1.その先にあるもの

 ―ゴォォ!
 拳が唸りを上げ坂下の顎先に迫る。
 懐に潜り込んだ葵が全身のバネをフルに使い、伸び上がるように繰り出した右アッパー、飛騨大岡流《通天破》。
 (―直撃です!)
 「チィィ…」
 …避けられない! 誰もがそう思った。思わず舌打ちする坂下。
 ガッ!
 鋭い打撃音。次の瞬間坂下の体は大きくのけ反り、そしてそのままよろけるように後ろに数歩下がった。
 確かな手応え。しかし動きをまとめきれなかった葵の体も大きく開き、追い打ちにいくことは出来なかった。
 一瞬の静寂。そして会場が急に騒めき出した。見事な葵のカウンター。誰もこんな展開になろうとは考えてなかったのだろう。
 しかし葵は感嘆に目を瞠っていた。
 ―凄い手応えだった。間違いなく今のは自分の人生で最高の一撃だっただろう。恐らく今の自分にこれ以上の打撃を出すことは出来ない。しかし―それを先輩は防御したのだ! 咄嗟に左手を顎へ引きつけ、自分の拳を紙一重でガードした!
 (―すごいですさすがです!)
 それは日々の鍛錬がもたらす超人的な動きだった。
 葵は見開いた目に星をいっぱいに溜めて、今にも跳び上がらんばかりに喜んでいた。「最高の一撃」をかわされた悲壮感など微塵もなく、ただ「凄い先輩」を見られた喜びに胸が高鳴っていた。
 不思議な感覚だった。まるで他人事のように冷静に状況を見ることが出来た。
 す…と静かに構えを戻し、間合いの外まで弾け飛んだ先輩を見やった。と、そこには額に冷や汗を滲ませ、大きく肩を上下させる対戦相手の姿があった。相当面食らっているようだったが、しかしダメージは殆どないようだった。
 と、ふと視線の先で先輩の噴き出す炎のような気配が消えた。表情が変わる。試合の興奮から勝負の冷徹へ…。
 「……………」
 坂下は静かに葵に正対するとスタンスを広く取り、すっと低く腰を落とした。これまでの斜に構え、ボクシングのように細かくステップを刻むカラテではなくそれは―。
 葵の口元が思わずほころんだ。嬉しくてたまらなかった。―先輩が、遂に自分のために本気になってくれるのだ。今まで決して抜くことのなかった剣を、遂に鞘走らせるのだ!
 ―本物の「唐手」が来る…!
 それは葵にとって未知の領域だった。ワクワクするような―そう未知の領域(おたのしみ)だった。
 『先輩は空手しかやっていない。どんなに強くともその体からは空手しか出てこない。空手しか来ないと分かっていれば対処の仕方はいくらでもある』
 先生はそう言っていた。
 畏れることはない。例え競技空手から伝統空手へ戦法を変えても、焦らずビビらず冷静に相手を見れば、結局はいつも見知った坂下先輩の動きでしかない。別に、特別なことは何もないのだ。
 「……………」
 指先で歩くようにジリッ、ジリッ、と坂下が間合いを詰め始めた。一気には来ない。やはり同じ事を二度やる人ではないと、葵は改めて尊敬する。
 「……………」
 しかし葵は動かなかった。空気に腰を下ろし、先輩の到来を待ち構えていた。
 待たれれば攻めにくいところだったが、先輩は自分から来てくれそうだった。恐らく、得体の知れないこちらの動きを見極めるために小技を出すつもりなのだろう。データを取り、分析し、対処する。それは優れた「武術脳」を持った先輩の適切な判断と言えた。
 (そうはいきませんよ…)
 ジャブで来てもそこにカウンターを合わせる…。一月前ならともかく、今の自分にはそれが出来る自信があった。どんなに迅くてもジャブにも打ち終わりはある。そこに合わせれば…。
 自信と動体視力。それがこの一月で葵の獲得した最も大きな力だった。
 徐々に間合いを詰める坂下。そして遂に足が止まった―と思った瞬間、その白い姿が一瞬ぶれた。
 ―来た!
 風のような踏み込み。正中線を外して僅かに右に回り込み、そして稲妻のようなジャブが―
 (違う! 大きい!)
 バオッ!
 十分に捻り込んだストレート。必殺の正拳が火を噴く!
 葵も動いた。冷静に全体を見、そして前傾。かいくぐって潜り込み、懐へ入って―。
 ?
 と、坂下の体が微かに左に流れた。
 遅かった。
 (しまっ―!)
 バシンッ!!
 あっと声を上げる間もなく脚に激痛が走り、払われるように葵の体はそのまま床に叩き付けられた。―下段蹴り。バットもへし折るその蹴りが、葵の左裏腿を直撃していた。最初に回り込んだのは脚の横ではなく裏に当てるためだったのだ。
 ワッと場内に歓声が広がる。観客はこれが見たかったのだろう。
 「くっ…!」
必死に転がり、倒れた体を何とか追撃の間合いから外す。そして急いで片膝立ちに起き上がった。しかし―
 ビュン!
 蹴りが再び風を裂いた。一気に間合いを詰めた坂下の下段が起きざまの葵の顔面を捉える―!
 「くっ!」
 葵が跳んだ。蹴りを逃げずに頭から飛び込み、咄嗟に坂下の体に組み付いた。半ば反射的な判断だったがそれが結果的にタックルとなり、そのまま二人はもつれて倒れた。
 瞬時にポジションを取り坂下に馬乗りになる葵。坂下は素早く顔面をガードしたが、一瞬葵は「先輩」の顔を殴ることを躊躇った。二人の動きが止まり、場内がシン…と固唾を飲む。
 数瞬の沈黙。数瞬の膠着。
 ばっ、と葵が飛び起きた。起きざまに坂下の腹を一踏みしたが、まあダメージはないだろう。
 確かに有利なマウントは取った。しかしパワーの差は歴然だ。自分が逆にマウントを取り返される前に再び立技へ持ち込もうと考えていた。もっとも相手は最強の立ち技空手だが…。
 一瞬の後坂下も飛び起きた。しかし葵の方が僅かに動き出しが早い。
 一気に殺到する。体は動いてくれるはず!
 自分を、流派を私は信じます!
 (―行きます!)
 距離を保とうと坂下が前蹴りを出す―迅い。しかし―
 風が巻いた。
 大きく踏み込んだ右足を軸に葵は突然回転して前蹴りをかわし、そしてこめかみに左肘を突き立てた。
 咄嗟に坂下は顔を逸らせて肘を避ける。そこへ首を折るような右鉤拳が―
 ガッ!
 坂下の左腕が葵の拳を受けた。エクストリームで禁止されている肘打がフェイントだとはさすがに読まれていたのだ。しかし続いて放つ右ローキックには間に合わない!
 ―えっ?
 と、カクンと何かが引っかかるように一瞬葵の軸足が止まった。そして武術家はその一瞬を逃さない!
 坂下の体が回った。葵よりも迅く、さながらつむじの如く―
 「―ハッ!!」
 気合い一閃。坂下の右腕が鞭のようにしなり、そしてそのまま手刀が葵の首を薙ぎ払った。
 バスッと言う鈍い響きに場内が再び騒めく。それは、誰の耳にも明らかに「ヤバイ」音だった。
 ゆっくりと頽(くずお)れる葵。首を引っこ抜かれるような衝撃に脳は揺れ、痛みを感じる間もなく意識は純白の世界をさまよった。
 (――〈背刀〉…。まさかあの葵相手にそんなものまで出すなんてね…)
 重たそうな自分の胸を抱えるように腕を組み、微動だにせずに試合を見詰めていた綾香が初めて僅かに眉根を寄せた。坂下が〈背刀〉
を隠し持っているのは知っていた。しかし実戦で見るのは自分も初めてだった。
 ―グローブを付けて競技となり、空手から手刀は失われた。今や選手たちも誰もその練習をしていない。しかし―坂下好恵は「選手」ではない。「空手家」であり「武術家」なのだ。
 綾香はいつもその泥臭い「肩書き」を鼻で笑ってはいたが、しかしグローブのパッドのない部分で打つ打撃の有効性は認めていた。もっとも「泥臭い」それを練習する気はさらさらなかったが…。
 (……………)
 どくん。どくん。
 (……………)
 その時葵はぼんやりと耳の奥を流れる自分の血の音を聞いていた。目の前が白くなり黒くなり、ぐるぐる回って吐き気がした。何かの音がわんわんと頭の中で響いて気持ち悪かった。
 ぐにゃりといびつに歪む世界。―どうやら自分は倒れたらしいと葵はここで初めて認識した。
 (……………?)
 不思議だった。自分は倒れたはずなのに、先輩は一向に追い打ちに来ない…。と、はっと意識を取り戻し、そしてその理由を瞬時に理解した。
 …ファイブ…シックス…
 ダウンだ! 自分はダウンを取られているのだ!悠長に寝ている場合ではない!
 慌てて立ち上がる葵。ぐらりと一瞬貧血のように目が眩んだが歯を食いしばって耐えると、レフェリーに向かってファイティングポーズを取って見せた。
 「出来るか?」
 「はい、出来ます!」
 当たり前だ、自分はまだ動ける! 大岡流は首を失っても右腕一本あれば戦えるのだと先生も言っていた。ダメージで軸足が利かないくらい―
 「―自分の名前は?」
 「松原葵です」
 「ここはどこ?」
 (―もう!)
 そんなの学校の体育館に決まっている。意識の確認とはこんなにもウザイものなのかと葵は初めての経験に苛立った。ダウンなんてするもんじゃない。
 レフェリーの質問に答える葵。その答に満足したのかレフェリーは確認するように頷き、そして再び二人に戦闘を促した。
 葵が構える。手の届くその僅か向こうに先輩が構えている。
 「……………」
 「……………」
 それはほんの何十センチかの距離だったが、しかしそこを進むには格別の勇気がいるのだ。お互いが有効打を食った今となっては特に…。
 (ううぅ…)
 痛かった。何とか我慢して平気な顔をしていたが、実は葵は今にも泣き出しそうなくらいに首の痛みに耐えていた。
 まだ首で助かった。これがこめかみにでも当たっていたらと思うと心底ぞっとする。
 何せ一撃一撃が重すぎる。今のだって体を回転させて威力を増したのだろうが、それにしてももの凄い手刀だった。『空手しか来ない』とは言え自分は空手の全ても坂下先輩の全ても知っている訳ではない。まさかあの短い間合いで手刀が打てるとは…。
 しかし先生の言っていた『攻撃や防御が一つの独立した動き』と言うのは分かってきた。確かに先輩は必ず打ち終わる。大岡流のように打ち終わった時にはもう次の重心移動が始まっていると言う訳ではない。必ず一瞬重心が落ち着く。そこを狙えれば或いは…。
 と、そこまで考えて葵はふと重要なことに気が付いた。
 ―自分にはもう何も残ってなかった。痛みと共にこの体に刻まれた技はもう出し尽くしてしまった。通天破も、あの竜巻のような連撃も。確かに昨日たくさんの技を見たが、しかしその中に実際に今の自分に出来る動きはまるでなかった。
 葵は困っていた。視界の端で先輩の爪先が白く変色するのが分かった。重心がそこに集まり、今まさに踏み込んでこようとしている。
 葵は困っていた。どうも絶体絶命っぽかった。残されたものは何もなく、もはや打つ手はないように思われた。
 「……………」
 と、不意に葵が微笑んだ。半ば無意識に、楽しい気持ちを抑えきれずに。
 ―ワクワクしていた。自分の窮地をまるで他人事のように。
 もう自分に出せる技はない。でもきっと何とかするハズだった。この体は、この血は!
 坂下の目が僅かに吊り上がる。葵の笑みは自分を挑発しているようにしか見えなかった。それは―空手に対する挑発に等しい。
 ―自分は空手家として…!
 坂下が動いた。残像を残すようなスピード。最短距離を滑り、同時に跳び退った葵に一気に接近する。
 (逃げ切れない!)
 肉迫。そして坂下が踏み込んだ。空気を巻き込み右足が唸りを上げる。
 ―バスッ!
 剥き出しの葵の左脚の肉が一瞬弾けたように見えた。―また左。続けて二発三発と正確に同じ箇所へ下段蹴りを叩き込む。葵の膝があらぬ方向へ曲がり、遂にバランスを失う。―そして坂下はその機を逃さない!
 踏み込む。そして重い左膝が跳ね上がる。
 ズブン!
 坂下がヒュッと短く息を吐き、同時に鈍い音が体育館を揺るがした。思わず観客が息を飲む。この光景は前にも見たことがあった。
 「うぐっ…!!」
 脊椎を揺るがす衝撃。そして胃袋がひっくり返るような感覚…。
 力が抜ける。目の前が暗くなる。スローモーションで世界が傾いていく。
 先輩が見えた。再び開いた距離を一気に詰めてくるのがゆっくりと…。
 さすがにローキックは空手の真骨頂だ。自分が生足だとは言え受ける衝撃は凄まじい。それにこの膝の破壊力と来たら…。やっぱり先輩は本物の空手家だと、こんな時になって改めて葵は思った。
 坂下が大きく踏み込んでくる。右拳をまっすぐ引き絞り、そして急激に重心移動。一気に腰が回転し重心の全てが拳に集中する…。
 右正拳突き。
 それは坂下が最も練習を積んだ技。基本にして極致。何よりも愛する世界最強の拳―。
 「ハッ!!」
 裂帛(れっぱく)の気合い。弾丸のように回転する拳が葵の顔面を捉え―
 (……………)
 どうやら何も出来ないようだった。結局何もなかったのだ、自分には。技も、力も。
 ―大体先生もヒドイですよね、何も教えてくれないなんて…。何とか通天破だけはコツを掴んだけど、でもこれだけじゃあ…。
 拳の圧力が眼前に迫る。あきらめる気はなかったが、しかしもう刀は折れ矢は尽きていた。
 (―刀? ―矢?)
 ふと思った。
 そう言えば自分は刀が折れても矢が尽きても戦えるのではないか?
 何も残されていない? とんでもない。自分には血が―流派が残されている!
 先輩は強い。空手は強い。でも―
 でも―人間は狼には勝てないんです!
 「!!」
 突如、ストンとぐらつく葵の腰が落ちた。誰もが力尽きたのだと思った。
 バォッ! と坂下の正拳が空を切る。尋常でないその風切り音が、葵の顔を叩き潰す覚悟だったと物語っている。
 「くっ!」
 しかし坂下は目を瞠った。しゃがみ込み、しかし右足を確かに踏ん張る葵が見えた。今まででは考えられないその粘り強さに驚愕する。
 葵が顔を上げる。その光に坂下の全身が総毛立つ。それは―かつて見たあの死神の目だった。
 ミシッと床が軋んだ。凄まじい踏み込み。
 (―来るっ!)
 しかし瞬時に左手を差し上げまた顎先をガードすれば…
 (同じ技を何度使っても―!)
 葵が伸び上がる。腫れ上がった左を捨て右脚一本で一気に―。
 ―力の流れを意識して―
 思い切り跳ぶように床を踏み、腹筋と背筋で一気に体を起こす―。
 (―通天破を打つには近すぎます。それに低すぎです。でも―私の体(りゅうは)は何とかします!)
 ―脇を締めて腕はコンパクトに―
 (遅いっ!)
 しかし坂下は更に速かった。身を固くし、早くも万全の防御態勢を整える。
 葵が歯を食いしばる。全身の意志を拳に集束する。
 「イイィィ…」
 『千を以て一に当たるでなく、一を以て千に当たるが武術の本道』
 先生はそう言っていた。
 ―そうだ。今の自分にはこれ一つがあれば十分だ。それは自分が初めて見た大岡の―
 神懸かり的な速さで先輩が腕を戻したのは見えていた。防御に長ける先輩の完全無比なガード。しかし―私の喰らった通天破は顎じゃなかった!
 「ヤァァッ!!」
 爆発的な発気(はっけ)。そして打ち出される本物の…
 (なっ!)
 ―ボディ!? ローブロー!?
 気が付いた。
 遅かった。
 ずむん!!
 「ぐは…っ」
 鈍い音と呻き声が同時に天井に響いた。坂下の体が思わずくの字に折れ曲がる。
 競技空手では禁じられている危険なローブロー。しかしエクストリームのルールにそれはない。そこへ葵はアッパーを体ごと叩き付けた!
 膀胱から子宮にかけて強打され、坂下の下半身から力が根こそぎ奪われる。
 膝に力が入らない。体が硬直して息が出来ない。苦しい。倒れる―いや、まだ私の空手は…。
 「……………!」
 直撃した。凄い手応えだった。大岡流を知らない先輩は通天破を顎を狙う技だと勘違いしたのだ。あの一発目のせいで…。
 力無く前のめりに葵に倒れ込んでくる坂下。しかし―まだその目は死んでいない!
 (―え?)
 一瞬葵の全身に戦慄が走った。足が竦(すく)み咄嗟に退がることが出来なかった。
 鬼気迫る眼光。まるで視線だけで相手を倒せると信じているかのような…。
 恐ろしかった。この人は例え意識を失ってもその本能だけで自分と戦い続けると思った。そしてそうなればきっと自分はこの人には勝てない。本物の武術家に付け焼き刃の自分が敵うはずもない。今を逃しては!
 (―この一瞬に私は…!)
 何かをしようと思っていた訳ではなかった。
 葵は無意識に倒れかかってくる坂下の股へ右腕を差し入れ左手で首を押さえると、そのまま背負うようにうつ伏せにその体を右肩へ担ぎ上げた。
 驚いた。自分に50キロが持ち上がるとは思っていなかった。不思議な感覚がする。「呼吸とタイミングが合えば何キロであろうと向こうから上がってくる」とは確かに聞いていたが…。
 ―ズシン!
 (うっ)
 急に体が重くなった。動きが止まると重さはモロにかかってくる。途端に膝が悲鳴を上げ、重心が大きく揺れた。
 坂下が一瞬もがいた。躊躇しているヒマはなかった。真剣勝負では一瞬の迷いが生死すら左右する。
 と次の瞬間、重さに耐えられなくなった葵の膝がガクッと折れた。
 「……!!」
 歯を食いしばる葵。その膝は折れてなどおらず、坂下を担いだままの姿勢でそのまま横へ―。
 瞬間、会場の時間が凍り付いた。観衆は戦(おのの)き、声を上げることすら忘れた。
 ―ゴォンッ!
 凄い音がした。その低い響きに観客は水を打ったように静まりかえる。それは、誰の予想をも超えた光景だった。
 どさりと重い音がその静寂を破り、そして坂下は仰向けに倒れた。脳天から何もない体育館の床に垂直に落とされ、もはや不自然な格好のままぴくりとも動かなくなっていた。
 あまりの結末に言葉を失っていた観客の一角から女生徒の悲鳴が上がった。それを合図に堰を切ったようにどよめきが会場全体を包み込む。
 葵はゆっくり立ち上がった。そして先輩を―今や崩れ去った壁を見下ろした。
 黒髪の下で赤い血溜まりが徐々に広がっていく。
 髪の中に垣間見える傷がぱっくりと口を開いて川のように血を流している。この分だと恐らく首や腰もただでは済まないだろう…。
 咄嗟に出た技だったがとんでもない威力だった。二人分の体重がまともに、まるで滝のように落下していった。
 「……………」
 確かにここまでやる必要はなかったかも知れない。通天破で終わっても恐らく勝っていただろう。でもそれでは、自分なんかと全力で戦ってくれた先輩に失礼に当たる。それにもしやらなかったら、先輩は手加減されたときっと私のことを恨むだろう。
 それは全力を尽くしたもの同士にしか分からない感覚なのかも知れない。そう「リスペクト」と言う言葉では軽すぎるくらいに…。
 レフェリーが坂下の側にかがみ込んだ。そして状態を確認するとそのまま合図を要請する。
 試合終了の太鼓が打ち鳴らされた。続行不可能によるレフェリーストップ。そして―ようやく葵の勝利が告げられた。
 顔を上げた。そして観客をぐるりと見渡す。自分がKOされる瞬間を見に来た観客を。
 誰一人賞賛の声を上げるものはいない。それどころか自分を非難するような雰囲気が体育館中を満たしている。
 「試合」を見に来たものにとっては苛烈な結末だったかも知れない。しかし自分は「試合」をしていたのではなく命懸けの「勝負」をしていたのだ。ハナから甘い考えなどない。それにそれは坂下先輩だって同じだったはずだ。
 「―――――!」
 そして葵は高々と拳を突き上げた。重い空気が体を包み込んだが、しかし毅然と、堂々と自らの勝利に胸を張った。
 勝負は時の運だ。どちらかが勝ちどちらかが負ける。だから―勝者は胸を張らなければならないのだ。敗者が胸を張ることができるように。
 担架が運ばれてきた。先輩の様子は心配だったが、しかし葵はそれを見ずに独り試合場に背を向けた。あの人の誇りに傷を付けてはいけないと思った。
 と、突き刺さる視線に気が付いた。
 視線の主は腕を組んで壁にもたれかかり、こちらを睨み付けていた。
 足を止め、まっすぐにその視線を受け止める。
 「……………」
 「……………」
 視線が交錯した。様々な言葉と感情が葵に向かって打ち付けられる。まず怒り、そして何より興味と好奇。
 葵はその時、初めて綾香が本当はこんな目をしている人なのだと知った。いつもの余裕綽々(しゃくしゃく)の目は翳(かげ)を潜め、感情ではなくもっと深い場所から湧き上がる思いに、綾香の真実が見え隠れする。
 それは「最愛の」坂下好恵を血の海に沈められてなお抱く強さへの探求だろうか。
 (―まったく業の深い話です)
 しかしそれは頂点を目指す者が等しく持っている宿業なのだと、葵は今や知っている。
 目を外し、歩き出す。左脚を引きずり、そして綾香にも背を向けた。
 ―いつかあの人と戦う時が来る。きっと。そんな予感がする。
 或いはそれは確信なのかも知れなかった。
 (―もう、逃げませんよ)
 二人の先輩という強固な壁の間に隠れ、自分はずっと逃げていた。何よりも自分から。
 しかし更なる高みを目指すためには、そのもう一つの壁も突き破らなくてはならないのだ。
 その先に何があるのか。それを自分の目で確かめるために。
 尊敬する人への想いを確かめるために。そして―自分が自分であるために。
 松原葵。
 例えそれが修羅の道であるとしても。