天地創造 16
「産めよ、増えよ、地に満ちよ」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 創世記1章26〜30節
新約聖書 ローマの信徒への手紙8章31〜39節
新しい年にむかって
 2009年の最後の日曜日を迎え、残すところもあとわずかとなりました。皆様におきましても、新しい年を清々しく、喜ばしく迎えるために、大掃除をしたり、年賀状を書いたり、お正月の買い物をしたり、いろいろとご準備に忙しい日々を送っておられることでありましょう。そのようにして、一年の区切りをつけて、新しい年を新しい気持ちで迎えることは、私たちの長い人生の日々において、大切な行事なのではないかと、わたしは考えます。

 本当のことをいえば、人生の区切りとは、結婚とか、入学とか、就職とか、転職とか、引っ越しとか、あるいは悲しみ事であれば家族の死とか、そのようにもっと大きな変化にあると言えましょう。そういうことによって、私たちが自ら望んでのことにしろ、そうでないにしろ、過去を過去とし、多少なりとも今までと違う生活が始まることだろうと思うのです。それに比べたら、一年一年の区切りなどというものは、カレンダー上のことに過ぎないのです。

 しかし、そのカレンダーというものが、実は、神様からの賜物であったということを、私たちは『創世記』の天地創造の第四の日から学びました。

神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。 天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第四の日である。

 もう一度、時間についておはなしをしたいと思いますが、わたしたちには二つの時間があるのです。ひとつは、天地創造から終末に向かう時間です。この時間は、常に神様によって始められ、神の目的に向かって進んでいます。私たちの生も、死も、そのなかにあります。この時間の流れは、私たちの手のなかにはなく、常に神様の御手のなかにあります。

 他方、神様が、わたしたちの手に与えてくださった時間があります。それが、太陽と月が私たちに教えてくれる時間です。それによって、私たちはカレンダーをつくり、時を知り、日を数えつつ生きることができるものとなったのです。それは、私たちにゆるされている人生の時間のなかで、少しでも知恵ある心をもって、豊かに生きるためでありましょう。『詩篇』90編10〜12節に、モーセのこのような祈りの言葉があります。

人生の年月は七十年程のものです。
健やかな人が八十年を数えても
得るところは労苦と災いにすぎません。
瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。
御怒りの力を誰が知りえましょうか。
あなたを畏れ敬うにつれて
あなたの憤りをも知ることでしょう。
生涯の日を正しく数えるように教えてください。
知恵ある心を得ることができますように。


 私たちにゆるされている時間は限られています。その時間のなかで、私たちは多くの困難を経験し、多くの日々を悩みと労苦によって過ごします。また罪を避けて生きることもできません。顧みれば、私たちの人生などは、まさに神様の怒りを増し加えるばかりであるようなものです。そして、そんなことをしているうちに人生が終わってしまうのです。

 だからこそ、モーセは《生涯の日々を正しく数えるように教えてください》と祈らざるを得ないのです。《正しく数える》とは、正確さが問題なのではありません。私たちの一日一日に、一年一年に、神様の恵みが、また呼びかけがあります。その神様の恵みに支えられて、神様の呼びかけに答える一日一日、一年一年を、知恵ある心で送らせてくださいということです。その際、数えるということは、区切りをつけていくことです。区切りをつけるためには、神様の恵みによって、記念や教訓を残しつつも、過去を過去とし、新しいものを望みをもって受け取っていくということが必要なのです。

 この一年、皆様にも、いろいろな日々があったことに違いありません。困難な日々、悩ましい日々、不安や恐れのうちに過ごす日々、過ちにさまよう日々・・・それは、カレンダーが変わったからといって、簡単に過去になるわけではありません。私たちが何もしなければ、何ひとつ変わらないまま、感謝のない人間、怒り続ける人間、意気消沈とした人間、悔い改めのない人間として、怠惰で望みのないままありつづけるでありましょう。

 しかし、過ぐる日、クリスマスを共に迎えることができたことは、なんと幸せなことでありましょうか。私たちは、イエス・キリストの恵みによって、その御救いによって、それらの日々を克服し、区切りをつけ、神様から新しいものを受け取ることができるのです。

 イエス様は、私たちのすべての罪をおゆるしくださいます。そして、すべての罪にもかかわらず、私たちがなお神様の子供らとして、天の父なる神様の祝福のうちにあることを教えてくださるのです。それだけではありません。まことに信じがたいことでありますが、私たちが過ごしてきた愚かしい日々、苦々しい日々のすべてを、御手のなかで良きものにかえてくださるのです。私たちは、イエス様の恵みによって、新しい将来だけではなく、新しい過去を受け取ることができるのです。将来の望みを抱くだけではなく、すべての過去について感謝し、讃美できるようになるのです。

 私たちが立ち帰るならば、イエス様はいつでもそのような救いをもって、私たちの人生を新しくしてくださいます。しかし、私たちは物事に流されてしまうきらいがありますから、このように年の暮れにおいて、イエス様が来て下さったクリスマスの力強い恵みに支えられて、この一年を振り返り、悩みも、苦しみも、悲しみも、罪ある日々も、すべてを神様の御手にお委ねしようではありませんか。

 神様に委ねるとは、握りしめているものを手離すことです。責任感によって、「しなければならない」という事柄にがんじがらめになり、身動きできない人もおりましょう。心の良心によって、自分を責め続け、罪責感にがんじがらめにされている人もおりましょう。人生の挫折を経験して、無力感を抱き続け、絶望のなかに座り込んでしまっている人もおりましょう。しかし、こんな話があります。

 崖から転げ落ちた人が、途中でようやく木の枝を掴んで、命拾いをしました。しかし、そこから這い上がることもできず、下は千尋の谷底です。彼は、枝にしがみついたまま、「助けてください!」と、神に叫びました。すると、神様から答えがありました。「わかった。助けよう。まず、その手を離しなさい」と。

 握りしめているものを手放すのには勇気が必要です。大胆な勇気は、イエス様のうちに神様の愛をみる信仰と、神様のみ言葉の真実さを信じる信仰からのみ与えられるのです。その信仰をもって、私たちの一年をすべて神様にお委ねし、神様から来る新しい年を向ける備えとしたいのです。
 
産めよ、増えよ
 さて、今日も『創世記』の天地創造から一つのみ言葉が与えられております。28節、

神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」

 神様が、人間に最初にお語りになった言葉は、このような祝福の言葉でありました。「産めよ、増えよ、地に満ちよ」、これは他の生き物たちに与えられた祝福と同じものです。22節の、天地創造の第五の日に、まず水に群がるもの、空の鳥が造られ、神様は「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。地の上に満ちよ」と祝福されました。その後、第六の日に、地上の動物が造られ、さらに人間が造られ、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と祝福されるのです。この祝福が、人間に対してのみ語られているとすると、地上の生き物についてこの祝福が語られていないことを、疑問に思うかもしれません。しかし、当然、地上の生き物も、この祝福のなかに含まれていると考えて、なんら差し支えないでありましょう。神様は、この世界に生き物が繁栄していくことを心から望んでおられるのです。

 今、この国では、少子化が問題になっています。原因がいろいろと研究されておりますけれども、政府がいくら子供を産んで育てやすい社会を考え、対策しても、なかなか子供の数は増えないようです。まだまだ対策が不充分であるということもあるかもしれませんが、もっと根源的な問題として、自信をもって次の世代にこの世界を渡していくことができない、私たちの破れといいますか、行き詰まり感というものがあるのではないでしょうか。結局、子供を産んで育てたとしても、自分たちの負の遺産を押しつけるだけになるのではないか。そんな不安や、恐れが、蔓延しているように思うのです。わかりやすくいえば、希望のない世界です。生きるということに、何の意味も見いだせなくなってしまっている。だから、子供を産まなくなる、産めなくなる。そういうことが起こっているように思います。私たちが喜んで生きている世界、苦労があっても希望をもって生きている世界、そういう世界であるならば、もっと自信をもって子供を産むことができるのではないでしょうか。

 『創世記』1章の天地創造は、単にこの世界がどのように造られたかということを物語るだけのものではありません。最初から申し上げていますように、この世界、あるいは私たちの人生の確かさ、意味、目的が、神様のうちにあるということを物語っているのです。神様の全知全能の知恵と力、そして愛によって、この世界は造られ、守られ、支えられ、導かれている。そのことを知って、はじめて混沌とした世界に光が見えてくる、生きることの意味が見えてくるのです。

 「産めよ、増えよ」という神様の祝福もそうです。それは生まれること、生きること、産むこと、そのような命の営みを、神様が喜び、これを助けてくださるという、恵みの約束の言葉なのです。そしてもっと言えば、世代から世代へと、この世界が引き継がれていく、命の歴史、人間の歴史、その未来に対する、神様の祝福の言葉でもあるのです。それがなければ、「産めよ、増えよ」などと言う言葉は、まことに無責任な言葉に過ぎないでありましょう。どんな困難な世界であっても、時代であっても、子を産み、育て、未来を切り開いていきなさい、私がそれを祝福するという、神様のまことに力強い恵みの言葉が、ここに語られているのです。
地を従わせよ
そして、「地を従わせよ」、「生き物を支配せよ」という言葉が、私たち人間に与えられています。地を従わせ、生き物を支配するためには、天地の造り主なる神様に対する信仰と共に、この自然界に対する知識、知恵が必要となってきます。「地を従わせよ」「生き物を支配せよ」とは、神様がわたしたちに人間にそのような知恵や知識をお与えくださったということも意味しているに違いありません。

 たとえば、2章15節にはこういうことが書かれています。

主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。

 人が農業をするというためには、それなりの自然把握の知恵や知識が必要なのはいうまでもありません。あるいは、こういうことも書いてあります。2章19節、

主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。

 あらゆる生き物の特徴を捉え、分類し、名づけるという知恵が、人間には与えられていました。こういう知恵や力は、今日的に言えば自然科学です。自然科学は、神様がこの世界を治めるために、人間にお与えくださった知恵と力なのです。それをもって、この世界を知り、この世界のためになることを行い、また未来を切り開いていくことが、神様によって人間に与えられていることなのです。

 「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」、それは私たちの命の営み、また世代から世代へと嗣いでいく人間の歴史、またそれをよりよきものにしていこうとする人間の知恵による営み、それらに対する神様の大きな肯定の言葉です。しかし、その背後で、大きなものを神様が引き受けてくださっていることも忘れないようにしましょう。私たちの過ち、罪、愚かさ、挫折・・・そういうものに対するゆるし、そしてその回復の御業、私たちを常に新しくしてくださる御業、そのような神様の人間に対する恵みの決意があってこそ、「産めよ、増えよ」という言葉が発せられているのです。

 一年の最後の日曜日に、神様のこのような祝福と恵みの言葉を受けとめ、信じ、私たちの過ぎ行く一年を神様に委ね、新しい年を、神様の御手から受け取りたいと願います。
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