天地創造 68
「ひとつの民、ひとつの言葉」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 創世記 第11章1〜9節
新約聖書 使徒言行録第11章1〜18節
神様の危惧
 バベルの塔のお話しは、東から移動してきた人々が、シンアルの平野に住むのに良いたいへん土地を見つけ、そこに町を建て永住の地としようとしたことから始まります。彼らは、子々孫々まで町が繁栄することを願い、最新の建築方法をもって高い塔を築き始めました。

 ところが、神様はこの人々のしていることを非常に危険なものと判断されます。そして、彼らの言葉を互いに通じないものにしてしまわれるのです。たちまち意思疎通ができなきなくなった人たちは、この町の建設をあきらめ、全地に散っていったという話です。

 この物語を解く鍵は、いったい神様は何を危険だと判断されたのかということを知ることにあります。前回、それは本当に町と塔の建設であっただろうかという疑問を投げかけました。人間が、自分たちの知恵と力を結集して、立派な町と塔を建てようとすること、それは人間が社会性をもった存在である限り当たり前のことです。それなしに人間が人間らしく生きていくことはできないのです。聖書を読む限り、神様がそれを否定しているとは思えません。むしろ、神様は人間が互いに助け合い、秩序をもって、平和に暮らすことを願っておられるのです。

 では、バベルの塔を建設する人たちをご覧になって、神様はいったい何を危険だと判断されたのでしょうか。6〜7節で、神様はこうおっしゃっておられます。

「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」

 ここで神様が問題にされているのは、人間が、《一つの民》《一つの言葉》であったことです。そのために、神様は、人間が《何を企てても、妨げることはできない》という危惧を抱かれたと、言われているのです。

 しかし、神様が、人間の企てを妨げることができないとはどういうことでしょうか。もちろん、それは神様の能力の問題ではないのでしょう。人間の企てを妨げるなど、神様にはいくらでも出来ることなのです。しかし、それをしてしまったならば、またノアの時の大洪水のように人間をすべて滅ぼさなくてはならなくなるかもしれません。神様は、二度とそういうことはしないとご自身に誓われたのでした。むしろ、人間が罪人であっても、人間が地に満ち溢れることを願い、何があっても天の父として祝福しようと決意してくださっているのです。

 それは人間のためでもありますが、人間の創造主なる神様ご自身の御心のためでもあります。ですから、このままでは人間の企てを妨げることができなくなるということを、もっと言えば人間がこぞって暴走をはじめたときに、それを止めることができなくなることを、恐れているわけです。神様の能力としてできることであっても、それをしないのが神様の御心だからです。
言語共同体
 そこで、神様は、人間が《ひとつの民》《ひとつの言葉》であるということに注目されます。《ひとつの民》とは、一つの民族ということです。血縁とか、地縁とか、宗教とか、区分の仕方に分け方が違ってくるのですが、ここでは言語共同体というかたちで民族を捉えています。

 もっとも当時は他の言葉があったわけではありませんから、血縁とか地縁を中心に共同体が造られていました。創世記10章を読んでみますと、地上の諸民族は、ノアの三人の息子であるセムの子孫、ハムの子孫、ヤフェトの子孫という風に分けられています。

 ノアの子孫である諸氏族を、民族ごとの系図にまとめると以上のようになる。地上の諸民族は洪水の後、彼らから分かれ出た。(創世記 第10章32節)


 これを読みますと、すでに地上には様々な民族があったといいうことが分かります。ところが、第11章になりますと、とたんに、世界はひとつの民であったと始まります。それは矛盾ではなくて、民族の捉え方が変化したと考えられます。血縁とか地縁ではなく、言葉を同じくすることが、人間の共同体をより深いところで形作っているのだという理解されているのです。

 もちろん、言葉もまた、血の繋がりや土地と深く結びついています。家族の言葉が自分の言葉となるわけですし、方言というものがあるように言葉はまたその土地と深く結びついているわけです。しかし、血縁でも地縁でもなく、言葉によって人間と人間が結ばれて一つの共同体を形成していくのだと、聖書は語るのです。

 言葉とは何でしょうか。聖書で、最初に言葉を用いる人間が描かれているのは、創世記第2章19〜20節です。

 主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。

 アダムは、動物たちに名前をつけたと書かれています。これは一匹一匹に太郎とか、一郎という愛称をつけたということではなく、動物たちの特徴を分析し、整理し、犬とか、馬とか、キリンとか、そのように言葉で分類したということでありましょう。つまりアダムには、そもそもそのような概念を捉える能力があったということが前提になりますが、その概念に名を与えるのが言葉だったのです。

 動物の名前だけではなく、あらゆるものに名前がつけられたことでありましょう。たとえば、その後、神様がアダムにもう一人の人間を連れてきますと、アダムはさっそく「これを女と呼ぼう」と名づけるのです。具体的に形あるものだけではなく、「喜び」、「哀しみ」、「愛」、「平和」、そのような抽象的な概念にもやがて名前がつけられていったことでしょう。

 このような言葉を通して、人間は物を認識し、分析し、秩序づけて、考えるようになります。けれども、概念の捉え方は、人によって違ってきます。そうすると言葉も違ってきます。

 たとえば、兄と弟、姉と妹という言葉があります。同じ兄弟であっても、どちらが年長であるかということを言い表す言葉があるのです。けれども、英語にはそれがありません。ブラザーとかシスターといっただけでは、どちらが年長であるかは分からないのです。この違いは、日本語を話す人と、英語を話す人の、兄弟という概念の捉え方の違いなのです。

 すると、11章1節に書かれております《世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。》とは、人間が皆、概念を共にすることができる同じ世界観をもっていたということなのです。

 いや、本当は人間というのはいろいろな考え方をするわけですから、みんなが同じ世界観を持つなんてことは有り得ないことです。しかし、これが言葉のもつ怖い力でもあります。人間が言葉を作り、操り、自分を表現するのですが、いったん言葉というものが出来上がってしまいますと、言葉が人間を造るということが起こってくるのです。言葉によって、考え方、世界観が形作られてくるということです。

 これは国を治めようとしている人にとっては、とても都合がいいことでもあります。自分たちの言葉を教え込むことによって、その人の考え方を支配することができるようになるからです。

 神様が危惧されたのは、そのことではなかったかと、私は想像するのです。権力が過てば、ほかのすべての人間が過ってしまう。《ひとつの民》《ひとつの言葉》というのは、そういうことなのです。
豊かであること
 そう考えたうえで、4節をもう一度読んでみます。

「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」

 先週、わたしは、これは何も悪いことではない、責められることではないと申しました。しかし、もし、これが小さな町の話ではなく、世界中がひとつの町のように、村のように、単一の世界観でまとまってしまったら、恐ろしいことではありませんか。世界が、《ひとつの民》《ひとつの言葉》ということは、そういうことが起こりえることだったのです。

 そこで、神様は《直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう》と言われたのです。その結果、世界には3,000とも4,000とも言われる多くの言葉が存在するようになりました。言語学者たちは、かつてはもっと多くあった言葉がこれだけの数に収斂されていったのか、もともと一つの言葉がこのように分かれていったのか、それは分からないと言っていますが、聖書は、一つの言葉が、このように分かれていったのだと書いているのです。

 また、言葉の乱れは、今もあることでして、それは決して良いこととは思われてはいません。たとえば、同じ日本人でも、若い人たちの言葉が分からないということが起こってきます。また、日本人は日本語ではなく外国語をそのままカタカナ語にして使うのが好きなようで、新しいカタカタ語がどんどん生まれてくる。それについていけないと、もう何を話しているのか分からなくなるということがあります。

 しかし、バベルの塔のお話しを読みますと、一概に言葉の乱れを悪く言うことはできないのではないかとも思えるのです。神様は、人間への裁きとしてではなく、人間が一丸となって破滅に向かうことから救うためにこそ、この世界に互いに補い合うことができる豊かな言葉をお与えになったのだと、わたしは読むからです。

 言葉の違いは、コミュニケーションの障碍となることは確かですが、それはコミュニケーションが不可能ということではないのです。異なる言葉を聞いたり、学んだりすることによって、わたしたちは自分の言葉によって形作られた世界観を超えて、新しい世界に出会うことができます。神様が、危険視されたのは、私たちが井の中の蛙となること、つまり一つの言葉によって形作られた一つの世界観の殻に閉じこもって、それで良しとしまうことにあったのではないでしょうか。

 世界の創造主なる神様はほんとうに大きな御方です。その大きさに対して、私たちはいつも心を開いて、神様との新しい出会いを果たし、さらに大きな讃美を献げていく者でありたいと願います。
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