「もう笑わなくちゃpart.2」

東京に上京してからの生活を記憶をたどりながら書いてみる。
このことはチューリップを辞める理由につながっていく上で必要だと思われる。

「東京での生活1(南青山)」
私がチューリップの一員として上京したのは1972年1月18日となっている。正確には覚えていないがその頃に間違いはない。事務所が用意してくれた南青山6丁目の2DKのマンションに5人で共同生活をした。一ヶ月に5万円のアドバンス(収入がなくても貸してくれる、もちろん借金だから最終的には返さなければならない)。その中から、1万円は住まいの家賃(マンションの家賃は月額5万円)のために、1万円は共同購入した楽器の返済(共有楽器は分割ローン月額5万円)に、残り3万円を交通費や食費に当てていた。表参道から銀座線で神田まで60円か70円だったと記憶する。神田駅近くの立ち食いそばは往復の電車賃よりちょっと安かった。
生活は楽ではないがそれほど苦しくもなかった。音楽に集中していたからだろう。ステージほとんどなく出演料が入ってこないわけだから、借り入れ(借金)は1年で60万になる。2年で120万になる。
上京して18ヶ月目に「心の旅」を発表。数ヵ月後にヒットする。仕事は増えたが演奏料の5分の1では、今までの借金を穴埋めするにはまだまだ程遠い道のりであった。

「東京での生活2(四谷坂町)」
仕事が少し増え安定してきたから、5人暮らしから2人暮らしが出来るようになったのだと思う。この時期の収入のこと、そしてどんな仕事をしていたか、などほとんど記憶にない。ただ上田雅利と四谷坂町で2人暮らしをしていたことは覚えている。木造の1階建てでほとんど日の当たらない部屋であった。四谷三丁目から家まで歩いて帰る道すがらの記憶は思い出されるが、当時の生活や仕事に関する記憶はほとんどない。たぶん、慣れない新しい仕事に忙しくしていただけだったからだろう。

「東京での生活3(白金台5丁目)」
どんな理由で引越ししたのか、同居人を上田雅利から安部俊幸に変えたのか全く記憶にない。白金台という場所の1Kのマンションを見つけて来たのも安部だったと思う。新築の1Kのマンションの家賃は確か5万8千円。2段ベッドを置き、押入れの襖を外しオーディオセットを置き、カラーボックスにLP盤を入れていた。この頃の記憶は四谷時代より少しはっきりしている。

「東京での生活4(白金台5丁目一人暮らし)」
さらに仕事が忙しくなるとそれぞれが一人暮らしをするようになった。この時期、他の4人がどこに住んでいたのか全く記憶にない。家賃は6万4千円に上がった。住まいを独りで自由に使うことは出来たが、のんびりする時間の余裕はなかった。この時期、同郷の「甲斐バンド」が上京し、同じ所属事務所だったこともあり、甲斐よしひろが一人で部屋に遊びに来た記憶がある。その時期を調べてみれば1974年ということになる。

「東京での生活5(恵比寿3丁目)」
1976年3月。福岡で結婚式を挙げた。一人暮らしのマンションから200mほどしか離れていないが、港区から渋谷区恵比寿3丁目に越した。家賃は7万5千円。2DKの広さにしては安い。築30年の古いマンションであった。前出のアドバンスの額は25万円だった。その中から交通費、衣服(衣装)は楽器代は当然自己負担なのでそれほど楽な暮らしではない。普通の会社勤めの「中の中」の生活水準だったと思う。仕事は結構忙しかった。「人生ゲーム」参照

「分配ルールの決め方の変更」

1977年、分配ルールが変更になった。上京から5等分していた出演料及びレコード(LP/EP)の歌唱印税の部分の分配の仕方を変更すると会社(事務所)から「申し伝え」があった。「もう笑わなくちゃ」が発売されるおよそ半年前である。

その方法とは。メンバー5人とマネージャーと会社の事務所のデスクマネージャー、最高責任者(社長)。この8人がグループに対する貢献度によって査定する。メンバーは自分以外の4人を査定する。

私の考え方はリーダーとしての役割を加味して、リーダー28%、A18%、B18%、C18%、D18%、言い換えれば10%をリーダーが先に取り、残りを5等分する。しかし8名全員査定を集計すると、リーダー27%、A21%、B20%、C16%、D16%、になった。この8人の平均が16%になることは私にとってすごいショックでした。その理由はもし、メンバーが私と同じような数字を出したとしたら事務所関係の3人はもっとずっと低いパーセント書かなければこの数字にはならないということです。(この平均の意味が分からない方は算数、数学に強い友人に解説してもらってください。)ということは、貢献していないし、必要がないという判定をされたということになる。

なぜ、このような査定%になったのか。

あるヒットチャートのテレビ番組で「リクエストが多いから是非出演してください。」という以来があった。この依頼を断る理由の意思統一をはかるために緊急ミーティングが召集された。「チューリップというグループはステージでの表現だけでいい。『1曲を2分以内で』などで表現できない。さらに誤解される。」というリーダーの意見に対し、「リクエストした人たちに出演することにより感謝の気持ちを伝える。リクエストした人たちは誤解しない。しかもベスト10に入るということは大勢の人たちの支持があり、それに答えるという選択肢もあると思う。」と発言した。

テレビ出演はなくなった。

リーダー及び事務所のブレインは自分たちで決めたこと以外の意見は聞きたくなかったのであろう。その後、デスクマネージャーの部長からは「メンバーはもっと協調性を持って。」と言われ、またある時は、会社の最高責任者からマージャンに誘われ、二人っきりの車の中で言われた。「リーダーに協力的であって欲しい。」と。マージャンをすることに特に意味はなく、「非協力的だから・・・。」を私に告げることが目的で「マージャンの会」が用意されたようだ。

ステージの出演料は60万円。年間130回のコンサートスタイルのステージをこなしていた。60×130=7800万円。7600万円の60%は4680万円。その他の収入を合わせて約5000万円の5等分なら1000万円。16%なら800万円。今までのアドバンスを相殺し、その年にした月額25万の新たなアドバンスを返済すると貯蓄はほとんどなかった。月額25万×12ヶ月=300万。その他に新たに購入したベースアンプ、ベースギターの返済、さらに驚きの返済があった。海外でのレコーディング、自社で作る雑誌の写真撮影のための海外旅行は半額負担であった。

それでも、何とか借金は少なくなっていることだし、他に仕事もないし、この仕事を続けるしかないかと分配率の低いパーセンテージに甘んじるしかないと諦めていた。この時期は多分、「人生ゲーム」という本にスケジュールが掲載されていた頃だと思う。

その新ルールの清算を2、3回した頃、リーダーから新たな提案があったと事務所(会社)から告げられた。本人からではない。「ソロ活動をしたいからグループの仕事を減らして欲しい。」

ステージ仕事量が少なくなることはグループ全体の収入が少なくなる。その時(年間130回のコンサートをしていた頃)の私の貯蓄は「ゼロ」ではなかった。通帳には「50000円」の数字が書き込まれていた。収入が少なくなるということは・・・。持ち出す財産もないからやめるしかない。ここで会社に対して直ぐに「やめます。」といったわけではない。辞めなくてもいい方法を考えてみた。会社に提案した。会社の取り分の40%を30%にしてもらい、その10%をリーダーの収入に回すことはできないか。会社からの回答は「会社は慈善事業でやっているわけではないから、そんなことはできない。」

となると続ける訳にはいかない。グループをやめることを決意した。

しかし、音楽を続けるために残されたもう一つの道がある。

私以外の3人のメンバーに打診した。「リーダーのソロ活動に伴いグループの仕事が減ること」、「このままでは仕事量が減り生活できないこと」、「会社に新たな提案、取り分40%を30%にしてもらいたい、は断られたこと」、「仕事を増やすには4人で新たなバンドで演奏活動を始めるしかないこと」。私を含め4人全員の同意がなければやめることを決めていた。

「もう笑わなくちゃpart.3に続く