天地創造 42
「失われた楽園」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 創世記 第3章20〜24節
新約聖書 ヘブライ人への手紙 第12章1〜13節
死のもつ二つの顔
 神様は、「園の中央にある木の一つ、すなわち善悪の知識の木から取って食べてはならない。それを食べたなら、あなたは死ぬだろう」と、アダムとエバに警告なさいました。それを、アダムとエバは食べてしまいます。しかし、彼らは死にませんでした。その代わりに、死ぬべき運命が、彼らに課せられることになったのでした。

 ある意味、それは即死よりも辛い罰であるかもしれません。死の運命を背負いながら生きていくことは、どんなに人生を善きものにしようと努力をしても、最期にはすべてが死によって自分から離れ去ってしまうからです。かならず訪れる死が、財産、名誉、地位はもちろんのこと、大切にしてきた愛する人々との交わり、人生に対するさまざまな期待、楽しみといったものを、断ち切り、奪い去ってしまうのです。

 それは生を無意味なものにしてしまいます。なぜ、わたしは生まれてきたのだろうか。何のために生きなければならないのだろうか。生きることにどんな意味があるのだろうか。誰もが一度はこんなことを考えたのではないでしょうか。人生は、結局、死で終わるのです。

 他方で、死が救いであることがあります。こんな事件がありました。難病で苦しむ妻から、死なせてくれ、自分では死ぬ力がないから、あなたが殺してくれと、何度も何度も頼まれ、妻の死ぬほどの苦しみを見るに見かねて殺してしまったという事件です。妻を愛してやまない夫が、殺人罪で裁かれるのは、なんとも割り切れない思いがしたことを記憶しています。

 わたしは、苦しいのを我慢して生きる必要はないなどと言っているのではありません。生き方や考え方さえ変えられれば、もう一度やり直せる可能性を残して人生の半ばで死を選んでいく人たちがたくさんいます。それを、とても残念に思います。しかし、よくがんばった。もう楽になって欲しい。人をそんな気持ちにさせるような苦しみがあります。死ぬことだけが苦しみから逃れる唯一の道であるということも、確かにあり得るのではないでしょうか。

 26日の木曜日、Tさんの容態が悪いと、ご家族から知らせを受けました。すぐにお見舞いに伺いますと、Tさんは酸素マスクをつけ、非常に苦しそうな姿勢で寝ておられました。そのお姿をみながら、わたしはあまりよくないことを考えてしまいました。若い頃から今日至るまで、イエス様を愛し、忠実に信仰に生きておられたTさんの最期が、こんなに苦しく、惨めなものでいいのだろうか? Tさんほど教会の兄姉姉妹を愛し、祈ってこれた方はありません。それなのに、教会にもいけなくなり、祈る力さえなくなってしまう。わたしも、やがていつの日にかこのように何も出来なくなり、弱々しい体をさらして、病院で亡くなっていくのだろうか。そんなことを考えて、とても切ない気持ちになったのです。

 家に帰り、一時間ほどすると、Tさんのご長男からふたたび電話がかかってきました。「いま、口から血をはいて、息が止まりました」と。わたしはすぐに病院に行きました。そして、死後の処置がされ、体を清められたTさんの前に立ち、顔にかけられた白い布をそっと取り去りました。その時、わたしが見たのは、つい一時間ほど前にみた、苦しそうなお顔ではなく、教会にいらしていた頃の、あの穏やかな高橋さんのお顔でした。ここ二、三年、高橋さんは、いつもお体の痛みに苦しんでおられました。お体が思うように動かせないことを悲しんでおられました。また、そのようなことから来る様々な思い煩いに悩んでいました。けれども、亡くなられた時のTさんのお顔は平安そのものだったのです。

 人の死に立ち会うことの多い私ですが、そのお顔を見て声をあげて泣いてしまいました。お元気だった頃の懐かしい姿を思い出したのも事実です。しかし、すべての苦しみから解放されて、今、高橋さんが愛してやまないイエス様のもとに行かれたのだということが、そしてこれがキリスト者の死なんだということが、大きな感動として、胸に打ち寄せてきたのです。

 死には、相反する二つの顔があります。どんな人生をも台無しにしてしまう恐ろしい裁きとしての顔と、私たちを生き地獄から解放し、安息をもたらすものとしての顔です。そして、私たち人間が、このような苦しみと慰め、戦いと安息、苦しみと救いという二つの顔をもった死を、運命として背負い、その死に翻弄されながら生きるようになってしまったいきさつが、私たちが読んで学んでおります『創世記』3章に語られているのです。

祝福された呪い
とくに、神様が罪を犯したアダムとエバ、そしてふたりを騙した蛇に対して語られた呪いの言葉(これは呪いでもあり、祝福でもあるというお話しはすでにしてありますが)、そこには、生きることの苦しみや痛みが語られています。男女が愛し合い共に生きること、子どもを産むこと、働くということ、食べるということ、こういったことは本来、命の喜びに属することで、祝福として、アダムとエバに与えられていたものでした。それが、痛み、苦しみ、悩みによって支配された人生の重荷となると語られているのです。実際、私たちが、人生において遭遇する苦難や悲しみと照らし合わせてみますと、まさにここで語られている呪いの言葉が、私たちの人生を支配しているのだと気づくに違いありません。

 しかし、20〜21節をみますと、「おや?」と思うようなことが書いています。

 アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。

 苦しんで子を産む運命を授けられたエバに、《すべて命あるものの母》という、たいへん素晴らしい称号が冠せられています。つまり、生むことは苦しみであるけれども、それでもなお、それは神様に祝福されたものであり、女性の喜びであり、名誉であることが、ここに語られているのです。

 また、ふたりは善悪の知識の木の実を食べた後、裸を隠すために、無花果の葉っぱを綴り合わせた腰巻きをしていたのですが、神様が皮の衣を作って着せてくださったと語られています。罪を犯した人間が、自らを恥じ、それを覆い隠そうとすることはわかります。しかし、神様みずからが、その罪を覆い隠してくださるとは、いったいどういうことなのでしょうか。

 人間が自らつくった無花果の葉っぱによる腰巻きは、すぐに萎れてしまうものですし、その度に造り直さなければなりません。実際、私たちは自分を隠すために常に新しい覆いを用意するようなことをしているのです。それに対して、神様が着せてくださった皮の衣は、無花果の葉に較べたら半永久的で、完全に近い衣です。さらに、皮で作られた衣は、アダムとエバのために動物が殺されたことを、暗に物語っています。必ず死ぬと言われたアダムとエバが生かされたばかりか、ふたりのために動物が殺され、その皮で彼らの恥が覆われたのです。

 このことを思うとき、わたしはイエス様の贖罪を思い起こさずにはおられません。新約聖書には、「イエス・キリストを着る」という言い方もあります。まさに私たちの罪を覆うものとして、イエス様は十字架にかかり、自らのいのちを神様に捧げてくださったのでした。神様は、当然、私たちの罪を追及し、曝き、相応の裁きを与えることができる御方です。しかし、神様はそれをしないのです。それどころか、私たちの罪を、恥を、覆ってくださるのです。

 こうして見ますと、人間は罪のゆえに苦しみ、死の運命を背負わなければならいとしても、なお神様の愛と祝福の中に留まっているのだとわかります。別の言い方をすれば、私たちがどんなに罪深い者であり、神様から遠く離れて生きる者であっても、なお神様の愛と祝福を期待することができるということなのです。そして、そのように苦しみつつ、死の運命を担いながら、なお神様と祝福を期待しつつ生きるということ(それは、アブラハムのように望み得ないことを望みつつ信じるということにも匹敵することですが)、そのようにして生きることに、また死ぬことに、私たちが神様のもとに帰る道が隠されているのではありませんでしょうか。

命の木
 さて、22〜24節には、神様がアダムとエバをエデンの園から追放されたこと、さらに彼らが永遠に生きる者となることをおそれて、命の木に至る道をケルビムという番人によって守られたということが記されています。

 主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。 こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。

 人間は、こうして大切なものを失ってしまいました。先日の水曜日、聖書の学びと祈り会で、「愚かな金持ち」というイエス様に譬えについて学び、そこで貪欲についてお話しをしました。イエス様は「貪欲に注意し、用心しなさい」と教えられたのですが、貪欲とは、裏返していえば、それだけ人間には満たされることなき渇望があるということです。この満たされる事なき渇望は、楽園の喪失に由来しているのです。

 17世紀の科学者であり、思想家でもあったパスカルは、人間の心の奥深いところには、神のかたちをした空洞があると言っています。この空洞は神以外の何物を入れても、決して満たされない空洞であるとも言います。人間の心の中には、貪欲ではなく、空しさがあるのです。そして、その空しさは、お金がないとか、力がないとか、そういうことではなく、本来、人間にあるべき神様との親しき交わりがぽっかりと失われていることにあるのです。しかし、それを他のもので埋め合わせようとするものですから、埋めても埋めても満たされない貪欲となって現れるのです。この自分の中の空しさ、そして渇望を満たすのは、神様をもって満たされることしかないのです。

 確かに、私たちは楽園を追放された身です。新約聖書には、そのような私たちに対する大きな希望の言葉が記されています。どこをお読みしようか迷いましたが、『ヘブライ人への手紙』12章2節に、《信仰の創始者また完成者であるイエス》とあります。望みを失ったものが、なお望みつつ信じることができるようにしてくださる希望、それが信仰の創始者ということです。わたしたちは、イエス様によって、自分のような者も信じていいんだ、信じることができるのだと、知ることができるのです。そして、イエス様はまた信仰の完成者であると言われています。ただ信じることが許されているだけではなく、その信仰を守り、支え、実現してくださる方なのです。このイエス様を見つめながら、私たちは神様に帰る道を歩むのです。そして、イエス様と共に神様の国に入るのです。
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聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
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