天地創造 37
「善悪の知識がもたらす悲劇」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 創世記3章6〜7節
新約聖書 マタイによる福音書 18章10〜14節
悲劇
 神様は、《善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう》(『創世記』第2章17節)と言われました。しかし、蛇はこう言いました。《決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ》(『創世記』第3章4〜5節)エバは、この神様の言葉と蛇の言葉の間で揺れ動き、ついに善悪の知識の木の実を食べてしまったのです。そればかりか、一緒にいたアダムにもそれを渡し、食べさせてしまうのでした。

 自分がタブーを犯すだけではなく、他人にもそれを犯させてしまう。このように神様との関係が壊れると、ただちにそれは隣人との関係に影響を及ぼします。このことについて、前回お話しをしました。今日は、さらに進んで、二人の身に何が起こったかということを、読んで参りたいと思います。

 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。(7節)

 蛇が言ったように、二人は善悪の知識の木の実を食べても死にませんでした。それどころか、蛇が言ったようにふたりの目は開けたというのです。けれども、目が開けて起こったことは悲劇でありました。彼らは、目が開ければ、今まで以上に素晴らしい世界が見えるようになる、と期待をしたに違いありません。しかし、彼らの目にまず見えてきたのは、まったくみすぼらしい自分たちの姿であったのです。

 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。(7節)

 彼らは慌てて、自分たちの裸を隠しました。素裸の自分を恥ずかしいと思ったのです。そして、いちじくの葉を綴り合わせて腰巻きをつくり、裸を隠します。しかし、いちじくの葉は朝には青々としていても、夕方にはしなびてしまいます。彼らは、毎朝、新しいいちじくの葉を集め、自分を隠すことから、一日を始めなければならなくなってしまったのです。

 このことが善悪の知識とは何かを物語っています。「恥ずかしい」ということは、自分が否定されるような批判の目をそこに感じるからでありましょう。誰が自分を批判するのでしょうか。二人は神様に対して罪を犯したのでありますから、神様からの批判の目を感じるということもありましょう。アダムがエバを、エバがアダムを批判するということもあるかもしれません。また自分が自分を批判するということもあると思います。神様、隣人、そして自分自身の目から、自分を否定するような批判の目を感じるようになり、自分を覆い隠さずにはいられなくなってしまったのです。

 そして、彼らはいちじくの葉で自分を隠し、批判の目をかわそうとします。要するに、それは自己義認の業です。なんとか自分を善なるものに見せたいのです。そうではないということを知っているからこそ、いろいろなもので自分を飾り立て、隠しながら、自己義認の虚勢をはるのです。

 ところが、いちじくの葉はすぐに枯れてしまいます。ですから、いつも自己義認に心を配り、新しい覆いをもって本当の自分を隠さなければならなくなります。どうしたら自分は批判されないで済むか? どうしたら善なるものとして見てもらえるか? そういう恐れや不安が、神様と関係において、また対人関係において、つねに支配するようになってしまうのです。

 もう少し深読みをしてみたいと思います。裸であることを恥じるとは、自分のあるがままの姿を恥じるということだろうと思います。とくに、彼らがいちじくの葉で覆った場所は腰でありました。つまり、彼らが恥じたのは、自分たちの生殖器であったのです。神様は「生めよ、増えよ」と人間が地に満ちることを願い、祝福されました。しかし、彼らはそれを恥ずべきことしたのです。

 それから生殖器というのは、人間の場合、子孫を残すためだけの器官ではありません。2章24〜25節にこう記されています。

こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。

 互いに愛し合うものが結ばれ、一つとなる性の交わりが、そこにはあるのです。これもまた神様に善きものとして与えられたものでありますから、二人は少し恥じることはなかたのです。しかし、善悪の知識の木の実を食べた後には、そこに恥が入り込んでしまったということになります。

 子孫を残すことも、愛し合う者が互いに交わることも、いのちに対するまったき肯定であり、神の祝福です。それが恥べきものになってしまった。それは人間関係における恐れや不安というだけではなく、誰とも自分を分かつことができない孤独を抱えた人間、他者と交わることができない孤立した人間を生み出したということなのです。
無知のままでいるべきだったのか
今日の話はこれで終わってもいいのですが、もうひとつ踏み込んで考えてみましょう。善悪の知識の木の実を食べた結果、確かに人間の目は開けたのですが、それは決して幸せなことではなかった。むしろ、自分を否定し、他者を否定し、互いに自己義認の虚勢を張って生きる恐れと不安、そして孤独な存在になってしまった。それは、人間は善悪を知らない方が幸せであったことを、意味します。神様は、確かに、善悪の知識の木から実を取って食べてはいけないと言われました。つまり、そのような知識を持つことを、神様は望んでおられなかったなのです。

 善悪の知識を持つことは、そんなに悪いことなのでしょうか。善悪を知らないからこそ、エバは蛇の邪悪な誘惑に、無邪気に引き込まれてしまったと言えます。人間にとって善悪を知らないということは、決していいことではないように思うのです。

 これは少し難しい問題だと思いますが、神様の御心は、善悪という理性的なものによってではなく、愛という情感的なものによって、神様と人間の関係、人間と人間の関係が結ばれることを願っていたのではないかと思うのです。善悪の知識そのものが悪いものであろうはずがありません。しかし、善悪の知識は批判の目を生じるのだと申しましたが、もっと言えば裁きの力となるものなのです。

 人間は善悪の知識を使いこなして、人を正しく裁く能力があるのでしょうか。「盗人にも三分の理」と言ったりしますけど、そういうことをきちんと見分けて、計算して、公平な裁きを行う。つまり正義を行うことは理想ですが、現実には難しいのです。本当に正しく善悪を裁くことができるのは、神様だけなのではないでしょうか。

 他方、愛は、善悪ではかることができません。ペトロは、《何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。》(『ペトロの手紙』第4章8節)と言っています。愛が罪を覆ってしまうのは、善悪を超越しているからです。九九匹の羊をおきざりにして、迷える一匹の羊を探し求める羊飼いの譬え話があります。正義ということから測れば、迷わない九十九匹は善い羊であり、勝手に迷ってしまった一匹の羊は悪い羊です。しかし、イエス様は《はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう》と仰るのです。これが愛の姿です。

 神様は善悪の秩序ではなく、このような愛による関係によって共に生き、また神への信仰に生きること、それが人間の真の姿であるとされたのです。では、愛と善悪の知識は対立するのでしょうか。そうは申しません。しかし、人間という器の中に、善悪の知識はおさまり切らないのです。あるいは、使いこなせないのです。だから、神様は善悪の知識の木の実から食べることを禁じたのではありませんでしょうか。

 2章25節に戻りますと、《人と妻とは二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった》とあります。それは二人の裸体がミロのヴィーナスのように、ミケランジェロのダビデのように、美しく非の打ち所がなかったからではありません。神様が造られたままなる姿を互いに認め合い、尊び合うことができたということでありましょう。それが愛です。神様がお造りになった人間の姿です。しかし、善悪の知識の木の実から取って食べた人間は、その姿を失ってしまった。それが最初に申し上げた人間の悲劇だったのです。 
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