ヘブライ人への手紙 01
「神われらに語り給へり」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙1章1-2a節
旧約聖書 イザヤ書65章1節
ヘブライ人への手紙について
 今日から『ヘブライ人への手紙』をご一緒に学びながら、神様の御声を共に聞いて参りたいと思います。なぜ『ヘブライ人への手紙』を、みなさんとご一緒に読みたいと思ったのか。年末年始の12月30日の礼拝と1月6日の礼拝で、私は最近の心境について皆さんにお話しをしました。一言で言えば、私は今、自分の罪深さを恐れるほどに気づかされているのです。キリスト教の教理として、おきまり文句の「人間は罪人である」ということを申してあげているのではありません。自分自身の罪というものをはっきりと見て、自覚して、恐れおののいているのです。

 そういう中にあって、当然のこととして、自分の資格の問題を問うてきました。はたして、私にはこのまま牧師を続けていく資格があるのだろうか。偉そうに皆さんの前で御言葉の説教を続けていく資格があるのだろうか。しかし、神様が教えてくださったことは、そもそも自分に資格があるなどと思ってきたことが、あなたの傲慢ではなかったのかということなのです。はじめから資格など誇れない人間が、ただただ神様が愛と憐れみによって、イエス様の十字架による罪の贖いと、復活による再生の恵みが与えられて、今日あるのではないかということに、今更ながら深く気づかされているのです。

 そのことを知らなかったわけではありません。今までの信仰生活の中で、わたしは何度もそこに引き戻されてきました。しかし、逆に言えば何度もそこを離れてきたのでありました。このような私が今、皆さんの前で語り得ることは、イエス・キリストの十字架しかありません。十字架の愛、十字架の福音、十字架の救い・・・これこそが今の私の希望であり、慰めであり、今皆さんの前に立ちうる根拠なのです。

 『ヘブライ人への手紙』は、いつ頃、誰が、どこに宛てて書いた手紙なのかということについてははっきりしません。「ヘブライ人」というのはユダヤ人ということでありまして、それ以上でも、それ以下でもないのです。そもそもこれが手紙なのかどうかも学者たちの意見の分かれるところです。その上、旧約聖書の神殿の話、祭司制度の話、礼拝儀式の話などがたくさん出てきまして、ユダヤ人でもなく、また時代も違う私たちにはたいへん読みにくい、とっつきにくい書物でもあります。

 けれども、この『ヘブライ人への手紙』が言いたいことは、非常にはっきりしているのです。それは、十字架にかけられて死なれたイエス・キリストこそ、神様と私たちを結ぶ唯一の架け橋であるということです。イエス様によって、その十字架の救いによって、私たちは罪深い者でありながら、再び神様との親しき交わり、結合のうちに生きる者されるのです。そのことを、これからご一緒に読んで参りたいと願うのです。
神かたり給へり
 さて、もう一度、今日与えられた御言葉を読んでみましょう。

 神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。

 《神は・・・語られました。》と書かれています。神語り給へり。大切なことです。忘れてはならない希望のメッセージです。神様は、私たちに語りかけておられます。何を語っておられるのかはさておきましても、神様が私たちに語っておられるということは、神様が私たちとの交わりを求めておられるとうことだからです。

 10年ぐらい前の話です。牧師の集まりがありまして、私もそこに出かけました。会場に向かう途中、私の歩く10メートルぐらい前に、やはり同じ会場に向かうひとりの年配の牧師が歩いておられるのに気づきました。そんな時は、少し早足で近づいてご挨拶をするのが礼儀でありましょう。しかし、私は迷いました。その牧師は一癖も二癖もある方で、つきあい方が非常に難しい先生だったのです。できればあまり話しかけたくない。しかし、私の方が歩くスピードが速いですから、いずれ追いついてしまう。追いついたら挨拶して一緒に歩かざるを得ない。「ああ、いやだなあ。どうしよう」なんて考えながら、出来るだけ距離が縮まらないようにゆっくり歩いていました。

 ところが交差点の信号待ちがありまして、いやでも追いついてしまったのです。私は自分の心を隠して、できるだけ満面の笑みを浮かべまして、「先生、こんにちは」と挨拶をしました。すると、その老牧師はニコリともせず、「やけにうれしそうじゃないか。わたしが隠退するのがそんなにうれしいのか」とひがんだ答えがかえってきました。私は知らなかったのですが、どうも、その先生は年度末に隠退されることが決まっていたようなんですね。「ああ、やっぱり話しかけなければよかった」と、私は深く後悔しました。しかし、後の祭りです。会場までの10分ほど、私はその老牧師と一緒に歩くことになりました。

 会場に行くには、一つ道を曲がらなければなりません。老牧師は、正しい曲がり角の一つ手前で曲がろうとしました。私もちょっと自信がなかったものですから、「先生、この道でよろしいのですか」とやんわりと注意すると、今度は「君は支区の書記などしていながら、そんなことも知らないのか。私が書記をしていたときには、全部の教会を回ったものだ」と延々とお説教がはじまりまして、私はその間違った道を、「間違っているじゃないかなあ」と思いながらも、その老牧師と一緒に歩くはめになってしまったのでした。当然、どこまで歩いても教会はありません。それで、ついに「先生、間違っているのではないでしょうか」と訴えまして、なんとか正しい道に戻り、無事会場にお連れしたわけです。

 正直申し上げて、「ああ、あの時、やっぱり避けて、話しかけなければよかった」と思ったものです。あまり交際したくない相手には、話しかけないのが一番です。語りかければ、そこに必ず交際が起こります。それが嫌ならば語りかけないに限るのです。しかし、聖書は言います。神語り給へり。神様は、罪深い人間である私たちに、語りかけてくださったのだと言うのです。もし、神様が私たちとの交わりを求めておられないならば、神様は語りかけることをなさらないでありましょう。神様は、私のように、誰かにへつらったり、嫌な相手であるにもかかわらず儀礼的に話しかける必要などまったくないお方だからです。しかし、神様は私達に語りかけてくださっている。そこに神様の愛があります。

 イザヤ書65章1節にはこう語れています。

 わたしに尋ねようとしない者にも
 わたしは、尋ね出される者となり
 わたしを求めようとしない者にも
 見いだされる者となった。
 わたしの名を呼ばない民にも
 わたしはここにいる、ここにいると言った。


 神様は、私たちを御自分との交わりの中に生きる存在としてお造りになりました。しかし、私たちは罪をもって神様を離れていきました。神様に背中を向け、自分勝手な道を歩いてきました。そんな私たちに、神様は「わたしはここにる、ここにいる」と呼びかけ、語りかけ続けてくださっているのだというのであります。本当に恵み深いことではありませんか。神様が、私たちに語りかけておられるということ、そのこと自体が、神様の私たちに対する愛と恵みに満ちた御心をあらわしているのです。

神は多くの手段を持っておられる
 では、神様は何処で、どのように私たちに語っておられるというのでしょうか。聖書は、二つのことを語っています。一つは《多くの形で、また多くの仕方で》ということです。今ひとつは、《御子によって》ということです。私たちが生きているこの時代においても、神様はこの二つの仕方で、私たちに語っておられます。今日は、「多くの形で、また多くの仕方で」私たちに語りかけ給う神ということをお話ししたいと思います。

 やはり牧師会で経験したお話しですが、一年に一度、東支区の牧師会では一泊研修会というものをもっております。ある年のこと、少し長目の休憩時間を利用して、数人の牧師たちと近くの原生林の中を散策しました。人間の手の入っていない生々しく、猛々しい自然の中を散策しているうちに、誰しもが天地を作られた神の栄光を思い、畏怖の念を抱きました。そして誰から言うともなしに、その原生林の中で讃美歌を歌い、祈祷会をもったのでした。

 昔、ダビデは詩編の中でこのように讃美しています。

 天は神の栄光を物語り
 大空は御手の業を示す。
 昼は昼に語り伝え
 夜は夜に知識を送る。
 話すことも、語ることもなく
 声は聞こえなくても
 その響きは全地に
 その言葉は世界の果てに向かう。(『詩編』19編2-5節)


 神様がお作りになった大自然は、たとえ声を出さなくとも、その有り様をもって神様の栄光を私たちに語り伝えているということであります。イエス様も同様に、「空の鳥を見なさい。野の花を見なさい。神様の愛がわかるでしょ」と教えておられます。このように自然を通して、神様が人間に語りかけておられるということがあるのです。

 それから、これは何度も離したことがあるので繰り返すことに気が引けるのですが、私にとって大事な体験なのでお許し頂きたいと思います。小学校6年生のとき、私は宿題はやらないし、勉強はできないし、喧嘩や悪さを繰り返し問題ばかりを起こす児童であったのですが、親からも、学校の先生からも、親戚のおじや叔母からも、はたまた教会の牧師夫人からも、叱られ、もっとしっかりとするように諭されていました。みんなが親身になって、私のことを叱ってくださっているにも関わらず、わたしはますますふてくされて、勉強もせず遊んでばかり、悪さをしてばかりいました。そんなある日、学校の担任の先生が、私を呼び出してこんな風に叱ったのです。「国府田くん、あなたは教会に行っているんだってね。そんなこんじゃあ、神様が泣くよ」と。それを聞いて、私は「神様が泣く」という言葉に衝撃を受けました。悪いことばかりをしていましたが、神様も、イエス様も、教会も大好きだったのです。そんな神様が、自分のために泣いていると思ったら、はじめてこれじゃいけないと自分を反省しまして、生活を改めようという気になったのです。

 その担任の先生は、クリスチャンでもありませんし、教会に行ったこともあったのか、なかったかよく分かりません。ただ、神様は、その先生の言葉を通して、私に御心を教えてくださったのです。「神様は君を愛している。だからこそ、君が不真面目に生き、与えられた賜物を腐らせていることをとても悲しんでおられる。それは君にとってとても不幸なことだからだよ」というメッセージです。

 聖書を通して、礼拝を通して、神様がわたしたちに語りかけてくださるのはもちろんです。私も幾たびとなく聖書に慰められ、励まされてきました。聖餐の恵みに与って力づけられてきました。しかし、神様にはいろいろな方法があります。全能なる神様、天にあるものも、地にあるものも、すべてのものを統べて治めておられる神様は、実にあらゆる方法をお用いになって、私たちに語りかけてくださるのです。

 たとえば聖書をよく読みますと、信仰の歴史ばかりではなく、人間の罪深い歴史も語られています。『ヨシュア記』のように戦記物もあれば、『ヨブ記』のような闘病記もあり、『哀歌』のような嘆きの歌もあれば、『コヘレトの言葉』のように「空しい、空しい」と人生を語っている書もあります。『ルツ記』のように嫁と姑の愛の物語もあれば、『雅歌』のような生めかしい恋愛の歌まであるのです。神様は、礼拝の中だけで語っておられるのではありません。実に人間のあらゆる営みの中で、私たちに語っておられるのです。

 また、語りかける手段も様々です。天使や預言者を通して語られることもあります。夢の中でお語りになることもあります。動物を通して語られることもあります。時には偶像礼拝者を通して語られることもあります。また先ほども申しましたが、大自然を通して御心を示されることもあります。そのことを忘れると、私たちの信仰生活はたいへん貧しいものになってしまうでありましょう。

 次回、私は御子イエス・キリストによって語り給う神についてお話しをするつもりです。このことは極めて大事です。イエス・キリストによって私たちに語りかけてくださった神様の言葉を聞くことなしには、私たちは本当に意味で神様の深い御旨を悟り得ることはできません。イエス・キリストによって語られた神の言葉というのは、聖書にあるといってもいいでしょう。聖書というのは旧約聖書も、新約聖書も、すべてイエス・キリストを証しする書であり、御子によって語られた神の言葉を私たちに教えているのです。ですから、聖書を知ることなしに、神の言葉を聞いたとは言えないと言ってもいいでしょう。しかし、それ以外の場所、それ以外の機会にも、神様は語りかけてくださっているのです。神様にはいろいろな方法があるのです。
神の言葉を聞く
 さて、神様がわたしたちに語りかけたまう時、神様はただひとつのことを私たちに求めておられます。それは聴くということです。みなさんは、何かに熱中するあまり、呼びかけられた声が聞こえなかったという経験をしたことがおありだと思います。同じ事が、神様と私たちにも起こっています。私たちは、神様を忘れ、神様の熱心なる呼び声も耳に入らぬほどに、自分の事に熱中していませんでしょうか。仕事、家族の交わり、友達づきあい、趣味、勉強・・・どれもこれも決して悪いものではありません。大切なことです。しかし、それらのことに夢中なあまり、神様の声が聞こえなくなってしまっているということがありませんでしょうか。あるいは苦しみや悲しみ、悩みで心がいっぱいになるあまり、神様の声が聞こえなくなっているということがありませんでしょうか。

 神様は、私たちのあらゆる営みの中で語っておられます。仕事に打ち込んでいるときも、恋人や友人たちと楽しく過ごしているときも、はたまた困難の前で途方に暮れている時も、悲しみに暮れている時も、すべての時に神様は語っておられます。どんな時にも、神様は御自分の愛と祝福に満ちた交わりの中に、私たちを招き入れんとして、私たちに呼びかけておられるのです。そして、それを聴くことを求めておられます。

 作者不詳でありますが、「台所の祈り」というものを読んだことがあります。毎日、家族のために台所に立つお母さん、主婦の方の祈りです。

 きょうの食事のために
 献立をたてて 買い物に行き 台所に立ち
 お料理をつくって いただきます ごちそうさま
 そしてお皿を洗う 毎日のくり返し
 主よ私に 台所に立つ 新しい力を与えてください
 家族への愛を あなたへの感謝を
 御言葉の真実を 表すために
 ああ主よ この小さな台所を
 喜びの部屋に してください
 荒野でマナを 天からふらせ
 預言者を養い やもめに尽きない油を与え
 五つのパンと二匹の魚で 五千人を満たし
 何よりも 命のパンを 与えてくれる方
 主よ私に 台所に立つ 新しい力を与えてください
 創造主である あなたとともに
 創造の喜びを 味わうために
 ああ主よ この小さな台所を
 喜びの部屋に してください
 主よ私に 台所に立つ 新しい力を与えてください
 この色と形と 音と 香りと
 あなたの臨在を 楽しむために
 ああ主よ この小さな台所を
 喜びの部屋に してください

 男性である私にはちょっと分からないこともありますが、家庭の主婦にとって、母親にとって、献立を考え、買い物に行き、台所に立つということは、もっとも日常的な営みの一つではないかと思います。神様の声を聴く者になるということは、そのような日常の中で、神様が与えてくださっている務めを知り、その恵み、その喜びを知る者となることではないでしょうか。 学生ならば勉強をしたり、部活動をしたり、友達を遊んだりする中で、神様を覚えるのです。仕事に出ているならば、その仕事の中で神様の祝福を求めるのです。そのようにいつも神様を求め、心を開き、神様に向かって霊的な耳を傾けていること、それが信仰者として生きるということだと言ってもいいのではありませんでしょうか。

 神我らに語り給へり。私はこのことに本当に大きな慰めを与えられます。神様は、神様に背を向けて生きている私たちにさえ、「わたしはここにいる、ここにいる」と語りかけ、私たちを御自分との交わりの中に招いてくださっているのです。私たちがどこにいても、何をしていても、神様に心を開き、その声を聴こうとするならば、必ずその声を聴くことができます。そして、神様の愛と憐れみに満ちた御旨を聴いて、慰められ、励まされ、自分が歩む道を知ることができるでしょう。どうか、いつも神様に心を耳を開いて、私たちの日々の生活を歩んで参りたいと願います。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
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(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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