天地創造 19
「荒れ野からの始まり」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 創世記2章4〜5節
新約聖書 マルコによる福音書1章1〜15節
第二の天地創造物語
 天地創造の物語は、聖書全体の礎をなす世界観、つまりそれはみ言葉に生きる私たちの人生観の礎ということでもありますが、そのような根源的な世界観、人生観を私たちに物語っています。これにつづく聖書の物語に入っていく前に、『創世記』1章〜2章3節に記されていた天地創造について、もう一度、大切な点を三つにしぼって確認しておきたいと思います。

 第一のことは、有りと有るすべてのものは、神様によって存在させられ、祝福されているということです。《初めに、神は天地を創造された》(1章1節)と記されていました。この《天地》とは、「天」と「地」のことであるというお話しをしました。宇宙を含めて私たちが属している世界、私たちが認識したり、イメージしたりできる物質的な世界が「地」だとすれば、「天」というのは、それを超えた霊的な世界のことです。その天も地も、神様の創造によって始まった世界なのです。神様によらず存在しているものはひとつもありません。そして、神様は、お造りになったすべてのものを《極めて良かった》と肯定し、祝福してくださっているのです。

 第二のことは、この世界、つまり天と地における「地」のことですが、その本質は、混沌であり、闇であるということです。《地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた》(1章2節)と記されていました。私たちは、この世界の混沌とか闇というものを、今も目の当たりにすることがありますけれども、なにもそれは驚くことではありません。私たちが生きているこの世界は、その本来の姿として闇であり、混沌なのです。それが、神様のみ言葉によって形作られ、秩序づけられ、はじめて平和を与えられるのです。すべてのものは神様のみ言葉によって支えられて、はじめて形ある存在と成ります。神様のみ言葉による命令や支えがなければ、それはたちまち形なく空しいものに転じてしまうわけです。

 第三のことは、神様は有りと有る命の主であるということです。神様は命ある生き物をお造りになり、その命が育まれ、繁殖する場所としてこの世界を創造されました。そして、その命は、決して自己充足的なものとしてではなく、飢え渇いたものとして、つまり常に神様によって満たされることを求める存在として、創造されたのです。別の言い方をすれば、神様は、命あるものを造り、愛し、養うことを目的に、この世界を創造されたのです。そして、その命のなかで、もっとも飢え渇いたものであり、何よりも強く神との交わりを求める存在として、それゆえに神様にもっとも愛されるものとして、人間は創造されたのでした。

 さて、このような全宇宙的な、あるいはそれさえも超えた極めてマクロな天地創造の御業が語られたのち、こんどは人間を視点に据えた天地創造物語が新たに始まります。これを「第二の天地創造物語」と呼ぶこともあります。それが、今日お読みしました2章4節以下に記されている物語なのです。まず4節を見てみましょう。

 これが天地創造の由来である。主なる神が地と天を造られたとき、

 《これが天地創造の由来である》という言葉は、これまで語られてきた天地創造のお話しを受けているのか、それともこれから始まる新たな天地創造の話を指しているのか、どちらにも受け取れる言葉です。結論はでないのですが、わたしとしては、これまでお話ししてきたことを受けての言葉だと読みたいと思います。

 その根拠のひとつは、天と地の語順にあります。《これが天地創造の由来である》と、ここでは「天」が先に来ています。それは1章1節の、《初めに、神は天地を創造された》とあるのと一緒です。それに対して、《主なる神が地と天を造られたとき》という、第二の天地創造物語を導く言葉では、「地」が先に来ているのです。非常に些細なことではあります。けれども、「地」が先にきているところに、第二の天地創造物語の特徴があるのでありまして、これは人間と人間の住む土地に視点をしぼったお話しになっているのです。そういうことを考えて、まあ、どちらでもいい話だと思いますが、《これが天地創造の由来である》というのは、前の話を受けていると読みたいのです。

 そして、《主なる神が地と天を造られたとき》と、第二の天地創造の物語が導かれます。「第二の」というのは、今も申しましたが、視点が違うのです。あくまでも人間ということに中心を置いた場合のお話し、それがこの第二の天地創造物語なのでありまして、第一の天地創造と第二の天地創造は、まったく別のお話というのではなく、補い合う関係にあるのです。4節はその二つの天地創造物語を、ちょうつがいのように結びつけている節だと言ってもよいと思います。

荒れ野からの始まり
 5〜6節をお読みします。

地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。

 この地上は、最初、草木の一本も生えていない、荒涼とした不毛地帯であった、と記されています。しかし、それは渇いた土地ではなく、地下から湧き出た水が土の全面を潤していた、とも記されています。これは、だいぶ書き方が違いますが、第一の天地創造における《地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた》ということに対応するものだと言ってもいいでありましょう。先ほどは地の本質は、混沌であり闇であると申しましたけれども、この表現でいえば、地の本質は荒れ野であり、不毛であるといえます。

 実は、この「荒れ野」というのは、聖書全体を通じて繰り返し語られる、大切なモチーフとなっています。たとえば、旧約聖書では、約束の地を目指して歩んだイスラエルの旅路、「荒れ野の四十年」があります。この荒れ野において、イスラエルは生ける神との出会いを果たし、それがイスラエルの信仰の基となるのです。

 また新約聖書では、今日お読みしました『マルコによる福音書』の冒頭でこう語られていました。

神の子イエス・キリストの福音の初め。
預言者イザヤの書にこう書いてある。
 「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わ し、あなたの道を準備させよう。
荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。』」
そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。


 イエス様の先触れであるバプテスマのヨハネのことが記されています。《荒れ野で叫ぶ者の声》によって、《福音の初め》が告げられるのです。そして、そこにイエス様が現れて、バプテスマのヨハネから洗礼をお受けになる。そのとき、天から《これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者》という声が聞こえました。このように、旧約聖書においても、新約聖書においても、荒れ野というのは神の救いと出会う場であり、信仰が始まる場なのです。

 荒れ野とは何か? 荒れ野は、実は日本の風土のなかではなかなか経験することができない土地です。日本でも、一時的に土地が荒廃し、荒れ野と化すことがあります。しかし、原爆で汚染された広島や長崎も今は緑豊かな都市となっていますし、青木ヶ原の樹海だってすべての焼き尽くした溶岩の上にできています。つまり、日本では荒れ野とはいえ、多くの時間をかければ、自ずと再生されていくのです。日本における自然とは、このように生命をもたらす驚くべき力をもっています。

 しかし、聖書における荒れ野は、それとは違います。あらゆる命が生きることを厳しく拒絶し続ける場所です。聖書における自然とは、死をもたらす厳しいものなのです。たとえば詩篇121編1〜2節に、こういう詩人の言葉があります。

目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
わたしの助けはどこから来るのか。
わたしの助けは来る
天地を造られた主のもとから。


 日本人ならば、山を見上げると神々しさを覚えて感動する。しかし、このイスラエルの詩人は、山を見上げて絶望しているのです。そして、見えない神様に信仰の目を注ぎ、神様に信頼を寄せ、祈るのです。山だけではなく、海もそうです。海も魔物が住む恐ろしい場所として考えられています。海の幸、山の幸と、自然そのものの恵みを豊かに味わう日本人とは、だいぶ違う自然観のなかで、聖書は語られているのです。

 それはともかくとしまして、聖書は「荒れ野」に、自然のもっとも原初的な姿を見ているのです。2章5節にもどりますと、《主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。》とあります。神様も、人間も、手を加えていないままの自然、つまり生成りの自然は、命を厳しく拒絶する不毛の、死の世界なのです。

 日本の風土のなかで培われた、私たちの楽観的な自然観では、そういう厳しい自然観というものを、実感として味わいにくいかもしれません。そして、日本人には日本の風土に培われた世界観、人生観があるからいいではないかという考えもあることでありましょう。

 しかし、人間の荒れ野についてはどうでしょうか。人間も自然の一部です。では、人間のうちにもそのような力強い命を育み、他者を生かす力が宿っているのでしょうか。決してそうではありません。神様など信じなくても生きていける。人間は人間の力で生きていける。そう思っていても、実際には見せかけの繁栄のなかで、人間の精神は渇き、荒び、拠り処のなさに阻喪しているのではないでしょうか。自分の考えや感覚だけを絶対化し、まるで自分が神様であるかのように、自己中心に振る舞いながら、他者と対立し、だれも自分のことを分かってくれない、愛してくれないと孤独を嘆いているのではないでしょうか。たとえ豊かな自然の中にいても、人間の荒れ野は隠しようがありません。

 私は思います。日本の豊かな頼もしい自然は、それを育み給う神様がいらっしゃればのことなのです。それは、神あっての自然の一部でありながら、神なしに生きようとする人間の姿を見れば明らかなのです。聖書に、荒れ野から神様の創造の業が始まり、荒れ野からイエス・キリストの福音が始まったと記されていることは、決して偶然ではありません。世界も、人間も、神様がお造りになったというだけのことではなく、神様なくしては荒れ野であり、神様がそこに恵みをもって臨んでくださるときにははじめて生きたものとなるということなのです。

 ですから、自然の荒れ野でも、人間の荒れ野でも、荒れ野の体験をするということは、私たちにとって大切なことになります。少し長いのですが、『申命記』8章2〜10節をお読みしてみましょう。

あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。それは、平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水が溢れる土地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。不自由なくパンを食べることができ、何一つ欠けることのない土地であり、石は鉄を含み、山からは銅が採れる土地である。あなたは食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい。

 荒れ野の体験を通して、私たちは神様なくして生きられないことを知り、私たちを生かすものは神様の恵みであるということを知る。人はパンだけで生きるのではなく、神様の言葉によって生きるのだということを、徹底的に思い知る。それゆえに、神様の教えを尊び、神様と共に生きる者となって、豊かな恵みを味わうのだということなのです。

主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。

 『創世記』2章5節の、このみ言葉も同じことを物語っているのです。神様がこの地上に、私たち人間に、天から恵みの雨をお送り下さらなければ、この世界も、人間も、まことに荒びきった存在に過ぎません。しかし、この荒れ野から神様が始めてくださったことがあります。それが創造の御業であり、福音の御業です。この神様の御業こそが、この世界を、私たちを生かす命の源なのです。どうか、どんなときにも神様と共に生きる者でありましょう。
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