ヘブライ人への手紙 03
「御子は万物を所有す」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙1章2b-3節
旧約聖書 コヘレトの言葉3章1-11節
時間を大切にする
 本屋に行ってビジネス関係の書棚を見ますと、時間管理術に関する本が何冊も並んでいます。今は何事もスピードの時代ですから、何事も早く早くと急かされるビジネスマンにとって、いかに時間を有効に、無駄なく遣うかということは大切な課題なのでありましょう。ビジネスマンならずとも、時間を大切にするということは、誰もが心掛けたいことです。「時は金なり」、「光陰矢のごとし」、「歳月は人を待たず」、「時は得難くして失い易し」・・・時間にまつわる諺もたくさんあります。それは、私たちが皆、限られた「時」の中を生きているからです。私たちに与えられている人生の時間というのは無限ではありません。時間を大切にするということは、生きるということを大切にするということであり、時間を無駄にするということは、生きるということを無駄にしているということなのです。しかし、最初に言ったような時間管理術を身につければ、時間を大切にすることができ、いい人生を送れるのかというと、必ずしもそうではありません。時間管理術というのは、ビジネスということに限れば有効かもしれませんが、人生ということになりますと、またちょっと違った時間に対する感覚が必要になってくるのではないでしょうか。

 たとえば仕事をしているときに、友人から電話がかかってきて、悩み事を打ち明けられたとします。友人は取り乱していて、話も要領を得ません。そんな時、私たちは中断した自分の仕事のことが気にかかって、「いま忙しいから、後で話を聞く」と言うこともできるでありましょう。また、「もっと落ちついて、話を整理してから電話してくれ」ということもできましょう。しかし、せっぱ詰まって自分を頼ってきた友人に対して、今こそ自分が力になる時だと思って、仕事のことも忘れ、一生懸命に話を聞いてあげようとする人もいると思うのです。これは、どちらが時間を大切にしているか、比べようのない話なのです。友人より仕事を大事にしている人にとっては、友人の電話で仕事が邪魔されることは時間の無駄以外の何ものでもありません。しかし、仕事の大切さと友人の大切さを考えて、友人を選ぶ人もいるのです。すると友人の電話に長々とつきあうことは少しも無駄ではなく、まさにそれこそが価値ある時間になるのです。要するに、生き方の違いが、時間の使い方に現れるのです。

 日曜日の礼拝を守ること、水曜日の祈祷会を守ること、毎朝の祈りを持つこと、教会のご奉仕に精を出すこと、こういったこともそうです。もう天国に行かれた牛山フジエさんが、よく「時間はつくるものだ」とおっしゃっておられました。忙しいからできないではなくて、自分にとってそれが本当に大切なことであるならば、その時間をつくること、それが時間を大切にすることになるという意味なのです。また心を込めた時間を過ごすということも、時間を大切にする上で欠かすことができません。勉強するにしても、仕事をするにしても、嫌だ嫌だと思ってやっていたら、あまり良い時間を過ごしているとは言えません。時間を過ごすということは命を費やすということですから、たとえ忙しくしていても良い時間を過ごしていないということは、畢竟無駄な時間を過ごしているということになるのです。 
人間の時間と神の時間
 ギリシャ語にはクロノスとカイロスという時間を表す言葉があります。クロノスというのは、時計などで計ることができる時間です。今日は3月2日であるとか、何時何分であるとか、1時間は60分であるとか、そういう物理的、客観的な時間です。都会のビジネスマン、いやそれにかぎらず都会の人はほとんどこのクロノスに24時間縛られています。今は何時だから起きる、何時に会社に行く、何時だからお昼を食べる、何時だから寝なければならない、何月何日にこういう予定がある、月末まであと何日しかない・・・しかし、地方の農村や漁村の人は、今日はしけだから漁は休みだとか、今年は暖かいから早めに収穫の時期がきたとか、必ずしもクロノスに支配されているわけではないのです。そもそもクロノスというのは、人間が時計というのものを発明してつくった人間の時間なのです。自然界には時計は存在しません。あるのはカイロスなのです。

 カイロスという時間は、たとえば「今日はしけだから漁に行けない」とか、「今年は暖かいから収穫が早めだ」とか、そのようなタイミングとかチャンスというものを意味しています。農業とか漁業というのは、クロノスよりもカイロスを大事にしなければならないわけです。そういう人たちには、クロノスばかりを考えた時間管理術などはまったく役に立ちません。今が何時何分であるか、何月何日であるかということよりも、今がどういう時であるか、この時にどんな意味があるのか、どんな価値があるのか、そのことを知ることが重要なのです。カイロスは、人間がつくったり、管理したりすることができない時間です。管理するのではなく、いつ訪れるか分からない時を待つこと、見極めること、捕らえること、それがカイロスという時間を生きることです。クロノスが人間のつくった時間であることに対して、カイロスは神が備え給う時間だと言ってもいいのではないでしょうか。
時に適って生きる
 今日は、そのようなカイロスということがよく表されている『コヘレトの言葉』3章1-11節をお読みしました。

 何事にも時があり
 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
 生まれる時、死ぬ時
 植える時、植えたものを抜く時
 殺す時、癒す時
 破壊する時、建てる時
 泣く時、笑う時
 嘆く時、踊る時
 石を放つ時、石を集める時
 抱擁の時、抱擁を遠ざける時
 求める時、失う時
 保つ時、放つ時
 裂く時、縫う時
 黙する時、語る時
 愛する時、憎む時
 戦いの時、平和の時。
 人が労苦してみたところで何になろう。
 わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。


 生まれるとき、死ぬとき。泣くとき、笑うとき。求める時、失う時・・・ここに記されているように人生には色々な時があります。しかし、それらの《時》とは、時計で計るようなクロノスではありません。私たちの人生にいろいろな意味を与えるカイロスです。《人が苦労してみたところで何になろう》とありますように、これは私たちが努力して造り出す時間ではないし、努力して変えようとしてもうまくいかない、そういう時間です。神様によって私たちに訪れる時間なのです。

 内村鑑三の弟子で塚本虎二という無教会主義の伝道者、聖書学者がおりました。彼がたいへん面白いことを言っています。

 悲しかったら泣きたまえ。
 苦しかったら遠慮なくうめきたまえ。
 その方がよっぽどクリスチャンらしい。
 神様にしてもだが、せっかく折檻しているのに感謝ばかりされた日には、
 拍子抜けするだろうじゃないか。


 うれしいときには喜びを、悲しいときには悲しみを、神様が賜ったのだから、その与えられた神の時を精一杯に生きなさいということなのです。《神はすべてを時宜にかなうように造り》とあります。この部分は、1955年訳の聖書によりますと《神のなされることは皆その時にかなって美しい》と訳されておりまして、多くのクリスチャンに愛されている御言葉です。神の時に生きることが美しい時、つまり時宜にかなっているのです。だから、悲しいときには泣くことが時に適って美しい時であり、うれしいときには躍り上がって喜ぶのが時に適って美しい時です。逆にいうと、悲しいときに感謝しようとしたり、うれしいときにしかめ面をしたりすることは、時に適っていない、美しくない、醜悪だということになります。

 人生というのは、命の時間です。生きるということは、その命の時間をどう使うかということでありましょう。人間が時計を発明し、クロノスという時間を作ったのは、それが人生に役立つからです。私はクロノスが不要だなんて思わないのです。しかし、都会のビジネスマンは24時間、クロノスに縛られていきています。時間に追われ、時間を先取りし、ひたすら予定をこなしていきます。そのためにカイロスを待つことができず、また掴むことができないでいることがあるのではないでしょうか。仕事中に友人から電話がかかってくる。それを神様が与えてくださったカイロスとして捉えることができずに退けてしまう。そうなってしまうのです。

 『マルコによる福音書』3章1-6節にこういう話があります。片手の萎えた人が、ある安息日、会堂に神の救いを求める一人の男性がいました。そこに礼拝を守りにいらしたイエス様が現れるのです。まさにカイロスが、神の時が、この人に訪れようとしていたのです。しかし、そこに日頃からイエス様に敵意を抱いている人々がいました。その人たちは、イエス様がこの人を癒したりしたら、即座に掟破りの罪でイエス様を訴えるつもりでした。「安息日には、どんな仕事もしてはいけない」というのが、ユダヤ教の大切な掟だったからです。しかし、イエス様はそんなことに少しも動じずに、彼らの面前で《安息日にゆるされているのは善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか》と言われ、片手の萎えた人を癒されたのでした。安息日というのは金曜日の日暮れから、土曜日の日暮れまでの時間です。イエス様に反感を持つ人たちが守ろうとしたのはそのクロノスです。しかし、イエス様は、この片手の萎えた人との出会いを神の与え給う時、カイロスとして捉え、それを大切になさいました。イエス様と出会った今こそ、彼の恵みの時、救いの時なのだとお示しになったのです。

 人生という時間を大切にするためには、クロノスではなく、このような神の時、カイロスを大切にして生きなければならないのではありませんでしょうか。
御子は初めであり、終わりである
 『ヨハネの黙示録』1章17-18節に、ヨハネがパトモス島で幻のうちに見せられたキリストの言葉が、こう記されています。

 恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。

 イエス様は最初であり、終わりであるということが言われています。イエス様によって始まり、イエス様に終わる、そういう時間の流れがあるのです。それが神の時、カイロスです。この世界はそのような神の時の中に存在し、私たちはそのカイロスの中を生きているのです。

ここでやっと『ヘブライ人への手紙』1章2b節のお話しに入ります。

 神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。

 まず、イエス様が万物の相続者であると言われています。ましょう。イエス様によってこの世界が創造されたとも書いてあります。いったい、こういうことが私たちの人生にどれほど関係があるのでしょうか。イエス様というのは、こんなにやんごとないお方なのだよということを言いたいだけなのでしょうか。そうではありません。イエス様が世界の(これは複数形ですからもろもろの世界と言った方が良いのですが)、その創造者であるということは、この世界の起源がイエス様にあることを表しています。また、イエス様が万物の(これは世に存在するすべてのものというという意味ですが)、それを受け継ぐ方であるということは、万物の目的がイエス様にあることを表しています。つまり、もろもろの世界、その中にあるすべてのものは、イエス様に始まり、イエス様に帰するのだということなのです。そういう神の時の流れの中に、この世界は存在しており、私たちは生きているのです。それを意識し、その時にかなって生きようとすることが、カイロスに生きるということなのです。

 12進法で区切ってつくった時間、それは人間の都合に合わせ、人間がつくったのですが、そのクロノスによって、私たちは今が何時何分なのか、今日が何年の何月何日なのか、生まれてから何年生きてきたのかということが分かるようになりました。しかし、それだけでは、今がどんな意味をもった時なのか、今までの自分の来し方にどんな意味があるのか、そしてこれから自分はどこに向かって生きていくのか、そういうことが見えなくなってしまうのです。たとえば、今日は3月2日です。午前11時●●分です。しかし、それは、今この時は皆さんにとってどんな意味をもった、どんな価値をもった時なのかを教えてくれません。それを知るためには、私たちがイエス様に始まり、イエス様に帰する神の時(カイロス)を生きているのだということを知らなければなりません。それだけが、私たちの今という時間に意味を与え、希望を与えることができるのです。

 今、私たちは3月2日の午前11時●●分を生きています。クロノスという時間でいえば、そうなります。しかし、同時に私たちはカイロスを生きています。それぞれの生活から呼び出され、荒川教会という主にある交わりの中に生かされ、神様を礼拝する時を生きているのです。そういう神の時を生きているのです。

 皆さんの中には、いろんな心配事を抱えている人がいるかもしれません。健康上の悩みをかかえている人もいるかもしれません。昨日の出来事を今日も引きずって落ち込んでいる人もいるかもしれません。何をやってもうまく行かず、将来を悲観しながら毎日を生きている人もいるかもしれません。愚かで、罪深い生活の中に身を置いて、罪責感に悩まされている人もいるかもしれません。しかし、私たちはそういう生活の中かで、《この終わりの時代には、御子によって私たちに語られました》、《これは私の愛する子、私の心に適う者、これに聞け》という神様の招きを聞き、それに応えてイエス様に耳を傾けんとして教会に参集し、イエス様に始まり、イエス様に帰する神の時の中に、私たちの身を置いているのです。

 そうすると、その神の時の中で、私たちが抱えているすべてのことが、イエス様によって与えられ、イエス様に愛と救いに至るためのものであるという意味が与えられてくるのです。生まれる時、死ぬ時。泣く時、笑う時。嘆く時、踊る時。抱擁の時、抱擁を遠ざける時。求める時、失う時。黙する時、語る時。愛する時、憎む時。戦いの時、平和の時。色々な時が私たちにありますが、すべて《神のなされることは皆その時にかなって美しい》と言えるようになるのです。3節にこう書いてあります。

 御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられます。

 すべてのことはイエス様によって始まり、イエス様に帰することを目的としているのですが、それだけではなく、その神の時を生きる者たちをイエス様が御言葉によって支えてくださっているというのです。

 神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられます。

 御子は万物を所有しておられます。イエス様は、私たちの世界を、私たちの人生を、御自分のものとしてお造りになり、御自分のもととして守り、支え、導き、御自分の栄光に与らせようとしてくださっているのです。その中で、つまり神様の御手のなかで、私たちが生かされているのです。今、私たちがどのような人生を味わっていようとも、それもまたイエス様のかような御手のなかにあるのです。だから、黙示録の中で、イエス様が言われたのでありましょう。

 恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。

 恐れてはなりません。今、私たちがどんな経験をさせられていようと、それがイエス様の御手のなかにあることを信じましょう。イエス様から始まり、イエス様に終わる神の時の中にあることを信じましょう。そして、互いに祈り合い、励まし合って歩んで参りたいと願います。
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