天地創造 25
「祝福の中心たる二本の木」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 創世記3章1〜5節
新約聖書 マタイによる福音書 第26章36〜46節
結婚について
 神様は「人がひとりでいるのは良くない」と言われ、アダムからあばら骨の一部を取りだし、それをもってエバをお造りになりました。目が覚めて、神様が連れてこられたエバを見るや、アダムは《これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉》と喜んだというお話しです。このことから、わたしは「人がひとりでいるのはよくない」とはどういうことなのか? ふさわしい助け手と何か? 一体となるとはどういうことなのか? そのようなお話しをしてきました。

 実は、もうひとつお話ししなければならないことが残っています。「結婚」についてです。24-25節には、《男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。》と語られています。これは明らかに結婚について語られています。結婚は、人間が勝手に定めた秩序ではなく、神様が人間に祝福としてお与えになった秩序であることが、ここから明らかにされるのです。

 さらに、結婚とは何かということについても、それは第一に互いに結ばれて一体となることであり、第二に、父母を離れて新しい家庭を作ることであるということが、ここから読み取れます。また《一体となる》とか、《裸であった》という記述は、男と女の性的な交わりに語られていると読むことがでるでしょう。

 結婚において、二人の人格が一体となること、そして家庭という共同体を作って生きること、これについては前回お話ししてきたことがそのまま結婚に当てはめることができるだろうと思います。ですから、どうしても触れなければならない残された事柄は、結婚における男と女の人格的な交わりや結合が性的な交わり・結合とどのように関係しているかということです。

 聖書でいいますと2章25節、《人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。》という記述が、そのことを物語っている部分にあたります。

 けれども、これについてはもう少しあとでお話しをすることにしたいと思います。なぜなら、これは3章への導入でもあるからです。本来は、そういう完全な結婚ということがあったのだけれども、現実は違う。もっといえば結婚だけではなく、人間と動物の関係についても、食糧事情についても、労働の喜びについても、いろんなことが2章に記されているような初めにあった祝福と違ってきているのです。なぜ違うのか? それを説明するのが3章の失楽園の物語です。そのなかで、25節について触れることになるだろうと思います。ですから、今回はそういう問題が積み残されているということを頭に入れておいていただきまして、3章の学びへと入っていくことにします。
中央の二本の木
そこでもう一つ、これは後でお話しをすると言って積み残していた問題があったことを思い起こしていただきたいと思います。それは、エデンの園の中央にある《命の木と善悪の知識の木》についてです。2章9節を読んでみましょう。

 主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。

 神様は、人間に豊かな祝福をもたらす木を地にたくさん生えさせられました。そして、エデンの園の中央には《命の木と善悪の知識の木》を生えさせられました。この二本の木がどんな木であるか、詳しい説明はありませんが、人間に対するあらゆる祝福が備えられたエデンの園の中央にあったというのですから、これは祝福のなかの祝福、神の祝福の中心であったということができます。

 それから、2章16-17節を読んでみたいと思います。

 主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

 中央にある二本の木のうちの一本、《善悪の知識の木》からは、決して食べてはならないと、神様はお命じになっています。《命の木》からは食べていいのです。《命の木》というぐらいですから、これを食べると命が豊かに養われたにちがいありません。しかし、《善悪の知識の木》からは食べてはいけない。食べると必ず死ぬと言われています。

 さらにちょっと先取りして3章22-24節を読んでみたいと思います。

 主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。

 アダムとエバが、善悪の知識の木から実を食べてしまったために、エデンの園を追い出される場面です。ここで神様は、ふたりが命の木を取って食べることがないように守られたと語られています。今申しましたように、これは本来、食べることができる木でした。しかし、食べてはいけないはずの善悪の知識の木を食べてしまったことによって、食べることができなくなってしまったのです。

 これは祝福の中心である二本の木の関係が見えてくる話です。一言でいえば、二律背反です。人間は二本の祝福の木の両方から取って食べることは決してできないのです。《命の木》から豊かに取って食べるためには《善悪の知識の木》から食べてはいけないし、《善悪の知識の木》から食べてしまうと《命の木》が食べることができなくなってしまう。このような緊張関係にある二本の木が、神様の人間に対する祝福の中心にあったということなのです。

 ホーリネス教会のリーダー的な存在であった小原十三司(1890〜1972)先生を偲ぶ記念誌を読んでおりましたら、こんなことが書いてありました。

 恩師小原師は、折あるごとに私ども若い弟子たちに、極めて貴重な牧会上の真理や教訓を分かち合われました。ある日のこと師は言われたのです。
 「君たち、およそすべての物事には、両極というものがある。真理は円形ではなく楕円形なのだ。円を描くには、一つの中心があれば画けるが、しかし、楕円形を画くには、二つの中心点がいる。そのように真理の世界には、常に両極というものがあるので、お互いが真理に立ちたければ、絶えずその両極をよく見つめて、両極の調和をはからなければいけない。それなのに一極のみを見つめて他を見通せば、その真理はいびつなものになり、一画的になってしまう。そこで決して真理の全体を性格に把握することはできないものだ。」
(峯野龍弘「両極性の調和」、『からし種一粒ほどの信仰〜小原十三司先生の思い出〜』、ホーリネスの群れ)


 なるほどと思わされる文章です。私たちはどうしても物事を分かりやすく割り切って捉えたくなります。しかし、そうやって単純化することによって、大切なことが切り捨てられてしまうことがよくあるのです。むしろ、割り切れない、煮え切らない、捨てきれない思いというのが大切で、真理は常にそういう葛藤がつきものだということなのです。この葛藤がなくなったら、真理は真理でなくなってしまうのです。

 たとえばこういう話があります。「死にたい」という人に本当に死ぬ人はいない、と思い込んだある宗教家が、「死にたい」といってきた相談者に、「それなら自殺の仕方を教えてやろう」と、詳細に自殺の方法をあれこそ教えてやったそうです。すると、その人はびくついてしまって自殺を断念しました。その宗教家も、もちろんそういう効果を狙っていたわけで、結果的にひとりの命を助けたことになります。ところが、その宗教家が別の人に同じ手を使ったら、その人は言われたとおりの方法で自殺をしてしまったのでした。(河合隼雄、『こころの処方箋』より)

 「死にたい」という人に本当に死ぬ人はいない、というのは最初の人には通用したかもしれませんが、別の人にも通用するとは限らないのです。「死にたい」と言って本当に死ぬ人はたくさんいます。おそらく、最初の人に対しては、真剣にその人と関わった上で、宗教家自身も相当に葛藤しつつ、毒を以て毒を制すような方法に臨んだのでありましょう。それは正しかったのかもしれません。けれども、一回目がうまくいったから二回目を同じようにするというのは、相談者との関わりに真剣さがなくなり、小手先のことになってしまっているのです。そうすると、前に正しかったことは、もう正しくなくなってしまいます。

 真理にもこのような面がありまして、答えはいつも同じではありません。「自殺はいけない」というならば、殉教は自殺ではないのか、アウシュビッツ収容所で、餓死の刑に選ばれた男の身代わりとなって死んだコルベ神父は自殺ではないか。イエス様の十字架はどうなのかという問題は起こってきます。そこで十字架の前に血のしたたりのような汗を流して祈られたゲツセマネの祈りの場面がとても大事な意味がもってくるのです。「殺人はいけない」ということもそうです。人を殺しても言い場合があるなどと軽々にいうことができないのはもちろんです。しかし、アブラハムがイサクを焼き尽くす捧げ物にしようとしたことはどうなのでしょうか。ぎりぎりのところで、アブラハムはイサクを殺さずに済みましたが、アブラハムはあきらかに本気でした。ボンヘッファーという牧師は、ヒトラーの暗殺計画に加わりました。彼はキリスト者として、牧師として間違ったことをしたと言い切れるでしょうか。

 真理とは、答えにあるのではないのです。ボンヘッファーがヒトラーを暗殺しようとしたから、悪い奴は暗殺するのがクリスチャンの生き方だという話ではありません。コルベ神父が身代わりを選んだから、いつでも身代わりになれることがクリスチャンの生き方だということでもありません。答えは、その時々に違ってきます。その時々に違ってくる答えを導き出すもの、それが真理に対する真剣な態度なのです。ボンヘッファーも、コルベ神父も、ゲツセマネの祈りを通って、そこに到ったのです。そこが大事なのです。

 そう考えますと、祝福の中心が一本の木ではなく、食べると命になる木と、食べると死ぬ木の二本であったのは、本当に大切なことです。どちらも、神様が良きものとして造り、祝福の中心におかれた木なのです。私たちは、日々いろいろな選択に迫られ、迷うことがたくさんあります。しかし、とって食べることが祝福である場合もあれば、取らずに食べないということが祝福である場合もある。大切なことは、そのとき、そのときに、神様に祈り、神様の声を真剣に聞くということにかかっているのです。もっと言えば、ゲツセマネの祈りが必要です。それなくして、私たちは神様の祝福の中に、真理に生きることはできない。そういうことを考えさせられるのが、中央の二本の木です。
蛇の誘惑
エバは、神様の声にではなく、蛇の声に耳を傾けてしまいました。蛇はエバを騙し、誘惑するのですが、意外なきことに蛇の言葉のなかに嘘はひとつもありませんでした。蛇はいいます。

「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」

 エバ自身が否定しているように、神様はそんなことは言いませんでした。蛇も、神様はそんなことを言ったのですかと質問しているだけですから、決して嘘を言っているわけではありません。ただ、蛇は知らないから質問したのではなく、そう質問することによってエバの心を巧みに揺さぶっているのです。そういう意味では隠れた嘘はあります。けれども言葉の上での嘘はないのです。4節もそうです。

 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」

 神様は「必ず死ぬ」と言ったのに、蛇は「決して死ぬことはない」と言いました。しかし、これも嘘とはいえません。実際、この実を食べたアダムもエバも中毒で死んだりはしませんでした。5章3節によれば、アダムは930年生きたのです。

 では、神様が嘘をついたのでしょうか。それも違います。アダムとエバは、神様の祝福の中に生きることができなくなった。生きることは苦しみとなった。それは生きていても、死ぬことと同じでした。アダムは、死んだ状態で930年も生きたことになるのです。

 蛇はそういうことを知っていながら、敢えて「死なない」ということを強調しました。そこに嘘があるといえばあります。しかし、これも言葉の上での嘘ではありません

 《神のように善悪を知るものとなる》ということもそうです。3章22節では、神様がそのように言っています。

 人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。

 蛇は本当のことを言っているのです。けれども、それは真実ではなかった。蛇はあたかもそれがアダムとエバの素晴らしい将来を約束しているかのように語りましたが、神様は二人の将来の暗さを嘆いておられます。このように蛇は、表面上はまったく嘘を言っていませんが、そこには真理はありませんでした。ある一面だけをいかももっともらしく語ることによって、根本的なことに対して目を背けさせようとしているのです。これについては、もっと丁寧にお話しをしたいと思いますが、今日は言っていることが正しくても、本当のことであっても、それが真理とは限らないということ、真理とは、神様に聞くという態度以外からは決して見えてこないということを学びたいと思います。

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