アブラハム物語 20
「そのとき笑いは我らの口に満ち・・・」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ルカによる福音書 22章31-34節
旧約聖書 創世記 18章9-15節
神の励まし
 前回は、アブラハムが旅人たちを親切にすることによって、そうとは知らずに御使いたちを家にお迎えすることができたのだというお話をいたしました。今朝のお話は、その時、アブラハムのもてなしを受けた御使いたちが、神様の祝福のご計画の一端を知らせ、アブラハムとサラの信仰を励まして下さったという話なのです。

 信仰の励ましというのは、「頑張れ! 頑張れ!」という応援ではありません。神様を信じる信仰は、私たちの命です。私たちは神様を信じることによって生きているのです。信仰がしぼめば、私たちの心がしぼみます。信仰が揺らげば、私たちの生活が揺らぎます。そのような時、神様は、「頑張れ! 頑張れ!」とは仰いません。ただ、神様が私たちを愛し給うことを教えて下さいます。私たちの小さな命に限りない神の愛を溢れさせて下さいます。私たちの弱り切った信仰に、「わたしは神様に愛されているのだ」という深い信頼を回復させて下さるのです。

 イエス様は、ペトロに「あなたの信仰がなくならないように祈った」と仰って下さいました。たとえペトロが御自分を裏切ることがわかっておりましても、イエス様は「ペトロよ、その時にも、わたしがあなたを愛していることを忘れるな」と仰ったのです。それがサタンの試みを受けなければならないペトロへの、イエス様の愛に満ちた励ましの言葉であり、祈りであったのです。
豊かに報いて下さる主
 アブラハムと妻サラが、このような信仰の励ましを受けたのは、アブラハムが御使いを最大級にもてなしたことへのお礼であったのでしょうか。その答えは、そうでもあり、そうでもないと言えます。

 「誰がまず主に与え、その報いを受けるであろうか」(ローマ11:35)という御言葉があります。私たちの受ける救いは、私たちが何か主に喜ばれることをしたその結果ではないのです。まだ罪人であったときに、主は私たちを愛し、私たちのために十字架にかかってくださったことによって、私たちはこの救いを与えれました。そういう意味では、私たちが主から何か良いものを戴くのは、決して私たちの行いが先にあったからではないのです。

 しかし、私たちの主は、「私の弟子に水一杯でも飲ませてくれる人がいたら、私はその人に必ず報いる」とも言われました。主は私たちの小さな行いにも、必ず豊かに報いて下さるお方でもあるのです。そういう意味からしますと、アブラハムのもてなしに対するお礼として、御使いたちはアブラハムと妻サラの信仰を励まして下さったといても、決して間違いではないと思うのです。

 主の報いは不思議です。アブラハムがいくら最大級のおもてなしをしたところで、それはあくまでも人間のすることに過ぎません。神様にとっては、まことに取るに足らない小さなことであったに違いないと思うのです。ところが、主はその貧しい献げ物と欠けに満ちた奉仕を、喜んで受けて下さいました。そして、そのもてなしの報いとして、年老いたアブラハムとサラの命を神様の愛で満たし、希望に燃え立たせて下さったのです。

 似たようなお話を幾つかいたしましょう。罪人であるザアカイは、悪いことをして築いた富をもってイエス様をもてなしました。イエス様は、そのもてなしを喜んで受けて下さるばかりか、ザアカイに「今日、この家に救いが来た。この人もまたアブラハムの子である」と最大限の祝福をもって報いてくださいました。

 こういう話もあります。ある日、神殿に貧しいやもめが礼拝に来て、なけなしのお金レンプトン銅貨二枚を献金いたしました。取るに足らぬ僅かなお金であります。しかし、イエス様は、大枚をはたいて献金している人々をよそ目にして、「彼女こそ、誰よりも多く主に捧げたのだ」と、貧しい彼女にこそ注目して下さったのでした。

 またこういう話があります。ある罪深い女性がイエス様のところに来て、財産として貯えてきた高価な香油をいっぺんに注いでしまうのです。弟子の一人は、「ああ、なんてもったない。何百万円にもなる香油なのだから、それを売って貧しい人々に施せば、その方がずっと神様のお役に立つのに」と言いました。確かにそうです。香油の使い方としては、あまり上手い方法とは言えないのです。しかし、イエス様は、この女性の常軌を逸した献げ物を喜んで受けて下さり、「この婦人は、私の葬りの用意をしてくれたのだ。この人のことは後々までも記念として語り伝えられる」と仰ったのでした。

 私たちの主に対する奉仕も同じようなものであります。ザアカイのように清からぬ思いが混じっている場合もあります。貧しいやもめのように他人と比べたら本当に僅かなことしかできないこともあります。香油を捧げた婦人のように、たくさんの働きを捧げても、無駄なことばかりをしていることがあります。私たちがどんなに頑張って主に仕えても、所詮は人間のすることなのです。自分の器以上のことはできませんし、まして神様を助けたり、神に役立つようなことができるのではないのです。

 ところが主は、私たちのすることがどれだけ役立ったか、どれほど意味のあることであったかは、まったく問題にされません。主は、その心を見るのです。貧しさや失敗、たくさんの足りなさを身においながら、その中で精一杯の力を尽くして、主を愛し、主にお仕えするならば、神様もまた力を尽くして私たちを愛し、祝福して下さるのです。たとえ1円でも、私たちの全財産である1円をもって主を愛するならば、主もまた天国の全財産をもって私たちに報いて下さるのです。

 アブラハムが受けた報いも、このような報いであったに違いありません。
サラは嗤った
 さて、御使いたちはアブラハムに、「あなたの妻のサラはどこにいますか」と尋ねました。サラは、すぐ後ろの天幕の中に控えておりました。それで、アブラハムは「天幕の中にいます」と答えます。すると、御使いの中の一人が語り始めました。「わたしは来年の今頃、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」

 天幕の中で聞いていたサラはひそかに笑ったとあります。「自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに」と思ったからだというのです。すぐにこれを見抜いた御使いは、「なぜサラは笑ったのか。主に不可能なことがあろうか。来年の今頃、サラには必ず男の子が生まれている」と、重ねて言うのです。サラは恐ろしくなり、天幕の中から「わたしは笑いませんでした」とあわてて打ち消します。しかし、御使いは、「あなたは確かに笑いました」と、厳しく断定したというのです。

 みなさん、サラは確かに嗤ったのです。しかし、「わたしは笑わなかった」というのもまったくの嘘ではなかったとも思うのです。私たちも、サラのように自分の不信仰に気づかないということがあります。おそらく、サラは、決していい加減な態度で御使いたちの話を聞いていたのではないでありましょう。しかし、自分の年や、体の衰えを考えると、「そんなことがあるだろうか」という気持ちが起こっても少しも不思議ではないのです。その時、サラは自分でも気づかぬぐらい微かに嗤ってしまったのではないでしょうか。私たちには、このサラの不信仰をあげつらう資格はないような気がします。
神様の愛
 それよりも、わたしは、なぜ御使いがそのようなサラの微かな嗤い、小さな不信仰に厳しく拘ったのかということを考えてみるのです。最初にも申しましたが、御使いたちは、サラの不信仰を責めようとしているのではありません。サラの信仰を励まそうとしているのです。そして、それはサラの老いさらばえた肉体や、「もはや楽しみもない」と言わしめるしぼんだ心や、先行きの短い命に、どんなに大きな神様の愛が注がれているのかということを知らしめることにあるのだと申したのです。それならば、御使いはもっと優しくサラに語りかけることはできなかったのでしょうか。

 みなさん、神様の優しさは、人間の望む優しさとはまったく違った形で現されることがあります。人間は誰しも「家内安全」、「無病息災」、「商売繁盛」という平和を祈願いたします。クリスチャンであっても、それを祈ります。確かに、それが私たちの願いでもあるのです。しかし、神様は、試練を与えない優しさではなく、試練に耐える力を添えて下さる優しさによって、私たちを愛して下さることがあるのです。

 イエス様は、御自分の弟子たちの信仰が、サタンの試みに遭うことを知っておられました。その時、イエス様はシモン・ペトロに「わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った」と言われました。イエス様が、「サタンの試みに遭わないように」と祈られなかったことに注意して下さい。イエス様は、「たとえサタンの試みにあっても、信仰がなくならないように」と祈ってくださったのです。

 その時、ペトロは何と答えたでしょうか? 「主よ、わたしは大丈夫です。あなたのご一緒なら牢に入って死んでも良い覚悟はできています」と、胸をはって答えたのです。

 その日、ペトロはサタンの試みを受けました。主が、人々に捕らえられ、大祭司に家に引き連れられていったとき、ペトロはこっそりと後をつけ、まんまと大祭司の家の庭に忍び込みます。そして、様子をうかがっていると、ある人から「お前は、あの男の弟子だろう」と言われてしまいました。慌てたペトロは、「いや、あの男のことなど知らない」と言ってしまいました。そんなことが二度あり、また三度ありました。

 その時、主は振り向いてペトロを見つめられました。その主の眼差しに気づいたペトロは、主の言葉を思い起こし、外に出て激しく泣き崩れたのでした。

 そのペトロが復活の主にお会いしたときのことです。復活の主は、ペトロとガリラヤ湖の浜辺を歩きながら、「シモン、あなたは私を愛するか」と言われました。ペトロは「主よ、私の気持ちはあなたが知っていて下さる通りです」と答えました。イエス様はもう一度、ペトロに尋ねられました。「シモン、わたしを愛するか」ペトロは心を痛めながら、「主よ、あなたがご存じです」と答えます。

 さらに三度目にイエス様は同じ事を訊かれました。ペトロはついにたまらなくなって泣き崩れました。「主よ、あなたは何もかもご存じです。私は、あなたを知らないと三度も否みました。あなたが十字架にかかるとき、我が身が恐くなって逃げ出しました。私の覚悟がどんなに頼りないものか。あなたはすべてを知っておられます。私には、あなたを愛していますと言う資格がありません。それでも、主よ、わたしがあなたを愛していることを、その気持ちは、あなたはよく知って下さっていると信じています」 主はそのペトロに「わたしの羊を飼う者になりなさい」と言われ、「わたしに従ってきなさい」と言われたのでした。

 ペトロはこのように自分の信仰の貧しさに打ち砕かれる経験を通して、さらに大きな主の愛を受け止める人間に変えられていったのでした。

 みなさん、私たちは、自分の本当の弱さ、貧しさを知れば知るほど、神様の愛と優しさの限りなさが身に沁みる恵みの経験させられるのです。妻サラもそうでありましょう。「わたしは嗤いませんでした。わたしは信じています」と言ったのは、決して真っ赤な嘘ではなかったでしょう。しかし、それはペトロが「わたしにあなたと一緒に死ぬ覚悟です」と言ったことと同じなのです。

 御使いは、「いや、あなたは確かに嗤いました」と断言しました。この厳しい言葉の裏には、「あなたは弱い人間なのです。しかし、それでも、あなたは恐れる必要はありません。むしろ、弱い人間として、神様の愛を信じなさい。あなたは神様に愛されており、神様によって祝福が与えられるのです」という励ましがあったのではないでしょうか。

 私自身、正直に申しますが、「主に不可能なことがあろうか」という御使いの問いに答えられなくなることがあるのです。もちろん、信仰の理屈としては十分に理解していますし、信じています。しかし、信仰は理屈ではありません。命です。私たちの心であり、生活なのです。そのような実際上のこととなると、「主には不可能なことはない」ということをどこまで信じ切って良いのか、分からなくなるのです。

 このような私は、まことな不信仰な人間だと思います。けれども、私がたとえそのような不信仰の時にも信じられることは、このように信仰弱く、貧しいままの人間であっても、わたしは主の前に生きることがゆるされているということです。なぜなら、それは自分の力ですることではなく、主が私のためにしてくださることだからです。そして、この小さき貧しい命に、そのような神様の愛が注がれていることを思うとき、弱い信仰は励まされ、力を与えられるようになるのです。

 詩編126編にこのような信仰の言葉があります。
 
 その時には、私たちの口に笑いが、舌に喜びの歌が満ちるであろう。
 その時には、国々も言うであろう。
 「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。

 私たちの不信仰の笑いが、主の大きな御業が成し遂げられるとき、信仰の笑いに変えられるのです。「その時笑いは我らの口に満ち・・・」その時を信じましょう。 
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