天地創造 58
「ノアの祈り」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 創世記 第8章1〜14節
新約聖書 フィリピの信徒への手紙4章6-7節
み言葉の守り
 前回は、箱舟についてお話をしました。その際、注目したのは、「神様が命じられたとおり」(6章22節、7章5節、9節、16節)と、繰り返して語られていることです。箱舟を作ることも、動物たちを集めるのも、それに乗り込ませることも、すべては、神様のお言葉にしたがって行われたのです。箱舟の本質は、御言葉です。ノアが洪水から救われたのは、船のなかにいたからではなく、神様のみ言葉の守りのうちにいたことによるのです。

 別の言い方をしましょう。ノアは、自分を大洪水から救うために、何も考えず、何もしませんでした。それはただ座っていたという意味ではありません。ノアはひたすら行動しました。しかし、箱舟の材料、尺度、設計を考えたり、選んだりはしませんでした。箱舟に乗せる人間、動物、その種類、数などについて思案したりもしませんでした。

たとえば、皆さんはスーパーでお買い物をするとき、どこの店で買うのか、何が必要であるか、どれだけ必要であるか、どれを選ぶか、そういうことをご家族の健康や好みや、季節や、家計との兼ね合いはどうであるかなど、いろいろなことをお考えになると思うのです。しかし、子どものお遣いの場合は違います。お母さんの教える店に行き、買い物リストに書いてあるものを選び、渡されたお金を支払って、それを持ち帰ってくるだけです。

ノアの場合も、ちょうど子どものお遣いのようでした。大事なことを考え、決定したのは、すべて神様です。それに対して、ノアは、いわれたことを忠実に行うことに専心しました。神様が、大洪水の計画を明らかにされたときも、箱舟を作りなさいとお命じになったときも、ノアは、御言葉のとおりに従いました。箱舟に乗るときも、御言葉のとおりに従いました。

ノアの卓越したところは、ここにあります。子どもっぽいと思われるまでの単純さと、信頼をもって、神様に従ったのです。そして、それがノアを救ったのでした。船のなかにいたからではありません。み言葉のなかにいることによって、ノアは救われたのです。

 わたしたちには、なかなかこの単純さが持てません。箱舟を作れと言われれば、「そんなお金はない」、「わたしは船大工ではない」、「もっと小さいのではダメなのか」、挙げ句の果てには「そんなことをして、何の意味があるのか」とまで言い出してしまう。箱舟に乗れと言われても同じことです。「あの人を連れて行ってはいけないのか」、「こんな動物は連れて行きたくない」、「いつまでこんな船のなかにいればいいのか」と言い出す。私たちは知恵もなく、力もないものですが、口だけは達者です。すべては神様のうちに答えが用意されている、と信じられないからです。この不信仰が、私たちの人生の平安のなものにし、不足に満ちたものにし、余裕のないものにし、不自由なものにしているのです。
見捨てられてはいない
 もうひとつ、前回、注目したみ言葉があります。7章16節、17節に記されている《箱舟は大地を離れて浮かんだ》《箱舟は水の面を漂った》というみ言葉です。箱舟が、大洪水のなかで、いかに心許ない状況にあったかということが記されています。神に信頼して、み言葉に生きることは、必ずしもこの世的な安定を約束しないということです。

 聖書によれば、この世は荒れ野です。生きるとは、いばらの道をゆくことなのです。それは、どういうことでしょうか? 神様は、人間に必要なすべてのものを備えたエデンの園をつくり、そこに人間を住まわせました。そこは神様がいつも人間の近くにいまして、その足跡まで聞こえるほどでした。人間は、最初、このような楽園に生きていたのです。しかし、神様のみ言葉を守らなかったために、エデンの園を追放され、園の外で生きる者となってしまいました。神様は、人間がそこで負うべき運命について語られます。『創世記』3章16〜19節をお読みします。

 神は女に向かって言われた。
「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。
 お前は、苦しんで子を産む。
 お前は男を求め
 彼はお前を支配する。」
 神はアダムに向かって言われた。
「お前は女の声に従い
 取って食べるなと命じた木から食べた。
 お前のゆえに、土は呪われるものとなった。
 お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
 お前に対して
 土は茨とあざみを生えいでさせる
 野の草を食べようとするお前に。
 お前は顔に汗を流してパンを得る
 土に返るときまで。
 お前がそこから取られた土に。
 塵にすぎないお前は塵に返る。」


 これが、今も私たちが生きるために負っている人間の運命です。この世が荒れ野であるとは、そう意味です。荒れ野とは、生きることを拒む場所です。その中で、なお生きていかなければならないとすれば、それは、必ず労苦して生きるということです。労苦が無駄になることもある。しかし、労苦せずに生きることはできないのです。ノアはもちろんのこと、私たちもそうなのです。

 しかし、生きることが、これだけのことにすぎないならば、ニヒリズムに陥ってもおかしくありませんが、聖書はもう一つのことを、わたしたちに教えています。神様は、私たちを見捨てられたのではないということです。神様は、なおわたしたちを御心に留められ、み言葉をもって語りかけてくださる。そして、荒れ野の中にあってもなお、私たちが神様の御守りのうちに生きることを得させて下さるのです。

 《箱舟は水の面を漂った》とは、人生の荒れ野にあっても、なお神様のみ言葉の守りにうちにあることが許された、私たちの信仰生活を表しているのです。そこには、ある意味で心許なさが伴います。しかし、7章23節に《箱舟にいたものだけが残った》と言われ、そして8章1節にこう続くのです。

 神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた。

 大洪水の上を漂うばかりの箱舟でありますが、神様は、その箱舟の中にいるものすべてを心に留めていてくださる。そこに、箱舟にいるものの平安があるわけです。

 ちょっと話が脇道にそれますが、神様が御心に留められたのは、箱舟のなかの人間だけではなく、動物たちを含めてすべてである、と記されています。皆様の家にも、もしかしたら犬や猫や小鳥などがいるかもしれません。皆さんがご家庭において祈られるとき、神様は、皆さんの家にいる動物たちにも御心を留めてくださる。そういうことを、ここから読み取ることもできるのではないでしょうか。
ノアの祈り
 さて、洪水はノアが600歳のとき、2月17日に始まりました。雨は、40日日40夜、降り続き、150日の間、水の勢いは失われなかったと記されています。

 しかし、150日が過ぎると、次第に水が引き始めます。そして、5ヶ月後の7月17日、箱舟はアララト山の山頂に止まりました。このアララト山は、5000メートル級の山が連なる山脈のことで、チグリス川上流の北側にある山脈のことです。当時のオリエント世界では世界で最も高い山とされていました。そこに坐礁するような形で、箱舟が止まったのでしょう。

 さらに3ヶ月がたった10月1日には、山々の頂が顔を出すほど水が引きました。それはちょうど海の中に浮かぶ島のように見たかも知れません。

 それから40日が経ったとき、ノアは箱舟の窓を開き、カラスを放ちました。しかし、カラスは箱舟のまわりを行ったり来たりするばかりでした。次に、ノアは鳩を放ちます。なぜ、こんどは鳩なのか? おそらく鳩のほうがずっと長く飛ぶことができたからでしょう。ノアがカラスや鳩を箱舟から放ったのは、《地の面から水が引いたかどうかを確かめようとした》からであると言われています。ところが、鳩は止まるところを見つけられず、箱舟に戻ってきてしまいました。

 一週間後、ノアは再び鳩を放ちました。夕方になって、鳩が戻ってきます。鳩は、くちばしにオリーブの葉をくわえていました。このオリーブの葉は、どれほどノアを喜ばせ、慰め、励ましたことでありましょうか。その喜び、興奮を示すかのように、《見よ、鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえていた》と、聖書は語ります。鳩が、箱舟の外から運んできた一枚の緑の葉っぱは、神様が自分たちを覚えていてくださるという印であり、大洪水のなかを箱舟で漂うという、心許ない旅の終わりが近づいている、つまり救いの日は近いという希望の印となったのでした。ノアはそれをまだ自分の目で見ることはできませんでしたが、鳩がくわえてきたオリーブの葉っぱが、それを物語っているのです。

 ノアは、一週間後、再び鳩を放ちました。すると鳩はもう箱舟には戻ってきませんでした。戻ってこないということは、鳩が自分の住みかを見つけたということでありましょう。ノアはそのことを思って、さらに喜びを深くしたに違いありません。

 このノアと鳩のエピソードは、ノアの姿が活き活きと描かれているのが特徴です。これまで、ノアは自主的に行動するというよりも、子どもっぽい単純さをもって、いわば盲目的に神様を従ってきました。その分、ノアの姿は、神様の大きな御業のうちに隠れていたのですが、ここでは箱舟の窓を開けたり、カラスじゃだめだと思って鳩を放ったり、戻ってきた鳩を手を差し伸べて迎えたり、一週間ごとに鳩を飛ばして地表の様子を探ったりしています。

 これらのことは、神様の命令に従ってしたことではありません。かとって、御心を試そうとしたり、逆らおうとしているのでもありません。ノアは、神様が箱舟から出て来なさいというまで、箱舟に留まっていました。従って、これはノアの祈りなのです。神様の救いの御業に期待し、再び地に降り立つ日を待ち望む、ノアの祈りです。一週間ごとに神様の御業を確かめようとするところなどは、日曜日毎に捧げられる礼拝にも似ているかもしれません。

 しかも、この祈りは、言葉ではなく、行動と結びついています。たとえ言葉がなくても、私たちの生活、生き方、考え方が、神様への祈りとして届くのです。祈りとは、言葉であるにしろ、行動であるにしろ、神様に向かう私たちの心の表れです。それは、大洪水を漂う箱舟に生きるノア、荒れ野にあって神の守り無くして生きていけない私たちにできる、唯一のことなのです。神様が私たちに御心を留めてくださることを信じ、祈りの生活を送りたいと願います。
目次

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