「謎の財津和夫」について

タイトルが「謎の財津和夫」なのに著者が財津和夫。どういう事なのだろうと疑問を持って読み始めた。読んでいるうちにその疑問が解消した。著者は財津和夫となっているが、ストーリーを進めて行くのは「語り部」のような存在の別の人がいて、主人公の証言が所々に出てくるという手法を使っている。曖昧にぼかす部分は決まって「語り部」によって語られている。私の名前が出てくるのはp.23の「吉田彰との出会い」。1年生の時は隣のクラス、2年生の時は同じクラス。このあたりは私の記憶とほとんど違いはない。
P.24「クラスの中のワルが“女の子が沢山来てるし、痴漢できるゾ”と言ったのにつられ和夫もみんなと一緒に映画館に出かけて言ったものだ。ところが・・・。」この部分は「語り部」によって語られている。「謎の財津和夫」によれば「クラスの中のワル」。ところが日本経済新聞によれば、「吉田彰の誘いに乗った。」と実名で書かれている。周知の事実とは単なる堤篤史さんの読み間違えなのか?もし読み間違えだとしても記事として載せる前に実名を出している吉田彰本人に確認をとるのが常識だと思う。確信犯かミスかは私に判断できない。いずれにせよ不用意だということは言える。文章で記者の配慮が微塵も感じられない。
P.25「こうしてすっかりビートルズに狂ってしまった和夫は吉田彰にあらためてギターを教えてもらい、・・・」。ギターを教えた記憶はない。一緒に、あるいは交互にギターを弾いた記憶はあるが。
P.28「中学を卒業して高校へ入るまでの間にメロディーだけの曲は作った。・・・」。この「並木道」はギターの弾き語りで何度か聞いたことはある。「主人公」財津和夫はすでにギターを上手に弾くことができていたことを自分自身で証言している。
P.25「・・・二人で曲集などを買ってきてはビートルズの研究をしたものだった。・・・」以降P.29までの吉田彰に関する記事は概ね間違いはない。
P.29の「並木道」はからはじまる5行の文章は誰が語っているのかが書かれていない。しかし、財津和夫のみが知り得る内容である。
P.33「初めてのデートと吉田彰の存在」(太文字タイトル)の段落。「サテ、話はもどって猛烈な受験勉強のかい(?)があって吉田彰は見事西南学院大学に入学した。」この文章も何を言いたいのかが解らない。皮肉を込めて言っているのでしょうか。ここでも誰が発言したのかは曖昧にしてある。
「−だってそうでしょう。一時間くらいずうっと部屋のすみにいてミカンを食べているんですよ。炬燵に入って一緒に話するとか、そうでもなければ帰るとかしてくれるといいのに。だだ黙ってミカンを食べながらぼくらを見てるんですからね。−」続いて「吉田彰の証言−誤解です。濡れ衣です。ボクは財津和夫が“吉田、ちょっと待ってて。”って言ったんで待ってたんです。ずっと待ってても別に何(に)も言わないし、仕方なくミカンを食べてたんですョ。あの人は健忘症の気味があって、自分の言ったことをすぐ忘れるんだから・・・。−この「−」がある部分にのみ発言者を特定している。「サテどちらの記憶が正しいやら・・・。」と続くのですが、これは「語り部」の発言。問題はこの本が発売される前に何の断りも無かったことである。内容も怪しさが満載されている。まずミカンを買ってきたのは誰なのか。「貧しかったを繰り返し言っている」主人公が買ってきたのか部屋を訪ねてきた「裕福な」吉田彰が持ってきたのか分からないが、一時間ミカンを食べ続けるには相当のミカンが必要でしょう。そしてもう一つ。大事な「先客」がいて、週に何度も会っていて「いつでも会える人」に対して「今日は先約がいるからまた日を改めてくれ」と断ることが出来なかったこと。常識的には考えられない。これは作り話だと推察される。それよりもこのことが吉田彰の了解なしに吉田彰の証言として記載されていること。そしてこの段落は「本」全体の「流れとは全く関係ない」ことも問題である。
P.46「というのはメンバーの一人の兄は弟がこういう世界に入ることを怖れ、どうせ入るのなら自分の知っている安心できるところに入れたかった。その気持ちはもっともであろうし、・・・(中略)この時新田氏に出会ったのが和夫の運命の境い目であったのだ。この8行の文は主人公を「和夫」と書き、語り部が語ったようにと書かれているが、財津和夫以外知り得ないことばかりが書かれている。私もここではじめて知った。この書き方も読者を勘違いさせる「良くない」手法だが、もっと「いけない」ところがある。メンバーの兄と表現しているところ。その重要人物の実名を出してはいけないと気付いているところ。ところが「吉田彰」に関しては実名を堂々と使っている。不注意ではなく、確信犯であることがここで判る。
P.48の11行目「吉田彰は就職なんぞどこ吹く風、とばかり麻雀・パチンコにせいを出しており、和夫が誘わなくともちゃんとついて来てくれた。ベースは問題ない。問題は他のメンバーであった。」ここでも「和夫」と書き、語り部が語ったようにと書かれているが、財津和夫の感じたことが書かれている。しかも、それは間違っている。その頃、私は将来の進路に迷っていた。「潰しは利かない」とわかっているからこそ、麻雀・パチンコに逃避していたのだと思う。語り部(姿を隠した財津和夫)は間違っています、私は受かる可能性が少ないとはわかりながらも就職試験をうけてました。「就職なんぞどこ吹く風」と他人の気持ちを実名で書くのはいけないことです。失礼なことです。
P.48の14行目「当時福岡では音楽をやっている人員がひどく不足していた。・・・」当時若者は猫も杓子も音楽をやっていた。「チューリップ」、「甲斐バンド」、「海援隊」、「陣内」その他諸々。あの有名な「照和」の従業員、客席、ステージ、ステージサイドの人数の半数以上が音楽をやっている人でした。お客さんのほうが少ないという珍しい状態でした。
P.42の13行目に出てきた「パンチ・ヤング・フクオカ」の番組の中でもアマチュアのコンテストがあった。「ゴーマニズム宣言」の著者、小林よしのりさんもその番組に出演しています。「ゴーマニズム宣言」の単行本の第1巻にその様子が描かれています。「ベースを持った花」として描かれているのは私吉田彰です。当時福岡は「照和伝説」を書かれた富澤一誠(音楽評論家)さんが言うように地方都市にしてはかなり大勢の若者が音楽をやっていたと思う。「音楽をやっている人員がひどく不足していた。」と語り部(姿を隠した財津和夫)何を言いたくて、何の演出のため、言ったのかわからない。
P.53の11行目「和夫は夢心地で福岡に帰ると、早速メンバーにこの吉報を伝えた。そしてメンバーの各家庭を訪問して、家族の説得にかかったのである。末っ子の吉田彰、上田雅利のところはまだ楽だった。・・・(後略)」家庭を訪問したというのは「記憶違い」、「間違い」または「嘘」です。私にとっては記憶に残る大きな出来事だからよく覚えている。その頃私は福岡市内の田島というところで共同生活をしていた。実家にはほとんど寄り付かず、両親とは疎遠になっていた。実家に帰るにはすごく「敷居が高い」と感じていた。自分自身で「敷居を高く」していたのだが。上京すること自体は生活の場所を福岡と東京に変えるだけで気楽なこと。しかし、このまま両親に話さなければ「一生、甘えて過ごすことになる」、「親にも自分の気持ちを伝えられない人間が他人に気持ちを伝えることなんかできる訳がない」、「ずっと逃避を続けてしまうだけだ」と思い、親に今後の計画を話すことを「決意」した。久しぶりの実家。そのとき、母は台所にいて何かを作っていた。たぶん何を言い出すか心配だったのだろう。少し離れた部屋で父と私と二人で話した。反対されるだろうと思っていたのだが、あっさり「頑張りなさい」と言われ拍子抜けしたことが思い出される。父は教育関係の仕事をしていて、「他人の子供は教育できても自分の子供(私のこと)は教育できない」といった陰口を言われていたと十数年後、身内から聞いた。そのとき父が私の話を聞いてくれたことを今でも感謝している。ということで「説得に行った」という件は「嘘」あるいは「勘違い」です。私にとってこの重大な出来事を「勘違い」、「間違い」、「嘘」で片付けることは出来ません。
P.115の6行目「これにはまったくびっくりしたものだ。大体、ぼくらがアマチュアだった頃は、どのグループのメンバーも皆、痩せていてどことなく貧相だった。いつも飢えたような目をして、ネズミでも食ってやるゾというような鬼気迫る風貌の人間ばかりで、栄養が良さそうに見えたのは吉田彰くらいなものだ。まちがっても放送局の偉い人にみえるはずは無かったのだ。」何を言いたいのか分からないがここに「吉田彰」だけが個人名で登場しているのは良くない。もう一つ、自分のことを「ネズミでも食ってやるゾというような鬼気迫る風貌の人間」と表現するのはかまわないが、他人のことをこのように表現するのはよくないと思う。「吉田彰」の登場の仕方には一定の法則があることに気が付いた。しかしここでは言いません。「登場の法則」は最終的に一行でまとめることにします。
このページ以降には私のことは登場していないようだ。