天地創造 14
「神にかたどられし人間」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 創世記 第1章26〜30節
新約聖書 ヨハネの手紙1 第3章1節
恵みの中に
 前回は、天地創造の目的は、人間の創造にこそあったのだ、というお話しをいたしました。この宇宙、この世界は、《人の住む所》(『イザヤ書』45章18節)として、神様によって、精密に、そして強固に形づくられました。そのすべての御業を終えられて、神様は、やおら《人を造ろう》と言われます。これまで神様は、「あれ」「なれ」という命令や、指示をもって、創造の御業を進めてきました。しかし今、人間を造られるにあたって、「さあ人を造ろう」と感慨を込めて語られるのです。この時のために、神様は闇に光を与え、混沌とした世界を秩序と平和の世界として形作り、海の魚、空の鳥、地の獣を造られたのでした。

 先週の説教を終えてから、わたしは、ふと《わたしの恵みはあなたに十分である》(『コリント2』12章9節)という、み言葉を思い起こしました。神様は、私たちを、何も整えられていない世界に、無計画に放り出し、私たちの不平不満を聞きながら、この世界を整えられていったのではありません。すべてを整えてから、その十分な恵みのなかに、私たちを生まれさせてくださったのです。

 それは、この世界が、私たちが欲するままに、何でも手に入れることができるものである、ということではありません。パウロは、自分の身体を痛めつける棘を抜き去ってくれと、神様に祈り続けました。たぶん何らかの持病があって、その癒しを求め続けたということでありましょう。しかし、癒しが与えられる代わりに、《わたしの恵みはあなたに十分である》との主の声を聞いたのです。その程度は我慢しろ、ということではありません。何らかの意味で、それもまた、神様があなたにお与えになった恵みであるということなのです。

 先週お読みしました『ヨハネによる福音書』9章に記されている「生まれつき目の見えない男」のお話もそうです。イエス様の弟子たちは、「この人が生まれつき目の見えないのは、親が罪を犯したからですか、本人が罪を犯したからですか」と尋ねました。しかし、イエス様は「誰の罪のせいでもない。神の栄光が現れるためである」とお答えになったのでした。私たちにとって、足りないと思えることも、不幸と思えることも、すべては、私たちが神の栄光を知るために、必要なこととして与えられているのです。

 神様が、すべてのものを十全に整えて、その中に人間をお造りになったという天地創造を読みますときに、私たちひとりひとりの命も、神様のそのような深い知恵と力の中にあるのだということを感じることができるのです。
生の出発点
 天地創造の説教を始めて、間もない頃、「私たちは、気がついたら自転車に乗っていたようなものである」と、お話しをしました。景色に興味を惹かれてゆっくり漕ごうとすると、「脇見をするな」と言われる。そして、いつのまにか他人との競走になっています。「追い越せ、追い抜け」と急かされ、疲れて休もうとすると、「ガンバレ、遅れるぞ。落伍者になるぞ」と言われる。くたびれ果てて、もう駄目だと自転車を降りようとすると、「ガンバレ、降りるな」と言われる。だけど、そんなに頑張って自転車を漕いでも、自分がどこから出発したのか、どこへむかって自転車を漕いでいるのか、まったく知らないのです。このように、私たちは、物心ついた時には、すでに人生の根源も目的も知らないままに生きてしまっているのであり、生きている限り、たとえ理由を知らなくても、生き続けなければいけないという、重い荷物を背負わされているのです。

 だからこそ、私たちが、自分の生の出発点を知ることは、とても大切なことです。ハンセン病の治療に生涯をかけて、尽力された精神医学者であり、著作によって多くの人に影響を与えられた、神谷美恵子さん(1914〜1979)は、人生の出発ということについて、こういうことを書いておられます。

 人生の出発点はいつかといえば、まさに受胎の瞬間とみなすべきであろう。もちろん本人も母親も、ましてや父親もそれを自覚しているわけではない。このことは、考えてみれば、おどろくべきことである。自覚的存在であるのが特徴といわれる人間なのに、その生の出発点が、自分にも他人にも気づかれないのだ。人生は発端からして人間の意識を超え、同じく終末も意識のまどろみの中でむかえるようにできているらしい。自覚的存在などとは簡単にいえなくなる。(「人生への出発」、『こころの旅』、みすず書房)

 人間は、自分の存在を意識しながら、生きていますが、実は、その始まり(受胎)と終わり(死)においては、そうではないというのです。だから、「自覚的存在」などとは簡単にいえない、と言っておられるのです。

 これはどういうことかと言いますと、自覚、つまり自分という存在に対する意識が生まれる前に、意識できない自分の存在があった、ということです。「こうありたい」とか、「こうあるべきである」とか、そのような願いをもった自分ではありません。あるがまま受け取るしかない自分です。それが、私たちの存在の出発点となって、それを基として、自分に対する意識が育っていくのです。自分がどういう存在であるかを考えるとき、自分がどう考えているかという自意識よりも大事なことと知らなければならないことが、ここにあります。それは、自分がどのようなものとして造られたのかという、そもそもの出発点を知るということなのです。

畏るべく奇しきものとして
 聖書は、そのような根源的なところにある、私たちの人生の出発について、それは神様の祝福に満ちた、素晴らしい創造の御業であると語っています。『詩篇』139編13-18節に、そのことが実に力強く語られています。

 あなたは、わたしの内臓を造り
 母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
 わたしはあなたに感謝をささげる。
 わたしは恐ろしい力によって
 驚くべきものに造り上げられている。
 御業がどんなに驚くべきものか
 わたしの魂はよく知っている。
 秘められたところでわたしは造られ
 深い地の底で織りなされた。
 あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。
 胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。
 わたしの日々はあなたの書にすべて記されている
 まだその一日も造られないうちから。
 あなたの御計らいは
 わたしにとっていかに貴いことか。
 神よ、いかにそれは数多いことか。
 数えようとしても、砂の粒より多く
 その果てを極めたと思っても
 わたしはなお、あなたの中にいる。


 まず、《あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。》とあります。この「組み立てる」という動詞は、「織りなす」と訳すことができる言葉です。細かな糸を、一本一本丁寧に織り上げて、一枚の布ができるように、神様は、骨や筋肉や体の各部分を、一つ一つ丁寧に織りなして、私たちの体を作り上げてくださったのです。

 それ故、感謝と畏敬の念をもって、詩篇詩人はこのように続けます。《わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか、わたしの魂はよく知っている。》と。《恐ろしい力》とは、人間の知恵や力では、測り知ることができない力ということです。そのような神様の知恵と力によって、私たちは、素晴らしく奇しきものとして形作られているのです。

 続いて、《秘められたところでわたしは造られ、深い地の底で織りなされた。》と言われています。《秘められたところで》《深い地の底で》とは、自分の意識が届かないところで、ということです。《織りなされた》とは、「刺繍を施された」という意味でもあります。人生は、神様の縫われた刺繍のようです。刺繍は、裏から見ると、糸が絡まっているようにしか見えません。人間が見ている人生の混沌とした様相は、神様の織りなされた刺繍の裏側の面の姿です。しかし、表面、つまり神様からみると、それは素晴らしい刺繍模様をなしているのです。

 その神様のまなざしについて、詩篇詩人は、《胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている、まだその一日も造られないうちから。》と語ります。私たちは、神様が共にいてくださるとか、いてくださらないとか言いますけれども、実は、私たち自身が、自分というものを見つめ、意識にのぼらせる前から、神様が、私たちを見つめていてくださっている。そのまなざしは、私たちが何かをしたから、しなかったからということで、背けられることはないのです。

 そのような神様の深い眼差しを受けながら、私たちの命は、体は、魂は、神様によって、一つ一つ思いこめて、織りなされているのです。そこに、私たちの存在の根源があるのです。《あなたの御計らいは、わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。数えようとしても、砂の粒より多く、その果てを極めたと思っても、わたしはなお、あなたの中にいる。》と、詩人は、神様を讃美をします。とくに、《わたしはなお、あなたの中にいる》という言葉は、私たちの存在を支える大切な言葉ではないでしょうか。 

神の似姿

 さて、『創世記』1章における人間の創造を見てみましょう。

 神は言われた。
 「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
 神は御自分にかたどって人を創造された。
 神にかたどって創造された。
 男と女に創造された。(26〜27節)


 神様は、御自分に《かたどり》、あるいは《似せて》、わたしたち人間をお造りになった、と書かれています。これを「神の似姿」、「神のかたち」ということがあります。それは、『詩篇』139編にかかれていたような人間のからだの創造とは、違った意味のことです。人間は、「神のかたち」だから、神様も人間と同じような姿をしているのだろうというような、造形的な意味で、「神のかたち」、「神の似姿」ということが言われているのではありません。

 では、いったい何をもって人間は「神の似姿」、「神のかたち」であると言われるのでしょうか。これについては、いろいろな議論がなされてきました。

 たとえば、自由です。神様が、何にも束縛されない、自由な御方であることは言うまでもありません。人間もまた、他の動物とちがって、本能や環境に束縛されない、自由をもっています。自由とは、自分の道を選択することができる、ということです。神様に従う道も、背く道も選ぶことができる。人間には、そのような自由が与えられているのです。

 あるいは、神のかたちとは愛である、という人もいます。愛には、生存本能に逆らうようなところがありまして、自己犠牲であるとか、弱いものへの慈しみであるとか、動物には見られないものがあるのです。

 あるいは、知恵である、という人もいます。動物にも知恵はありましょう。しかし、人間の知恵は際立っています。生活や社会的な知恵に限らず、もっと人間とは何か、人間の生き方とは何か、善悪とは何か、そのようなことを考えたり、求めたりする精神的な知恵をもっています。あるいは、芸術などを生み出す創造的な知恵もあります。

 このように、私たち人間が、何らかの神様のご性質や能力の一部を戴いているという考えは、決して間違いとはいえませんが、十分な答えとも言えません。たとえば、聖書にはこんなことが言われています。

 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。(『ローマの信徒への手紙』1章20節)

 神様のご性質や力をあらわすことが、「神のかたち」であるならば、全被造物が「神のかたち」に違いないのです。しかし、神様は、それとはまったく別の意味で、人間を「神のかたち」として、特別な存在に造られたということこそ、『創世記』1章の言わんとしていることでありましょう。

 たとえば、こんな考えもあります。神のかたちに造られたとは、人間が神様と向き合った存在として、神様に祈ったり、礼拝したり、神様に応答したりすることができる、宗教性をもったものとして造られたことだ。もっともな考えだと思います。自由とか、愛とか、知恵というものをもって、「神のかたち」と限定するよりも、真実に近いような気がします。

 しかし、私は、敢えて、「神のかたち」とはこのようなものである、と明言することを避けたいと思います。私たちが、神様ご自身の姿を完全に知っているのでなければ、これが「神のかたち」だ、と言い切れるものではないからです。

 人間は、神様のかたちに造られました。それは事実です。この事実が物語っている確かなことは、人間を見るときの神様のまなざしなのです。神様は、人間を御自分の似姿として、御自分のかたちとして見てくださっているのです。たとえば、私にも覚えがあるのですが、子供が生まれたとき、眉毛が自分に似ているとか、足の指が妻と同じ形をしているとか、どこそこはおじいちゃんに似ているとか、意地っ張りな性格は自分と同じだとか、そういうことをいちいち喜んだりするのです。自分の似姿として子を見るということは、まさにこれが自分の身から生まれた正真正銘の子であるという喜びであり、愛をこよなく掻き立てることなのです。

 神様は、わたしたちを「神のかたち」、「神の似姿」にお造りになりました。わたしたちのどこにそれがあるのか、わたしたちの側からは、まったく知ることができません。感じることさえできません。しかし、神様はそれを知っているのです。そして、私たちが自分のことをどのように考えようとも、神様が、わたしたちをご自分の身から出た子として、愛のみに根ざしたまなざしをそそいで、私たちをみていてくださる。「神のかたち」、「神の似姿」に造られたとは、少なくともそのことを確かに物語っているのです。

 私たちはどこの馬の骨とも知らない存在ではないのです。神様が、ご自分の似姿として造ってくださったのです。神様は、いつもそのような思いをもって、「お前はわたしの子だ。お前のそんなところが、私とよく似ている」と、私たちを優しく、慈しみ深く見ていてくださる。私たちは、生まれながらにそのようなものであり、そのような神様の愛のまなざしのなかで、生かされているのだということを覚えて、感謝いたしましょう。
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