天地創造 35
「いかにも旨そうなる禁断の実」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 創世記3章1〜6節
新約聖書 コリントの信徒への手紙1 10章31節
復習@ 蛇とは何者なのか
 『エフェソの信徒への手紙』第6章から、「悪魔の策略に対抗して立つ」というテーマで、しばらくお話しを続けてまいりました。今日からは、再び『創世記』のお話しに戻って、「天地創造」のお話を続けたいと思います。これまでに、エバが蛇の誘惑に堕ちてしまったところまでお話しをしてあります。ひさしぶりに本題にもどりますので、復習から入ることにしましょう。

 まず「蛇とは何者なのか」というお話しです。『創世記』1章、2章には、神の知恵と力と祝福に満ちた天地万物が完成され、最初の人間アダムとエバは、神様が人間のために設けられたエデンの園に住まわされたと記されていました。そこに突如として、邪悪な存在である蛇が登場します。そして、エバを誘惑するのです。

 エバを誘惑したこの蛇について、聖書は、《神がお造りになった野の生き物》であると告げています。それならば、この蛇は、私たちが知っているあの蛇と同じ生き物なのでしょうか。どうも、まったく同じであると言えない気がします。

 もっと大きな問題は、神様がお造りになったものはすべて《極めて良かった》(『創世記』1章31節)と言われているにもかかわらず、どうしてそこに邪悪なものが登場するのかということにあります。つまり悪の起源の問題です。悪魔とか、サタンと言われるものはどうして存在するようになったのかということです。

 実は、これは聖書を読んでもはっきりとした答えが出ない問題です。天地創造が完成された直後、なんの前触れもなく、唐突に誘惑する蛇が登場し、今日に至るまでこの誘惑者は私たちを悩ませ続けるのです。なぜ、このように神に逆らうものが存在するのかというは、聖書全体を読んでも、何も語られていないのです。サタンの起源は謎に包まれています。

 そのなかではっきりと語れているのは、サタンもまた神様がお造りになったものであるということです。サタンは、創造主なる神に対抗して立つもうひとりの神ではありません。善なる神と悪なる神がいるのではないのです。エバを誘惑した蛇が、《神がお造りになった野の生き物》であると言われていることは、聖書が善悪二元論と真っ向から対立しているということなのです。

 では、どうして神様がお造りになったもののなかに、悪が存在するのか? 聖書には語られていないとは言いますが、どうしても気になります。これが正解だという話しではないのですが、教会は大きく分けて二つの説明をしてきました。一つは、サタンは堕天使であるという説明です。もともとは良い天使であったけれども、その後、野心を起こして神様に逆らう存在になってしまったというのです。

 もう一つは、サタンは神様の創造の陰の側面であるという考え方です。神様は、光だけではなく闇をも作られました。神様がお造りになったすべてのものは、明るい側面だけではなく、暗い側面をも併せ持つものです。たとえば、喜びだけではなく、悲しみもある。それが人間の感情というものです。あるいは、初まりがあれば終わりある。それが歴史というものでありましょう。成長するばかりで衰えることがないとか、生まれるだけで死ぬことがなければ、世の中はどうなるでしょう。そして、神様は知恵の明るい側面として善を、暗い側面として悪を作られたのです。

 わたしは、どちらも大切な考え方だと思っています。たとえば光は、粒子の性質をもってしか説明できない部分と、波の性質をもってしか説明できない部分があると言います。同じように悪も、二つの考えを併せもって考えることが必要なのではないかと思うのです。
復習A サタンは人を誘惑する理由
 もう一つ問題があります。なぜ、サタンは人間を誘惑するのかということです。子どもの頃、わたしは理由もなく、おもしろがって蟻や蛙を殺しました。わたしだけではなく、男の子たちは皆そういうことをしていました。サタンは、そのように理由もなく、人間を誘惑し、罪に落とすことを楽しんでいるのでしょうか。そうではありません。サタンは堕天使だと申しました。サタンの目的は、自分の王座を、神の上に築くことにあります。サタンは、自分が神様の下にいるのが気にくわないのです。神様から、自由になりたいのです。

 普通に考えたら、天地万物の神様を相手に、そのような大それた野心に、勝算があるとはおもえません。しかし、サタンは、神様の唯一の弱点を見いだします。それが、人間です。神様は、人間を格別に愛されます。もし神様が、人間を愛しておられなかったら、神様に弱点はなかったでありましょう。十字架の痛みもなかったでありましょう。しかし、この愛が、神様の弱点になるのです。
復習B エバはいかに誘惑されたか
 蛇はいかにしてエバを誘惑し、エバはどのように誘惑に堕ちていったのでしょうか。エバは、神様を愛し、信じ、感謝をし、心から敬い、「善悪の知識の実から取って食べるな」というみ言葉に対して、従順な気持ちをもっていました。エバは、信仰者でありました。蛇と出会う前のエバの心に、神様に対する懐疑的な心は少しもなかったに違いないのです。それにも関わらず、蛇は、エバをまんまと誘惑することに成功したのです。

 そこに見られる問題は、エバが、蛇に対して、まったく無警戒であったことです。無邪気すぎたのです。私たちの信仰は、常にサタンによって脅かされています。したがって、信仰は持っているだけではなく、それを守り抜くという戦いの姿勢が必要です。エバに足りなかったものは、それです。エバは、何の警戒心もなく、無邪気に、蛇の問いに答えています。その時点で、すでに、エバはサタンの毒牙にかかっているのです。

 エバが、蛇を警戒しなかったのは、理由のないことではありませんでした。蛇が、そんぼ毒牙を隠していたからです。聖書は、サタンは光の天使さえ装うのだと教えています。エバに近付いてきたサタンは、「本当に神様はそんなことを仰ったのでしょうか」と、慇懃に問いかけます。それは、さながら熱心なる求道者のようでありました。ですから、エバもまったく無邪気に、「いいえ、違います。神様が仰ったのは斯く斯く然々です」と答えたのでした。

 これだけは誘惑になっていないように思えます。しかし、そうではありません。蛇とエバは、神様の言葉について論じます。その議論に、神様はおられませんでした。こういう言い方に語弊があるならば、そこでは、神様の存在がまったく無視されていたのです。

 神様の言葉は、神様を離れて、言葉だけが独立してあるのではありません。常に、神様の命と結びついています。ですから、神様の言葉がわかないならば、それを神様に問い、神様に聞くということをしなければいけません。神ぬきに、神の言葉を論じ、どのような結論を出そうとも、それはもはや神様の言葉でも、神様の御心でもなく、自分たちの言葉、自分たちの思想になってしまうのです。

 自分の知恵を働かせ、思索し、何かを思いつくことは、一種の快感です。蛇の狙いは、そこにありました。そのような神なき精神的な快感に身を浸すことによって、神の言葉は、いくらでも疑うことができるものになり、いくらでもひっくりかえせるものになるからです。神なき神学議論にエバを引きずり込むこと、これが蛇の誘惑の第二のポイントなのです。

 それが成功すれば、あとは簡単です。蛇は、平気で、神様と逆のことを言います。問題は、神の御心ではなく、神について思索することですから、何を言ってもいいことになるのです。「そんなことはないでしょう。あの実を食べても、決してあなたは死にはしませんよ。神様は、あの実を食べて、あなたが神のように善悪を知る知識をもつことを恐れているのです」エバは、この蛇の話しに興味を持ちます。そして、神様の恵み深い御心に対して疑惑の念を持ちます。神様は、他のことすべてをゆるしてくださっているのに、どうしてあの実だけは食べてはいけないと仰るのだろうか・・・蛇の言うことにも一理あるような気がする・・・こんな風に、神様の恵みに対する絶対的な信頼が、ぐらつきはじめるのです。神の恵み、神の愛への信頼を揺るがせること、それが蛇の誘惑の第三のポイントです。

肉的快楽
さて、ここまで復習ですが、エバが誘惑に堕ちた三つのポイントに加えて、もう一つのことがあります。今日は、新たにそのことに触れたいと思います。まず6節を読んでみましょう。

女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。(『創世記』第3章6節)

 これは、エバが誘惑に堕ちる道の駄目押し部分です。これまで蛇は、エバの知恵的な部分、精神的な部分において惑わし、神ぬきに、神について、勝手な議論する快楽、そして神の恵みに対する疑いの芽生えを与えるのに成功してきました。しかし、それは、芽生えに過ぎません。聖書は、エバが疑ったなどとは書いていません。むしろ、蛇に「神様はそんなことをおっしゃいませんでした」と、強く主張したと書いてあります。たとえ、蛇の言葉に興味をもったとしても、それですぐに神様の信頼をうしなったわけではないだろうと思うのです。

 ただ、聖書はこう記すのです。《女が見ると》、と。神様を中傷する蛇の言葉を聴いたあと、なぜエバは、神様を見ようとしなかったのでしょうか。エバが自分に芽生えた疑問を払拭するために、神様のもとに行き、慈愛に富み給う神様の御顔を一目でも仰ぎみれば、エバの心は再び神様のへ堅い信頼で固められ、蛇の言葉がいかに幼稚で、何の根拠もない、誹謗中傷、讒言であることがわかったでしょう。しかし、エバはそれをしませんでした。その代わりに、自分の眼で何かを確かめるかのように禁断の木の実を見上げたのです。

 すると、エバは、今で感じたことがない感覚に襲われます。《その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた》のです。それはどういうことでしょうか。今までは、神様の言葉に基づいて、この木を見ていましたから、それは「食べてはいけない」と言うこと以外に何も語りかけてきませんでした。しかし、エバはこの時、この木を見て、神様の御心を自分の知恵に基づいて判断しようとしたのです。すると、木はまったく別物に見えてきました。それはおしいそうで、美しく、いかにも賢くなるような気がしたのです。

 おいしそうであること、うつくしいこと、賢くなりそうであること、これほど人間の欲望を刺激するものはありません。エバは、うっとりと禁断の木の実をみつけ、最初は、目でそれを貪るように味わったことでありましょう。それだけは罪でありませんが、エバはもはや抗いがたい衝動にかられています。そして、ついに手を伸ばしてしまうのです。

 わたしたちが誘惑に陥るときというのは、最後にはやはりこのような抗いがたい衝動によるのではありませんでしょうか。もちろん、ここに至るまで、蛇の周到な罠があります。しかし、最後の決め手は、感覚的、肉体的な快楽への衝動なのです。

 少しだけ話しを戻します。エバはこの木を見上げる前、蛇は姿を消します。これが案外重要なポイントです。対話する相手を失ったエバは、目を木に向けます。そして、自分の心の中でひとり妄想を膨らませます。そう考えると、すべては蛇の計算どおりだったといえるのではないでしょうか。

 今日は復習をかねて、蛇の誘惑についてお話しをさせていただきました。人間には、さまざまな喜びが、神様からの祝福として与えられています。思索したり、議論をしたりすることもそうでしょう。美味しいものを食べる喜びもそうでしょう。美しいものを美しいと感じて心惹きつけられるということもそうでしょう。そういう喜びの探求が、人間の文化を成長させ、私たちの生活を豊かにしてきた一面はあると思います。それ自体が罪なのではありません。しかし、どんな健全な喜びも、それによって神様がないがしろにされるならば、それは貪欲となり、罪への道となります。神様によって喜び、楽しみ、それをもって満ちたりる心を戴きたいと、神様に祈りたいと願います。
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