天地創造 36
「愛が壊れるとき」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 創世記3章6〜7節
新約聖書 マタイによる福音書 25章31〜46節
隠されている危険
 子どもの頃、夏にはよく海に行きました。いわゆる海水浴場は、非常に混雑をしていますので、少し離れた静かな浜辺で、海水浴を楽しむのが普通でした。ところが、どこでもいいというわけにはいきません。ところどころに「遊泳禁止」の立て札が立てられている砂浜があるのです。海を見る限り、他の海水浴場と少しも変わりません。遠浅であり、波も静かで、きれいな砂浜が広がっています。なぜ、遊泳禁止なのか、見た目ではわからないのです。むしろ、ひと気もなく、絶好の穴場に見えるのです。そう思いつつも、わたしは気が小さいものですから、やはりそこで遊ぶ気にはなれませんでした。

 しかし、泳ぎに自信のある友達が、遊泳禁止の警告を無視して、そこで泳ぎ、溺れそうになったという話しを聞きました。友達が言うには、沖に向かってしばらく泳ぎ、浜に帰ろうとしたら、泳いでも泳いでも流されてしまって、まったく前に進まなかったそうです。次第に泳ぎ疲れてきて、このまま浜に帰れず、溺れ死んでしまうのではないかという恐怖に襲われたといいます。見る限り何の危険もない穏やかな海のようです。しかし、海の底にはとても強い潮の流れがあって、たとえれば川を上流に向かって泳ぐような状態になってしまうのです。彼の場合は、なんとか浜まで泳ぎ切り、自力で帰ることができたそうですが、もう二度と遊泳禁止の場所では泳がないと言っていました。

 危険は、見えるところにあるとは限らないと言うことでありましょう。だから、警告がある。たとえどこに危険があるか分からなくても、何かしらの危険が、そこに潜んでいるわけです。

 神様の戒めもそうです。神様は「あれをしてはいけない、これをしてはいけない、こうしなさい、ああしなさい」ということをおっしゃいます。それは、人間教育やしつけではありません。人間教育やしつけは、人間の本性は悪であって、そのままでは決して立派な人間にならないという性悪説に基づいています。ですから、人間が自分の思うままに振る舞うことを禁じ、自分を殺してしつけ通りの行動したときに「あなたは立派な人間だ」と褒めることになるのです。そうすると、どういう人間になるかと言いますと、あるがままの自分を否定し、他人の言うとおりにできることが善いことだと考える人になっていくのです。それができなければ、だめな人間になるということです。

 しかし、神様は、あるがままの自分を否定しなければならない未完成の存在として、人間をお造りになったのではありません。神様は、存在そのものが善きものであるように人間をお造りになりました。人間だけではなく、この世界のすべてを、そのようにお造りになりました。ですから、神様は、人間をしつける必要がないのです。神様がお造りになったままの姿で生きることが、人間にとって一番善い生き方なのです。《産めよ、増えよ、地に満ちて従わせよ》という、百パーセントの肯定に満ちた祝福の言葉が、それを物語っています。そして、《園のすべての木から取って食べなさい》という、百パーセントの神様の許可も同じです。

 ただ一つだけ、神様は《ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない》と、人間に禁止事項をお与えになりました。その理由も、神様は《食べると必ず死んでしまう》と説明なさっています。死ぬとは、生きていけなくなることです。

 肉体的には生きていても、自分の生来のもののが否定されたり、奪われたりすると、人間はもう生きていけないと感じます。自分が自分らしく生きていけないということです。それが死です。しかし、神様は死んではいけないと言われるのです。

 逆に言えば、自分らしく生きよということです。それが神様の心です。そう考えますと、《決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう》とは、人間の自由を制限する言葉ではなく、むしろそれが損なわれる危険から人間を守る言葉なのです。つまり、警告です。

 エバはその警告を無視して、善悪の知識の木から実を取って食べてしまいました。エバは、死んでもいいと思ったわけではありません。ただ、善悪の知識の木の実を見ても、どこにその危険があるのかわからなかったのです。正確に言うならば、彼女は、危険の存在を知っていました。神様が警告してくださっていたからです。しかし、神様の言葉よりも、自分の感覚や経験的な知恵に従ってしまいます。だから、エバには、この木には、毒なんかないのではないかと思ってしまう。

 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。

 先ほどの遊泳禁止のお話しと同じです。警告は承知しているのですが、自分の経験と合致しないのです。《食べると必ず死んでしまう》と言われている木の実でありますが、自分には、とてもそのようには見えなかったのです。 
隣人愛の秘儀
 これは、人間が十全なるものとして神様に創られたということと矛盾しているように聞こえるかもしれません。しかし、そうではありません。人間は人間としての十全さを持つものとして造られたのであって、決して全知全能の神の十全さをもって造られたのではないのです。

 人間は鳥のように空を飛ぶことはできないし、馬のように走ることもできないし、樹木のように長く生きることもできません。だからといって、人間が不完全だとはいえません。人間には、人間としてのいのちの形があります。それは鳥のように飛んだりすることはできませんし、馬のように走ったりすることもできません。まして、神のように全知全能ということはありません。しかし、神様がお造りになった人間という存在を生きるための十全に備えられたいのちなのです。

 その十全ないのちの中にある人間の姿の一つとして、人間は神様との愛の交わりのうちに生きるということがあります。すべてのものは神様の愛の中にありますが、神様の愛に応答することができる命をもっているのは、人間だけです。神様は愛を持って人間を守ろうとし、人間はその愛を信じ、感謝し、応答することによって、人間らしい命を生きることができるのです。

 しかし、エバは自分の感覚を信じて、神様の警告を無視し、それを損なう危険を含んだ木の実を食べてしまったのでした。

 女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。

 エバは、自分だけが実を食べただけではなく、アダムにもその実を食べさせたといわれています。アダムが、いつからそこにいたのかわかりません。はじめからエバと共にいて、蛇とのやりとりを見ていたのかもしれません。蛇がいなくなった後、アダムが現れたのかもしれません。あるいは、エバは木の実を家に持って帰り、そこでアダムに食べさせたということも考えられます。いずれにせよ、禁断の木の実を食べてしまったエバは、ほとんど同時に、それをアダムに与えたということが重要です。神様との関係にひびが入ると、それはただちに隣人との関係に影響するのです。

 イエス様は神様の戒めを二つに要約されました。

 『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。( 『マタイによる福音書』22章37〜39節)

 第一は神様を愛すること、第二は隣人を愛することです。神様との愛の交わりの中に生きることと、隣人との愛の交わりの中に生きることが、いかに密接に結びつくことなのか。イエス様は、そのことを繰り返し教えておられます。たとえば『ヨハネによる福音書』13章34〜35節では、このように教えられます。

 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。

 兄弟姉妹が互いに愛し合うことが、すなわちイエス様との交わりに生きることであり、イエス様との交わりに生きることは、すなわち兄姉姉妹が互いに愛し合うことであると言われています。それから、『マタイによる福音書』10章42節では、このようにも教えておられます。

 はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。

 イエス様の弟子に、誰かが水一杯でも飲ませてくれる人がいるならば、その人はイエス様に対してしたつもりはなくても、イエス様は我がこととしてそれを受け入れ、その人に必ず報いるというのです。

 逆のことももちろん言われています。『マタイによる福音書』25章31節以下でイエス様が話しておられる最後の審判の話です。その時、イエス様は、いと小さき者に親切にした人たちにむかって、《わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである》と言われました。いと小さき者に不親切であった人たちにたいしては、《この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである》と言われました。イエス様を愛することと、隣人を愛することは、ひとつのことなのです。

 隣人愛は、単なる善行ではありません。ある人は、隣人愛は第三のサクラメントだと申しました。サクラメントとは、聖霊の働きをうけて、神様の恩寵に与るための特別な儀式です。教派によって訳語が違い、カトリック教会では「秘跡」、正教会では「機密」、プロテスタント教会では「聖礼典」といいます。隣人愛が、第三のサクラメントであるとは、隣人愛は洗礼、聖餐に次ぐ聖礼典であるという意味です。

 カトリック教会のシスターで、教育者としても優れたお働きをしている渡辺和子さんの本に、このようなお話しが紹介されていました。渡辺和子さんが、岡山のノートルダム清心女子大学の学長をしておられた頃の話しだと思います。同じ岡山に河野進(1904-1990)という牧師がおられ、親交があったそうです。河野進牧師は、玉島教会の牧師で、岡山ハンセン病療養所を五十年にわたり慰問伝道するなど、救ハンセン病運動や社会運動にも身を捧げた方です。また詩人でもあり、いくつも素晴らしい詩を残しておられます。

 その河野先生が、インドのマザー・テレサを訪問し、そのお仕事をご覧になって帰国された後のことです。渡辺和子さんに、「マザー・テレサは行き倒れの一人一人を本当にキリストとして介抱していらっしゃる。あれはカトリックだからできることですよ」とおっしゃったというのです。河野牧師も、病める人、貧しい人のために、一生懸命に働いておられた方です。その先生をして、「カトリックだからできることです」と言わしめたのは、いったいどういうことなのか。「われわれはキリストの記念として聖餐式を行うが、カトリックの人たちはウェファー状のご聖体をキリストとして戴く。その違いだ」と、河野牧師は言ったのでした。

 もちろん、プロテスタントの聖餐式も、単なる記念ではありません。聖霊によって、キリストの命が、私たちに授けられるということを信じているのです。しかし、カトリックの人たちは、ご聖体をキリストとして食べるだけではなく、ご聖体をキリストとして拝むのです。とうていキリストとは思えないようなものを、キリストとして信じる信仰が、そこに養われているわけです。だから、イエス様が《この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである》と言われれば、行き倒れの人、死にかけている人、乞食、孤児、牢にいる犯罪者を、キリストそのものとして信じ、愛することができるのだろうといわれるのです。

 こうなりますと、やはり隣人愛は人間のなす親切とか、善行というものを越えています。隣人愛が、信仰によって守られるサクラメントだとは、そういうことでありましょう。隣人愛が、サクラメントであることは、優しさとか、同情とか、そういう人間的な愛を越えて、信仰の行為として、つまり神様への愛、キリストへの愛としてそれを守るということなのです。

 洗礼、聖餐式を信仰をもって守るように、隣人愛を信仰をもって守ることが、恵みに生きる生活です。マザー・テレサは、隣人愛を「第二の聖体拝領」と言っています。そして、こういういうのです。「現代の矛盾は、第一の聖体拝領をする人たちが、第二のそれをしないことであり、第二の聖体拝領をしている人たちが、第一のそれを知らないことです」と。神を愛する人たちは隣人への愛をおろそかにし、隣人への愛に生きる人たちは神への愛をおろそかにしている。マザーテレサの言葉をそのまま承諾したくない気持ちはやまやまですが、現実をみれば、そこに悔い改めなければならないことが鋭く指摘されているように思います。

 さて、このように神様との愛の交わりに生きることと、隣人との愛の交わりに生きることが一つのことであることは、アダムとエバの物語にも現れています。エバの創造の話しを繰り返すつもりはありませんが、2章22節には《主なる神が彼女を人のところに連れてこられると》とあります。アダムにとってエバは、そして、もちろんエバにとってアダムもそうですが、神様が互いに愛し合うものとして結び合わせられたのです。神がなし給うことを信仰をもって受け取る。それがサクラメントです。アダムとエバの愛は、人間の実存から来るものではなく、神様への信仰を基としたものであったのです。

 したがって、その基である神様への信仰がぐらつくとき、それはただちに互いの関係に響きます。

 女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。

 神様が《人間が独りでいるのは良くない》と言われて、エバが造られたのですが、神様との関係に隙間ができることによって、また人間は独りでいる良くない状態に陥っていくのです。

 イエス様が、互いに愛し合うことを、《新しい戒め》と言われたのは、意味のあることです。十字架の愛によって、私たちと神様との関係を回復させてくださるイエス様だけが、本当の意味での隣人愛を、兄弟愛を、私たちに回復させてくださる御方なのです。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

お問い合せはどうぞお気軽に
日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人 電話/FAX 03-3892-9401  Email: yuto@indigo.plala.or.jp