ヘブライ人への手紙 06
「我ら聞きし所を篤く慎むべし」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙2章1-4節
旧約聖書 エレミヤ書42章1-43章7節
信仰は聞くこと
 『ヘブライ人への手紙』は、「神、御子によって我らに語り給へり」というメッセージによって始まっています。それが何を意味するのか? 神様の愛なる御心も、私たちの歩むべき救いの道も、天に備えられた祝福も、すべてはイエス・キリストによって私たちに露わに示されているということです。だから、私たちもまた、あの変貌山において、ペトロ、ヤコブ、ヨハネが聞いた天からの御声を心して聞かなければなりません。

 これは私の愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け
                   『マタイによる福音書』16章6節

 『ヘブライ人への手紙』も、福音書も、「キリストに聞く」ということのうちにこそ、私たちの救いがあるのだと、語っているのです。そして、パウロもこう言っています。

 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。 『ローマの信徒への手紙』10章17節

 このように私たちの救いはキリストに聞くことにある、信仰は聞くことによって始まるというのは、聖書全体に首尾一貫したメッセージなのです。ですから、今日お読みしました『ヘブライ人への手紙』2章1節には、こう記されていました。

 だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。

 私たちが聞いたことを大事にしなさいということです。今日の説教題は、そこから「我ら聞きし所を篤く謹むべし」とつけさせていただきました。

 「キリストに聞く」という信仰を思うとき、私は福音書に記されているカナンの女の信仰を思い起こします。『マタイによる福音書』15章21-28節に記されてーいる話なので、ご存知の方もたくさんいらっしゃると思いますが、一応読ませていただきたいと思います。

 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

 イエス様がイスラエルの国境を越えて異邦人の地フェニキアに行かれたときのことです。その地に暮らす異邦人の婦人が、イエス様のところにやってきて《主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。》と叫びながら訴えました。この婦人の幼い娘は悪霊に苦しめられていました。彼女は、なんとか幼い娘をこの苦しみから救ってやりたいという激しい愛にかられて、イエス様のもとにすがりついてきたのであります。

 辻仁成の『嫉妬の香り』という小説を読みました。恋人に嫉妬心を抱き、疑いを抱いた男が、その嫉妬心や疑いに翻弄されて自滅していくという、まあ通俗小説と言ってもいいような本なのですが、私はときどき娯楽でこういう本も読みます。その中で、「愛には限界がある。しかし、嫉妬は無限である」という言葉に出会いました。シニカルな言葉です。本当なら「愛こそ確かなもので、永遠である」と言いたいところですが、この言葉には人間の現実が語られているような気がいたしました。嫉妬とか、疑いとか、恐れとか、不安とか、そういった負の感情というのはいったん心に芽生えますと、私たちの中で際限なく膨らみ、何をもってしても押しとどめることができなくなってしまうということが、私たちにもしばしばあるのです。

 それに対して、愛には限界があります。限界といっても、必ずしもそれは弱々しさや不確かさを意味しません。どんなに力強く、確かな愛をもってしても、私たちの愛には限界があるのです。たとえば、このカナン人の女性も、非常に強く、確かで、激しい愛をもって、娘を愛していました。彼女は、「私を憐れんでください」と言っていることに注意してみてください。「娘を憐れんでください」といったのではないのです。娘の苦しみ、痛み、恐れ、不安は、自分の苦しみ、痛み、恐れ、不安そのものである、だから「わたしを憐れんでください」といったわけです。そこまで彼女は娘を愛しているのです。もし、娘に代わって自分が病気になって済むのなら、躊躇うことなく彼女はそれを願ったでありましょう。自分の命を捨てろと言われれば、すぐにでもそうしたでありましょう。けれども、それほどの愛と覚悟をもってしても、彼女には娘を救うことができないのです。娘に代わって自分が病気になるということはできないし、自分が命を捨てたところで娘が救われるわけでもない。彼女は、娘を愛すれば愛するほど、自分の愛の限界というものを感じたのではないでしょうか。愛は何にも勝って尊いものです。その愛ですら、愛する人も救い得ないことがあるという現実が、私たち人間にはあるのです。そういう人間の持つ限界の中で、この婦人はイエス様のうちにある救いを信じ、イエス様にすがりついたのでありました。

 ところがイエス様は、この女性に「何もお答えにならなかった」と、聖書は記しています。彼女に対する何の言葉もなかった。そのイエス様の意図がどこにあったかはともかくとしまして、この婦人にしてみれば、全身全霊をかけた魂の必死の訴えを、イエス様に完全に無視されてしまったのです。実は、私たちもこういうことを経験することがあるのではないでしょうか。「神、御子によって我らに語り給へり」と言われている。「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」とも言われている。だから、悩み苦しみから救われようとして、私たちも一生懸命に祈り、イエス・キリストにすがり、救いの道を聞こうとするのですが、イエス様から何の答えもないのです。「これに聞け」と言われているのですから、聞けばすぐに答えがあっても良さそうなのに、何もないのです。祈っても祈っても、御言葉を読んでも読んでも、悩み、苦しみ、不安、恐れを背負ったまま、イエス様の沈黙の中に捨て置かれてしまう。そういう経験です。それどころか、この婦人はイエス様の拒絶にあったと、聖書は記します。

 イエス様の長い沈黙の間、この女性は「わたしを憐れんでください」と休むことなく叫び続けました。それを見て、弟子たちがうるさく思い、彼女を追い払おうとしますが、それでも彼女はイエス様にしがみついて離れず、「主よ、どうかお助け下さい」と、ひれ伏してお願いをするのです。すると、ようやくイエス様が沈黙を破られた。しかし、その言葉たるや「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」という、誠につれない、冷徹な拒絶の言葉だったのです。イエス様が「子供たち」というのは、イスラエルの人々のことです。「小犬」というのは、異邦人であるこの婦人のことです。イエス様は小犬にやるパンはないのだという冷ややかな言葉を、この女性に投げかけたのでした。

 普通なら、これで話は終わります。「なんだ、イエス様なんて神様だかなんだかしらないけど、何もしてくれないじゃないか。愛の人だなんていうけど、私の必死の祈りを何も聞いてくれないじゃないか。」こう言って、イエス様の許を絶望と憤りをもって去っていってもおかしくないのです。しかし、この婦人は違いました。無視されているのではないかと思えるほどの長いイエス様の沈黙の中に、そして冷徹とも言えるイエス様の拒絶の言葉のなかに、イエス様の深い御心をなおも聞こうとする姿勢を崩さなかったのです。

 「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくものです」

 「主よ、ごもっともです」とは、「あなたは正しい」ということです。長い沈黙に対しても、拒絶の言葉に対しても、「あなたは正しい方です」と答えたのです。そう信じているからこそ、あなたは決してこの憐れな小犬を捨て置かれるお方ではないとも信じていると、言ったのです。

 このカナン人の婦人の信仰を見ますときに、「イエス・キリストに聞く」というのは、どういうことかが分かるのです。「イエス・キリストに聞く」とは、自分に都合のいい言葉、自分が願っているような言葉が、イエス様から発せられることを期待するということでありません。それだけのことでしたら、自分に都合の悪い言葉、自分の当てが外れた言葉を耳にした途端、もはや聞く気がまったくなくなってしまうに違いありません。そういうのを「キリストに聞く」とは言わないのです。

 昔、エルサレムがバビロンによって陥落させられ、神殿は破壊され、城壁は壊され、多くの人々が捕虜として連れ去られたとき、生き残った人々が預言者エレミヤのところに来て、「どうか、私たちがこれからどうしたらいいのか、私たちのために、主の御心を尋ね求めて祈ってください」とお願いしました。エレミヤが承知しますと、彼らは「あなたを通して神様が語られたことは、良いことであっても悪いことであっても、必ず御声に従います」と誓ったのでした。エレミヤが祈りはじめて十日後、主の言葉が与えられました。そして、「あなたがたは、どこにも行かず、この地に留まり続けなさい。そして、神様の救いの日を待ち続けなさい。決して、エジプトに頼り、エジプトの庇護を求めたりしてはいけない」と、人々に伝えました。するとどうでありましょう。人々はエレミヤに「あなたは嘘をついている。神様がそんなことを言うわけがない。神様がエジプトに逃れることを反対するはずがないからだ」と言ったのでありました。そして、彼らはとうとうエレミヤを通して語られた御言葉を無視して、自分たちの思いを遂げ、エジプトに行ってしまうのです。こういうのを神様に聞くとは言わないのです。私たちはこれと同じようなことをしていないかどうか、もう一度反省してみる必要があると思います。イエス様に祈りながら、その実、自分の都合の良い言葉だけを聞こうとしている。それ以外の言葉ははじめから拒絶している。イエス様が正しいか、どうか、それを判断するのは自分だと思っている。そういうのは「聞く」とは言わないのです。

 カナン人の女性は、それとは違いました。本当にイエス・キリストに聞こうとしたのです。長い沈黙の中にも、冷たい拒絶の中にも、「主よ、ごもっともです」と答え、そのなかに、イエス様の正しさと愛なる御心を聞こうとしたのです。すると、イエス様はこの女性に「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように」と言われました。イエス様が認めてくださったこの女性の信仰、それは何であったのか。それは、沈黙も、拒絶も、どんな言葉も、どんな態度も、イエス様のすべてに信頼を寄せ、この方こそ、神様がわたしたちに与えてくださった救い主であるということを信じ続けるということです。「神、御子によって我らに語り給へり」「これは私に愛する子、私の心に適う者。これに聞け」ということを信じ、イエス様のいかなる言葉も、沈黙も、イエス様のすべてにアーメンとする信仰なのです。
大いなる救い

 だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。

 「聞いたこと」と言われています。私たちには、これからまだまだ聞かなければならないことがあるのも事実です。しかし、私たちは何も聞いていないのではありません。すでに多くのことを聞いているのです。それでも何も聞いていないというのなら、それは聞いたことに注意を払っていない、無頓着でいる、そういうことなのだと、今日の御言葉には記されているのです。2-4節にこう記されています。

 もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違犯や不従順が当然な罰を受けたとするならば、ましてわたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう。この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され、 更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証ししておられます。

 まず2節の部分がちょっと分かりにくいので、説明しておきたいと思います。《天使たちを通して語られた言葉》というのは、実は律法のことを意味しているのです。イスラエルには律法というのは、神が天使を通して与えてくださったものだという信仰があったのです。聖書にもそういう信仰が現れているところが幾つかありますが、一つだけご紹介しますと、パウロが『ガラテヤの信徒への手紙』3章19節で、こういうことを言っています。

 では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。

 従って、『ヘブライ人への手紙』が《天使たちを通して語られた言葉》というもの律法のことであると理解して間違いありません。そして、この律法は、今のパウロの言葉を借りれば、違反(罪)を明らかにするために与えられた言葉であるというのです。別の言い方をすれば、神様の御心に対して私たちがどんなにかけ離れた、背いた存在であるかということを、私たちに教えるのが律法であります。この律法に注意深くあることはもちろん大事なのです。病の自覚のないものが医者からの治療を受けようとしないように、罪の自覚のないものが神の救いを求めることもないのです。しかし、律法が私たちを救うのではありません。律法は救いの道を示すのではなく、私たちが救い難き者であるということだけを示しているのです。そして、私たちの目を、祈りを、神様の備え給う救いの言葉へと向けさせるためのものであったのです。救いの言葉、それが御子によって語られた神の言葉です。御子によって語られた神の言葉、それこそが自らを救い難き人間であることを知った者が、いかに救われるのかということをお示しになる大いなる救いの御言葉なのです。

 大いなる救い、これを私たちは福音といっています。福音とは何か。いつも申し上げていることですが、イエス様がしてくださったこと、してくださること、この二つによって私たちが救われるということです。それに対して、律法が要求することは私たちがしてきたこと、私たちがすること、それによって神様に喜ばれる人間になれということです。しかも、それは形だけではなく、心の中まで神様に喜ばれる人間にならなければなりません。罪に染みし私たち人間には、とても出来ないことなのです。そこに、神様が御子によって私たちに語りかけてくださった大いなる救い、イエス様がしてくださったこと、してくださること、これを信じて、これを受け入れて、これによって救われよという福音が、私たちに与えられているのです。

 この大いなる救いの言葉、福音は、第一に、主が最初に語られたとあります。つまり、今までだれも語ることができなかった、私たちにしめすことができなかった。ただイエス・キリストだけが私たちに示されたのです。

 第二に、私たちの先人たちが、この御言葉を聞き、この御言葉に生き、この御言葉の確かさを、私たちに証しし続けてきたものであるということがいわれています。教会の中にも、そのようにこの福音によって救われ、この救いの確かさを証ししてくれる兄姉姉妹達がいます。またキリスト教二千年の歴史に目を向ければ、もっともっと多くの証しを見ることができます。このような主の恵みの歴史、あるいは教会の歴史に目を留めるということが必要なのです。

 第三に、神様は今も、私たちに聖霊によって、さまざまな不思議や奇跡をもって、この大いなる救いを証しして下さっているといっています。私たち自身が、神様の愛、御力、キリストの救いの確かさを、直接、聖霊によって見せていただいたり、経験させていただくことができるのです。

 ある人が、私にこのような事を教えてくれました。人生の道に迷ったり、悩んだら、第一に、その問題について聖書は何といっているかを尋ね求めなさい。第二に、教会、つまり先人たちがその問題について何といっているかを尋ね求めなさい。第三に、聖霊の導きを祈り求めて、神御自身がその問題についてあなたに語りかけていることを聞きなさい、ということを教えてくれたのです。聖書に聞くこと、教会の教えに聞くこと、そして聖霊の導きを祈り求めること、このように注意深く、丁寧に、真摯に、キリストに聞くこと、それが大いなる救いに生きる道なのです。

 そうでなければ、「押し流されてしまう」とも言われています。悪い力や悪い考えに押し流されてしまうのです。私たちの信仰生活は、疑いとか、絶望とか、恐れとか、罪への誘惑とか、常にそういう悪い力を常に受けています。それにかかわらず、私たちが信仰を保ち、希望を抱き、平安と感謝に生き、罪の赦しと罪から救いを信じ続けていくために、私たちには聖書が与えられています。教会が与えられています。そして、生けるキリストの御霊である聖霊が与えられています。聖書に聞くこと、教会に聞くこと、御霊に聞くこと、これらのことをもってキリストに聞くこと、それが私たちを守り、支える良き力なのです。この良き力を受けて、悪しき力に押し流されることなく大いなる救いの道を共々に手を取り合い歩んで参りたいと願います。

目次

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