アブラハム物語 14
「彼はなほ望みて信じたり」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ローマの信徒への手紙4章13-25節
旧約聖書 創世記15:1-6
アブラハムは何をした人か
 以前にもお話ししたことですが、世界人口が50億だとしますと、そのうち17億6千万人がクリスチャンとして、アブラハムを信仰の父と仰いでいます。ユダヤ教徒は2千万人、イスラム教徒は9億2千万人おりまして、やはりアブラハムを父祖として仰いでいます。実に世界人口の54パーセントにあたる27億もの人たちが、今もなおアブラハムを信仰上の父として、尊敬の念を惜しみなく注いでいることになるのです。

 そういうことからしますと、アブラハムは、イエス様という特別なお方を除けば、世界で最も偉大な人物の一人に数えられても良いと思うのです。けれども、みなさん、ここでひとつお考えいただきたと思うのですが、アブラハムという人物は、いったい何をした人なのでありましょうか。

 たとえば、キング牧師は抑圧された人々のために勇気をもって信仰の戦いをしました。マザー・テレサは、貧しい人々に神の愛を注いで献身的な奉仕をしました。では、アブラハムは何をしたのでしょうか。モーセには、私たちの神の戒めを与えてくれるモーセの十戒があります。ダビデには、私たちに慰めと祈りを与えてくれる詩編があります。パウロには、私たちに福音の真理を解き明かしてくれる手紙があります。では、アブラハムは、私たちに何を残してくれたのでしょうか。

 アブラハムは、キング牧師のように正義の戦いをしたわけではありません。マザー・テレサのように愛の奉仕をしたわけではありません。律法を与えてくれたわけでもなく、詩編を残してくれたわけでもなく、真理を解き明かしてくれたわけではありません。いったい、アブラハムは何をした人だったのでしょうか。

 その答えが、今日お読みしました聖書に記されています。創世記15章6節です。

 「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」

 アブラハムは「神様を信じる人間であった」と言われています。そして、たったそれだけのことで、「神様に良しとされた人間であった」といわれているのです。

 「たったそれだけのことで」と申しました。しかし、私たちは、神様を信じる人間となるためにどれほどもがき苦しんでいるでしょうか。神様を信じる人間であるということは、そんなにたやすいこととは言えないのです。「ただ幼子のように信じなさい」と、イエス様は言われました。しかし、私たちは自分の力を捨てて幼子のようになることさえもできません。「恐れるな、小さき群よ。御国を下さるのはあなたがたの父の御心なのである」と、イエス様は言われました。こんなにはっきりと約束が与えられていても、なお疑い深くあってしまう、それが私たちなのです。

 イエス様が「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と弟子たちをお叱りになるのを読む度に、私は「これは自分のことだ」といつも反省させられます。それならば、「アブラハムは主を信じた」、これだけのことでアブラハムは偉大であったと言っても、少しもおかしな話ではないのではないでしょうか。
義人は信仰によって生きる

 「アブラハムは主を信じた」

 このことについて、今日お読みしました『ローマの信徒への手紙』では、このように言っています。4章18-22節です。

 「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。 」

 この中に大切なことは二つあります。一つは、アブラハムは、たいへん厳しい現実の中にありながら、それでもなお神様に望みを置き、神様に期待したということであります。

 「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じた」

 これは本当に大変なことだと思います。アブラハムも、実は一旦は失望したのです。そして、その失望の心を神様に披瀝しました。「わが神、主よ。あなたはいったい、わたしに何を賜ろうと仰るのですか。『あなたの子孫を大いなる国民にする』とはどういう意味ですか。私は、てっきりあなたが私に子どもを授けて下さると思っていました。しかし、ご覧の通り、私には子どもがありません。私の家は、私の僕エリエゼルに譲ることになるでしょう」 アブラハムは、そのような失望のどん底の暗さの中にいたのです。

 しかし、みなさん、このような時にこそ、信じることができるか否かということが、人生にとって重要な意味をもってくるのではないでしょうか。アブラハムは失望のどん底で不信仰と戦い、神を信じました。誰もが失望にうなだれているときに、なお天を仰ぎ、生ける神を望み見て、神様に期待する。それが神様を信じる人間なのです。

 二つ目のことは、アブラハムは信仰を持つことによって強く、しっかりとした人間になったということです。

 「彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。」

 人間は弱いのです。若いときにはどんなに力に溢れている人であっても、だんだん衰えていきます。平穏な時にはどんなに落ち着き払った人でも、いざという時には取り乱すことがあります。その弱さを隠して生きていける時はいいかもしれません。しかし、弱さを隠せなくなってしまうような時もあるのではないでしょうか。

 アブラハムも例外ではありませんでした。年をとり、体は衰えていくのです。力で望み得ることも少なくなってくるのです。しかし、アブラハムは悲しみませんでした。自分が弱くなればなるほど、アブラハムは信仰を強くしたのです。その信仰によってアブラハムは強められ、どんな時にも神を賛美するしっかりとした人間になったというのです。

 『旧約聖書』にハバククという預言者がいます。ハバククのもっとも有名な言葉は、「義人は信仰によって生きる」(口語訳)という御言葉です。これは今日のみ言葉とも深い関わりのある言葉です。しかし、今日は違うところをご紹介したいと思います。『ハバクク書』の一番最後に記されている言葉です。

 「いちじくの木に花は咲かず、
  ぶどうの枝は実をつけず、
  オリーブは収穫の期待を裏切り
  田畑は食物を生ぜず、
  羊はおりから断たれ、
  牛舎には牛がいなくなる。
  しかし、わたしは主によって喜び
  わが救いの神ののゆえに踊る。
  わたしの主なる神は、わが力。
  わたしの足を雌鹿のようにし
  聖なる高台を歩ませられる。」

 いちじくに花が咲かない、ぶどうの木は実がつかない、田畑の収穫はない、羊はいなくなる、牛もいなくなる。ここで言われている状況は、何をやってもうまくいかない、何かも自分を苦しめることばかり、そういうまったく不幸な状況です。それにも関わらず、神様を信じる人間の喜びは衰えず、恵みは消えず、主によって喜び、雌鹿のように恵みの高みを力強く歩むことができるのだと、ハバククは言っているのです。まさしく、これが「義人は信仰によって生きる」ということなのでありましょう。
信仰があれば良い
 みなさん、確かにアブラハムは偉大な政治家でもなければ、慈善家でもありませんでした。牧者でもなければ、説教家でもありませんでした。けれども、キング牧師も、マザー・テレサも、モーセも、ダビデも、パウロも、みなアブラハムの子らであったということを忘れはならないのではないでしょうか。つまり、彼らはアブラハムの信仰に倣う人間だったのです。

 アブラハムの人生は、とっても大切なことを私たちに物語っています。それは「神様を信じる人間であれ」ということです。あなたの人生に何があっても、何がなくても、神様を信じる人間でいなさいということです。

 「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」

  義と認められたということはどういうことでしょうか。神様がそれでよしとしてくださったということなのです。「神を信じる人間であればそれでいい」ということなのです。

 考えてみれば、実に大ざっぱな話です。神様を信じる人間にもいろいろな人がいるのです。今、引き合いに出しましたキング牧師やマザー・テレサのように神様を信じて偉大な働きを成し遂げた人もいれば、やっと神様を信じているという状態の人間もいます。どう考えても同じとは言えないのです。実際、努力にしても、忍耐にしても、献身や献げ物の大きさにしても、大きな違いがあるのではないでしょうか。

 かつて、私はこの違いは大変重要なことだと考えました。そして、もっと努力しなければ、もっと勉強しなければ、もっと自分に厳しくあらねば、もっと大きな献げ物をしなければと、自分を鞭打って生きようとしたのです。

 しかし、その結果として私の心にもたらされたのは、私を苦しめる二つの思いをだけでした。一つは、「自分はこれでは駄目だ」という自分を責める思いです。もう一つは、「あの人は駄目だ」という他人を責める思いです。私は自分を責め、人を批判し、教会を批判し、牧師にくってかかる人間になっていました。私は、このことで半病人になるほど魂の大きな苦しみを味わいました。喜びもなく、感謝もなく、賛美もない、荒んだ生活をする人間になってしまったのです。そこから私が立ち直ったのは、神様はこの罪深い人間をあるがままで赦し、愛して下さっているのだという恵みを悟ったことによるのです。

 みなさん、イエス様は「あなたの努力はどこにあるのか」とは言われませんでした。「あなたは今までの生活はどうだったのか」とも言われませんでした。イエス様が言われたのは「あなたの信仰はどこにあるのか」ということだけだったのです。イエス様は、信仰だけを問題にされ、信仰だけを求められたのです。神様を信じる人間になりなさいといわれたのです。

 「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」という言葉の意味するところは、どれだけ努力をしたか、どれだけ大きな献げ物ができたか、今までの生活がどうであったか、そんなことには一切関係なく、神様を信じる人間であればそれで良いとしてくださるということなのです。

 さらにいうならば、神様は御自分を信じる人間をこそ喜びとし、豊かな恵みをもって報いてくださるのです。プロテスタント信仰の特徴である「信仰のみ」とは、決して神様は大雑把な方であるという話ではありません。神様の恵みの大きさ、救いの確かさを物語る、本当に驚きに満ちた福音の真髄の話なのです。

 みなさん、アブラハムが私たちに残してくれたものは、「神様を信じる人間になりなさい」ということです。神様が私たちに求めておられることは、「神様を信じる人間になりなさい」ということです。「彼はなほ望みて信じたり」 私たちもアブラハムの子らなのですから、勇気をもって大胆に神様を信じる人間になりましょう。
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