天地創造 17
「それは極めてよかった」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 創世記1章31節
新約聖書 ローマの信徒への手紙5章12〜21節
進化論という思想
 「鶏が先か、卵が先か」という謎かけがあります。卵がなければ、鶏は生まれません。鶏がいなければ、卵は生まれません。考えれば考えるほど、頭の中をぐるぐる駆けめぐってしまう謎かけです。しかし、鶏が存在している以上、どちらかに答えがあるはずです。みなさんの頭を妙なことで悩ませたくありませんので、最初に私の導き出した結論をもうしますと、鶏が先なのです。

 まず、「卵が先」ということを考えてみたいと思います。これは、進化論の立場を表明しているです。進化論にもいろいろな説があると思いますが、私が学校で教わった、進化論の原理はきわめて単純なことでした。最初に、いろいろなものが混沌と入りまじった原始のスープがあります。そこに、いろいろな偶然が重なって、最初の原始的な単細胞生命が誕生します。これが「卵」ですね。地上のすべての生物は、この卵が進化の原則に従って変化してきた結果であると説明するのが進化論です。 

 進化の原則とは何でしょうか。それは三つあって、一つは突然変異、もう一つは自然淘汰です。ここまでは学校で教わることですが、実は進化論にはさらにもう一つの原則があります。それは、「この世に神はいない」ということです。誰も証明することができない「神はいない」という仮説を、無条件で受け入れ、この世界の成り立ちを説明しようとする試み、それが進化論なのです。

 これまでにも何度かお話ししてきましたが、私は信仰と科学が相反するものだとは思っておりません。神様がお造りになった世界なのですから、信仰的にアプローチしても、科学的にアプローチしても、表現こそ違えど神様を讃美する結果になるのが当然だと思っているのです。けれども、進化論については、もともと科学的仮説のひとつに過ぎなかったと思いますが、いつの間にか、疑うことがゆるされない真理であるかのように語られ、受け入れられ、学校でもそのように教え、無神論的、唯物論的世界観を築き上げてしまいました。そのことがどれだけ多くの悲劇を生んでいるか、そのことを考えなければなりません。

 進化論の最大の害悪は、優生思想を生んだことです。優生思想とは、悪質な遺伝子をもった人間を淘汰し、優良な遺伝子をもった人間を残していけば、人類はもっと優秀になるとか、社会はもっとよくなるという考え方です。これによって、ヒトラーは、ユダヤ人を悪質な遺伝子を持つ民族と決めつけ、これを淘汰しようと大量殺戮を実施しました。このように自分たちに支障となる遺伝子を持つ人間を淘汰することによって、自分たちの遺伝子を守ったり、より進化させたりすることができると信じているのが優生思想なのです。

 日本にも優生思想は存在します。つい15年前まで「優生保護法」という法律がありました。その第一条には、はっきりとこう書いてあります。

「この法律は、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護することを目的とする。」

 「不良な子孫の出生」、その意味は、精神病や障害者や遺伝病をもった人たちの子どもたちのことです。そのような子どもたちが生まれることを防止するために、不妊手術であるとか、人工中絶をすることを定めた法律なのです。それが、1996年に廃止されるまで存続していたのでした。

 さすがに今は、そのような考えはないだろうと安心してはいけません。出生前検診で遺伝病や障害者の誕生を防止したり、不妊治療の名を借りた体外受精でも優秀な遺伝子を掛け合わせたり、あるいは微妙な問題ですが、脳死による臓器移植なども、一方の命と他方の命の価値を比較するような危険が伴うのです。

 また進化論は、人間が自然界における偶然の産物であるとするのですから、命の尊さや、人生の目的について、何も語ることができません。自分なりに生き甲斐を見つけるということはありますが、それがかなわなければ生きている意味はなくなりますし、自分にとって邪魔な人はみな人生の敵となり、その命を傷つけることも厭わない。あるいは生きるのがイヤになれば死んでもいい。そこには、絶対的な罪という考え方もありません。自分さえよければいい、こういう自己中心的で、虚無的な人生観しか持ち得ない人を生み出しているのが、進化論の思想なのです。

 そして、このような進化論を常識として教えられた人たちは、それを疑うこともできずに、人生の虚無感に苛まされ、救いも、希望も、生きる意味も見いだせず、非人間的、破壊的、虚無的な人間となっていくのです。これらのことすべては、進化論が、神様とこの世界、私たち人間との関わりを否定することに原因があるのです。

 それに対して、聖書は開口一番、神様がこの世界とあらゆる生き物と人間の造り主であり、「産めよ、増えよ」とその営みを祝福しておられるのだということを語るのです。「鶏が先か、卵が先か」という謎かけに、「神様はまず鶏を造られた。そして生めよ、増えよ」と祝福されたと答える、それが聖書です。

 
神の肯定
この世界は、天と地も、陸と海も、昼と夜も、折々の季節も、植物と動物も、そして人間も、すべて神様の明確な意志によって存在させられました。どれほど小さきもの、取るに足らぬもののようにみえても、すべては神様によって意味あるもの、価値あるもの、目的あるものとして、存在させられているのであります。

 『創世記』1章の天地創造は、そのことを伝える物語です。六日間にわたる神様の天地創造の働きの中で、幾度も「神は良しとされた」という言葉が繰り返されています。そして、最後に、《神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。》と締めくくられているのです。

 聖書による天地創造物語は、この世界がいかにして造られたかということだけを語っているのではありません。それ以上に大切なことは、この世界に対する最上級の神の全面的肯定、すなわちこの世界は、神様にとって喜ばしいものであり、美しいものとして造られているのだということを語っているのです。

 イエス様はこう言われました。

五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。(『ルカによる福音書』12章6節)

 雀は、1羽では値が付かないので、二羽なら1アサリオン、五羽なら2アサリオンと、まとめ売りされているのです。しかし、その値のつけようもない小さな雀の一羽ですら、神様は造り主として、天の父として、目を注いでおられます。それどころか、神様は私たちの髪の毛の数えておられるのだとも、イエス様は仰っておられます。それは、本人ですら知らないようなことにまで、神様の神経は行き届いているということです。それほどまでに、私たちは神様に知られているのです。そのうえで、私たちの存在は神様に肯定されているというのです。

 とはいえ、わたしたちには、それを素直に受け入れられないところがあります。自分は神様の失敗作ではないか。手違いではないか。そういう劣等感に抱いている人もおりましょう。あるいは人生における理不尽な苦しみ、悩みから、どうしても神様に愛されているとは思えないということもありましょう。さらに、私たちの誰もが考えなければならないのは、罪の問題です。たとえ神様がわたしたちを良きものとして造られたとしても、その姿を保つことができていないのではないか。自分の愚かさや罪によって、それを台無しにしているのではないか、云々。

 しかし、みなさん、神様を見くびってはいけません。神様が良しとされたものを、誰がひっくり返すことができるでしょうか。神様と対決することができる者は、誰もいません。神様が良しとされたならば、誰もそれをひっくり返すことはできないのです。

では、神様ご自身がひっくり返す、という可能性はどうでしょうか。確かに、それは有り得ることです。そして、実際、聖書には、神様がこの世界に人間をお造りになったことを後悔し、滅ぼそうとされたという話があります。『創世記』6〜9章に記されている「ノアの箱舟」と言われている物語です。その6章5〜7節にはこう記されています。

主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」

 こうして神様は大洪水を起こされて、この地上を一掃されるのです。しかし、神様は仏心を起こされます。仏心というものも変な言い方ですが、要するに神様は滅ぼし尽くすことをせず、一握りの人間と動物を箱舟に乗せて、滅びからお救いになるのです。そして、結局は神様の憐れみによって生き残ったものを、神様は再び「産めよ、増えよ」と祝福されて、この地上に命が満ち溢れることをおゆるしになったのです。

 このことが物語っているのは、人間の罪は、神様を深く悲しませるものでありますが、それですら、この世界に対する神様の最初の思いを変えることはできなかったということなのです。「なぜ?」と問うことは、私たちにはできません。たとえ私たちの測り知ることができないことであったとしても、それが神様なのです。

 キリストを信じる信仰の義ということを語るパウロは、そのことを《恵みの賜物は罪とは比較になりません》(『ローマの信徒への手紙』5章15節)と語っています。神様は罪を憎み、お嫌いになる方です。だからこそ、人間の罪を、深く悲しまれておられる。しかし、それ以上に大きな憐れみが、神様のうちにはあるのです。

 パウロはこうも語ります。《罪が増したところには、恵みはいっそう満ちあふれました。》(『ローマの信徒への手紙』5章21節) 私たちは弁解の余地がないほどの罪人です。この罪深き存在である自分が、なお神様に良しとされている存在であるなどとはとても考えられません。それが、私たちの思いの限界なのです。しかし、神様は私たちのそのような貧しい思いを越えて、私たちを良しとしてくださる方なのです。

 しかし、「良い」とはどういうことなのでしょうか? 先ほど、それは神が、存在を全面的に肯定してくださることだと申しました。この際、大切なことは「神が」という部分にあるのです。イエス様のたとえ話のなかで、帰ってきた放蕩息子を父親が無条件で受け入れる話があります。他方、彼の兄は、彼を受け入れることができませんでした。さらに彼自身も、「わたしは息子と呼ばれる資格はありません」と、自分を受け入れることができないでいました。しかし、彼にとって重要なことは、自分で自分を受け入れられないことではなく、また兄に受け入れられなかったことでもなく、父親に受け入れられたということにあります。そして、それで足れりとしたときに、彼は救いを、安息を得るのです。

 私たちが良き存在であるということも同じことです。自分の姿を見つめたら、自分で自分をゆるせないことがあります。そんな自分を受け入れてくれない人がいても少しも不思議ではありません。けれども、このような私を、神様だけは、なお良しとしてくださるのです。

 私たちも、この世界も、そのような神様との関わりの中で存在しています。そこを離れたら、私たちには何の確かさも、希望もありません。しかし、どんな時にも、私たちを良しとしてくださる神様がいらっしゃる。その神様によって、私たちも、この世界も存在がゆるされている。そのことを喜ぶ者となること、それが神と共に生きるということでありましょう。そして、神様と共に生きるならば、私たちには自分が何者であっても、目の前に何が起こっても、必ず神様の愛と祝福を期待できるのです。
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