天地創造 05
「堅くして鋳たる鏡のごとき蒼穹」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 創世記 1章6-8節
新約聖書 ペトロの手紙二 3章18節
水について
 最初に、「水」についてお話しをしたいと思います。『創世記』の「天地創造」を読むときに、一番なやまされるのが、この「水」についてなのです。地球は「水の惑星」と言われていますように、地表の70%が海の水でおおわれています。また、水は、すべての生き物にとって欠かすことができないもので、人体の80%は水である、と言われています。このような豊かな水があればこそ、多種多様な命にあふれた美しい地球という星が存在するのです。

 聖書でも、『ペトロの手紙二』第3章5節を読んでみますと、《地は神の言葉によって水を元として、また水によってできた》と言われています。転じて『創世記』1章2節を読んでみましょう。

 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

 まだ神様の言葉によって形作られる前の、混沌とした地に、すでに水があった、と記されています。ペトロは、このことをもって《水を元に、水によってできた》と言っているのでしょう。

 しかし、水は、水素原子二個と酸素原子一個が結合した分子によって出来ています。自然界の水はもうちょっと複雑なようですが、少なくとも水が存在するためには、水素と酸素がなくてはいけません。さらに、二つの原子を結合させるようなエネルギーも必要です。また原子は、物質の最小の単位ですが、実は原子そのものも電子、陽子、中性子からなっており、陽子は三種類のクォークからなっている、と言われています。水という、このような複雑な物質が立派に存在する世界は、もはや混沌とした世界とは言えません。混沌とは物事の区別ができないような状態のことだからです。

 そこで、わたしは2節についてお話したとき、ここでいう「水」は、H2Oのことではないだろう、と申し上げたのでした。聖書によれば、万物は神様がみ言葉によって形作られたのであって、その以前は形なくむなしいものであった、そこに水という物質だけが立派に存在しているのは、矛盾した話だからです。ここでいう水は、物質以前のもので、形なく、定めなき液状のヘドロのようなものであって、地の混沌を象徴するものと考えるのがいいだろうと思うのです。

 ところが、6〜10節に、再び「水」が登場します。

 神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
 神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。


 ここに出てくる「水」は、明らかにH2Oとしての水です。神様は空に水を置かれることによって大気圏を形作り、地の水を一つに集めることによって海と陸を形作られたというのです。

 そうしますと、2節の「水」もやはりH2Oなのではないか、ということになります。仮にそうだとしても、神様が形作る前から、水が存在しているのは、どういうことなのか、いつできたのか。どこからきたのか。それがわからないのです。また、わたしがいうように2節の「水」がH2Oでないとしたら、大気圏や海をつくった水は、どこから来たのかが分からなくなります。

 だからといって、水は、神様が形作られたのではない、とは言えません。ペトロが《水を元に、また水によってできた》と言ったとしても、それは最初から水の存在があって、それを利用して、神様が天地を作られたということではありません。《水を元に、また水によってできた》とは、この地を形作っているさまざまな要素のなかで、水が果たす役割の重大さを語っているのです。その際、ペトロは、『創世記』1章2節の「水」を、いわゆる水だと理解していたことには間違いありません。ただ当時は、今のような厳密さをもって、物質を区別するようなことはありませんでした。水のようなものも、水も、おなじ「水」だと考えたとしても、不思議ではないのです。

 いずれにせよ、水は、この地球や生命の創造において極めて重要な役割を果たすものであるにもかかわらず、聖書の天地創造のなかに、まったく水の起源が書かれていないのです。かかれていないものは、他にもたくさんありますが、光、空、海、陸、植物、動物、太陽、月、星、季節、人間など、主だったものは皆、書かれています。水だけが書かれていないのは、どうしてなのか。残念ながら今のわたしには、これ以上のことは申し上げられません。ここまで申し上げておいて、こういうのも何ですが、「わからない」というのが正直なところなのです。わたしと同じような疑問を持つ人が他にいないのかどうか分かりませんが、今のところ、このことについて研究された書物や、語られている説教にも、出会っていないのです。

 ただこのままだとまったく整合性のない話になってしまうので、それなりに解決をしておきたいと思います。創造の第一日、1-5節をこれまでお話しをしてきました。この創造の第一日は、地球にかぎらず全宇宙の創造についてかたられているというのが、私の読み方です。ところが今日お読みしました第二日目からは、私たちが住んでいるこの地球のことが書かれています。そのような違いがあるとして読みますと、2節の「水」と6節の「水」とが、必ずしも一致しなくても、あまり矛盾は生じないのではないでしょうか。
大空
 そこで、今日は、この地球における大空の話です。神様は地表の水を、空と地表の二つに分かつことによって、大空をお造りになったということが書かれています。

 神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。

 さらに、このように大空をお造りになった神様の大いなる御業について、このように聖書に記されているところがあります。

 あなたは知っているか どのように神が指図して 密雲の中から稲妻を輝かせるかを。あなたは知っているか 完全な知識を持つ方が 垂れこめる雨雲によって驚くべき御業を果たされることを。南風が吹いて大地が黙すときには あなたの衣すら熱くなるというのに 鋳て造った鏡のような堅い大空を あなたは、神と共に固めることができるとでもいうのか。(『ヨブ記』37章15-18節)

 これは、ヨブが苦難の中で「神様のなさることは間違っているのではないか」と訴えたのに対して、エリフという人が答えている言葉です。雷や密雲や雨は、空の上の水と下の水の循環によって起こされる気象現象です。それが、この地上に大きな災害をもたらすこともありますが、基本的にはこの循環によって、この地上の植物が、生き物の命が育くまれる環境となっているのです。

 それから、大空が《鋳て造った鏡のように堅い》と表現されていることも、注目に価します。実際、大気圏というのは隕石をはじくこともあるほど堅いのです。また大気圏に突入したとしても、空気の層との摩擦で焼け落ちてしまうものがほとんどです。大空、つまり大気圏は、地球を守る宇宙服のようなもので、この地球に隕石が直接激突したり、太陽からの放射線や紫外線をブロックしたり、また気温をコントロールする役目を果たしています。《南風が吹いて大地が黙すときには、あなたの衣すら熱くなる》とありますが、それでも焼け死なないで済むのは、この地球の大空(大気圏)があるからなのです。この『ヨブ記』が書かれたのがいつ頃なのか、正確には分かりませんが、今から3000年以上前であろうと言われています。そのようないにしえの時代に、この地表を守る大空の堅固さを語っていることには、ほんとうに驚かされます。

 宇宙飛行士の若田光一さんは、宇宙から地球を眺めて、「宇宙は暗黒の世界だが、地球だけは、青く美しい生命の星だ。私は、この宇宙に浮かぶ地球の姿を見た時には大きな驚きと感動を経験しました」と語りました。このような感動を覚えた宇宙飛行士は若田さんだけではありません。アポロ16号で月に降り立ったチャールズ・デューク氏は、「私はそれまでやみくもに科学技術だけを信じていた。でも月からガラス細工のような地球を振り返った時、ボルトとナットでは得られない世界があるという思いに打たれた」(『朝日新聞』1996.1.5)と語っています。

 しかし、聖書は、そのようなことをとっくの昔に証言しているのです。『創世記』や『ヨブ記』もそうですが、もうひとつ『イザヤ書』も読んでみましょう。

神である方、天を創造し、地を形づくり 造り上げて、固く据えられた方 混沌として創造されたのではなく 人の住む所として形づくられた方 主は、こう言われる。 わたしが主、ほかにはいない。
(『イザヤ書』45章18節)


 前にも申しましたが、聖書の目的は、科学的な正確さをもって天地創造の記述することではありません。『創世記』や『ヨブ記』、『イザヤ書』が記していることは、広い宇宙のなかで、この地球という星が、神様によって大空という宇宙服を着せられた格別な星であること、そのような愛と保護を受けている星であることこそ、言いたいのです。そのうえで、聖書は、単なるたとえ話ではありませんから、それが現代科学による世界観と矛盾するということもありません。この広い宇宙の中に、私たちが生きていくための、様々な厳しい条件や秩序を満たす、地球が存在していることは、科学者の目をもってしても、決して偶然や自然の産物ではなく、神様のご意志による御業としか言えない奇蹟なのです。地球は、この宇宙の中にあって、神様が特別にお造りになった奇蹟の星なのです。
「ある」と「なる」
 さて、もう一つ、この大空の創造についてお話しをしたいことがあります。それは「ある」と「なる」の違いです。まず3節を読んでみましょう。

 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。

《こうして光があった》と記されています。《あった》というのは、神様の創造の御業によって無から有を生じたということです。しかし、大空の場合は違うのです。

 神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。

《そのようになった》とあります。これは、大空が生じるように、神様が水に働きかけ、水のあり方をお定めになると、そのようになって、大空ができあがったということです。これも神様の創造の御業に違いありませんが、無から有を生み出したものではなく、混沌としたものに、神様が働きかけ、整え、神様のご意志を反映させることによって、そのように整えられたということなのです。

 『創世記』第1章の「天地創造」は、みんな同じように、神様が無から有を造り出されたものである、と書いてあるわけではありません。無から有を生み出す創造の御業によって造られたもの(光)、またすでにあるものに働きかけることによって整えられたもの(大空、陸、海、季節)、さらに無から有とまでは言えないけれども、ほとんどそれに近い形で形成されたもの(生物、人間)と、あります。生物や人間の場合は、神がその命を形成し、さらに神様の御心が「こうありなさい」と働きかけるという、二重の御業が記されています。そういうことにも注意を払って、神様の創造ということを知らなければなりません。

 私たちは、すでに神様によって命与えられたものとして存在しています。しかし、それだけでは十分ではありません。「このようにあれかし」という神様の御心を反映させるようなものとして、整えられていかなければなりません。そのように整えられるということもまた、自分の努力や願いによってではなく、神様のみ言葉によってなることなのです。創造であれ、形成であれ、整えられることであれ、すべては神様のみ言葉によってなります。さらにいえば、神様のみ言葉であるイエス・キリストによってなるのです。ヨハネによる福音書は、そのことをこのように語ります。

 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。(『ヨハネによる福音書』1章3節)

 ここでいう《言》とは、神様のみ言葉としてのイエス様のことです。イエス様によって、私たちが神の子とされること、救われること、整えられていくこと、このようなクリスチャンとしての生活もまた、神様の創造の御業なのです。神様がみ言葉によって、私たちを整えて下さり、神様の子としてふさわしい姿を与えてくださるように、み言葉に聞きつつ歩む者でありたいと願います。
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