある人生を生きることができないのです。ですから、イエス様は食べるものや、着る物で日々を思い煩うなと言われました。そうではなく、まず天の父なる神様の御国と愛を求めなさいということをおっしゃられました。神様との交わりの回復、それこそがあなたの命を、体を守り、豊かにするのだということであります。

イエスを思いみよ
 『ヘブライ人への手紙』3-4章は、イエス様の信じる暮らしがテーマだと申しました。イエス様を信じる暮らしとは、イエス様の十字架と復活によって守られている暮らしであります。イエス様の十字架と復活がどのように私たちの暮らしを守ってくれるのか、それはこれまでも少しお話ししてきましたし、これからもご一緒に学んでいくことになるでしょう。いずれにせよ、イエス様は私たちを神様のところに連れ帰るために来てくださいました。私たちを神様と和解させ、私たちの命が、再び神様との祝福に満ちた交わりの中に生きるようにしてくださったのであります。

ですから、1節にこう言われています。

 だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。

 《使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい》と書かれていますが、文語訳では「使徒たり大祭司たるイエスを思い見よ」となっています。原語の意味からすると文語訳の「思い見よ」という訳がいいと思います。考えると言っても頭だけを働かせて考えるのとは違うのです。見えないものを、信仰の思いをもって見るのです。昼となく夜となく、イエス様を思い続け、感じるのです。それがここで言われている「思い見る」ということです。

 このように思いますと、なんだか凄く大変なことのように思われますが、カトリックの作家・曽野綾子さんが『生活のただ中の神』というエッセイ集を出しておられまして、その中にこんな話が紹介されていました。

 私は、聖堂という、神ともっとも会話のしやすい場所を深く愛した人たちの話を聞いた。
 一人のスペイン人の老神父は、しばしば聖堂で居眠りをした。「神父さんは祈っているのかと思ったら眠ってらした」と人々は言った。・・・しかし神父は私に言った。「聖堂ではよく眠れるよ。安心するからね。神様の傍に近いと思うと心の中を全部打ち明けて安心できる。安心すると眠くなる」
 まさに老神父の言うとおりであった。
あるイタリアの田舎に一人の神父がいた。田舎の神父は、村中の人の相談相手になる。神父は一日中、その手の雑事で忙しかった。そして夕方になると神父は祭壇に一番近く、祈祷台の最前列に座って、その日村で起きたすべてのことを、声に出して神の報告するのを日課にしていた。
 「神さま、ペトロの家の牛が子を産みましてな。願っていたように雄牛でした。ありがとうございます。これで、ペトロのかみさんは、娘の結婚式の晴れ着を買ってやれます」
 という感じである。


 この二人の神父が、神様を愛し、心に見て、神様を身近に感じておられたということがよく分かる話です。神様を思い見る暮らしというのは、いかにも信仰をしていますということではなく、こんな風に自然に、自分の暮らしの中で神様を受け入れ、神様と共なる生活をすることなのでありましょう。

 「イエスを思い見よ」ということも、そうなのです。なぜ、神様ではなく、イエス様を思い見よといわれるのか? それはイエス様こそ、私たちのすべての罪を赦し、私たちと神様と交わりを回復させ、私たちの心に神様の愛と祝福と守りを満たしてくださる唯一の救い主だからです。「使徒たり大祭司たるイエスを思い見よ」、イエス様こそ私たちに遣わされたお方であるということ、イエス様こそ神様と私たちの架け橋となってくださる大祭司であるということ、イエス様の十字架と復活によって、私たちの暮らしが守られていることを素直に信じ、受け入れ、その思いを抱き続けること、これがイエス様を信じる暮らしなのです。

 信仰を持つということは、善良なる人間になることではありません。罪のない人間になることではありません。世のため人のためになる人間になることではありません。それができても、できなくても、イエス様の十字架と復活の救いに、私たちの暮らしが、命の営みが守られていることを信じるのです。そのことを受け入れ、赦され、守られ、愛されている者として、神様の祝福の中に生きることなのです。

 6節にこう記されています。

 キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。

 この御言葉についてはまた丁寧にお話しをしたいと思っておりますが、一つだけ注目しますと、《確信と希望に満ちた誇り》という言葉があります。自分の暮らしが、命が、イエス様の十字架と復活に守られ、神様の祝福の中にいれられていることを思い見る生活には、確信と希望に満ちた誇りが回復するのです。傲慢とか、虚栄とか、やせ我慢とかではなく、心のまずしさ、不安、空しさを埋める確信と希望と誇りであります。苦しいときも、弱められるときも、孤独なときも、貧しさに喘ぐときも、人生にはいろいろありましょう。けれども、如何なる時にも使徒たり大祭司たるイエス様を思い見る生活をし、イエス様の十字架と復活に守られていることを信じることができますならば、どのような中にあってもゆらぐことない確信と希望と誇りを持つことができるのです。それこそ私たちの幸せ、私たちの良き暮らしなのではありませんでしょうか。
新しい救い
  第三に、イエス様の十字架は、私たちを苦しみから助け出すと言われています。18節です。

 事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。

 「同病相憐れむ」といいますが、イエス様は私たちの受ける苦しみをすべて味わい尽くされて、私たちの苦しみをだれよりも分かってくださるお方であるといわれています。十字架の苦しみ、そこには様々な苦しみがあります。肉体の痛み、渇き、飢え、言われ無き罪を着せられる苦しみ、辱め、愛する人からの裏切り、離別、孤独・・・イエス様は十字架にいたるまで、私たちの苦しみを嘗め尽くされたのです。だからこそ、イエス様は私たちに必要な助けをよくご存知でいてくださるのです。

 イエス様は十字架で死なれました。御子として身分を擲って、まったき人間の友、神の僕となられたがゆえに、悪魔の働きを破り、悪魔の手から私たちを解放してくださいました。また、罪は犯されなかったにもかかわらず、私たちの罪を自分の罪とされて、私たちの打ち砕かれた魂となってくださいました。それによって、私たちの罪の償いとなってくださいました。さらに、イエス様は私たちの経験するあらゆる苦しみを十字架で味わわれました。それゆえに私たちの苦しみを分かり、私たちを助け得る方となってくださいました。

 そのようなイエス様の十字架の恵みを、私たちはイエス様との命の交わりの中で受け取ることができます。11節に《イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない》とあります。12節に《わたしは、あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ》とあります。13節に《ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます》とあります。これらの御言葉が何を意味しているのかと言いますと、イエス様が私達と血と肉を分け合った兄弟となってくださり、イエス様の命と私たちの命に深い結びつき、交わりをもってくださるということなのです。

 このようにイエス様は神の御子でありながら、私たちの兄弟として、私たちに今ももうしましたような十字架の愛をもって愛し、十字架の恵みをもって恵み、十字架の救いをもって助けてくださる。神様と私たちの間の架け橋となり、私たちをもう一度、悪魔から解放し、罪を償われた者として、苦しみから助け出して、神の子としての祝福に与らせてくださるのです。ですから、イエス様は《神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司》と言われているのです。みずから十字架にかかり、私たちの命をもって、神の愛、祝福をもたらしてくださる大祭司であります。どうぞ、大祭司なるイエス様の祝福を受けながら、この一週間も神の子らとして歩み、励みたいと思います。

 それに対して、世の救いは、決して多くの者たちを救わないのです。救われるのは(それが救いだとすればの話ですが)、特に優れたと認められる限られた者、選ばれた者だけであります。だれもがそれを目指しますが、多くの者たちが脱落します。しかし、イエス様は脱落者が出ないような救い、多くの者たちに神の救い、神の恵みを与えようとされるのです。

 母マリアはイエス様の弱さを愛することができる人でありましたから、それを見ることができました。強盗の一人は、自分の罪を、神様に対する罪を認めたときに、それをしることができました。百人隊長は、自分がイエス様を十字架につけたのだという深い精神的な重荷を負うことによって、イエス様の弱さの中に、すべての人をゆるし包み込む大きな愛を見いだしました。

 11節の終わりにこう記されています。

 イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない

 イエス様と私たちが兄弟とされる。それによって、私たちはイエス様が「天の父よ」と呼ぶお方を、同じように「天の父よ」と呼ぶことができるようになる。つまり、同じ神様の子とされるのです。その際、また10節に戻りますが、イエス様は《数々の苦しみを通して》とあります。私たちがイエス様の兄弟となるそれにふさわしいものとなるのではなく、イエス様のほうから近づいてくださり、私たちの兄弟となってくださった。イエス様は、自らを低くされることによって、貧しさを、弱さを身に負われることによって、この世のすべての人たちの兄弟となろうとされた。これが新しい救いなのです。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
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