天地創造 33
「信仰を守る戦いD 救いの兜」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 創世記3章1〜6節
新約聖書 エフェソの信徒への手紙 第6章10〜20節
イエス様の救い
 イエス様がなさった譬え話のなかに、「不正な管理人」というお話しがあります。ある金持ちのもとで働いていた番頭の話です。この番頭は、自分のために主人の財産を横領していた悪徳番頭でした。しかし、ある人が密告したことにより、その事実を主人に知られることになります。主人は番頭を呼び出し、会計報告を出すように命じ、解任を予告しました。悪事がバレ、窮地に追い込まれた番頭はこのように考えます。

「どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。」(『ルカによる福音書』16章3〜4節)

 今の仕事を解任されても、その後、自分を助けてくれる人を作ればいいとは、どういうことでしょうか。番頭は、会計報告をつくる振りをして、主人に負債ある人たちを呼び出しました。そして、自分の前で証文を書き換えさせてやるのです。たとえば油百バトスを五十バトスに、麦百コロスを八十コロスに、といった具合です。

 負債に苦しんでいた債務者たちは喜んで証文を書き換え、この番頭に感謝をしたことでありましょう。番頭は、こうやって恩を着せておけば、自分も助けてもらえるだろうと踏んだのです。その上、この債務者たちは証文を自分で書き換えるわけですから、この番頭の共犯者であり、弱味をも握られたことになります。こうして番頭は、悪事がバレると、さらに悪事を重ねて、身の保全を図ったのでした。

 とんでもない悪徳番頭です。主人はこの番頭のせいで財産を失ったばかりか、恩を仇で返され、徹底的に馬鹿にされたという悔しさを感じたでありましょう。このような悪徳番頭は、かならず相応の罰を受けるべきです。このままこの番頭が幸せになったりしたら、とても正義は保てません。

 ところが、この譬え話はびっくりするような結末を迎えます。なんとこの主人は、番頭の抜け目ないやり方を褒めた、というのです。いったい、これはどういうことなのでしょうか。さらにイエス様は、この譬え話をされた後、このように教えられます。

この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。(『ルカによる福音書』16章8〜9節)

 イエス様は、この悪徳番頭のやり方を見習いなさいと言っているかのようです。そうすれば《あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる》とは、いったいどういうことなのでしょうか。「クリスチャンというのは馬鹿正直でいかん。もっとずる賢くしないと世の人たちに馬鹿にされるぞ」ということなのでしょうか。

 もちろん、そんなことではありません。しかし、確かに言えることは、イエス様が私たちに教えておられるのは勧善懲悪の教えではないということです。それは他の譬え話にも言えることです。

 たとえば放蕩息子の譬え話があります。我が儘に家を飛び出して身代をつぶした極道息子が、家で真面目に働いていた孝行息子が妬むほどに父親に愛されます。ぶどう園で働く農夫の譬え話もそうです。ぶどう園の主人は、朝から一生懸命に農園で働いた人にも、夕方からほんのわずかしか働かなかった人にも、同じ給金を渡しました。朝から働いていた人からこれに不平の声があがったのは当然のことです。しかし、ぶどう園の主人は「わたしは自分のしたいようにしたのだ」と言います。他にいくらでも例がありますが、このような譬え話で気づくのは、イエス様は決して善悪で人を見分けておられるのではないということです。善いことをする人が光の子らで、悪いことをするのが闇の子らではないのです。

 私たちのいう善悪は相対的なものです。基準をどこに置くかで変わってくるのです。上をみれば自分がダメに見えてくるし、下をみれば自分がマシに見えてきます。光の子らというのは、神様を仰いで生きる者たちのことですから、常に自分より上を見て歩いているということになります。だとすれば、光の子らは、自分が少しはマシだなどという考えは持ちようがないに違いありません。神様の前にある自分の罪を、常にわきまえているのが光の子らだと言えるのです。

 今日、わたしがまずこの譬え話をみなさんにご紹介したのは、救いとは何かということを考えたいからです。この悪徳番頭は、自分の不正がばれて窮地に追い込まれます。ただ仕事を失うだけではない。番頭として築いてきたこれまでの実績や信頼を一遍に失ってしまうのです。番頭は、「もはやこれまでのような生活はできない。食べて行くためには肉体労働をするか、物乞いをするしかない。」と考えます。けれども、これまで銭勘定ばかりしてきたのですから、肉体労働をする力はありませんでした。それに人を顎で使ってきたプライドが邪魔をして、物乞いすらできない。そんなことをするぐらいなら死んだ方がマシだと考えるわけです。この職を失ったら、自分は何もできない。このお先真っ暗の状況のなかで、彼が思いついたのが、自分の力でなんとかするのではなくて、他人に助けてもらうということだったのです。

 そこで、この番頭は、「どうしたら、他人が自分を助けてくれるだろうか」と考えます。それには恩を売ることです。しかし、そもそも腹黒い番頭ですから、まっとうなことをして人に感謝される人間にはなれない。そこで考えたのが、証文の書き換えという手段だったのです。決して褒められたことではありません。しかし、なぜ、イエス様はこのような救いようのない男のお話しをなさったのか? それは、私たちも所詮この男と変わらない人間だからではないでしょうか。

 私たちの信仰も、愛も、善き業も、純粋に善なる、真実なるものと呼べるでしょうか? そこに自分の利益を謀る欺瞞がないと言えましょうか。わたしは、自分の心を深く掘り下げて考え、自分の信仰は本物ではない、愛も本物ではない。善き業も本物ではないということに悩み、苦しんだことがあります。自分はクリスチャンなどと呼べない人間なのではないかと、本気でそう思いました。では今はどうなのかといいますと、やはり純粋なものなどひとつも自分のうちにないのです。

 しかし、わたしは自分がクリスチャンではないと思いません。なぜなら、イエス様は《不正にまみれた富で友達を作りなさい》と言ってくださっているからです。イエス様は、私たちの捧げる信仰、愛、善行というものがどの程度のものか、先刻承知です。その上で、純粋でなければいけないなどとは仰らず、それを良しとしてくださっているのです。そして、私たちの友となり、私たちを救ってくださる御方なのです。このような救いでなければ、いったい誰が救われるでしょうか。

 逆にこうも言うことができます。たとえ私たちが信仰のうちにすら罪を認めざるを得ない者であっても、イエス様が私たちを憐れみ、救ってくださる御方がいるならば、いったい誰が私たちを裁くことができるのか、と。パウロはこう言っています。

 もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。・・・これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。(『ローマの信徒への手紙』第8章31-39節)
救いの兜
 さて、悪魔の策略に対抗するための神の武具について、これまで数回にわたってお話しをしてきました。神の武具は、真理の帯、正義の胸当て、平和の福音を告げる準備の履き物、信仰の盾、救いの兜、御霊の剣と、物々しい言い方がされていますが、要するにそれは神様に依り頼むということです。しかも、頭のてっぺんから足の先まで全身が神様の力で覆われることが必要なのです。

 全身が、というのは全生活ということです。家庭生活、社会生活、それから精神的な生活、霊的な生活、すべてにわたって、悪魔は私たちを神様から引き離そうと罠をしかけてきます。これに対抗するためには、自分の精神力ではだめで、神様の力の前に自分を低くして、神様に守られるということが必要なのです。

 そして、今日は救いの兜と言われています。兜とは、特に目立つものでありますし、身体の重要な部分を守るものでありましょう。私たちの兜は、神の救いであるというのです。もっとも、真理の帯にしても、正義の胸当てにしても神の救いに関係のあることです。すべては私たちを救う神様の力なのです。救いの兜をかぶるとは、そのような神の救いに対する確信を、すべての神の武具の上に置くということではないでしょうか。

『ヨハネの黙示録』にはこのように言われています。

この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。わたしは、天で大きな声が次のように言うのを、聞いた。「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。神のメシアの権威が現れた。我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、投げ落とされたからである。」(『ヨハネの黙示録』12章9-10節)

 ここで悪魔は、いろいろな言い方で呼ばれています。《巨大な竜》《年を経た蛇》《全人類を惑わす者》、そして《我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告白する者》とも言われています。悪魔は、告発する者なのです。

 たとえば、悪魔は神様の御前でヨブを告発しました。神様が悪魔に「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を恐れ、悪を避けて生きている」といいますと、悪魔は「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。」と答えます。あなたがヨブを祝福するから、ヨブはあなたを敬っているのであって、決して無垢なわけではありませんと、告発するのです。

 サタンは、私たちの信仰、愛、善行についても告発しています。「あなたの信仰、愛、善行はみんな偽物だ。真実がない。結局は自分の利益を求めているだけだ」と。そう言われると、確かにそうかもしれないと思ってしまうところが、私たちの弱いところです。そして、神様の救いについて確信がもてなくなってしまうのです。こんなわたしが神様に愛されるだろうか? わたしなんか救いに値しない人間ではないか? そして、どんどん神様との距離を感じ、神様に近付くことができない者になっていくのです。それが悪魔のやり方なのです。

しかし、『ヨハネの黙示録』は、そのような告発者に対するイエス・キリストの勝利を物語ります。たとえ、悪魔がどんなにわたしたちを告発しようとも、イエス様の十字架が私たちの罪をゆるし、神様と和解させ、神様の子らとしてくださるのです。この救いへの確信を揺るぎなく持つこと、それが悪徳番頭の譬え話であり、救いの兜をかぶるということなのです。

 私たちの救いの確信がゆらぐとき、イエス・キリストの十字架を仰ぎましょう。そこに告発者である悪魔を地に投げ落とす救いの兜があるのです。
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