天地創造 57
「箱船」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 創世記 第7章1〜24節
新約聖書 マタイによる福音書 24章1〜51節
ノアの箱船計画
 前回は、神様が創られた境界線のお話しをしました。天地創造の御業は、境界線をひくことにあったのだ、と言っても言い過ぎではありません。形もなければ、区別もない、そうした混沌のなかに、神様が「このようにあれ」と、境界線を引き、形と秩序をお与えになったのです。それによって、混沌とした世界は、存在の豊かさと相互関係の秩序を持つようになりました。

 しかし、『創世記』第6章5-7節には、こう記されていました。

 主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」

 こうして、大洪水が引きおこされることになったのです。この大洪水は、世界を滅ぼすというだけの話ではありません。洪水が意味するのは、境界線の決壊です。それは、世界の創造者であり、恵みをもってこれを保持されている天の父であることを、神様が放棄されることによって起こります。単に世界を滅ぼすだけのことならば、ほかにもさまざまの方法がありましょう。しかし、この時、この世界は、神様に見捨てられたのです。それを物語るのが、大洪水です。この世界を形作るために自ら定め、保ってこられた境界線を、神様が決壊させた物語、それが大洪水です。

 しかし、その時にもなお、神様はノアに心に留められました。そして、神様は、破滅のただなかで、ノアとその家族、また動物たちの種を救おうと、救いの計画を立てられます。それがノアの箱舟計画でした。

 神様は、ノアに箱舟を作るようにお命じになりました。ノアは、それに応えて、神様の指図どおりに船を作ります。長さ133.5メートル、幅22.2メートル、高さ13.3メートルもある三階建ての大きな船でした。その中にはたくさんの小部屋があり、内側からも外側からもしっかりとタールが塗られました。神様は、さらにノアとその家族、またすべての動物たちを種類にしたがってひとつがい、あるいは七つがいずつ、その箱舟の中に入るようにお命じになりました。ひとつがいなのか、七つがいなのか、よく読むと記事が錯綜していますが、あまり気にしないことにしたいと思います。要は、世界を覆い尽くす大洪水から、ノアとその家族、動物たちの種を守り、箱舟に乗せて、生き延びさせようとされたということなのです。
救いの境界線
 果たして、ノアや動物たちが箱船に乗り込むと、地上に大雨が降り出しました。第7章11節には、《大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた》と、まさに神様の支えておられた境界線が決壊した様子が描かれています。他方、ノアたちが乗り込んだ箱舟については、16節に《主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた》と語られます。

 11節の《開かれた》という言葉と、16節の《閉ざされた》という言葉によって、この時に起こった出来事の本質が見えてきます。つまり、天の窓が開かれる、境界線が開かれて大洪水にのみこまれていく世界において、神様は、一時的に、神様によって閉じられた境界線の中に、ノアと動物たちを囲いこんでくださったのです。それが箱舟です。

 さらに言うならば、この箱舟は、「神様のみ言葉」を表しています。第6章22節に、《ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした》とあります。第7章5節にも、《ノアは、すべて主が命じられたとおりにした》とあります。さらに読み進んでまいりますと、第7章9節に《神がノアに命じられたとおりに》とあります。第7章16節にも《神が命じられたとおりに》とあります。ノアにとって、箱舟を建設することも、動物たちを連れて乗船することも、すべては神様のみ言葉に従うことだったのです。そのことが、彼らを救ったのです。箱舟という構造物が救ったのではありません。み言葉に従って歩み、み言葉のうちに留まることが、たまたま箱舟を作り、それに乗り込むことだったのです。ですから、本質的を捉えて言えば、箱舟ではなく、み言葉が、彼らを救ったのです。

 反対に、洪水にのみこまれてしまった人たちのことを、考えてみましょう。大雨は、四十日四十夜降り続きました。人々は、自分が洪水にのみこまれるまで、ただ指をくわえて待っていたわけではないでしょう。なんとか自分の命や家族の命、あるいは家畜や財産を守ろうと、いろいろなことを試みただろうと思います。高いところに逃げるとか、ノアのように船に乗った人もいるに違いありません。船を持たない人は、ノアの箱舟を乗っ取ろうとしたかもしれません。いずれにせよ、あらん限りの努力をしたに違いありません。しかし、そういう人間の知恵や努力もろとも、大洪水にのみこまれてしまうのです。
漂う箱船
 もう一つ、私たちが覚えなければならないことがあります。17〜18節にこう書いてあります。

 洪水は四十日間地上を覆った。水は次第に増して箱舟を押し上げ、箱舟は大地を離れて浮かんだ。水は勢力を増し、地の上に大いにみなぎり、箱舟は水の面を漂った。

 《箱舟は大地を離れて浮かんだ》《箱舟は水の面を漂った》とあります。たしかに箱舟は、大洪水に呑みこまれないで済みました。しかし、大洪水の上に浮かび、漂っているだけとは、あまりにも心細いではありませんか。また、箱舟の中の居心地は、どうであったでしょうか。きっと快適とはいえないでしょう。閉ざされた空間の中で、限られた人たちと共に、多くの動物たちの世話をしながら過ごすのです。箱舟には、このような心細さ、居心地の悪さを、耐え忍ぶ必要がありました。ノアや動物たちは、洪水が引き、箱舟から下船できるようになるまでの約一年のあいだ、このような状態に留まらなければならなかったのです。

 神様のみ言葉に従って生きようとするとき、私たちも、このような心細さ、窮屈さというものを経験します。たとえば、「祈りは、ほんとうに聴かれるのか。奇蹟は本当にあるのか。聖書の言葉を真に受けて、本当にこの世を渡っていけるのか。神様に祈るよりも、世の知恵、世の力に頼んだ方が着実のような気がする」とか、「クリスチャンになると、見方が狭くなるし、窮屈な生き方をしなければならない。聖書もいいけど、わたしはそれに限らずもっと広い考え方、自由な生き方をしたい」とか、こういう思いは、神様を信じ、そのみ言葉に従いたいと願っているクリスチャンのうちにも、誘惑として、起こってくる心細さや不安です。

 しかし、第7章23節にはこう語られています。

 地の面にいた生き物はすべて、人をはじめ、家畜、這うもの、空の鳥に至るまでぬぐい去られた。彼らは大地からぬぐい去られ、ノアと、彼と共に箱舟にいたものだけが残った。

 《ノアと、彼と共に箱舟にいたものだけ》が、洪水の滅びを免れて残ったのです。み言葉に生きることにも、心細さがあり、窮屈さがあるだろうと思います。けれども、み言葉を離れても、そこにみ言葉以上に、確かなものがあるわけではありません。自由な生き方があるわけでもありません。むしろ、そこにあるのは滅びです。

 日本人として最初にノーベル賞を受賞された湯川秀樹氏の「自然と人間」という随筆があります。

 自然は曲線を創り、人間は直線を創る。往復の車中から窓外の景色をぼんやり眺めていると、不意にこんな言葉が頭に浮かぶ。遠近の丘陵の輪郭、草木の枝の一本一本、葉の一枚一枚の末にいたるまで、無数の線や面が錯綜しているが、その中に一つとして真直ぐな線や完全に平らな面はない。これに反して、田園は直線をもって区画され、その間に点綴されている人家の屋根、壁等のすべてが直線と平面とを基調とした図形である。(現代の随想29  井上健編『湯川秀樹集』)

 なるほど、自然は曲線を創り、人間は直線を創るとは、その通りだと思います。言い換えれば、神様が創る境界線は曲線であり、人間が作る境界線は直線だということです。直線の方が、扱いやすいからです。

 けれども、神様が引かれた境界線を無視して、自分たちが扱いやすいように自然を直線で区切っていった結果、環境破壊ということが起こってきたと言えないでしょうか。環境破壊だけではありません。先週は、共同体の崩壊、アトム化したハイパー個人主義の台頭ということを申し上げました。人間が、これがいいと思って引いた直線的な境界線が、自然の境界線を切り刻み、崩壊させてしまっているのが、現代ではないでしょうか。もちろん、これではならないと、境界線を引き直したりするのですが、それも人間の手によることであって、うまくいきません。神が作ったものを壊して、人間がそれにまさる別のものを作るなんて事は不可能なのです。

 湯川秀樹氏は、さらにこいうことをおっしゃっています。

 人間の肉体もまた複雑微妙な曲線から構成されている。しかし人間の精神はかえって自然の奥深く探求することによって、その曲線的な外貌の中に潜む直線的な骨格を発見した。実際今日知られている自然法則のほとんど全部は、何等らかの意味において直線的なものである。しかし、さらに奥深く進めば再び直線的ではない自然の神髄に触れるのではなかろうか。(同上)

 曲線によってできた自然は、どうしてこんな余計な形をしているのだろう、どうしてこんな無駄なものがあるのだろう、と不思議に思うこともあるのですが、もっとよく自然を知ると、そこに何らかの意味があるのです。そして、知れば知るほど、自然というのは極めて単純で、合理的な法則のうちに存在しているということが分かってきます。それが科学の面白いところでありましょうけれども、湯川氏はさらにその先を見据え、《しかし、さらに奥深く進めば再び直線的ではない自然の神髄に触れるのではなかろうか。》と結んでいるわけです。分かったように思えても、実はさらに深いものをもっている。それは神秘としか言いようのないものでありましょう。言いかえれば、神のみぞ知るということです。

 そういう、神様の計り知れない知恵によって作られた世界のなかに、私たちは生きています。神の知恵は、分かるとか分からないという次元の問題ではなく、この神の知恵に対して、畏敬の念を持つかどうか、という問題です。何でも人間が知恵と力で扱うことができると思うのは、間違いなのです。湯川秀樹氏のように賢人が言うのですから、私たちは何をか言わんや、です。

 神様のみ言葉もそうです。分かるとか分からないではなく、畏敬の念を持つということが大切です。そして、謙遜な心で依り頼むことです。イエス様は、《天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。》(『マタイによる福音書』24章35節)と言われました。いかなる世界、いかるなる人生においても、神様のみ言葉のうちに留まっていることが、私たちを、神様の保護のうちに留まらせることになるのだ、と信じたいと思います。

 たとえみ言葉に生きることに、本当にだいじょうぶだろうか、これでいいのかという、心細さや窮屈さがつきまとうとしても、それは決して永遠のものではありません。やがて、私たちはみ言葉に導かれて、広くて確かなところに放たれるのでありましょう。イエス様はこう言われました。《最後まで耐え忍ぶ者は救われる。》(『マタイによる福音書』第10章22節)
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