2.邂逅

 「あうぅ…」
 不安に耐えきれず遂に葵は声を上げた。
 今にも泣き出しそうな表情に滝のような汗を流し、たった一人でガサガサと木々をかき分け獣道を歩いていた。
 別に夏休みを利用して一人ハイキングに出掛けそこで遭難している訳ではない。傍目には間違いなくそう見えるだろうが、しかし葵はまだ自分が教えられた道を逸れていないことを信じていた。
 誰もいない、木しかない山の中をひとりぽっちで歩き続け葵の胸は不安に押し潰されてすっかり小さくなっていたが、しかし葵はずーっと続くただ一本の獣道を確かに歩いてきた。迷っているはずはなかった。
 「……………」
 でも泣きそうだった。
 眉間に皺がきゅうっと寄り、鼻の奥に何だかつんとしたものが込み上げてきた。
 確かに道はすぐ分かった。
 高架の駅から地上に降りて山側へ坂道を上がっていくと、そこにはもうさっき電車の窓から見えた市民体育館の白い建物が見えていた。そして言われた通りその横の坂を上がっていくと言われた通り50mプールがあり、人気は段々なくなり、何かちっちゃい教習所みたいな自転車の安全を教えるとかの公園があり、そして言われた通りバイパスに掛かる赤い陸橋を渡った。
 どう思い返しても何も間違わなかったはずだ。
 暑い暑いと思いながらその橋を渡るとすぐにハイキングコースに出てそのまままっすぐ。で、目印の木はすぐに見付かったのでそこで左を見ると、確かに一本の獣道が山中へと伸びていた。一本しかなかった。間違いようはないと思う。
 「……………」
 ハイキングコースを左に折れて山に分け入ってから、もう随分歩いた気がする。5分も歩けば着くと聞いていたのに結局まだ着かない。実はまだ5分程度しか経っていなかったからなのだが、早くもパニックになりつつある葵に冷静な判断力が残されているはずもなかった。
 こんな事ならせめてもう少し山歩き用の格好をしてくれば良かったと今更ながらに思う。
 しましまのTシャツにサスペンダー付きのキュロット。スニーカーにリュックサック。サスペンダーが胸の辺りでもまっすぐなのがちょっと不満だったが、まあ気に入っている服だった。しかし「密林」を行くにはあまりに軽装すぎた。よく「山をナメてはだめだ」と言うが、今ではその言葉が身に染みてよく分かる。
 とにかくまだ日が高いことだけが唯一の救いだったが、それにしてもなぜその人はこんな所に住んでいるのだろうと思わずにいられない。修行僧でもあるまいに、俗世を捨てるにも程があると言うものだ。
 一体どんな仙人みたいな人なんだろう、とか怖い人だったらやだなあとか考えていると、その時だけは自分が遭難寸前なのも忘れられた。
 「……………」
 次第に踏みしめられた獣道だけを見て歩くと不安が和らぐことが分かり、遂には葵はずっと下だけを見て歩くようになった。
 一応街に住んでいる葵には聞いたこともない鳥の声にいちいち驚きながら見たこともない下草をガサガサと踏み分けていると、突然それは葵も知っている音が辺りに響いた。
 わん!
 ―犬だ!
 木々に囲まれた空間では音は不規則に反響するので距離感はあまりアテには出来ないが、しかし音の大きさからしても、それはそれほど遠くから聞こえてきた風ではなかった。
 それに今の鳴き声は甲高い感じだった。少なくとも大型犬の声ではない。
 わん!
 また聞こえた。話によるとそこには柴の雑種がいるらしいので、野犬の類(たぐ)いなければつまり今の鳴き声がそうだと言うことになるのだろう。
 途端に葵の足取りが軽くなった。もし今のが本当に飼い犬の声だとすれば、自分はやはり間違っていなかったのだ。これで新聞に載らなくて済むのだ!
 と、突然視界がぱあっと明るくなった。競い合うように枝を広げ日光を遮っていた木々がぽっかりと途切れたせいだった。
 そして葵の目の前に夏の日射しの降り注ぐ展けた空間が現れる。そんなに広くは見えないが、高い木に囲まれているのでそう見えるだけかも知れなかった。そして空間の向こうには木造の母屋らしき建物も見える。
 たたっ、たたっ、たたっ、とどこからか足音がした。音のする方を見ていると、やがてはっ、はっ、と舌を出して小柄な犬が駆け寄ってきた。
 「かわいー!」
 思わず声を上げる葵。黒柴だー。いや、こう言う毛先だけが黒い感じのは「虎柴」とか言うんだったような気もする…。
 しかし犬はそんな疑問など気に止める様子もなくちぎれそうなくらいに尻尾を振って葵の足にまとわり付くと、よほど遊んで欲しいのか盛んに鳴きながらジャンプして葵の靴下をずり下げた。葵がしゃがんで手を出すとすぐにその手にじゃれつき始める。
 「ただすけー、何を見つけ…」
 「あ」
 ちっこいおじいさんと目があった。「お?」とおじいさんが少し怪訝そうな顔をする。
 「あ、あの…」
 思わず葵は立ち上がった。犬はまだ遊んで欲しそうにしている。
 …この人が「その人」なのだろうか? 確かに聞いていた通り背は低かったが、聞いていたように100歳には到底見えなかった。若い。自分の祖父くらいの歳にしか見えない。
 それに葵の抱いていた「俗世を捨てて暮らして」いるイメージとは一見して程遠い。
 Tシャツの上に半袖のイチローのユニフォームを羽織り、七分丈のカーゴパンツにナイキのスポーツサンダルを履いている。―それは間違いなくその辺のゲームセンターにいる高校生の服装だ。その上ご丁寧に首から携帯電話まで提げている。それも先週新しく出た機種を。
 「ああ、あんたが葵ちゃんか? 坊から聞いてる。―まぁおいで」
 そしておじいさんはそれだけを言うとくるりと葵に背を向けた。
 (あ…)
 その瞬間、葵はこの人が「その人」なのだとそうはっきり確信した。
 束ねた白髪が腰まで伸びて揺れていた。白いフェレットのようなその―たてがみが。
 一瞬立ち止まった葵に気付きもせず、老人は母屋の方へとすたすたと歩いていった。急いで葵も着いていく。それにしても―背中も曲がっておらず歩幅も広く、どう見ても100歳には見えなかった。あの服のセンスと言い…。
 「……………」
 二人は黙ったまま建物の外周に沿って歩いていた。
 話の流れからすると「坊」ってやっぱり先生のことなんだろうなーとか考えるともなしに考えていると、やがてさっきは母屋に隠れて見えなかったがその陰からもう一つの建物が現れた。板壁に武者窓―それは時代劇で見る「剣術道場」そのままの造りだった。母屋よりもむしろこっちの方が広く作ってあるようにも見える。
 ガーッと木戸が開けられ老人は建物の暗闇へと入って行った。一瞬遅れて葵もそれに続く…と、入り口のところに立派な墨書きの看板が掲げてあるのに気が付いた。
 『鏡心庵』
 ―間違いない。
 この人が「鏡心」。幼い「鷹若丸」を狼に変えた人。「鷹若丸」が絶対に勝てないと言う唯一の相手。大岡川上流の始祖。
 それはつまり―自分の師の師に当たる人だった。

   *   *   *

 ぴかぴかに黒光りする板敷きの立派な道場の割には、中には神棚以外に何もなかった。がらんとしているせいもあるのだろうが、外観から推測したよりも随分と広い印象を受ける。それに夏の高い日は窓から射し込まないので薄暗く、おまけに今まで締め切っていたせいで恐ろしく蒸し暑かった。
 二人は向き合って道場の真ん中に座っていた。
 座るなりすぐにおばあちゃんが冷たい麦茶を持ってきてくれたが、それっきりこの空間には何の変化も訪れなかった。
 老人は胡座(あぐら)をかいてぼんやりと視線を空気に遊ばせながら麦茶をすすっていたが、葵は緊張してただ小さくなって正座していることしか出来なかった。板の間に正座をするのはよく考えたら空手をやっていた時以来かも知れない。
 決して怖そうな人ではなかったのでそれはそれでよかったが、しかしこの沈黙はかなり気まずかった。100歳を相手に何を話していいかなんて分かる訳もない。まさか葵にしても目の前のじーさんがゲーム大好き流行大好きだとは知る由もない。
 「……………」
 「……………」
 次第に葵の目にぐるぐると渦巻きが巻き始めた。もうどうしていいのか分からなくなり、ただオロオロと必死に掴む藁を探し始めた。
 ことん…
 と、コップを床に置いた音がした。そして「先生」がこちらを見る。
 「さて―」
 葵もコップを脇にどけ、まっすぐにその視線を受け止めた。
 「坊からは特に何をしてやってくれとは聞いてへんけど―着替えは持って来てる?」
 「あ、はい。道着と、あとジャージも…」
 「じゃあとりあえず着替え。ジャージでええから」
 それだけを言って立ち上がると、先生は道場の外へ出ていった。―つまりその間に着替えろと言うことなのだろう。
 どうやら何かをしてもらえるらしい。あの先生が「本物のバケモノ」と言う大先生に。それだけでも遭難しかかった甲斐もあったものだ、と葵はその時そう思った。


 持参した自前のジャージとTシャツに着替えた葵は、道場のほぼ中央でユニフォームを脱いでTシャツ姿になった老人と対峙していた。もちろんグローブはしていない。
 「……………」
 構えが少し違う。前に出した左手の位置がやや高く、その手の平も床と垂直になっていた。葵のように下を向いてはいない。
 ―そう言えば先生は「自分の十文字構えは変形だ」と以前言っていた。と言うことは、今自分の目の前にあるこの構えこそが正統の「十文字構え」と言うことになるのだろうか?
 「……………」
 見た目にはその構えは先生ほど完璧で隙がないと言う風でもなかった。まさかそれほどの人がそんなはずはないのだが…。しかしとにもかくにも自分は教えを受ける側なのだ。自分から行かなければ意味がない。
 「行きます!」
 そう思った。そして前足を送り一気に前へ―
 す…と相手の構えを抜け葵は簡単に懐を取るとそのまま左拳を捻り込み―
 ぱし
 (え?)
 突如打ち出そうとした左手を掴まれ、葵は動きを失った。しかしすぐに反応して右膝を蹴り上げる。
 ぺし
 が、それも膝が持ち上がるよりも前に左足で膝頭を押さえられ封じられた。
 (え? え?)
 片手と片足を押さえられて動くに動けない葵。掴まれた手は振り解こうとしても捻られて動かず、膝はどう動かしても相手の足がくっ着いてきた。まるで自分の動きが全て読まれているかのように…。
 やむなく葵は残った右手を力一杯自分の左手を掴んでいる相手の腕に振り下ろした。しかしぱっと手は引かれ空振りする。が、同時に両手は自由を得た。
 (これで―)
 瞬時に引き絞られた葵の左拳が放たれる。正確に相手の烏兎(うと)を捉え―
 (え?)
 いない! 下!?
 と思った時にはもう老人は回転し、葵の足を薙ぎ払っていた。
 倒れる葵。追撃を予測してすぐに顔を上げる。が、老人はもう既に2・3歩も彼方にまで距離を取って悠然と葵を見下ろしていた。
 しかし素早く立ち上がると葵はおもむろに頭を下げた。
 「お願いします!」
 「……………」
 はっきり言って弱かった。全くだめだと思った。少しは動けるし打てるようだったが動きにも力にも無駄の方が多い。
 ぱし、と手を掴み、そのまま振り回してやる。
 ―正中線もぶれるし重心も安定していない。どうやらまともに地面を掴めてないように見える。
 ぱし、と蹴りを止めて逆の足を払い転がしてやる。
 ―横に動く時に腰が上下する。拳を引くのにも真っ直ぐ引けていない。
 「……………」
 ふわっと老人が動いた。渾身の右拳を打つはずの葵の懐に苦もなく入り、そのままただの左手を胸に打ち付けた。
 「うっ!」
 鈍い衝撃。瞬間、葵の体ががくりと落ちた。これが拳や掌だったらもう死んでいるともちろん分かっていた。
 「……………」
 攻撃はことごとく出す前に防がれ、移動は全て動く前に遮られた。
 ―考えもしなかった戦いだった。まさかこれ程まで相手の考えを読める人がいようとは。手も足も出ないとは正にこのことだ。でも―
 (どうせ手も足も出ないならせめて手も足も出ない訳くらいは盗んで帰ってやります!)
 そしてきっと顔を上げ、立ち上がった。決して目を逸らさない。見えるものは全て見てやるのだ。
 「お願いします!」
 「……………」
 自分を睨み付けるその目の光に老人は純粋なものを感じていた。倒れても倒れても納得するまで立ち上がり、教えを請うことを恥と考えず、ただ貪欲に何かを得ようとするその目…。
 (―ふむ、悪くない)
 それが老人の出した結論だった。
 ドォン!
 「ハッ!」
 震脚(しんきゃく)も発気(はっけ)も甘い。しかし―
 するりと老人は葵の右拳を僅かだけかわし、反転しつつ左手をその腕に絡めた。瞬時に肘を極め、同時に深く踏み込んでそのまま一気に背負い投げる。
 「!」
 あっと思った瞬間葵の視界はぐるりと逆転し、そして背中から床に打ち付けられた。
 カウンターで腕を極めての背負い投げ。凄い技だったが片手が空いていたので何とか受け身を取り、ダメージは最小に抑えた―と思った次の瞬間、葵の顔からさあっと血の気が引いた。
 首のすぐ真横に右肘が突き立っていた。もちろん、この肘は本来なら自分の喉に突き立っていたはずのものだと葵は瞬時に理解した。
 ぱらぱらと白い長髪が葵の上に降ってくる。その一本一本がまるで恐怖の象徴であるかのように。
 「……………」
 自分は今殺されるところだったのだ。為す術もなく喉を折り潰されて…。
 恐怖に唇が紫になり歯がカタカタと鳴った。しかし―決して目は逸らさなかった。
 ぱっと老人が葵を解放し、立ち上がった。と、葵の顔に血色が戻ってくる。
 「…まぁ一応受け身は取れんのか。まだまだお話にはならへんけどな」
 見下ろした。少女はまた同じ目をしていた。さっきと同じ目。あの時の、あの子供と同じ目を。
 「…なるほど。女を弟子にした言うさけ何の冗談か思たけど――」
 そしてあの時の子供は強くなった。そう、400年を背負うほどに…。
 「……………」
 「……………」
 何の迷いもなく真っ直ぐに見返してくるその視線を外すと、老人はくるりと葵に背を向けた。
 「着替えたら母屋おいで」
 そしてそう言い残すとさっさと道場を出ていった。その背に「ありがとうございました!」と可愛らしい声が掛けられる。礼儀は教わっているらしかった。
 「ま、宗主がそう判断したんやったらもう何も言うまいよ」
 そううそぶく老人は嬉しそうで、口元に思わず込み上げてくる笑みを隠しきる事が出来なかった。

   *   *   *

 「あの……」
 母屋は夏なので全ての建具が全開になっていて、先生がどこにいるかはすぐに分かった。もっとも台所と居間の二部屋しかないのでどのみちすぐに分かっただろうが。
 居間にいた先生は巨大で薄っぺらなワイドテレビの前に陣取り、何やらゲームに精を出している最中だった。PS2と言いプラズマテレビと言い、100歳の持ち物にしては少々デジタルがすぎる気がしないでもない。
 聞こえなかったのだろうか? 少し待ったが先生は画面に向かったまま背中で葵の声を受け、そして一向に反応してこなかった。仕方なくもう一度声を掛けてみる。
 「あの〜」
 と、今度は「よっ」と言うかけ声と共にどさりと大きな四角い風呂敷包みが葵の前に置かれた。が先生は未だ画面から目を離さず、その包みが何なのかも言わないままだ。
 「弟子を認めたら渡すよう坊に頼まれてた。持って帰り」
 「え?」
 一瞬その言葉の意味が分からなかった。
 それはつまり自分が弟子として認められたと言うことか、或いはただこういう奴だと確認されたと言うことか…。
 ともかく「渡すように頼まれた」物を「持って帰り」と言うことは、少なくともこれは自分に譲渡されたと考えていいのだろう。じゃあとりあえず包みを開いてみる。
 「―あ」
 一瞬、葵はそれの持つ意味の大きさに気付かなかった。手に取り、そして徐々にその「重さ」に手が震え出す。
 『伝神開手大岡秘訣』
 ―物を伝える神様が両手を開いて迎えてくれる。それは飛騨大岡流体術の技術と精神と鍛錬法の全てを記した膨大な知識の体系。何よりも大切な、流派唯一の口伝書だった。
 全部で2・30冊はあろうか? その和綴じの古書の一番上の一冊を手に取り、そしてぱらぱら…とめくってみる。
 「……………」
 どうやら精神のあり方や流派の思想を記した一冊らしく、『怒りは精神を蝕み冷静な判断を狂わせる』の一文がぱっと目に付いた。
 「……………」
 葵はそっと本を閉じそして元の山に戻した。ただただそののけ反るほどの激しい圧力に、その場に踏み留まっているのがやっとだった。気を抜くと重責に逃げ出してしまいそうになる。
 しかし―この中には大岡流の全ての技が記されているのだ、400年間積み重ねられてきた。そしてその習得のための具体的な手段も…。
 これさえあれば自分もあの高みにまで昇ることも可能だと言うことだ。もちろんあの人を倒すための術も見付かるに違いない。
 ぴろりん♪
 不意に電子音がして画面が止まり、そして先生がくるりと葵に向き直った。
 「さて……」
 その顔はにこやかで、まるで子供のように楽しそうだった。
 「…何から始める?」
 ざあっ、と葵の全身に鳥肌が立った。
 遠くで犬がわんと吠えている。