「もう笑わなくちゃpart.3」

「やめる事を決めたいくつかの理由」

経済的な理由が一番大きいが、別の理由がいくつかある。
査定に影響していた、非協力的だとか貢献度が低いと言われるような行動、発言はすべて自分なりにグループの将来の方向性を考えて決断実行していたことで、その考えは「いい事だ」「間違っていは
ない」と確信していた。
ただリーダーの考え方と違うことが多かった、多すぎたのだろう。

例えば「完全コピー・スコア」の譜面の本の作成に当たって

自分たちの学生時代にはかなり間違った譜面が横行して、正しい譜面がほしいという思いを経験した。
だから実際には私達がどんな音を出しているかを正確に知って欲しかったので会社(シンコーミュージック)の編集部からの依頼があった時、困難な仕事だと予想はできたが引き受けた。実際にやってみると採譜と書き込みには予想以上の大変な時間と労力を費やした。時給に換算すればメロディー譜の5%ぐらいにしかならなかった。

自分でもいい本ができると喜んでいたが、「譜面を書いてバイトしている。そんな暇があったら練習に励んで欲しい。」と言われた。この考え方は間違ってはいないと思う。しかし、このことはリーダー本人から伝えられたことではない。デスクマネージャーからの伝達であった。

譜面のことではもう一つある。初期のチューリップの譜面には間違いが多かった。外注先(注:グループの所属事務所は楽譜を出版する会社)の音符の間違いやコードの間違いが多すぎるので、私にやって欲しいとの依頼があった。これもリーダー本人の考えであるが、リーダー本人から伝えられたことではない。出版する譜面の採譜、監修を1年ほどした。当然報酬はいただいた。間違いがほとんどない楽譜の本ができるようになったが「バイトで稼いでいる奴がいる。」ということでメロディー譜を書く「歌本」の仕事はやらなくなった。これもリーダー本人の「やって欲しい」という考えと、「アルバイトはするな」という相反する考えに、会社のブレイン及びスタッフが翻弄されたものである。譜面に関してこんな紆余曲折がある中、リーダー本人から私に直接伝えられたことは一度もない。「間違いが多い譜面」と「間違いが少ない譜面」の時期でそれがいつかが分かると思う。

リーダーの考え方との違い。なぜそう考えるのだろうと、考え込む時期がしばらくの間続いた。そしてある時、ある事に気が付き、リーダーの次の行動が分かるようになった。思考の仕方が分かれば次の行動が判る。すべての行動が予測どおりに起こった。私の予測が一つも外れないと確信した時、もうチュ−リップとしての仕事をやめたほうがいいと思っていた決心を後押しした。

「やめるための下準備1」

次の行動が判るようになって、まずしなければいけないことがあった。直ぐにやめられるかどうか。その頃リーダーの言葉の端はしに「運命共同体」という言葉を使っていた。「運命共同体」信念のある言葉である。良くても悪くても、共に運命を同じにする。実際にはどうだろう「査定が行われ夫々の収入に差があり、運命がおのずと違ってくる」そんなことはおかしいと思っていたが。何かがある「そんなに簡単にはやめられないんだ。」と言われるかもしれない。

不安を感じながら時を過ごすよりも誰かに相談しなければと行動を起こした。「お父さんが弁護士をしている」という知り合いのことを思い出し、弁護士さんを紹介していただいた。溜池にある法曹界の方が集まるビルの一室にその弁護士事務所があり、法律的な相談をした。会社(事務所)と交わした契約書を見て貰い、「これは一般的な雇用契約です。やめられますよ。」との回答を頂いた。安心した。

グループのリーダーにはやめる理由をはっきりと伝えなければ筋が通らないのでやめる理由を本人に告げた。
「今現在でも生活が苦しいが、(ソロ活動の影響で)ますます仕事が少なくなる可能性が大きいのでやめます。」

私が言った言葉に対してグループのリーダーは「グループは運命共同体なのだから、そう簡単にはやめられないよ。」と言った。予想したとおりだった。その言葉に対して私は用意していた言葉を伝えた。「いいえやめられますよ。」その言葉に対しリーダーの返答えはなく、二人の会話はそこで終わった。

「予想どおりの展開」にやめることを決断したことは正解だったと確信した。

やめることが決まれば、直ぐにでもやめたかった。が、すでに決まっているライブスケジュール等直ぐと言うわけにはいかないと判っていた。辞められるのは数ヶ月後であろうと覚悟していた。辞意を伝えると会社から提案があった。新たなメンバーが決まるまで6ヶ月間。今までの収入と分配のルールは全くなしにして、月給制にする。・・と。

月に70万円、10%の源泉を差し引いて63万円。今までの月25万円の生活で全く貯金がなかったことを考えればびっくりするほどの額である。生活をさらに切り詰めれば、貯金ができる。次の新しい生活の何らかの役に立つと考えた。1978年5月から1978年10月までの期間やめると決まった職場で仕事をすることは大変だったが、割り切って考えると気楽でもあった。

新メンバーが見つからないと言う理由で1978年11月から1979年4月までの6ヶ月間。さらに期間は延長された。

1979年4月になってもさらに仕事は続いた。「8大都市のライブ」という大きなイベントあり、数ヵ月後のハワイ公演が最後の仕事になるのでさらに5ヶ月延長された。9月以降はさすがにスケジュールは入れてなかったようだった。「予定ではスケジュールは入っていないが、急にスケジュールが入った場合、1日につき、5万円で仕事をやってくれないか。」という提案が会社からあった。12月までさらに3ヶ月延長をしたかったらしい。その3ヶ月の間、仕事がなければ収入はゼロになるので、「アルバイトをしてもいいですか。」と聞くと、「それは困る。」ということで給料の条件はさらに、同じ条件で延長された。

月に70万円という条件の中に、「やめる事は言わないでくれ。」が含まれていた。早くやめたい気持ちはあるが、貯金は多いほうがいいと考え、我慢の歳月は続いた。

宮城伸一郎が加入した頃、高崎方面の単発のコンサートをした時のことだ。以前は帰りの列車の中でメンバーやスタッフと「カードゲーム」をやっていた。やめることを決めた時から、無駄なお付き合いは極力やめていた。無駄なお金もできるだけ使わないように「カードゲーム」はやめていた。その日は普段では考えられないことがいくつもあった。近場の日帰りのコンサートステージにもかかわらず、カメラマンの田口謙二の姿があった。普段は「カードゲーム」をしない宮城伸一郎が「カードゲーム」をしていた。リーダーが「カードゲーム」に私を誘った。私はする必要がないのでやらないと断ると、「なぜやらないんだ。」と怒った。何回か断ったがますます過激に怒り始めたので仕方なしに「カードゲーム」を始めた。すかさずカメラマンがシャッターを切った。その日の数週間後、自社出版物の月刊誌「ヤングギター」または「ガッツ」どちらかは定かではないが、記事が掲載された。

「新加入の宮城伸一郎、メンバーと打ち解ける」

1979年の宮城伸一郎加入から2、3ヶ月あとに出されたこの記事が掲載された雑誌をお持ちの方は是非貸していただきたい。

財津和夫は私が「やめた理由が判らない」としばしば言っている(書いている)

「こんなに近くにいるのに」1993年、PHP研究所

が、それは嘘です。
私は本人にはっきりと話した。
リーダーがメンバーが辞める理由を知らないままやめさせる、OKを出す。
こんな納得できないことは一般的には「有り得ない」出来事です。

「辞めた理由を知らない」という発言をチューリップのファンは何の疑問も持たず、それは本当のことだと思っている。

「やめた理由」はその後、その事務所(出版社)が発行する雑誌に「嘘の記事」を書いて発表された。月刊誌「ヤングギター」または「ガッツ」どちらかは定かではないが、まことしやかに発表された。

「こんなに近くにいるのに」 について