4.Only the Strong

 極端なすり鉢構造のコロシアムの中は、一端照明が落ちてしまうと殆どリング以外のものは見えなくなる。他の観客の姿でさえ、ほんの周囲の数人しか視認できないほどだ。
 特にこういう試合間の僅かな空き時間には、次の試合がメインと言うこともあってか観客の間に漂う妙な期待と緊張が会場全体をも包んで人々の口数は減り、実際よりもよりその人数を少なく感じさせる。
 しかし主催者発表で観客は12600人。超満員の大入りと言うことだった。
 「……………」
 男はスタンドの最上段の席で「早く始まんないかなー」とぼんやりリングを眺めていた。少々遠いのが難ではあるが、コロシアムの構造上一番高い位置にある最後列は実はとても見やすいのだ。
 確かに葵には「セコンドに入ってくれ」とは言われていた。しかしそんな目立つこともしたくないし、何よりセコンドに入ったら他の試合を見られないではないか。それに、試合本番になってまで言う事なんて何もないのだ。
 そんなことを考えながら男は脚を組み替えた。と、不意に音もなく暗がりから隣の席に人影が現れた。
 「失礼します」
 「―どうも」
 丁重に挨拶され男も思わず会釈を返した。見ると、人影は長い脚を狭い座席スペースに折り畳むように座りかけていた。
 「―怪我はもう大丈夫なんですか?」
 その言葉に人影が笑う。少し皮肉げに。
 「ええ。手加減して頂いたお陰でもうすっかり」
 そう言って左胸をさすった。男は苦笑で返事を返し、そしてずっと気になっていたことを尋ねてみた。
 「で―あのロボットはどうなりました?」
 「それも問題なく―」
 よっ、と人影は結局斜めに座り直した。どうやら脚を収めるのは諦めたらしい。
 「時期が時期ですので、イスラム原理主義勢力によるテロと言うことでカタを付けました。お嬢様の方は技術部が予備パーツからもう一体でっち上げて上手くごまかしたようです」
 「はは、なるほど。さすがの手際ですな」
老人の言葉に男は素直に感心した。
 と突然会場中の照明が落ち、そしてぱっとリングと入場ゲートだけが強烈に照らし出された。まるで昏(くら)い海に浮かぶ方舟のようなその様は、見る者全てに本来リングは神聖なものなのだと、いやが上にも思い出させた。
 と、ゲートの両端からぶしゅーと金色の花火が噴き出した。同時に低音の効いたダンスビートが流れ出し、一瞬静まりかえった会場の興奮が一気に最高潮に上りつめた…。

              *   *   *

 入場ゲートに立ち、頭からすっぽり被った大きなフードの裾をちょいと持ち上げて葵は会場全体をちらと見渡した。―凄い人だ。歓声も多すぎてゴーッと言う音の洪水にしか聞こえない。
 そして思わず失笑を漏らす。ちょっと前までは足が竦(すく)んでこんな人前になんて出ることすら出来なかったのに…。変われば変わるものだ。
 やがてしゅわわ〜と花火が終わり、そして葵は打ち合わせ通り真っ直ぐに延びる花道をリングに向かって歩き出した。
 バスドラムが腹に響く自分の入場曲の流れる中、葵は「誰がこの曲作ったんだろう」とか思いながらただ足元だけを見て歩いていた。
 ―この花道を通れるのは決勝に残った2人だけなのだ。
 そう思うと感慨もひとしおなのだが、しかし葵はどちらかと言うともう少し地味に入場したいとも思っていた。けれどもメインを一番派手にしなければならない興行的な理由も理解できる。ので、葵はさっさと早足で花道を通過してさっさとロープのないリングへ入り、そしてさっさと自分のコーナーに控えてさっさと「入場」を終わらせることにした。
 と同時に再び暗転。しかし今度は入場者への期待からか、会場のそこここからひゅーひゅーと嬌声が上がる。
 厳かなピアノのイントロ。そして曲は嵐のように力強いギターサウンドへと変わり、同時にピンスポットが入場ゲートをぱっと照らし出した。
 スモークとレーザーに彩られる純白の影。エアバーストが発射され銀色の紙吹雪の舞う中、観客全員の注視を一身に浴びて影は―来栖川綾香は堂々たるモデル歩きでゆっくりリングに向かって歩き出した。そのすぐ後ろを誇らしげにベルトを掲げ持つ2人の水着少女が着いていく。
 ―あれはちょっと…。
 自分よりも更に数倍派手で大掛かりな綾香の入場シーンを眺め、葵は半ば呆れ半ば感心していた。どちらにせよ余程の自信と度胸がなければ出来ることではない。
 「……………」
 綾香はリングインするなりいつものように観客に愛想を振りまくことはせず、大人しくコーナーに控えてじっと葵を―タイトルマッチの相手を見据えた。なまじ知っている人間なのでいつもとは違う感情があるのかも知れなかった。
 葵もその視線はフード越しに感じていた。ひたすら「生意気なのよ生意気なのよ」と気の滅入りそうな綾香ビームを放ってくる。
 と、マイクを持ったリングアナウンサーがリングの中央に進みその視線を遮った。ほっと小さく息を吐く葵。しかしそんなことを知る由もないリングアナは段取り通りにこの試合がメインイベントであること、トーナメントの決勝であること、そして勝者がチャンピオンである「クィーンオブエクストリーム」となる選手権試合であることを高らかに告げた。そして―
 「青ーコーナー、88ポンドー…松原ー葵ーっ!」
 ワーッと沸き起こった歓声の中葵はフードを背中に落とし、そして深紅のガウンを脱いだ。いつものようにそのブルマ姿にもう一度歓声が起こる。そして一瞬の静寂。
 「赤ーコーナー、現クィーンオブエクストリーム選手権者93ポンドー…来栖川ー綾ー香ーっ!」
 コールされた瞬間怒濤のような大歓声が巻き起こり、綾香の名を呼ぶ野太い声や黄色い声が会場のあちこちから飛び交った。花火を使わない会場なら今頃リング上は白い紙テープの海と化していたことだろう。
 綾香が白いロングコートを脱ぎ、そして優雅な仕草で乱れた髪を直した。
 白いホルターネックのハーフトップ、白のロングタイツ、そしてレガースの付いた白いエナメルのブーツ。その全体に銀色の装飾を施した派手だが上品な仕上げのコスチューム。それは綾香の黒髪と相まって、まるで「儀礼用」と言ってもいいほどに美しかった。それと比べるとただの体操着姿(実はハイテク素材の特注品なのだが)の自分がとんでもなくみすぼらしく思えてくる。
 ―まぁ中身が全てだし…。
 葵はそう自分を納得させさっさと気持ちを切り替えた。試合だけに集中せねばならない。遂にここまで来たのだから…。
 ぼわ〜ん
 そして試合開始の銅鑼が鳴った。まずは前に出て右手を伸ばし軽く拳を合わせる。そして2人は同時に跳び退った。
 肩幅に開いた両腕を顔を挟むように持ち上げ、軽やかにステップを踏む綾香。音楽を合わせればそれはまるでダンスのよう。
 トトンと近付いてキックを放ち、そのままのリズムで距離を取る。
 華麗―と言う言葉がこれほど似合う人もいないだろう。まさに蝶のように舞い蜂のように刺す、だ。しかし蜂では狼には…。
 バシッ! とキックが直撃し、瞬間どっと会場が沸いた。いてて…と葵が後ろへ下がる。不敵に笑う綾香。
 ―よくここまで上がってきたわ葵、それは誉めてあげる。でも…運がよかっただけで所詮私の敵じゃないのよ!
 軽くジャブを出して距離を測り、そしてジャブをブロックした葵に狙い澄ました右ミドルキックを叩き付けた。思わず顔をしかめる葵。そこへ綾香が躍りかかる。ダッシュで接近し必殺の「秒殺コンビネーション」を―
 ぽん
 と、葵がおもむろに場外へ飛び降りた。
 現行のエクストリームルールに場外反則はないが、しかし自ら場外へ出る選手はいない。例え追い詰められても普通は逃げることを潔しとしないのだ。
 予想通り会場は大ブーイングに包まれた。誰もが今のコンビネーションが決まって綾香の快勝だと信じたのに、それを葵は逃げたのだ。それももっともつまらない方法で…。
 しかし当の葵は全くそんなことは気にしていなかった。反則でないことをしても反則ではないのだ。ルールとはそう言うことだし、それを責められる謂(い)われはない。もちろん場外が反則ならこんな事はしないだろう…。
 リング上では一人残った綾香がまるで勝者のようにポーズを取り観客にアピールしていた。そして自然な流れとして葵へのブーイングはやがて大アヤカコールへと変わっていく。
 見上げた。
 眩いライトに照らされた白と銀のコスチューム。煌めく笑顔を弾けんばかりに振りまくエクストリームの女神―。
 ―何て輝いてるんだろう。
 あの人は人の称賛を受けて輝く。例えばそれがなくなったとして、それでもあの人は自ら輝くことが出来るのだろうか…?
 葵は迷っていた。
 正直自分の実力が上なのは今のでもう分かった。それだけでもう自分的には綾香を超えたと言えなくはない。勝つことは出来るだろう。しかし別にこの場で勝たなくてもいいのではないか…?
 いよいよレフェリーに注意を受け、葵はうんせと90センチ上のリングへと戻った。勝利を確信し全身に自信と慢心を漲(みなぎ)らせる綾香とは対照的に、大切な人を勝手に思いやる葵の表情は苦悩に満ちていた。
 (でも、本当に綾香さんを思うのなら……)
 「何ぼーっとしてんの…よっ!」
 大きく踏み込んだ綾香の右膝が浮いた。そして一気に加速して腰を捻り込み稲妻のようなハイキックが―
 勝った!
 殆どの観客と何より本人がそう思った瞬間、ふ…と葵は風に舞う羽根のように蹴りを擦り抜け、そのまま低く綾香の懐へ踏み込んだ。
 ―えっ?
 ―だから遅いんですよ。
 そして全体重を乗せた左拳を膝を着きつつ目の前に見える軸膝へ向かって打ち下ろした。
 「あっ!」
 内側から殴りつけられて膝を捻り、綾香が短く悲鳴を上げて倒れた。葵も一気に追い打ちに行くが、綾香はお尻を着いたまま手で後ろへ下がって距離を取り、すぐさま立ち上がる。この辺りはさすがの巧さだと葵も感心する。
 綾香は再び構えると、なおも軽くステップを刻んで葵に接近した。と、葵は突然沈み右足で綾香の脚を払った。ブサイクな体勢で転倒する綾香。しかし今度は追わず、葵はただ黙って見下ろしているばかりだった。
 キッと柳眉を吊り上げ、綾香はすかさず葵を睨み付けた。強い光を湛えたその瞳に今や憎(にっく)き敵の姿が映り込む。カーッと血が沸騰し、アドレナリンが全身を駆け巡った。
 立ち上がる。そして再び接近。と、また葵が沈んだ。何度も同じ手で来るとはナメられたものだと頭に来たが、しかし素早いステップで脚払いをやり過ごすと一気に前へ出た。その沈んだ側頭(テンプル)を蹴って―
 ガッ!
 「くっ…!」
 しかし声をあげたのは綾香の方だった。思わず左足を引きずって下がる。
 右足をやり過ごした後に更に左足が回ってきた。それも足払いではなく最初から踵で膝を狙ってきたのだ。そう気付いた時にはもう遅かった。今度は外側からの一撃に軸足が潰されていく。
 確かな足応えを感じた葵だったが、しかし畳み掛けにはいかなかった。もうあの左膝はだめだろう。軸足を失った綾香が満足に戦えるとは思えない。この辺りでやめてくれれば…と思っていた。しかし― 少し困ったような目で自分を見る葵に、綾香の怒りはもはや髪を逆立てんばかりになっていた。
 (―この私が葵なんかにぃっ!!)
 歯を食いしばった。膝を傷めたとてハイでなければまだ十分蹴れる!
 (ナメんなっ!)
 大きく踏み込んだ綾香の右足が鞭のようにしなった。その怒りの全てを込めたミドルキック。例えガードしても吹き飛ばしてそのままグラウンドへ―
 (綾香さん―)
 す…と葵が肘を下げた。
 ベキ…!
 その音を聞いて綾香の目が驚愕に見開かれる。
 自分の脛が葵の左肘を直撃していた。まるで槍でも蹴ったかのように、逆に自分が刺し貫かれていた。
 「ああぁっ!」
 そして悲鳴を上げ綾香は右脚を抱えて跳び退った。 
 (―感情的になったらもう武術とは言わないんですよ…)
 『怒りは精神を蝕み冷静な判断を狂わせる』。そう言うことだ。
 すいっ、と葵が前傾した。もう迷わなかった。この人は何があっても試合を投げたりしないと悟った。
 崩拳の要領で跳び、そして足を踏み鳴らし一気に体ごと拳を突き込む。
 ドシン!
 ずむんと嫌な音がした。唸り声をあげて目の前で沈んでいく綾香を、葵はゆっくりとスローモーションのように見た。そして綾香は蹲(うずくま)り、レフェリーはダウンを宣告した。葵はさっさとコーナーへ戻ってカウントが進むその様子をじっと見詰める。
 「……………」
 世紀の番狂わせに、会場のボルテージは最高潮に達した。現金なものだと葵は一瞬苦笑したが、しかしまたすぐに眉間に皺を寄せた。
 打てなかった―急所を。手加減とかそう言うことでなく…。でもこれでもう…。
 と、わっと突如歓声が爆発した。そしてどこからか起こったアヤカコールが会場を揺らさんばかりに膨れ上がる。
 驚いた。
 歯を食いしばり、綾香は立ち上がった。葵の目がまん丸になる。あれで立てるとは正直思ってもみなかった。
 しかし戦闘再開が告げられても綾香にはもう躍るようなステップはなかった。両方の脚を交互に引きずり、もう戦えないことは明らかだった。タオルが入らないのが不思議でならない。
 しかし驚いたことに綾香の方から葵に近付いてきた。それはもう勇気と言うより無謀に近い。そして苦痛に顔を歪ませながら右ミドルキック。
 「……………」
 自分のガードに蹴りが当たった瞬間の綾香の苦悶の表情を葵は見逃さなかった。―折れているのだ、だから軸には出来ない。しかしそんな蹴りが効くはずもない。
 逆に葵は猛烈に腰を捻り、渾身の力で綾香の胸―バストに横から鉤拳を打ち付けた。いびつに変形し一瞬後に元に戻るバスト。綾香自慢のDカップはしかし人体的には感覚の集まる急所でしかない。それに的が大きいと当てやすい。
 「くうぅ…っ」
 激痛に胸を押さえ2・3歩綾香がよろめいた。そしてその眼前で葵の存在がぶわっと膨張する。
 顔を上げた綾香の脊髄を戦慄の氷刃が駆け上がった。
 ズシン!
 右足を大きく踏み込み左拳を引き絞る。
 「イイィ―」
 足を床に叩き付けて作った力を拳に伝え、そして今度こそ正確に急所へ、水月へ―
 「―ヤァァッ!」
 一瞬会場中が水を打ったように静まりかえった。その静けさに、まるで時間が止まったかの錯覚に襲われた。
 葵の右拳が綾香の左胸にめり込んでいた。あの時見たウォーターバッグにめり込んでいた拳と同じだと葵は思った。飛騨大岡流《黄龍》。左で水月を打ちそれを戻す反動を使って右を打ち出すコンビネーション。
 一度に2つの致命点を同時に打たれた綾香の顔からは血の気が引き、額からは汗がどっと噴き出した。そして―膝から崩れ落ちるように倒れた。
 ふぅ、と小さく息を吐く葵。胸の大きい人の心臓は分かりにくい。正確に当てられるか不安だったのだが、どうやらうまくいったようだった。
 御止技の直撃。おまけに今肋骨の折れた感触もした。まさかもうこれで立てる訳はなかった。そして葵は綾香に背を向けた。
 「―待ちなさいよ」
 えっ!? と葵が振り返った。どっと会場が沸きあがる。
 綾香は立ち上がった。朦朧とする意識を傷ついた脚で支えきれるはずもなく体は不安定にふらついていたが、しかし10カウント以内に立ち上がった。
 「まだ終わってないわ」
 「……………」
 立ってきたのならまだ確かに終わっていない。しかし、もう「終わって」いるのは誰の目にも明らかだった。セコンドはなぜ止めない!? このままでは綾香さんは―。
 葵は心配していた。何も綾香の選手生命まで奪うつもりはないのだ。本人が終わらないのなら誰かが止めなくては…。
 しかし綾香はその葵に激昂した。
 (―何よその目はっ! 何よその哀れむような目はっ!!)
 綾香が前に出た。ふらふらと一歩二歩。そして拳を握る。
 (この私がっ! この天才綾香様がこんな奴にっ!)
 ヒュッとストレートが来た。既に下半身に力はなく、ただ腕を振り回すだけのカスパンチ。あの光の迸るような攻撃はもはや見る影もなく…。
 ズシン!
 終わらせようと思った。一歩下がり、そして踏み込んだ。脇を締め伸び上がるようにアッパーを…。
 (―え!?)
 信じられなかった。決して手は抜いていない。しかし―故意か偶然か綾香は渾身の通天破を体を振ってかわすと、戻しざまに左右のフックを叩き付けた。
 クリーンヒット! しかし葵は揺らがない。
 「……………」
 痛々しかったが、しかしもう綾香の攻撃は効かなかった。そんなこと、あっちにだって分かってるはずだった。
 ガッ!
 歯を食いしばり、左鉤拳を綾香の顔面へ打ち付けた。綾香の―顔を殴った。それは葵にとって決意の一撃だった。もう何も躊躇わないと!
 綾香がふらついた。もう立っていることですら奇蹟に近い。しかし葵は続けずに下がった。
 違う! 距離を取ったのだ。飛び込んでくる!
 綾香がそう思った時にはもう震脚の轟きは会場に響いていた。
 「イイィ―」
 両拳を引き、そして急激な腰の回転。
 死神の姿が一瞬葵にだぶって見える。
 「ヤアァァッ!!」
 バオッ!
 拳が空気を巻き込み唸りをあげた次の瞬間、両の拳はまたも綾香の2つの致命点を直撃していた。今度は水月と天突を。
 もはや踏ん張りの効かない綾香はぐらりとそのまま後ろへ倒れた。今度こそ、絶対に立てないと確信があった。《神槍》の直撃を受けて立てる人間がいるはずが…。
 「……………」
 見下ろすと、綾香は糸の切れた操り人形のように無惨に力無く仰向きに倒れていた。目は開いていたがもうそこに光はない。
 「スリー…フォー…」
 なぜこの状況でカウントを取ろうとするのか、レフェリーもレフェリーだと思った。誰が見たって続行不可能だろうに…。
 カウントが進んでいく。しかし混濁した意識の中でライトを見詰めながら、綾香ははっきりとそれを聞いていた。
 途切れた意識は偶然戻ってきた。とりあえずまだ死んでもいないようだった。一瞬「このまま負けちゃうのか…」と言う考えが頭をよぎった。しかし―
 (―葵なんかに!?)
 突如、カッと綾香の瞳に生気の輝きが躍った。
 (認めない! 私はあんなのとは素質が違うのよっ!!)
 「シックス…セブン…」
 あと3カウントでベルトが自分の腰から去っていく。―いや、別にあんなチンケなベルトなんて貧乏人の葵にくれてやればいい。自分にはもっとふさわしいベルトを新しく作れば済むことだ。それよりも、この私のパーフェクトボディを傷付けて只で済ませる訳にこそいかないのだ。
 「ぐ…」
 ―絶対立つ!
 綾香が動いた。全身の力を腕に集中して体を支え必死に起き上がる。割れんばかりの大アヤカコールがカウントを遅らせ綾香を後押しする。
 「……………」
 ―およそ考えられない光景を目にして葵は思わず言葉を失った。
 いくら自分が半人前のへなちょこだとは言え、御止技を二発も食って立てるなんてありっこなかった。技を出したのが自分でなければどちらも即死するほどの威力なのだ。まさか綾香がこれほど打たれ強いとは…。
 ぐはっ、と綾香が血を吐いた。白いコスチュームに赤い染みが大輪の薔薇を重ねるように広がっていく…。しかし揺れる体を制御して何とか膝立ちになった。
 ア・ヤ・カッ、ア・ヤ・カッ…
 今や会場中全てが綾香の味方だった。しかし―その歓声ももはや綾香の耳には届いていない。
 ぐわんぐわんと頭の中で何かの音が反響して吐きそうだった。足に力が入らずどうやって立てばいいのか分からなかった。
 苦しかった。辛かった。
 しかし自分はなぜか必死に立とうとしていた。
 ―不思議な感覚だった。「根性」とか「頑張る」とか大嫌いなはずなのに…。
 確かに頭の片隅で理性は「こんな酷い目に遭ってまで必死になるなんて何のため?」「こんな醜態を晒してまで戦って何の意味があるの?」と問いかけていた。しかし―
 「ぐうっ…」
 腹筋に力を入れ足を踏ん張った。奇蹟の一つくらい何とかしてみせると本気で思った。
 ―なぜ自分は立ち上がるんだろう?
 立ったってもう戦えない。これほど強い相手になら負けたって仕方がない、誰も責めはしない。それに別にここで負けたってまた新しい団体でも作ればいいのだ。なのになぜ―私は立つ?
 着いていた手が床から離れ、そして―綾香はゆらりと立ち上がった。
 顔を上げる。そこにはもはや一片の哀れみもないただ冷静なだけの目をした最強の相手が立っていた。葵がすっと構える。
 それを見た綾香の口元にふと薄い笑いが閃いた。
 「……楽しいからに決まってるじゃない」
 そして両腕を差し上げて構える。
 「……………」
 まさか立てるとは…。これ以上やったら本当に命に関わるだろう。しかし葵にはもう躊躇いはなかった。たとえ死なせても構わない。綾香は―十分にそれに値する相手だった。
 「ファイト!」
 レフェリーが続行を告げると同時に葵が飛び出した。殺到する葵が綾香の目に映る。
 (ああ、そうか…)
 綾香にはもう動く力は残っていなかった。奇蹟ももう使ってしまった。しかし―不意に綾香は気が付いた。
 葵が一気に距離を詰める。思い切り踏み込み、そして拳が風を巻いて綾香の眉間を捉えた―直撃!?
 綾香が笑った。
 (―私…格闘技が好きなんだ…)
 瞬間、葵は全身のありったけの力を込めて筋肉を硬くし、無理矢理拳を停止した。肩の筋を傷めたが、しかし死は―綾香の顔面数ミリで奇蹟的に留まった。もっとも葵の奇蹟も使ってしまったが…。
 葵はじっと綾香の顔を見た。満足げな微笑みだった。血を吐いたとても―魅力的な。
 誇り高く、勇気があり、クレバー。この人は素質に溺れてるだけの格闘家では決してなかった…。
 そして葵は目を閉ざし、その表情を瞼の奥にじっと封じ込めた。
 綾香さん―あなたは本当に「本物」でしたよ…。
 目を開く。そして葵は無造作に拳を下ろすと構えを解き、くるりと構える綾香に背を向け歩き出した。
 その行動にレフェリーは戸惑い、そして慌てて葵を呼び止めた。しかしそれ以上に戸惑った観客が何事かと騒めき出す。綾香はまだファイティングポーズなのになぜ葵は試合を放棄するのか…?
 しかし葵は何も耳に入らないかのように一人リングを降り、そしてライトも浴びず静かに暗闇へと姿を消した。
 綾香はその姿をただ見詰めたまま微動だにしなかった。
 ―次の壁はもっと高いのだ。恐らくその辺で見ているのだろうが…。いつまでもこんな所に立ち止まってなんかいられない。
 会場が騒然とし出した。試合終了が告げられ、やがて担架が運び込まれ―

              *   *   *

 綾香に勝った葵は結局ベルトは受け取らず、そのままエクストリームからも去った。
 「あんなのがチャンピオンでは誰も挑戦したがらないからだ」との陰謀説も聞かれたが、本人的にはもう自分の「格闘家人生」はあれで終わったのだと思っている。現在家政科短大生。

 綾香はと言うと、一時は選手生命どころか己れの生命の危機まで囁かれたが見事に復活。しかし日本マット界からは姿を消し、現在は「謎の老トレーナー」を伴ってアメリカ各地を武者修行中。
 ようやく努力を覚えた「本当の本物」がどこまで登り詰めるのか誰もが期待するところ。大学卒業後の日本マット界復帰が今から待たれる。

 人気2選手を失いエクストリームの人気は下降の一途を辿っていたが、近頃先のオリンピックでメダルを獲った某空手家が電撃参戦。それにより人離れには一応歯止めが掛かっている模様。「綾香が戻ってくるまでだけ」とは某空手家の弁。そうはいかんだろうとは大方の予想。


              *   *   *

 男は体育館の床に胡座(あぐら)をかいてスポーツ新聞を広げていた。中ほどの格闘技面を見ると『来栖川綾香NFAミドル級王座奪取』との見出しが大きく躍っていた。
 ふう〜んと記事を読み進めてみると、綾香様はこれで四冠目だと言うことだった。
 あれからたったの一年半で復帰してムエタイが1つ、キックが1つ、フリーファイトが2つ。大したものだと感心せずにはいられない。やはり素質のあるものが努力するとその才能の爆発は言わずもがな、だ。大してなくてもあれなんだから…。
 お? と男は記事の写真の奥に見覚えのある長身の老人を見つけて思わず笑ってしまった。
 (あんたかよ。そりゃ強くもなるわな…)
 などと随分リラックスしていたが実は別にそう言う状況でもなかった。
 もう予選は始まっていた。
 『関西春の散打散手大会オープントーナメント』
 出場登録時に選手全員が高額の掛け捨て保険に入る命懸けの古流武術大会。かつて2度優勝し、もはや自らの意志で出場することのない男だったが、今年は弟に請われて久しぶりに参加を決意した。
 「お兄」
 「ん?」
 頭上から「カンフー着」の若者に呼びかけられ、男は乱暴に新聞を畳んだ。そして顔を上げる。
 「何してんねん。出番」
 「おう、すまんすまん」
そして少し慌てて立ち上がり、ばさばさと袴の裾をはたいて試合場へと入った。試合場は剣道用に引かれた枠をそのまま使用している。
 「構えて!」
 よく通る審判の声と共に男は構えた。鹿革の足袋が床に擦れてぎゅっと小さく鳴る。
 (…いい構えになった)
 目線の先には男と同じ装束、同じ構えの女がじっと対峙していた。白衣紺袴白足袋。違うのは流派での位を表す飾り帯のみ。そして何よりその構え―。「変わり十字」で構える拳士は今世界に2人しかいない。
 前に見た時よりもまた髪が伸びていた。それにしても―と男が心の中でぼやく。
 (一番ナンギな相手に予選で当たるとはのう…)
 クジ運がいいんだか悪いんだか…。
 しかし男は喜んでいた。嬉しそうで、とても―楽しそうだった。込み上げてくるワクワクに耐えきれず、遂に笑みを零してしまう。
 それにつられて女も思わず笑った。これから起こるであろう出来事が待ちきれないとばかりに…。
 「先生、いざ尋常に―」
 「勝てると思うなよう…」
 どーん、と試合開始の太鼓が打ち鳴らされた。
 『―勝負っ!!』
 同時に2人が弾かれたように飛び出した。
 大きく踏み出す。それがまるで終わりなき道への第一歩であるかのように。
 ズシン!
 そして2つの震脚の轟きが、体育館の天井にまで響き渡った。