天地創造 20
「地の面を潤したる水」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 創世記2章4〜6節
新約聖書 ペトロの手紙一 第4章10〜11節
地球は水によって祝福されている
 ライアル・ワトソンの『水の惑星』からの一節を、ご紹介したいと思います。ライアル・ワトソンは、イギリスでサイエンス・ライターをしている方で、日本でもよく紹介されていますが、ちょっとエセ科学的なところがあるニューエイジ科学者で、気をつけて聞かなければならない人です。この『水の惑星』は、半分は写真集で、なかなか良い本でした。

 われらが惑星は殺伐とした暗黒の宇宙にあって、独り、サファイアのごとき淡く青い光を放っている。太陽系の仲間で、これに少しでも似たものはない。あるいは、宇宙のどこにも地球のような星は存在しないのかもしれない。氷の状態の水分は、土星の輪やハレー彗星の核内で発見されているし、気体状なら微量だが火星の大気圏にもあるとされている。しかし、液体状の水は、この銀河系のどこを捜しても地球外には一滴たりともみつかっていないのだ。そして地球外で、生命の存在を証拠だてるものも何ひとつない。
 水と生命、このふたつは切り離せない関係にあるらしい。われわれは水より生まれ、水によって活かされている。太古の海のどこかで、生きた細胞が自分用の小さな水ためをもって誕生して以来、この関係は変わっていない。地球を潤すおよそ13.5億立方キロメートルにのぼる水が、この惑星にぎりぎりのところで生命を支える条件をつくりだしている。(中略)霊妙にして素晴らしきもの、それは水。(『水の惑星』、河出書房新社)


 水と地球、水と命、これは本当に切っても切れない深い関係にあります。そのことは、聖書を読んでも明かなことです。以前にも紹介しましたが、『ペトロの手紙二』第三章五節には《地は神の言葉によって水を元として、また水によってできた》と記されています。そして、今わたしたちが読んでいる『創世記』でも、第一章では、この地がまだ混沌としていたときに、すでに水があったことが記されています。また、第二章では、まだこの地上が草木も生えない荒れ野であったときに、この地表を水が潤していたということが記されているのです。

地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。(第一章二節)

しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。(第二章六節)

 このように、水は、天地創造の最初から存在していました。しかも、極めて豊かに、この地球をまるごと潤すかのように存在したのです。そして今も、水は、わたしたちの最も身近な物質で、もっとも豊かに存在しているものです。そのために、水が、宇宙的にみても、この地球においても、極めて特異な物質であるということにまったく気付かないほどです。ライアンも書いているのですが、水が、しかも液体、気体、固体という三つの様態で、これほど豊かに潤している地球の存在は、いくつもの宇宙的な偶然のかさなりがなければないものでありまして、まったく奇蹟としかいいようのないものなのです。

 そう考えますと、今日私たちが読みました六節のみ言葉は簡単に読み過ごせないところです。前回、お話ししましたように、最初、この地上はまったくの荒れ地でありました。草も木もありませんでした。もちろん、生き物と呼べるものもありませんでした。けれども、こう言われているのです。

しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。

 まったく荒れ果てた不毛の世界を、水が潤していたというのです。地球の複雑な地形や気象、青い空、広大な海、緑豊かな大地を形作る水、そして大小様々な個性的な生き物の命を生み出し、支えている水、その水がこの地球のすべてを潤していたというのです。ライアンはこんな風に言っています。

 今日、われわれの惑星は、およそ13.5億立方キロメートルという膨大な水量に浸されている。それでも、地球を学校教材の地球儀ぐらいに納めたとすれば、表面は指にちょっと湿り気を感じる程度だ。しかし地球を、さまざまな表情を見せる繊細で矛盾に満ちた水の膜で包み、地球に優しさと際立った特性を与えるには十分なのである。宇宙の観察者がいるならば、足を止めて目を奪われ、感嘆の声をあげずにいられない贈り物、それが水であった。まさしく、天は良しとされたのである。地球は祝福されている。水によって、祝福されている。(『水の惑星』、河出書房新社)

 何もない、荒れ果てた地表を水が覆っていたということ、このことが、この地球が特別な神の御心の中に置かれていることを物語っているのです。
内在する祝福
 《水が地下から湧き出て》という言葉についても考えてみましょう。地球の水がどこから来たのかということについて、普通は、原始的な大気の中に含まれていた水蒸気が、何百万年も雨となって降り注いだ、と言われています。けれども、五節をみますと、《主なる神が地上にはまだ雨をお送りにならなかった》とありますから、雨が降る前に、地下から水が湧き出ていたということになって、科学的な説明と符合しないことになります。このことについては何も言えませんが、ただわたしが興味深く思うのは、地下から湧き出てくる水と、天から降り注がれる水があるということです。

 地下から湧き出てくるものとは、「内在するもの」という意味でありましょう。神様が、それ自身に内在するものとしてお与えになった力、祝福の泉というものがあるのです。

 わたしたち人間もそうです。ひとりひとりが、個性的で、生きていくために必要な素晴らしい力を、内に秘めています。私たちは、神様が上より与えてくださるものを必要としていますし、そこにこそ救いがあるというのは、わたしがいつも言っていることです。福音とは、イエス様がしてくださったこと、してくださること、この二つによって救われることなのです。それに間違いはありません。しかし、同時に聖書は、私たちの命のうちに内在するものとして、ひとりひとりのうちに分け与えられている賜物についても語っていることを忘れてはなりません。

 モーセの召命の物語を思い起こしてみたいと思います。モーセは、エジプトに住むユダヤ人の子で、父アムラムと母ヨケベドの間に生まれました。しかし、当時、エジプトの王様からユダヤ人に生まれた男の子をすべて殺すようにというお触れが出ていたために、両親はモーセの命を救おうとして編んだ籠に入れ、ナイル川に流しました。それをエジプトの王女が見つけ、拾い上げて、自分の子として育てることになりました。

 成人すると、モーセは自分がユダヤ人であり、そのユダヤ人がエジプトの奴隷として虐げられていることに我慢がならなくなります。そして、ユダヤ人を救おうとするのですが、失敗をし、アラビア半島にあるミディアンに逃れます。そこで羊飼いをしながら暮らしを立て、ツィポラという女性と結婚し、子供ももうけます。こうして四十年、モーセはミディアンで平和な日々を送っていました。

 ところが、ある日、神様がモーセに現れ、エジプトに帰ってわたしの民を救い出しなさいとお命じになるのです。モーセは、それを断りました。どうして、わたしがそれをしなければならないのですか? いったいエジプトの王様に何と言えばいいのですか? わたしの言うことを信じてもらえなかったらどうするのですか? 神様は、それにいちいち丁寧にお答え、わたしがついているから大丈夫だと言って下さいました。しかし、なおもモーセは神様に逆らい、断り続けます。

 それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」(『出エジプト記』 第4章10〜12節)

モーセは「わたしは口が重く、しゃべるのが苦手だ」と神様に訴えました。口が利けないのではありません。ちゃんと言葉を話すことができる口をもっていました。生まれつき話をすることができない人もいるのですから、それは決して当たり前のことではありません。神様がモーセに言葉をしゃべる能力を与えてくださっていたのです。

 それはモーセの命のうちにあらかじめ与えられ、多くのものを生み出すことができる神のすばらしい賜物でした。けれども、モーセはそれをちっとも評価していませんでした。こんなものは何の役にも立たない、無きに等しいものだというのです。これに対して神様は、「あなたに口に授けたのはわたしだ。さあ、行きなさい」と、もたもたしてなかなか決心できないでいるモーセを急かすのです。

 神様のおっしゃっていることもよくわかりますが、モーセの気持ちもよくわかるのです。神様の上より与えてくださる祝福を信じ、期待をしても、私たちの内にすでに祝福として与えられている自分の力については、なかなか信じることができないのです。もちろん、逆の人もいることでしょう。自分の力を信じることはできても、神様からの祝福を信じることができないという人です。それも大いに問題なのですが、自分のうちに与えられている祝福の力を信じられないことも、同じように問題なのです。

 その人は、イエス様のお話しされたタラントンのたとえ話で、分け与えられたタラントンを土に埋めていた僕に似ています。神様は、私たちひとりひとりが神様の子らとして、また神様のしもべらとして生きるために、私たちの命の内に内在する祝福として賜物を与えてくださっているのです。それは大きさも形も違うかもしれませんが、そこに神様の祝福があることを信じて、それを生きることによって、神様に与えられた命の形を生きることができるようになるのです。
生来のもの
 窪田空穂(1877・明治10〜1967・昭和42)という歌人がいます。岩波文庫に『窪田空穂随筆集』が出ているのですが、そのなかでこういうことを言っています。

私は以前から、人間の幸福というものは、その人の生来を遂げていくことだと思っている。幸福ということは範囲の広いものであるが、この事が主となっているもので、ほかの事はこれに較べると、いずれも従である。ほかの幸福は、思いようによっては、どうやら諦められるものであるが、生来の遂げられなかったという事だけは、諦めようにも諦められないものである。それによっても、その軽重はわかると思って来た。そうはいうものの、その人の遂げてゆくべき生来の、どういう物であるかということを掴んでいる人は、極めて稀である。殆ど全部の人は、そうしたものをもっていながら、掴むはおろか、もっている事さえも心付かずに死んでいく。(「生来というもの」、『窪田空穂随筆集』、大岡信編、岩波文庫)

 生来のものを遂げるということ、それは神様に与えられた命の形を生きるということでありましょう。けれども、窪田氏が言っているように、誰もが生来のものをもっていながら、それが何であるかを知ることはおろか、それを持っていることさえ気付かないということがあるのです。

 実は、私もこの随筆集を読んで知ったのですが、窪田氏は三十代の頃に聖書を読み始め、植村正久牧師から洗礼を受けています。洗礼を受けて、「荒漠として何もないところに、ある目じるし」を発見し、「世に生きていく態度を定めること」が出来たと言っています。

 私は植村正久先生の教会の一つで、当時牛込の薬王寺前町にあったささやかな教会へ、毎日曜日ごとに通って、先生の説教を聴く者となった。そしてついに、洗礼を受けて教会員の一人になるに至った。
 先生によって私は、初めて世に生きて行く態度を定めることが出来たと思った。一切の事の価値はその動機にある。成し得る事はいかに小さくても、それをする動機さえ正しかったら十分の価値がある。この価値は、社会の評価とはかかわりのないものだという事を、安らかに思えるようになった。また与えられた事は、いかにつまらなく見えるものでも、奉仕の心をもってするべきで、それを通して自身を高めるより外には方法はないものだということも、はっきり思えるようになった。要するに悪意なき悪魔の如き個人主義は打ち砕かれて、広く遠い社会とつながりもち得る心とされたのである。私は限りなく小さく、同時に限りなく大きな者となって、一つの統制に服して、安んじて働き得る者となり得たのである。(「生来というもの」、『窪田空穂随筆集』、大岡信編、岩波文庫)


 まず動機が大事だと言っています。動機というのは意識的なものだけではなく、無意識なものがあります。しかし、それを大事にするということは、それを意識的に生きるということでありましょう。自分が何をしたいのか、何をしようとしているのか、そのようなことを確認しながら、生来のものを大事に生きようということでありましょう。

 しかし、それだけではなく与えられた事は奉仕の心をもってする、とも言っています。与えられた事とは、自分がしたいとかしたくないという気持ちではありません。自分を見込んで頼まれたことであったり、否応なしに降ってきたことでありましょう。なぜ、自分がそんなことをしなくてはならないのかと思うかも知れませんが、そのなかに神様が私たちを生かそうとする御心があると信じるのです。だから、奉仕の心を込めてするべきだというもです。そして、重要な点は、自分の内側から起こってくることであれ、外から与えられる事であれ、事の大小や社会的な評価ではなく、いかに自分の生来のものを生きるかということに人生の目標、価値を置くということなのです。

 今日は、《しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した》というみ言葉から学びました。神様がまだ《地の上に雨をお送りにならなかった》(五節)ときのはなしです。前回、神様が上より与えてくださる祝福、恵みがなければ、この地は荒れ果てたままである、それがこの世界の本当の姿であり、私たちの姿であるというお話しをしました。それはそうなのです。しかし、その荒れ果てた世界は、実はこの世界を形作る水、そして命を生み出す水、そのような神様の祝福を内在していたのです。《しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した》とは、そのことを物語っているわけです。

 もちろん、それだけでは荒れ果てた地が緑豊かな、そして大小さまざまな個性的な生き物に満ち溢れた世界になったわけではありません。神様の、上からの祝福が必要です。しかし、それはこの世界になかったものが与えられるということだけではなく、すでに与えられているものが形作られていくということもあるのです。

 『創世記』第一章でも、そのことは話しました。第一章でも、神様が無から有をお造りになったと書かれているのは、1節に記されているまだ形作られる前の原始的な天と地、そして3節の光だけです。ほかのものはみな、神様のみ言葉によって形作られたのです。この世界も、私たちも、神様のみ言葉によって形作られる必要があります。そのためには、神様が私たちの命のうちに与えてくださったもの、それは生来のものと言ってもいいし、命のかたちと言ってもいいと思いますけれども、そのうちにある祝福の力を信じることが必要なのです。 
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