アブラハム物語 16
「主の救いを望みて静かに待つは善し」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヨハネによる福音書11章17-27節
旧約聖書 創世記15章7-21節
信じて待つ生活
 アブラハムは、華やかな文明の中で育った人でありました。立派な家に住み、財産もあり、父を尊敬し、美しい妻がおり、兄弟たちと平和に過ごしていました。

 しかし、このように何不自由なく生活してきたアブラハムの心に、どうすることもできない空しさが襲うのです。一つは弟のハランが妻と幼い子どもを遺し、他界してしまったということです。もう一つは、アブラハムの妻サラはまったく申し分のない女性でありましたが、どうしても子どもが生まれなかったということです。

 アブラハムは表面的には何ひとつ不足のない生活をしていながら、何をもってしても埋めることができない空しさ・・・何のために生きるか、生きて何になるのか、こういう問題を抱えて生きていたのです。

 そういう時に、神様のお言葉がアブラハムに臨みました。「わたしはあなたを祝福する。あなたの子孫を大いなる国民にする。そして、あなたの子孫によってすべての民が祝福に入らせる。だから、今ある生活を捨てて、私の示す地に行きなさい」というお言葉でした。アブラハムはこれを聞いて、神様が私の人生に目的を与え、意味を与えて下さったと思ったに違いありません。惜しげもなく今までの生活を捨て、神様が与えて下さる新しい人生に向かって旅立ったのです。

 アブラハムの生活は一変しました。賑やかな町、華やかな町から寂しいほど静かで変化のない荒れ野が彼の生活環境となりました。住まいは、石造りの家から粗末な移動式の天幕になりました。友人たちに囲まれた生活もなくなり、知人の一人もいない外国に孤独な寄留者として住むようになりました。それにも関わらず、アブラハムの生活は毎日を充実していたに違いありません。アブラハムには希望があったからです。その希望によって、アブラハムは新しい人生を生き生きと生きる人間に変えられていったのです。

 やがてアブラハムはカナンの地に着きました。神様は再びアブラハムに語られ、「この土地をあなたの子孫に与える」と約束してくださいました。しかし、「あなたの子孫」と言われても、アブラハムにはまだ子どもがありませんでした。「この土地」と言ってもそれはアモリ人らが住む土地でありました。しかし、アブラハムは主を信じ、神の約束は必ず実現すると希望をもったのです。

 ところがそれからの10年というもの、アブラハムはいろいろな試練を経験させられます。まず大飢饉がありました。やむなく彼は約束の地を離れ、エジプトに避難するのです。そこから再び約束の地に帰ってきてからも大変でした。子どものないアブラハムが我が子のように育ててきた甥のロトとの関係にひびが入り始めたのです。悩んだ末、アブラハムはこれ以上ロトとの関係が悪化することを避けるために、分かれて住むことにしました。次にアブラハムを襲ったのは戦争でした。アブラハムもその戦争に巻き込まれてしまいます。そんな風にして10年があっという間に過ぎてしまったのです。

 アブラハムの心に迷いが生じました。神様が新しい人生を与えて下さったと喜んで旅立ってきたけれども、本当にこれで良かったのだろうかと思い始めていたのです。いまだに妻サラには未だに子どもが生まれる兆候がありません。神様が与えると言われた土地も、足の裏一つほどの土地さえまだ自分の土地になっていないのです。神様の約束は、10年経ってもまだ約束のままでありました。

 これまで神様を信じればこそ、苦労もいとわないで耐え忍んできました。しかし、本当に苦労は実を結ぶのだろうか。このように疑いを持ち始めると、アブラハムの心は恐れや不安に大きく揺れ動き始めたに違いありません。

 そのような時です。神様はアブラハムに再び語りかけられました。「恐れる。私はあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」この時、アブラハムは心にある問題を包み隠さず神様に申し上げずにはおれませんでした。「わが神、主よ。今更いったい私に何をくださるというのですか。私には子どもがありません。その望みもありません。わたしのものは、家のしもべに相続させるつもりです」

 しかし、神様はアブラハムのこのような疑いを、決してお怒りにならずにお答えになりました。「わたしの計画には変わりはありません。あなたの家を継ぐのは、あなたの僕ではなく、あなたの子どもです」

 さらに神様は、アブラハムを天幕の外に連れだされました。「さあ、天を仰いで、星を数えることができるなら数えてみなさい。あなたの子孫はこのようになります」その時、アブラハムは、天幕の中に籠もりっきりで、目の前のこと、足もとのこと、過ぎ去った過去のことばかりを考え、ふさぎ込んでいたのではないでしょうか。しかし、私たちの祝福は天より来るのです。神様が、アブラハムを天幕の外に連れだして、天を仰ぎなさいと言われたのは、そのことを思い起こさせるためでありました。

 詩編121編に「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る、天地を作られた主のもとから」という信仰の歌があります。これはエルサレム神殿に巡礼に出かける人の作った詩篇です。ですから、この人が見上げている山というのは決して美しく神々しい山々ではなく、狭く険しい道、獣や山賊が隠れている恐ろしい道、旅路の困難さを予想させる山々でした。その目の前に立ちはだかる山を見て、この旅人は一瞬足がすくんでしまうのです。しかし、すぐに思い直してこのように神を賛美します。

 「わたしの助けは来る、天地を作られた主のもとから」

 私たちの人生の旅路にも、この巡礼者が見上げたような立ちはだかる山があります。あるいはダビデの前に立ちはだかった巨人ゴリアトのような人物がいます。あるいはイスラエルの行く手を阻んだような紅海が広がっていることがあります。しかし、巡礼者は「わたしの助けは来る、天地を作られた主のもとから」と申しました。ダビデは「あの男のことで気落ちしてはなりません。これは主の戦いです」と申しました。モーセは、「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」ともうしました。

 みなさん、私たちは禍や、恐れや、不安が襲ってくる方向や障害物が立ちはだかっている場所ばかりを見てしまうから、神様の救いが見えなくなってしまうのです。しかし、信仰とは主がしてくださったこと、主がしてくださることに目を向けることです。そうすれば恐れは消え、希望が見えてくるのです。

 アブラハムは、主を信じました。望み得ないことをなおも望みつつ信じる信仰を持つということは、大きな奇跡であります。イエス様は、もし信じるならば山を海に動かすこともできると約束されました。山が海に動くということも奇跡でありましょう。しかし、まだ何も見ていないのにそれを信じ、望みを持つということ自体がすでに、私たちに与えられた奇跡なのです。
主に尋ねながら歩む生活
 さて、今日のお話は、その後のアブラハムの話であります。アブラハムは主を信じたとありますけれども、その後も、さらに主にこう尋ねたと書いてあります。

 「わが神、主よ、この土地をわたしが継ぐことを、何によって知ることができますか」
 
 「何だ、アブラハムはまだ神様を信じていないではないか」と思う人もあるかもしれません。しかし、そうではありません。最初、アブラハムは「わが神、主よ。わたしに何をくださるのですか。わたしには子どもがありません」と訴えました。この時のアブラハムというのは、今お話ししましたように、神様のしてくださったことや、してくださることに目が向いていないのです。

 ところが、今度はアブラハムは神様がしてくださることに目を向けて、「わが神、主よ、この土地をわたしが継ぐことを、何によって知ることができますか」と言っております。神様を信じたら、もう神様に何も尋ねてはいけないということではないのです。それどころか、信仰生活というのは、一歩一歩を神様に尋ねながら歩んでいくものなのではないでしょうか。
約束を結ぶ儀式
 神様は、アブラハムにこう言われました。

 「三歳の雌牛と三歳の雌山羊と三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とをわたしのもとに持ってきなさい」

 アブラハムは、これらの家畜を神様への献げ物として持ってきました。そして、真っ二つに切り裂き、それぞれを向かい合わせて置いたとあります。ただし鳥を裂かなかったというのは、それが小さかったからであろうと思います。

 いったいこれはどんな意味をもった事なのでしょうか。私もよく分かりません。注解書を読みますと、これは約束を結ぶための儀式だということです。裂かれた動物の間を当事者双方が通ることによって約束が結ばれていたというのです。もし約束を破ったら、この動物のように自分が裂かれても差し支えないという意味だったようです。

 しかし、そういわれてもまだよく分かりません。なぜなら、アブラハムはこの間を通るように言われていないからです。きっとアブラハム自身よく分からなかったのではないでしょうか。分からなくても、アブラハムは、神様の言われるとおり動物を裂いて並べました。そして、次に神様が語られることを待っていたのです。
「神の沈黙」という暗黒
 ところが神様は一日中、一言もアブラハムに語られませんでした。その間、アブラハムは待ち続けます。景色を眺めながらのんびりと待っていたのではありません。座って退屈に時間を過ごしていたのでもありません。厳しい太陽がアブラハムと犠牲の肉に照りつけていました。やがて肉は腐敗し、異様な匂いを放つようになります。それをかぎつけた禿げ鷹が空を旋回しながら飛んでいます。そして、隙あらば犠牲の肉を奪おうと降りてくるのです。アブラハムは強い日射しの中で、何度も何度も追い払い続けなければなりませんでした。やがて日が暮れはじめました。

 みなさん、待つというは、のんびりするとか、退屈するとか、そういうことではなく、苦しく、辛い、魂の戦いに満ちた試みの時だと思うのです。火曜日の夜、アメリカでの恐ろしい事件が報じられました。たくさんの日本人も巻き込まれました。その安否が分かるまでには二日も三日もかかりました。しかし、未だに安否が知れない人たちもいます。現地に駆けつけたくても飛行機がありません。日本にいる家族や職場の仲間は、どれほど辛い、苦しい思いをして、涙を流しながら待ち、また待ち続けていることでしょうか。

 「待ちくたびれる」という言葉があります。まさにアブラハムはくたびれ果て深い眠りに襲われます。そして、いつしかアブラハムに恐ろしい大いなる暗黒の中にいるのです。この恐ろしい大いなる暗黒とは何でしょうか。わたしは「神様の沈黙」という暗黒だったと言っていいのではないかと思います。

 みなさんも、祈っても祈っても神様の答えが見いだされないという経験をされたことがあるのではないでしょうか。永遠に神様は答えて下さらないのではないかという疑いと戦いながら、神様の答えを待ち続けた日々がおありなのではないでしょうか。

 暗黒がアブラハムに臨んだ時、その暗黒の中から神様の声があったと語られています。そして、煙を吐く炉と燃えるたいまつが二つに裂かれた動物の間を通り過ぎたと言うのです。

 聖書に神様は人を照らす光であると言われています。モーセは燃えても燃え尽きることのない柴の中におられる神様に出会いました。主のご降誕を知らされた羊飼いたちも闇を照らす光に包まれてみ言葉を聞きました。ペトロは山の上で光輝く姿に変えられたイエス様を見ました。パウロが復活のイエス様に出会った時も、光がパウロを照らしたと言われています。

 しかし、みなさん、神様はまばゆい光の中で御自分を現されるばかりではありません。大いなる恐ろしい暗黒の中で御自分を現されることもあるのです。イエス様は「貧しい人は幸いである」「悲しんでいる人は幸いである」と言われました。パウロは「神は、この世の力ある者、知恵ある者ではなく、無学な者、卑しいもの、見下げられた者を選ばれた」ともうしました。そして、「弱さの中に神の力がある」とももうしました。

 私たちの襲う暗黒、貧しさ、悲しみ、愚かさ、弱さ、そこで神様の恵みが与えられ、救いが与えられるというのです。そして、何よりも忘れてはならないのは、イエス様が十字架におおかりになったとき、全地は暗闇に覆われたということです。暗黒の中に、救いの十字架が置かれていたのであります。
主を待ち望め
 暗黒の中で、神様がアブラハムに語られた言葉は、人間の想像をはるかに超えたものでした。アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにヨセフが生まれ、エジプトに移住し、そこで数を増やし、400年の間奴隷となってエジプトに仕え、モーセが現れて解放する。荒れ野で世代が変わり、新しい指導者ヨシュアが現れる。こうしてアブラハムの子孫は再びこの地に戻ってくる。その時、この約束の地がアブラハムの子孫のものになる。このような500年、600年後に亘って成し遂げられる神様の遠大なご計画が、アブラハムに語られたのです。

 みなさん、神を待ち望むことは容易いことではありません。なぜなら、神様のご計画はあまりにも遠大で、私たちの思いをはるかに越えているからです。待たされている時の私たちは、一日ですら長いと感じます。そして、何も変わらないのではないか、もう駄目なのではないか、神様は何もして下さらないのではないかと、疲れ果て、絶望してしまいます。しかし、神様は何百年ものことを考えてご計画を進めておられるというのです。

 また神様は、アブラハムの子孫のことだけではなく、カイン人のこと、ケナズ人のこと、カドモニ人のこと、ヘト人、ペリジ人のこと、レファイム人のこと、アモリ人のこと、カナン人のこと、ギルガル人のこと、エブス人のことまでお考えにいれて、そのご計画を進めておられます。私たちは自分の一人のことか、自分を中心とした人間関係のことしか考えないのです。しかし、神様の方は、すべての人のことを同時に考えておられるわけです。

 みなさん、アブラハムがこのことを通して、神様に示されたことは何であったでしょうか。

 私たちのちっぽけな頭や心では、神様の大きな救いのご計画、恵みの御業を理解することができない時もあります。しかし、私たちが理解できない時、神様が私たちを理解していないのではありません。たとえ私たちが神様を理解していなくても、それゆえに悩み、苦しみ、待ちくたびれ、失望するような時があっても、神様は私たちを知っていて下さるということなのです。神様を信じて待つためには、神様を知ることではなく、神様に知られていることで満足することを教えられたのではないでしょうか。

 今日の説教題は、「神の救いを望みて静かに待つは善し」というみ言葉です。それは『哀歌』の3章26節の言葉です。『哀歌』というのは、エルサレムが、神殿が、バビロン人によって破壊され、焼き尽くされてしまったことを悲しんで、涙を流しながらエレミヤが歌った歌であります。そのような時、私たちにできる最善のことは何でしょうか。それは神の救いを望みて静かに待つことだというのであります。たとえ私たちは何も知り得なくても、神様は私たちのすべてを知っていて下さり、恵みと救いをご用意してくださっているのだと信じることなのです。

 主の愛を、知恵を信じて、私たちの道を委ねましょう。
 
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