天地創造 22
「エデンの園はどこにあるのか」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 創世記2章8〜17節
新約聖書 ヨハネによる福音書 第15章4〜10節
神の祝福のなかで
 前回は、人の命についてお話しをいたしました。もう一度、第2章7節をお読みしたいと思います。

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。(第2章7節)

 わたしたち人間は、土の塵で作られました。その点、他の動物たちと何ら変わることのない命を、わたしたちは生きています。わたしたち人間も、自然の一部なのです。

 けれども、それだけでは決して十全ないのちに生きているとは言えないのが、人間でもあります。人間は、神様が鼻に吹き入れてくださった命の息によって、生きる者となったのであり、この霊的な命を養うことなしに、人間らしい命を生きることにならないのです。そのことを端的に言い表したのが、《人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる》(『マタイによる福音書』第4章4節)です。肉の命を養うパンだけではなく、霊的な命を養うみ言葉が必要なのです。

 さて、第1章では、人間は、神の似姿に造られ、また男と女に造られたと書かれていました。第2章では、人間は、一見すると他の動物と何ら変わりない生き物であるけれども、うちに霊的な命を持つものであると書かれていました。このように、人間は、万物の中で格別に愛される者として形作られ、神様との交わりに生きる霊的な命を与えられ、その祝福のなかを生きる者なのです。

 けれども、聖書における人間観を語るには、これでもまだ十分ではありません。さらになお、神様はエデンの園を作り、それを人間の生活の場としてお与えになりました。そして、食べるによいものをもたらすあらゆる木を生えいでさせ、人間の食料となさいました。さらに、耕し、守るという労働を、使命として人間に託されます。人間がひとりでいることがないように共に生きる者をお与えになります。守るべき神様の戒めも与えられます。興味深いことに、必ずしも必要とは思えないような黄金や宝石の類も、人間に与えられます。

 このように神様は、人間の形や命だけではなく、生活の場、食料、労働、共同体など、そして守るべき戒め、黄金や宝石といった人間の現実生活に関わるすべてを作り、神様の祝福としてお与えになるのです。人間とは、このような神様の豊かに溢れる祝福に生きる者なのです。

 わたしは、ここを読みますときに、イエス様の放蕩息子の譬え話を思い出します。家を飛び出して放蕩に身を持ち崩した息子が、命のほかは何もかも失って父の家に帰ってきます。その息子を見て、父親は彼を抱きしめ、接吻し、しもべたちにこう言うのです。

『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』

 父親は、息子の生活に必要なものをすべて、祝福として与えました。衣食住、そして労働、何よりも彼の息子である印の指輪、これらのものを、父の愛のしるしとして与えたのです。こうして、彼は父の愛と祝福のもとで、新しい生活、新しい人生を始めます。

 しかし、考えてみますと、これらのものは、彼が最初から、つまり生まれた時から、彼に与えられていたものでした。それを失ったのは、父のせいではありません。彼自身が、それらのものを失うような道を選び、そのような生き方をしてしまったのです。その結果、彼はとても人間の生活とはいえない惨めな状態に陥ってしまいました。この物語は、人間の本来の姿と現実の姿を物語っているのではないでしょうか。

 神様は人間の命を創造されただけではなく、人間の生活をも創造されるのです。そして、それを祝福として人間にお与えになりました。それがエデンの園です。

主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。

 この中でのみ、人間は人間として生きることができるのです。イエス様のお話しされた放蕩息子のように、まるで自分の力でそれらのものを得られると勘違いをして、そこを飛び出してしまうと私たちは大きな痛手を負うことになります。

 今ある私たちの生活を考えれば、そのことを十分に実感できるはずです。神様が祝福としてお与えになったはずのものが、すべて人間の争いや苦しみとなっています。地球上の土地は、毎年6万平方キロメートルが砂漠化しているといいます。それは食糧問題を引きおこし、その貧しさのゆえに民族的な対立といった社会的な混乱も起こし、住むところを失った難民が続出しています。神様が人間の使命としてお与えくださった労働も、共に生きるための結婚も、喜び楽しむための黄金や宝石も、すべてが人間の苦しみの大きな原因となっています。

 聖書によれば、すべては、人間が神様の祝福を求めず、自分の知恵や力で生きようとした当然の結果なのです。
パラダイス
 人間の失楽園の話は、『創世記』第3章に記されています。今日は神様が人間のためにお造りになったエデンの園について、もう少し丁寧に聖書から学ぶことにしましょう。

 まず《園》という言葉ですが、これはパラダイスの語源となった言葉です。それは囲いをもった庭園という意味の言葉です。わたしたちは、後代に造り上げられていった幻想的な楽園のイメージによって、パラダイスを誤解しているかもしれません。聖書の記すエデンの園(パラダイス)は、何の労苦もなく楽しみばかりがあるような愉楽の園ではありません。15節にはこう記されています。

主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。

 アダムは、エデンの園で、食べて、飲んで、遊んで暮らしていたのではありませんでした。そのような幻想的な楽園のイメージは、エデンの園にはありません。アダムにとって、エデンの園は働きの場でした。よき耕作者として、また管理者として、アダムはエデンの園に暮らしていたのです。

 ただし、アダムは、食べる心配をして働いていたのではありません。食べることについては、何の心配もありませんでした。神様が、十分に豊かな食料を彼にお与えになっていたからです。彼にとっての労働は、生きる意味であり、価値でした。神様のお造りになったこの世界を守り、神様の栄光を輝かせるために、彼は働いたのです。そして、それこそが神様が彼にお与えになった命を十全に輝かせることであったのです。

 パラダイスとは、囲いをもった庭であると申しました。アダムは、その囲いの中で生きなければなりませんでした。その囲いを、地理的な広がりとして考えても差し支えないと思いますが、より重要なことは霊的な意味での囲いです。16-17節に記されていることは、その囲いについてではないでしょうか。

主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

 《善悪の知識の木》、それは第2章9節によりますと、《園の中央》にありました。アダムは、この神の戒めのうちに置かれ、この神の戒めを中心に、神の戒めの支配する中に生きる者でありました。現に、これを犯した時、彼はエデンの園の外に追い出されるのです。

 このエデンの園の囲いは、アダムに決して息苦しさを与えるものではありませんでした。彼は、食べてはならないという一本の木の戒めを守りさえすれば、すべてが許されていたのです。その戒めの囲いのなかにある神の祝福を余すことなく享受することができたのです。

 さらに、この囲いは、神の保護でもありました。これを食べると必ず死んでしまう、と神様は言われました。神の戒めのうちにある限り、アダムは自由であり、あらゆる豊かさのなかにいますが、その外に出て行くならば、あの父の家を飛び出した放蕩息子と同じ運命を辿ることになるということなのです。

 エデンの園にあったのは、神の祝福だけではありません。神様御自身が親しさをもって、アダムの近くにおられました。神様は、自らアダムの手を引いて、彼をエデンの園に住まわせました。そして、自ら語りかけ、戒めを与えられました。また、神様はアダムのために自ら動物たちを連れてこられました。さらに、アダムの心の状態をさぐり、彼の体に触れ、彼に必要な助ける者をお与えになりました。神様がおられ、しかもこのように親しく、近くいてくださることが、エデンの園のもっとも大きな輝きであり、そこに住むアダムの幸せであったと言えましょう。

 このエデンの園はどこにあるのでしょうか。10〜14節に、このエデンの園から四つの川が流れ出ていたことが書かれています。第一の川はピションでハビラ地方全域をめぐっていたとあります。第二の川はギホンといい、クシュ地方全域をめぐっていたとあります。第三、第四の川は、私たちもその名をよく知っているチグリス川とユーフラテス川であったと言われています。

 これだけでは、エデンの園の場所を特定することはできません。邪馬台国ではありませんが、今のところいろいろな説があり、場所を特定することはできないのです。しかし、明かなことは、それはエデンの園、すなわちパラダイスとは、「あの世」ではなく、人間がまさに生きているこの地上に結びつけられている場であったということです。

 今、私たちは、この世界のどこにも、そのように神様が人間と近くにおられ、神様の保護、祝福の中にある場所を見つけることはできません。たとえエデンの園のあった場所を特定することができたとしても、そこはすでにエデンの園ではなくなっていることでありましょう。しかし、最初は、人間はこの地上で神様と共に、その豊かな祝福のなかに住んでいたのです。そして、神様の栄光を輝かす働きにいそしみ、また楽しんでいたのです。
イエス様の与えてくださるパラダイス
では、私たちにとってパラダイスとは何でしょうか。十字架上のイエス様が一緒に十字架につけられた強盗の一人に言われたお言葉を思い起こしてみましょう。

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」

 イエス様が強盗に言われた《楽園》は、ギリシャ語でまさしくパラダイスという言葉です。エデンの園はもはやこの地上にありませんが、神様がパラダイスを失ったわたしたちに与えてくださった第二のパラダイスがここに語られています。それは天国であると言ってもいいかもしれませんが、死んでから行くところである天国だけがパラダイスなのではありません。このパラダイスは《今日わたしと一緒に》と言われていますように、イエス様と共にあり、イエス様を信じたその日に与えられるものなのです。私たちはイエス・キリストの御救いによって罪ゆるされ、聖霊の息吹によって新しい命を戴き、そして「互いに愛し合いなさい」という新しい戒めのうちに生きる者とされました。そして、教会という新しい共同体を与えられ、復活の証人として福音を宣べ伝えるという新しい務めを与えられました。このような信仰の生活に、多くの祝福が約束されています。イエス様を中心に、イエス様に囲まれて、イエス様の祝福と御教えに生きること、それこそが私たちに与えられているパラダイスなのです。
そのようなことを考えながら、今日ご一緒にお読みしましたイエス様のみ言葉をもう一度お読みしたいと思います。ここには、今日お話ししましたようなパラダイスのすべての要素、祝福、戒め、囲い、尊い労働、神様の御臨在すべてがイエス様と共にあるということが語られています。どうぞ味わって聞いてみてください。『ヨハネによる福音書』15章4〜17節

「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」

イエス様を信じ、イエス様の御救いのうちに生きること、それがこの地上においても、天においても、私たちのパラダイスなのです。
イエス様の与えてくださるパラダイス
 では、私たちにとって、パラダイスとは何でしょうか。十字架上のイエス様が、一緒に十字架につけられた強盗の一人に言われたお言葉を思い起こしてみましょう。

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」

 イエス様が強盗に言われた《楽園》は、ギリシャ語で、まさしくパラダイスという言葉です。エデンの園は、もはやこの地上にありませんが、パラダイスを失ったわたしたちに、神様が与えてくださった第二のパラダイスがここに語られているのです。

 それは天国である、と言ってもいいかもしれません。しかし、死んでから行くところである天国だけが、パラダイスなのではありません。このパラダイスは、《今日わたしと一緒に》と言われていますように、イエス様と共にあり、イエス様を信じたその日に与えられるものなのです。

 私たちは、イエス・キリストの御救いによって罪ゆるされ、聖霊の息吹によって新しい命を戴き、そして「互いに愛し合いなさい」という新しい戒めのうちに生きる者とされました。そして、教会という新しい共同体を与えられ、復活の証人として福音を宣べ伝えるという新しい務めを与えられました。このような信仰の生活に、多くの祝福が約束されています。イエス様を中心に、イエス様に囲まれて、イエス様の祝福と御教えに生きること、それこそが、私たちに与えられているパラダイスなのです。

 そのようなことを考えながら、今日ご一緒にお読みしましたイエス様のみ言葉をもう一度お読みしたいと思います。ここには、今日お話ししましたようなパラダイスのすべての要素、祝福、戒め、囲い、尊い労働、神様の御臨在すべてがイエス様と共にあるということが語られています。どうぞ味わって聞いてみてください。『ヨハネによる福音書』15章4〜17節

「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」

 イエス様を信じ、イエス様の御救いのうちに生きること、それがこの地上においても、天においても、私たちのパラダイスなのです。
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