天地創造 66
「ノアの子ら」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 創世記 第9章18〜10章32節
新約聖書 ルカによる福音書15章11〜32節節
カナンの呪い
 前回は、ぶどう酒に酔っ払ったノアの話をいたしました。ノアは、正体をなくすまでぶどう酒を飲み、素っ裸で寝てしまいました。次男のハムは、それを見つけると兄弟のセムとヤフェトに知らせました。セムとヤフェトは、それを聞いて、父の裸を見ないように気をつけながら、着物で父の裸を覆ったという話です。

 聖書は、この物語によって、酒に酔ってはいけないという道徳的な教訓を伝えているのではありません。物語の中心は、ノアの子どもたちの振る舞いにあります。ノアの恥を明るみに出してしまったハムと、それを隠そうとしたセムとヤフェトのちがいが対比されます。人間の罪、あるいは醜さは、正そうと思って正せるものではなく、愛に覆われることによって解決されるのです。

 今日は、酔いから覚めたノアが、息子たちのしたことを知って、ハムの子孫であるカナンを呪い、またセムとハムを祝福したというお話しです。これは、読んだ人が違和感を覚えざるを得ないような、奇妙な話しです。

 まず、カナンの名前が、唐突に出てきます。実は、この物語は、最初から、《ハムはカナンの父である》(18節)、《カナンの父ハム》(22節)と語られていまして、これがカナンへの呪いを意図した物語であることを暗示しています。物語の筋からすれば、ノアはハムを呪うべきです。あるいは子孫まで呪うにしても、なぜそれがカナンなのかがわかりません。第10章6節によれば、ハムの子は、クシュ(エチオピア)、エジプト、プト(リビア)、カナンと、四人いるのです。末子のカナンだけが呪われるというのは不自然ですし、はじめからカナンを標的にしようとする強引な意図さえ感じます。

 それから、「奴隷になれ」という呪いの大きさにも不自然さがあります。ハムがしたことは、たしかに誉められたことではないにしても、もともとはノアが酒に酔いつぶれていた事実があるのです。それがなければ、ハムの罪もありませんでした。それを考えますと、ハムの子カナンが、奴隷になれと呪われるほどの大事件であったのか、という疑問もぬぐい去ることができません。そもそもノアには、そこまで言う資格はないのではないでしょうか。

 さらにもう一つ、この物語には曖昧さがあります。24節に《ノアは酔いからさめると、末の息子がしたことを知り》とありますが、ハムは次男なのです。これはどのように理解したらいいのでしょうか。このように、酔いから覚めたノアが、カナンを呪い、またセムとハムを祝福したというお話しは、とても分かりにくい話しなのです。

 実は、この分かりにくさは、聖書の研究者たちにとって同じことで、わたしたちが不勉強だから分からないのではなく、聖書そのものが分かりにくい書き方をしているのです。ですから、学者たちの意見も分かれていまして、明確にこれが答えだというものがあるわけではないということを、まずご理解いただきたいと思います。

 その上で、今日は、私なりの読み方をご紹介させて頂きたいと思います。まず《末の息子》という表現の問題です。

 ノアは酔いからさめると、末の息子がしたことを知り、こう言った。
 「カナンは呪われよ
  奴隷の奴隷となり、
  兄たちに仕えよ。」


 物語の流れからすれば《末の息子》は、ハムのはずです。そして、ハムは末の息子ではなく次男です。ひとつの解釈は、元も子もない話ですが、これは聖書の間違いであるというものです。もう一つの解釈は、本来は次男であるはずのハムが、その過ちのゆえに、末子に格下げされているのだという解釈です。

 しかし、わたしは、もう少し素直に読むことができるのではないかと思います。ノアは《末の息子のしたことを知り》《カナンは呪われよ》と言ったと書いてあるのですから、この末の息子というのは、カナンのことだと読むことができると思うのです。先ほど申しましたが、第10章6節によれば、カナンはハムの四人の息子らの末子なのです。そうだとしますと、《兄たちに仕えよ》《兄たち》とはカナンの兄たちのことで、クシュ(エチオピア)、エジプト、プテ(リビア)ということになります。

 そうしますと、ノアはカナンが何をしたのを見たのかということが問題になります。聖書に書かれているのは、ハムがしたことでありまして、カナンのしたことではないのです。少し大胆な解釈をしますと、カナンもハムの共犯者だったのではないかと読むことも可能だろうと思います。つまり、ハムとその息子カナンが、ノアの醜態をセムとヤフェトの伝えたという読み方です。もちろん、聖書に書いてないことです。しかし、ハムの名が語られるときに、カナンの名も一緒に出てくる理由がそこにあると理解することもできます。

 さらに言えば、ハムよりもその息子であるカナンの方が主犯格であったとすれば、呪いがハムではなくカナンに集中していることや、ノアがハムではなく、ハムの《末の息子》つまりカナンを呪ったということも、すっきりとは行かないまでも納得がいくのです。そして、カナンは、兄弟の奴隷となれ、セムの奴隷となれ、ヤフェトの奴隷となれ、と三重の呪いを受けることになったのです。

 もっとも、これはハムとカナンが共犯者であるという聖書に書いてないことを前提にした話ですから、そうでない解釈も有り得るだろうと思います。
兄弟の対立
 どのような解釈をするにしろ、ここで言われていることは、兄弟の対立です。同じノアから出た子どもたちでありながら、平和に生きることができないだろうという預言がここに記されているのです。いろいろと分からないことだらけのこの曖昧な物語の中で、そのことははっきりと語られていることです。兄弟の対立は、カインとアベルもそうですし、イサクとイシュマエル、ヤコブとエサウ、ヨセフと兄たちと、創世記の中だけでも繰り返し出てくるテーマです。

 ひと頃、「人類みな兄弟」ということがよく言われましたが、たしかに聖書によれば、世界のすべての民は、ノアの子孫であり、兄弟に違いありません。

 創世記第10章を見てみましょう。2〜5節にはヤフェトの子孫が記されています。いろいろな名前が出て来ますが、2節の《メディア》は、現在のイランにメディア王国を設立した人たちの祖先でありましょう。4節には《タルシシュ》という名前がでてきます。預言者ヨナがニネヴェに行きなさいという神様の命令に逆らって、タルシシュ行の船に乗ったという話が有名です。タルシシュは、現在のトルコのタルススと考えられまして、それはまたパウロの生誕の地であるタルソスでもあります。他の名前はあまり馴染みがありませんが、こうしてみますとヤフェトの子孫は、中央アジアやヨーロッパに住む人々の先祖であったようです。

 次に、6〜20節にハムの子孫が記されています。ハムの子はエチオピア、エジプト、リビア、カナン(パレスチナ)です。このなかで異質なのがカナンでありまして、エチオピア、エジプト、リビアはみなアフリカの人たちということなります。ただ、カナンだけがアフリカではないのですが、先ほどのカナンは兄弟に仕えるというノアの呪いから、アフリカ系に属していると言われています。

 それから21〜31節は、セムの子孫です。セムの系図については、11章10節以下にもう一度記されておりまして、そこからアブラハムが誕生しています。つまりセムは、ユダヤ人の先祖でもあるわけです。けれども、10章には、そのことがまったく記されていません。もちろん、この系図が、ヤフェト、ハム、セムという順番になっており、11章のセムの系図すなわちアブラハムの系図につながることを意識していることに違いはありませんが、10章の段階では、神様が選ばれた民としてユダヤ人の優位性は、少しも主張されていないのです。そして、32節には、こう記されています。

 ノアの子孫である諸氏族を、民族ごとの系図にまとめると以上のようになる。地上の諸民族は洪水の後、彼らから分かれ出た。

 つまり、この10章で言いたいことは、セムがユダヤ人の祖先であるということではなく、地上のすべての民は、ノアの子孫であり、まさに「人類みな兄弟である」ということなのです。

 しかし、だから、みんな仲良くすべきだ、仲良くできるはずだということが言われているのではありません。聖書は、兄弟というものに、そんなに楽観的ではないのです。みんな兄弟であるにもかかわらず、最初の兄弟であるカインとアベルから今日に至るまで、常に敵対しあっているが、兄弟の姿であると言っているわけです。

 
父と母を敬え
 では、なぜ兄弟が敵対しあうのか。それは、親を敬うことができないからだというのが、ノアの子らの物語で語られていることです。第9章27節に、《神がヤフェトの土地を広げ、セムの天幕に住まわせ》と記されています。父を敬い、その恥を覆い隠したセムとヤフェトは同じ天幕に住むであろうということです。それに対して、父を軽んじたハムの子カナンは兄弟と共に住むのではなく、兄弟に従属させられることになります。兄弟は、親によって繋がっているのです。命の源を分かち合っていること、それが兄弟を兄弟たらしめることであるということなのです。

 しかし、イサクとイシュマエルの争いは、明らかに親に問題がありました。ヤコブとエサウの争いも、ヨセフと兄弟たちの争いも、親の問題です。つまり、兄弟の関係を壊しているのは、親自身であるという場合があるのです。それだけ、兄弟の問題は、一筋縄でいかない複雑な問題なのです。

 今日のパレスチナ問題も、兄弟の問題だと言ってもいいでしょう。しかし、ノアによるカナンの呪いを根拠に、イスラエルを正当化することは難しいと思います。カナンを呪ったのは、ノアであって、神様ではないからです。神様の御心は、決して兄弟が互いにいがみ合うことではありません。共に愛し合い、平和に生きることに違いないのです。

 放蕩息子と呼ばれるイエス様のたとえ話があります。ここにも対立する兄弟がでてきます。そして、それを和解させようとする父親がでてきます。イエス様は、この話によって、ユダヤ人も、そうでない者も、同じように自分の子供として愛してくださる神様の姿を、私たちに教えてくださっているのです。

 パウロは、このすべての民族、人間に、いのちを与え、父として愛してくださる神様を、アテネの人たちにこう伝えました。

 神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。皆さんのうちのある詩人たちも、
 『我らは神の中に生き、動き、存在する』
 『我らもその子孫である』と、
言っているとおりです。


 どの国家も、どの民族も、神様から生まれ、神様によって存在しているのです。しかも、それは神様の創造の御業というだけではありません。これまで学んできましたノアの物語、洪水の物語から考えますと、この地上にいるすべての民は、ノアの子孫です。《地上の諸民族は洪水の後、彼らから別れ出た》という言葉の意味するところは、罪ある者をそのままでゆるし、共にあろうと決心してくださった神様の、大いなる恵み、救いによって、すべての民族は存在するということです。

 そして、神様は、すべての民に、イエス様をお与えくださいました。放蕩息子のたとえ話で、父親が帰ってきた放蕩息子のために子牛を屠ったというのは、そういうことを意味しているのではありませんでしょうか。
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