2.たてがみを持つ者

   1

 「はあ…」
 ようやくと言った風に石段を登り切り、何でこんなとこ来たんだろうとまた一つ溜息。
 …ドシン!
 「?」
 ふと、何か鈍く低い音が葵の耳に聞こえてきた。まるで地響きか何かのような。
 怪訝そうな表情で境内の方へ周り、そっと顔を出す。
 「あ!」
 いつも葵の練習しているけやきの木の下に、先客がいた。それも、人の大事なウォーターバッグを勝手に使っているし!
 ズシン…ズシン…
 一回一回大きく足を踏み鳴らし、拳を突き込む。うーんと首を捻ってはまた突き、何かを考えてはまた突く。
 しかし突いているのは紛れもなく葵の大事なウォーターバッグだった。
 (もう! 私のなのに勝手に使って…)
 縁の下に置きっ放しで誰にでも手を出せるとは言え、ちゃんと手入れもしてあって明らかに捨ててある訳ではないのだから、やっぱり勝手に使っちゃいけないと思う。一言言ってやらないと…。
 「―ハッ!」
 ズシン!
 右足を大きく踏み込み、大きく右拳を突き込む。突然大声を出され、葵が一瞬ビクッと背筋を伸ばした。
 (もう!)
 ちょっと頭にきた。と、そこで奇妙なことに気が付いた。
 (アレ…? 揺れてない)
 けやきの太い枝から吊されたウォーターバッグは、どう見ても力を込めた打撃を受けている。にもかかわらず殆ど揺れていない。軋む音もしない。
 物は力を加えればその方向に動く。それは当り前の物理法則だった。しかし、物理法則に支配されているはずのウォーターバッグば現実に揺れていなかった。
 男が構えた。右足を引いて体を半身に、左手を前に出し右拳を顎に引き付ける―中国拳法に似た構えだと思ったが、形意拳を少しかじった程度の葵の乏しい知識ではその確証は持てなかった。
 ズシン!
 右足を力いっぱいに踏み込み、打つ。
 「……………」
 やっぱり揺れない。表面に殆ど拳全体がめり込むほどの打撃なのに、それでもウォーターバッグは揺れなかった。そう言えば、殴る音も殆どしていないような気がする。
 「あの…」
思い切って声を掛けてみた。ウォーターバッグの無断使用を怒る気持ちはもうとうに薄れ、代わりにその不思議な打撃の方に興味が移っていた。
 「はい?」
男が振り向いた。葵の目が思わず丸くなる。
 (うわぁ…長い髪…)
 膝に届こうかと言う長い髪だった。それをきっちりと後ろで束ねている。ポニーテールと言うが、男の髪は本当に馬の尻尾みたいだった。それとも襟首に黒いフェレットがぶら下がっていると言うべきか…。
 「あの…それ、私のなんですけど…」、
 「あ、そう? ごめんごめん。見たらあったから…」
あったら殴ってみたくなるじゃん? と男は笑い、ウォーターバッグを枝から外すべく両腕で抱きかかえた。
 それを慌てて葵が制す。
 「あ、いいんですいいんです。それより―」
 それより葵には訊きたいことがあった。ふと視線を落とすと、土の地面に無数の足型が付いていた。
 「―今の、何ですか?」
 「?」
男が怪謝な顔をする。訊き方が悪かった。自分に落ち着けと言い聞かせ、そしてもう一度。
 「今、ウォーターバッグ打ってるの見ました。でも打ってるのにバッグは全然揺れてませんでした。それは一体…」
 「ああ、打撃を百パーセント打ち込む練習」
 男はさも当然とばかりに即答した。が、葵の頭の上にぽん、と?マークがいくつも浮かぶ。
 「…えー…っとね」
 少し困ったような顔になったが、男は遠くに視線を遊ばせると、言葉を続けた。選んだ言葉を、噛んで含めるように。
 「自分の打撃が百パーセント相手に衡撃として伝わるように、その練習。分かる?」
 「うう〜ん…」
葵が首を三回転くらい捻った。道場で教えてもらったのは突きの形や動作だけで、打撃の性質そのものについてなんて考えたこともないので実感が湧いてこない。
 「そうだなあ…」
男が顎に左手をやった。癖なのだろうか、口元を手で隠すようにしてしばらく考え込む。
 「頭にデッドボールが当たった時の話、知ってる? ボールが頭に当たった時大きく跳ねた方が大丈夫、ってやつ」
 「はい、知ってます!」
 やっと分かる話になって、葵はちょっと嬉しくなった。聞きかじりの記憶を辿り、半ば得意げに言葉を続ける。
 「ボールが弾まない方が衡撃が頭に行ってるから危ないんだって確か」
 「そうそう、要するにそう言う事。極めればのれんを殴って穴開けられるらしいけど、俺じゃまだそこまではね、まあ三回に一回出来たらいい方」
 もちろん、葵にはそれがどれ程の事なのかよく分からない。実感として、レンガを割れるとかの方が凄いように思える。布ののれんに穴を開けられたからってどうなのか…。そして疑間が喉を上がる。
 「―でも、何でそんな?」
 「何でって―」
 男がまた少し困った顔になった。ガリレオの苦労が偲ばれる。
 「―ウチの流派は元々飛騨忍者の技だから、遣い手は代々体小さいって相場が決まってるの、だから小さい体でいかにして効率よく相手を倒すかってなった場合、力をできるだけ無駄にせずに相手に打ち込もう、ってなった訳よ」
 「……………」
 言っていること自体は半分くらいしか分からない。しかし、葵の脳裏に一つのキーワードが引っかかった。
 ―小さい体で効率よく―
 葵にとって体の小ささは最大のコンプレックスだった。
 それは格闘家として致命的だと思うことすらあった。綾香さんのように手足も長くなければ、坂下先輩のように立派な筋肉も付いてくれない。このちまっとした体がおおよそ格闘技に向いていないことは、悲しいかな自分が一番よく知っていた。
 そして、確かにそう言う目の前の男もそう大きい方ではない。
 葵の中を様々な思いが駆け巡る。
 ―あの人に勝ちたい。
 体格でも経験でも実力でも劣っているのは痛いほどに分かっている。それでも、勝ちたい。とすれば必要なものは、不利な条件をもろともしない圧倒的な「技の力」だ。
 技そのものの力で勝つ。それが、葵の出し得る唯一の結論だった。
 「あの…私にも出来ますか?」
 「何? 二段打ち?」
 二段打ちって言うんだ…、と葵が感心した。そのせいか口が半分開いている。
 「うん、もちろん。別に特殊なものじゃないし。毎日毎日何年もやればね」
 「何年…」
 目の前がまた真っ暗になるようだった。そんな、突き一つに何年もは掛かっていられない。―やっぱり体格に劣るものは勝負にも劣ると言うことなのだろうか…。
 「何? 何かやってんの?」
 俯き途方に暮れつつあった葵が、男の言葉に顔を上げた。笑顔を努めたが、多分それは強張ったものになっていたに違いなかった。
 「はい、空手を五年。それで今はエクストリームを」
 エクストリームを名乗ることに僅かなためらいもあったが、しかし今その他に何もやっていないのも事実だった。
 けれども男はそんな葵の心は知らない。
 「空手? 流派は?」
 「本部直轄じゃないので本流ではないんですが、一応剛柔流を」
 「正統派だね。で、あと何て? エクストリーム? 何それ?」
 「はい!」
 急にスイッチがONになったように表情に光が戻った。待ってましたとばかりに葵は説明を始める。
 「エクストリーム。正式にはエクストリーム・ルールを用いた異種格闘技戦です!」
 「…異種戦かぁ。ルールは? アルティメットスタイル?」
 「いえ。グローブとレガースが義務でラウンド制ですんで、どちらかと言うとシューティングに近いです」
 シュート…と眩いたきり、男は黙ってしまった。
 何か気に触るような事を言っただろうかと、葵の方が心配になって来る。
 「じゃあ何でシュートやってないの?」
 一瞬の沈黙。そして葵が笑う。
 「シュートなんてそんなメジャーじゃないですよ。空手みたいにどこにでも道場がある訳じゃないです」
 「そりゃそうだわな」
男も笑った。その姿は全くどこにでもいるような兄ちゃんそのもので、よく考えたら「妙な技」の一つでこの男の事を「強い」と思い込んでしまっている自分は実はとんでもない間違いをしているかも知れないと、葵ははたと気が付いた。
 「あの…」
 「何?」
 男がぱきぱきと指を鳴らした。―その手に拳ダコはない。やはり「見せ技」だけなのか…。
 実際、瓦割りの名人が実は実戦で全然弱いなんて事はよくある話だ。カンフー映画なんかもそんな「見せ技」が大半なのだろう。
 「ここで会ったのも何かの縁です。よろしかったら少し試合でもしてみませんか?」
 男が「何言ってんだ」とばかりに眉を歪めた。
 慌てて葵は言葉を補う。
 「いえ、試合と言ってももちろん正式なものではなく、今ここで少し練習がてら―」
 「いいよ」
 即答だった。古流武術を遣うらしいことを言っていたので、もっと他流試合に拒否反応を示すかと思った葵は少し拍子抜けた。
 「ルールは? グローブあんの?」
 「いえ…」
 声は水に潜るように消え入り、葵は口籠もった。
 葵の月々のお小遣いで買える物などたかだか知れている。だからグローブもレガースも一揃えづつしかない。
 「じゃあどうしよっか。ノーグローブで寸止めにする? 俺あんま寸止め得意じゃないんだけど」
 「あ、それなら―」
 葵が鞄から自分の赤いグローブを取り出した。
 ―それでは困るのだ。実力を知るためにも、ぜひ得意な方法でやってもらわなければ。
 「はい、これ使って下さい。私は寸止めしますから、どうぞ遠慮なく打ち込んで来て下さい」
 そして葵はその場にしやがみ込み、レガースも取り出した。
 「レガースもどうぞ。あ、小さいですか?」
 男は苦労してグローブに、手を押し込んでいた。
 葵の手は人より小さく、男の手は人より大きいようだった。しかし何とかグローブを着け、続けてレガースも受け取る。
 「靴、脱ぐ?」
 「いえ、いいですそのままで」
 そう…と男はレガースに足を通した。これは構造的にサイズは間題ない。
 「で、ルールは?」
 あ、と葵は再び口篭った。よく考えたらこの男がどういう技を遣うのか何も知らなかった。ひょっとしたら寝技系かも知れないし、ひょっとしたら主に武器を使うのかも知れない。
 と、男が悩みに溺れる葵に藁を投げ入れた。
 「いいよいいよ、じゃあ空手ルールで。下土だしグラウンドは汚れちゃうしね」
 「あ、はい。分かりました」
 まるでルールなんてどうでもいいと言う風な男の言葉に戸惑いながらも、葵はそれを了承した。
 「場外はなし、当り前か。で、時間も適当。まぁ気の済むまで。で、勝敗はどっちかが負けを認めるまで―でいい?」、
 「はい、私は構いません」
 「OK」
 と言うことは、どうやら男も打撃系の技らしい。葵にしてもその方がやり易いので助かる。
 男がバムバムと両手のグローブを打ち合わせた。が、やる気がないのか本堂にもたれたまま一向に前に出てこない。
 「あの…」
 ここまで来てまさかやらないのかと葵は訝った。そして考えている事がすぐに表情に出てしまう。
 「そのままやんの? 別に俺はいいけどさ」
 「あ」
 自分の格好を見下ろす葵。―まだ制服のままだった。あまりの間抜けさにぼっと頬が赤くなる。
 「す、すいませんっ、すぐ着替えて来ますっ」
 それだけ言い残すと、葵は鞄を抱えてだだだーっと本堂の裏へと消えて行った。
 男が眉を潜めてその姿を見送る。
 「……どこで着替えるんじゃ、あの子は…?」
 男の口から漏れたのは、実にもっともで実に常識的な疑問だった。

   2


 男の目が点になったまま静止していた。
 「……………」
 口は半ば開き眉を少し顰めて、男は困ったような呆れたような、どうしたものか考えあぐねているかの様子のまま、彫像のように固まっていた。
 「…あの〜」
 葵が恐る恐る声を掛ける。叱られた小犬のように少し小さくなりながら。
 ふと我に帰った男が目をしばたかせ、そしてその口元が苦笑した。
 「それでやんの?」
 「はい。…駄目ですか?」
 「いや…別にいいけどさ」
 男がグローブを着けた手で口元を被った。気を過って隠しているのだろうが、どうしてかその唇からは笑みが漏れていた。
 葵にはその理由が分からなかった。いつものように本堂の裏で体操服に着替えて来ただけだ。違うとすればグローブとレガースを着けていないくらいで…。
 運動するのに一番馴染んだ服装だと言う理由で、葵はいつも学校指定の体操服で練習していた。別にそれを変だと思った事は一度もない。
 けれども、どうやら自分は笑われているらしい。正しくは「ブルマ見てどうしていいのか分からないのでとりあえず笑っとく」と言う男らしい事情だったのだが、もちろん純朴な葵にそんな事にまで考えは及ばなかった。
 男がようやく何かを振り払うかのように軽く頭を振った。ごめんごめんと真顔を取り戻す。そして改めて葵の全身を眺めた。
 「靴はいいの? 別に俺も脱いでもいいけど」
 葵が靴を履いていない事に気付いた男が気を遣って尋ねる。
 「いえ、いいんです。いつも裸足で練習してますから。レガースしてないとちよっと変ですけど」
 そして葵ははにかむように微笑んだ。
 「あそ。まあいいや。じゃ、やろうか」
 もたれ掛かっていた男がようやく半歩出た。葵と正対し、そしてそのまま大きく後ろへ下がる。
間に四・五メートル程の距離が空いた。
 男が右足を後ろに引いた。そしてすっと空気に腰掛けるように自然に重心を落とし、左手を軽く開いて前へ、右手を握って顎先へと引き付ける。
 構えた。
 まるで靄が風に吹き消されるように、男の顔から「表情」と言うものが消えた。人気のない森の湖に独り佇む様な錯覚がした。
 葵は一瞬、その「静寂」そのものに気押されそうになった。気を取り直す。
 「い、行きます!」
 「いつでも―」
 軽く、男が目を閉じた。すぅ、と湖の水面から揺らぎすら消える。
 ―バカにして!
 葵は今までの試合と同様に軽くステップを踏み、体を左右に振った。脇を締め、握った両手を頭を挟むように持ち上げて構える。しかし―男は微動だにしない。
 ―もう、どうなっても知らないですよ!
 葵が先に動いた。前傾し、まっすぐ距離を詰める。
 気配を察し、男が目を開いた。湖面に水滴が落ち、一気に波紋が広がる。
 瞬間、葵の背筋に戦慄が走った。しかし迷わない。むしろ更に加速し、踏み込んだ。
 初撃にして渾身の力で拳を打ち出す。そのガラ空きの左頬へ―。
 ―え?
 男が右足を踏み出して体を開いた。その右手が葵の拳に触れる―。
 風が巻いた。
 「―ぐっ!」
 衝撃が走る。
 次の瞬間、どさっと音を発てて葵の体は横薙ぎに地面に倒れていた。
 何が起こったのか分からなかった。
 ばっと顔を上げると、男は既に二・三歩は下がっていた。―芸術的なまでの。ヒットアンドアウェイ。しかし葵を馬鹿にしているのか、追撃には来ない。
 「―立ちな。まだ終わってない」
 男が無表情のまま冷やかに言い放つ。さっきまでの柔和な表情がまるで見せかけの仮面であったかのようだ。
 男が遂に構えを解いた。ただ立って葵を見下ろしている。
 「う…」
 体中が痛む気がした。速すぎてどこに何発喰ったのかすらもよく分からない。ただ、左のこめかみが石でも当たったかのように酷く痛んだ。首にも何か違和感がある。
 立ち上がる。こめかみから頭の中にわんわんと波が響いて気持ち悪い。
 再び葵が腕を持ち上げ、構えをとった。
 瞬間、男が一直線に殺到して来た。―迅い!
 咄嗟に脇を締め、身を屈めてガードを固める。
 と一瞬、目の前から世界が消えた。
 ―え?
 そして開かれた世界には黒い髪が散っていた。
 ズシン!
 踏みならす音。吹き上がる殺気。
 「!!」
 葵の目がいっぱいに開かれる。しかし遅い!
 目の前にうずくまった男が一気に伸び上がる。右アッパーが打ち出される。拳が風を巻いてゴォッと鳴った。
 ―殺られる!
 ギュツと目をつむり、身を固くして少しでもダメージの軽減を―
 「……………」
 しかし衝撃は葵を襲わなかった。恐る恐る、ゆっくりと目を開く。
 右拳はピタリと葵の寸前で止まっていた。臍の下辺りで、僅かに体操服に触れるか触れないかと言う位置に静止している。
 ―何と言う寸止め! 苦手だなんてとんでもない。あの勢いで完全に拳を止めるなどそれだけで神業に近い。
 ―助かった…と思った瞬間に、葵の全身から力が抜けた。ヘナヘナとその場に崩れ、ぺたんと座り込んでしまう。
 口の中がカラカラに乾いていた。脇の下に嫌な汗が流れているのが分かる。
 「ま、参りました」
 それだけを口にするのがやっとだった。
 男が笑った。その顔に、再び温度が戻って来る。
 そして残心を解くと、葵に右手を差し出した。
 「大丈夫?」
 「あ、すいません」
 葵は好意に甘えてその手を取り、よいしょと立ち上がった。と、まだ膝にも腰にも力が入らず思うようにいかない。
 男が右腕に力を込め、葵を引っ張り上げる。すいません、とようやく葵は立ち上がった。
 「まあ、こんなもん」
 男がグローブを外しながら言った。息も上がっていないし余りにもさらっと言ったので、葵は一瞬本当にこの男と戦ったのかと思い返した。その普通さが、とても戦っている時と同一人物とは思えなかった。
 「今の―」
 逆に葵は息も絶えだえだった。運動量よりも、むしろ恐怖によって心拍数が上がっていた。
 「―何ですか? 一瞬見えなくなカました」
 男はまた本堂の柵にもたれ掛かった。片足を上げ、レガースを脱ぎにかかる。
 「何も何も、左手で目ぇ隠しただけだよ」
 「え? でも…」
 それで一瞬視界が遮られたのは合点が行くとしても、しかし確かに男は目の前から消えたのだ。
 「うん。まあ、それは技術…と言うか知識だね」
 葵の額から汗が流れた。カバンからタオルを取り出して拭い、そのまま首に掛けて男の隣で同じようにもたれ掛かる。
 「人間の目は左右の動きには結構反応できるんだけど、上下の動きには意外と弱いの。だから急にしゃがんだりすると目が追いきれない。はい、これありがと」
 「あ、はい」
 男がグローブとレガースを葵に差し出した。受け取った葵の目は今や初めて外人を見た時のような奇異の色を湛えてる。
 「それは相手との距離が近ければ近いほど有効だし、一瞬相手の視界を遮ってやれば完壁」
 「はあ…」
 そうは言うものの、それは相手の目が追いきれない程素早く助けるから出来ることであって…。
 「うん。まぁでも結構よかったよ、最初の突きは。思い切りもよかったし踏み込みもよかった」
 誉めてくれているのだろう。けれどもその「よかった」突きはよく分からないが返され、そして膝蹴りか何かで葵は吹っ飛ばされたのだ。素直には喜べない。
 「でも次のは駄目。殺到して来る相手を真正面で防御するなんて馬鹿のすることだ。あれはとにかく動かなきゃ。正中線を外すか、あわよくば躱せるように」
 「はぁ…」
 言うのは簡単だと思った。今まで試合には何度も出てきたが、あんなに恐怖を感じたのは初めてだった。「負ける」と思った事はあっても「殺される」と咄嗟に思った事なんかない。ただでさえ緊張するタチなのに、足も疎もうものだ。
 「あのまま俺が打ってたら多分死んでたよ。えー…っと…」
 男が葵に向いたまま口籠もった。一瞬考え、葵ははたと気付く。
 「葵です。松原葵」
 そして微笑んだ。
 男が眉をぴくりと上げる。
 「葵ちゃん? それはまたタイムリーな…」
 率直な感想なのだろうが、大河ドラマの事は四月から会う人会う人に言われ続けて少々げんなりだった。だから無視することにした。
 「えと。じゃあ葵ちゃん、あれ見てみ」
 男の方も別にそれを気にした風でなく、顎で地面を指し示した。見ると、そこにはウォーターバッグの前に付いているものよりも明らかにはっきりと刻まれた足跡があった。
 「………」
 葵はきょとんとして小首を傾げた。「死んでた」と足跡とがすぐには結び付かない。
 「―あ」
 十分すぎる程たっぷりと沈黙した後、ようやく葵の頭の中で回路がつながった。ぽん、と頭の上の電球が灯ったような顔になる。
 そしてさーっ、と血の気が引いた。じわじわと足元から恐怖が這い上がってきて、再び心拍数が上がっていく。
 ウォーターバッグを打ったあの突きでさえあの足跡なのだ、それよりもはるかに強く踏み込んだ証拠であるこの足跡から察するに、当然あれ以上の打撃がその拳に込められていた事になる。
 ―人間の体は七割が水だと聞いた事がある。
 ウォーターバッグを突き抜けたあの打撃がもし自分の体に叩き込まれていたとしたら…。
 葵の脳裏に血を吐いてうずくまる自分の死体が思い浮かんだ。
 震える。生きている事を確かめるかのように、その平らな胸に手を当てた。
 「飛騨大岡流〈通天破〉。普通は顎先とかを狙う技なんだけど、さっきは〈明星〉を狙ってみた」
 「みょうじょう?」
 場連いな単語だった。思わず、恐い想像にはまっていた葵が我に帰って聞き返す。「明けの明星」とかは聞くけれども、どう考えてもそれとは違いそうだ。
 「ああ、うん。明星。急所の名前。胆田の事」
 「?」
 胆田、は聞いた事はあったが、もちろんよくは知らない。
 「あ、胆田って言うのは、うーんと、お臍のちょっと下のこの辺の事」
男は自分の下腹辺りを手で押さえて言った。
 「一応〈気〉を生み出す器官って言われてるけど、もちろんそんなもんは入ってないわな。でも何でか急所だね」
 葵も押さえてみた。膀胱とか子宮とかその辺なのだろうか? でも子宮だと女だけになるか…。
 「まあ、どの道あんまり関係ないんだけどね」
 「え?」
 「さっきも言ったけど、衝撃が突き抜けるように打ったから、当ててればダメージは内臓よりも、むしろ脊椎。いや腰椎かな」
 そして男は笑った。
 腰椎…。
 笑い事ではない。
 葵の体の芯を嫌な悪寒が駆け抜ける。
 本能的な恐怖に全身が粟立ち、葵はその両腕で細かく震える自分を抱いた。
 ―つまり、実は今の一撃で自分は半身不随くらいには簡単になっていたのだ。
 そう、それは何気もないような一撃。しかし、それは底知れぬ実力を示す―。
 (―この人は…!)
 不意に葵の心の暗闇に坂下先輩の後ろ姿が浮かび、そして消えた。
 ―この人は自分の全く知らない系態の技を持っている。
 もし自分がそれを身に付けることが出来るとすれば、空手で及ばない坂下先輩とも、エクストリームで及ばない綾香さんとも、ひょっとしたら肩を並べるくらいはできるかも知れない。
 どのみち同じ事をしていたのでは一生かかっても追い付くことはできないのだ。あの努力の人にも、天稟の人にも!
 「あの…」
 葵が男の正面に歩み出た。もう心は決まっていた。何気なく地面に目をやっていた男が顔を上げる。
 「ん?」
 「あの…」
 一瞬の沈黙。そして突然、葵はばっと九十度腰を折った。
 「私にその技を教えて下さいっ!」
 「だめー」
 「え?」
 即答だった。
 思わず顔を上げる葵。男と目が合う。そして感情が噴き出した。
 「ど、どうしてですか!? 私に素質がないからですか!?」
 その激しい口調に男が少したじろぐ。
 「そうじゃないけど、そう簡単に教えられるもんじゃないのよ」
 「頑張ります! 私、何でもしますからっ!」
 「いや、そうじゃなくて…」
 両手を胸の前で「お願い!」と組んで下から迫る葵に、男は柵をずり上がらんばかりだ。
 そして沈黙。まるで時間が止まったかのように二人は動かない。
 やがて葵は両手を降ろし、俯いた。肩を落とし、力なくうなだれる。
 「私―」
 熱は冷め、ただ冷たい風だけが葵の心を吹き抜けていく…。
 「私、今日ある人と試合をして負けました。ちっちゃな頃からそれはかわいがってもらった空手の先輩でとても強い人です―」
 目の奥が熱くなってきた。けれど今泣いたら泣き落としみたいで情けないと自分に言い聞かせ、必死に我慢する。
 「私、その人を裏切ったんです。あんなによくしてもらっていたのに…私は空手を辞めてエクストリームヘ移りました。でもそれは―」
 瞼の裏に涙が膨らんだ。鼻の奥の方がツンと痛くなってくる。
 顔を上げた。男は厳しい顔に戻っていた。そして―堰は切れた。
 「でもそれは私なりの考えがあっての事ででも私頭悪いからそう言う事上手く言えなくて、だったら態度で示さなきゃいけないのにせっかく試合してもらったのに試合させてもらえなくて結局何も出来なくて私―」
 葵の目から涙がボロボロと零れていた。しかし眉はきっと上がり、赤く腫れたその目には強い意志が浮かんでいた。
 「勝ちたい。勝って坂下先輩に私の気持ちを伝えたいんです。だから―」
 葵が一歩下がった。地面に両膝を着き両手を着き、そして額を着けた。
 「お願いします!私に技を教えて下さい」
 「……………」
 再び沈黙。
 そのぎゅっと瞑った目にはもう涙はなく、ただ悲壮なまでの決意だけがあった。もう自分にはこれしかないのだと知っている者だけの持つ迷いのない光が、そこにはあった。
 長い時間そうしていた気がする。
 何滴か落ちた涙が蒸発し、土の香ばしいような匂いを葵の鼻に運んで来た。
 「―悪い。そう言う事じゃないんだわ」
 男が長い沈黙を破り、ようやく口を開いた。
 え? と葵は顔を上げ、男を見た。―男は少し困ったような顔で葵を見下ろしている。
 「流派の決まりでね、女と左利きの者には技を教えられない」
 「ええっ!? そんな…!」
 葵が膝立った。
 頭が真っ白になる思いだった。その鈍器の一撃に、葵の心が砕け崩れていく…。
 呆然とする葵。地面に着いた膝から急に冷たさが体に侵入して来る。再び目の前が滲む。
 「そんな…」
 がっくりと崩折れ、畳んだ自分の脚の上にぺたんとお尻が落ちた。希望の光は遠く彼方へ―
 しかし今諦めたら今までの自分と同じだと思った。何も出来ない、ただ二人の先輩の大きな陰に隠れているだけの非力な自分と…。
 顔を上げた。まっすぐに目を見る。
 「私―強くなりたいんです」
 「……………」
 その眼差しには迷いも惑いもなく、ただ純粋な尊敬や憧れが星座のように瞬いていた。
 ―武術家は皆、その人より強くなることでしかその人に恩を返すことはできない。
 男もそうして多くの人に恩を返してきた。
 ―強くなりたい。
 だからこそその一言に込められた幾多の思いも理解していた。しかし―
 「―何と言われても教えることは出来ない、四百年続いた歴史と伝統を自分の代で変える度胸は俺にはないよ」
 「そう…ですか」
 本当はもう心のどこかで諦めも着いていたのだろう。葵はその言葉に意外な程ショツクを受けていない自分が意外だった。
 「ただ―」
 しかし男の言葉はそれで終わらなかった。目に、微かな優しい笑みが浮かぶ。
 「練習にはつき合ってあげてもいい。戦い方のアドバイスくらいは別にしてあげられるし、例えば練習している中で俺の技を盗んでもそれはそっちの勝手だ」
 思いもかけない言葉に葵の目がまん丸になる。
 「え? それじゃ…」
 男が笑った。今度は普通に、少しはにかむように。そして頷いた。
 「強くしてやる。先輩と言わず、世界中の誰よりも」
 葵の顔にぱっと花が咲いた。手をまた胸の前で組み、膝立つ。
 「はい! ありがとうございます!」
 「いいからさっさと立ちな」
 男が苦笑した。あっと声を上げ、少し照れながら慌てて葵は立ち上がった。少し脚が痒れて痛かったが、それも今は心地よい刺激にすら感じられた。
 「そっかあ、今日もう一試合してたんだー」
 感心したように言って、男が伸びをした。
 「じゃあ今日はもう帰って休むこと。これが最初の練習。いい?」
 「はい!」
 それは光の差すような会心の笑顔だった。
 「じゃ今日はおしまい。と言うことで解散」
 「はい」
 元気に返事した葵が鞄を持ち上げたその時、ふと大事なことに気が付いた。
 「あのー」
 ウォーターバッグを枝から外そうとしていた男が、葵の声に振り返る。
 「何?」
 「あの…お名前、聞かせて下さい」
 「ああ」
 男はすっかり忘れてたとばかりに手を打った。
 そして何事か考える。
 「―拳名でいいよね」
 「けんめー?」
 「うん、拳士としての名前。よくあるでしょ?お相撲さんとかみんなそうじゃん」
 リングネームみたいなもんか、と葵はぼんやりと納得した。本名の方がいいと思ったが、まあそのうち教えてもらえるだろう。
 「鷹若丸」
 「え?」
 男の口から出た名前はちょっと意外で、思わずきょとんとしてしまった。
 「うん。飛騨大岡流体術二十一代宋主、五世鷹若丸」
 正式な名乗りを上げ、そして男は「鷹若ったら開祖の名前よ!?」と笑ってみせた。もちろん葵にはよく分からなかったが、とりあえずそれが流派の名前でそれが本人の名前なのだと何となく理解した。感想は「呼びにくい」。
 「あの…先生って呼んでいいですか?」
 「先生? はあ、別にいいけど」
 教えないとは言うものの、結局ものを教えてもらうんだから、やっぱり先生だろう。ひょっとしたら「師匠」とかの方が嬉しいのかも知れないが。
 不意に、境内に風が吹いた。
 木々が騒めき、下草が揺れた。
 男の黒い髪が風を受けて靡く。
さっきまで馬の尻尾だったその髪が扇のように広がり、そして元に戻った。
 はたと気付き、ウォーターバッグを外した男に慌てて葵は駆け寄った。よいしよっと四十キロを二人で運ぶ。
 目の前には男が、馬の尻尾ではなく狼のたてがみを持つ男が、せっせと汗をかいている。

        3

 じゅーはち、じゅー…く、にー…じゅ!
 「はあ!」
 勢いよく息を吐き出して葵がひっくり返った。
 木々の間から垣間見える空はとても碧くどこまでも高く、もうすっかり秋の気配を感じさせた。
 まだ一度もこの神社の秋を経験していなかったが、きっともうすぐここの木々も赤や黄に美しく色付くに違いないだろう。
 よいしょと体を返して腹這いになり、両手を突っ張って再び腕立て伏せの体勢になった。先生が来るまでの準備運動として自分に課した「腕立て二十回五本」のうち、既に三本が終わっている。次が四本目だ。
 と、石段を大股に二段づつくらい飛ばして男が姿を現した。当り前だが相変わらず髪が長い。
 五本出来なかったなーと思いながら葵は立ち上がり、両手の土を落とし服に付いた土も軽く払った。
 「こんにちは!」
 まだ離れていたが、近付いて来る男に葵は元気よく声を掛けて深々と頭を下げた。男は軽く手を挙げてそれに応える。
 「来て下さってありがとうございます」
 「うん、まあね」、
 初デートじゃないんだから…と男は思ったが、言わなかった。とは言え実際のところ葵にとっては初デートも同然の気持ちで、今日一日学校でもソワソワしっ放しで友達にもそう指摘されたほどだった。
 「で―」
 男が黙る。葵の全身を上から下へと眺める。
 「―昨日は特別だと思ってたけど、そのカッコはデフォルトなの?」
 「え?」
 意外なことを言われた気がする。葵はいつも通りの格好をしているつもりだ。
 「デフォルトと言うか、まあいつもこの体操服ですけど…」
 沈黙。そして男が言葉をつなぐ。
 「葵ちゃんさあ、試合の時は何着んの?」
 「え? これですけど」
 「……………」
 何か駄目なのだろうか?男はそう言った切りまた黙ってしまった。
 「あそ。エクストリームって着る物はどうでもいいの?」
 「はい。防具を付けないのであれば、基本的に着衣に関する規定はありません」
 「ふん。で、それは目立とうと言う意味で?」
 「え?」
 質問の意味が少し分からなかった。素頓狂な声を出してしまう。
 「いえ、別に。これが一番動き易いと思って…駄目ですか?」
 「いや、駄目じやないけど…」
 恥ずかしくないなら、とか男のファン多いでしょ、とかそう言う言葉を男は飲み込んだ。ブルセラビデオのキャットファイトみたいだとも思ったが、もちろんそれも黙っていた。
 「―試合もそれで出てるんなら、それはそれでまあ利点はある」
 半笑いの口元を引き締め、一転男は真面目な面持ちで切り出した。
 動きやすい事以外に利点なんか考えた事も感じた事もない葵は、その言葉に興味深く耳を傾ける。
 「まず袖も襟も付いてないこと、だからそこ掴まれて投げられることも引き倒されることもない。生地もストレッチ素材だから無理に奥襟とか掴んでも伸びるだけだしね。その点は道着よりいい」
 考えた事もなかった。体操服にそんな利点があったとは。しかし大方のエクストリームの選手は道着ではないので、余り自分だけが有利と言うこともない。
 「あと、腕立てはやめといた方がいい」
 えっと葵が声を上げて男を見る。
 「腕太くなっちゃうよ。女の子なのに」
 何を言い出すのかと思った。腕立ては何にせよ基本の運動だと思ってるし、綾香さんも坂下先輩もいつもやっている。それに自分に必要なのはその太い腕だと、自分が一番よく知っている。
 「でも、坂下先輩なんていつもグーで…」
 「女の手じゃなくなるぞ」
 男は鼻で笑った。確かにグローブ着用が義務のエクストリームで拳そのものを鍛える意味はないのかも知れないが、それにしても鼻で笑うことはないと思う。
 「でもっ!」
 ちょっとムキになっていた。人の努力を笑うのはよくない。
 「少しでも力付けないといけないんじゃないですかっ!?」
 「無意味だよ」
男の顔から表情が消えた。一瞬で拳法家の顔になる。
 「いや、全く無味意とは言わんが、あんまり意味はないよ」
 相変わらずこの人の言うことは分かりにくい。今までの葵の持っている武術概念とは根本的に違うらしいので、いちいち大変だ。
 「基本的には力なんていらんのよ。必要なのはパワーより精度。小さな力でも急所を打てばどのみちそれで終わりだ」
 この先生は基本的に理届っぽい。葵は知らず難しい顔をしてしまう。
 「暴走する車を止めるのに何も車ごと破壊する必要はないわけ。弱いタイヤを狙えば事は足りる。分かる?」
 やっと納得顔になった。何だか初めて分かりやすい説明だった気がする。でも、やっぱり筋力があるにこした事はないように思う。
 「筋肉付けても別にいいんだけどね。付けすぎると重くなるよ。動き悪くなる。あと、関節の可動範囲が狭くなるからあんまりね」
 オススメは出来ない、と男は言った。そして続ける。
 「それに―」
眉を顰(ひそ)め、それはまるで誰かに苦言でも呈するかのように…。
 「いいんだけど、筋肉で強くなったら衰えるの早いよ。強さに限界もあるしね。強い八十歳のボクサーはいないけど、強い八十歳の拳法家はいっぱいいる」
 「……………」
 確かに言われてみればその通りだ。ボクサーは年齢に限界があるけど、中国拳法の「老師」とかはみんなおじいちゃんだ。
 そして男は笑い「俺の師匠なんて九十七だぞ」と付け加えた。「それでも俺よりはるかに強い」とも。
 いつの間にかぽかーっと開いていた口に気付き、葵は慌てて顔を引き締めた。
 ―要するに、先生は今の「パワー至上主義」が嫌いらしい。それは日本人らしい美意識だと思うし、「小よく大を制す」は自分の理想としているところでもある。葵はとりあえずトレーニングジムに通っていることは黙っていようと思った。
 「それにパワーは身に付けるもんじゃない。身に付けようとするから人一人が使えるパワーなんてたかが知れてるんだ。打撃力はイコール筋力じゃない。そこがまず間違ってる」
 「???」
 せっかく引き締めた葵の表情がまた崩れ、その首にまた捻りが加わった。
 男が眉を疎める。
 「ごめん、分かりにくいね。まあ追々分かってくると思う」
 それだけ言うと、さて…と男は上着を脱いで本堂の柵に掛けた。上着の下は半袖のTシャツで、あれだけ演説をぶった割には自分は随分と太い腕をしていた。ずるい話だ。
 「昨日ので思った事はいくつかあるんだけど、まあ一つづつ。ね」
 そして男が手招きした。葵は小さく返事をして足早に男の横に立つ。
 「まず構えからね。力を作るためにはとりあえず地面にしっかり両足踏ん張らないといといけない」
 男は足を肩帽より少し広く開き、腰を落とした。すとんと言う感じにきれいに垂直に落ちる。
 「こう、しっかりと蹠頭(せきとう)に重心を乗せて、あと足の指でぎゅっと地面を掴む感じで」
 「せきとー?」
 「ああ、蹠頭は足の裏の親指の付け根のとこ。蹴りの時なんかも基本的にはここに重心を集める。やってみて」
 「はい」
 そして葵も見様見真似でやってみた。途端に曲げた膝の上辺りがぴりぴりと張り、辛くなってくる。
 「あ、上手いじゃん。姿勢いいよ」
 いいらしい。しかし葵にとってはとても辛い体勢だった。噂に聞く「空気イス」とか言うしごきに似ていると思った。ちょっとまだ「足の指」にまでは気が回りそうにない。
 「……………」
 一分もしない内に膝が震えてきた。震えは徐々に大きくなり、やがて貧乏揺すりのようにガクガクと全身が揺れる程になる。
 「あ、いいよ。やめて」
 その姿勢のまま、男は平然と笑った。その言葉を待っていたかのように言葉と同時に葵は膝を伸ばし、はぁぁーっと大きく息を吐き出した。ほんの一分足らずの事なのに、まだ膝は笑っていた。恐らく今まで使い慣れていない筋肉を酷使したせいだろう。先が思いやられる。
 「まあ、そんな感じ。今は辛いと思うけど、それを我慢して一週間続けたらちゃんとそれ用の筋肉が付いてきて楽になるよ。で、それが構えの基本姿勢ね。で、俺がいつもやってる一番実戦的な構えがこう―」
 先生は今度は右足を後ろに引いて前後に肩幅ほど足を開き、腰を落とした。下半身だけだが、これは葵が何度か見た構えだった。真似てやってみる。
 「―うん、そうそう。上手。背筋伸びてていい」
 相変わらず不自然で辛い姿勢だったが、それでもさっきよりは多少楽な体勢のように思えた。それでも三十秒もするとやっぱり辛い。
 「〜〜うぅ」
 どさっ
 ずいぶん頑張ったが、葵は呻き声を上げ、いよいよしりもちを着いてしまった。男は一通り笑い、葵は照れながら少しぷくっと膨れて立ち上がる。
 「よく武術は腰が大事って言うけど、あれウソ。いや腰も大事だけど、本当に大事なのは膝ね。膝の力。俺は膝に力があるかどうかが地力の有無だと思ってる」
 そして男は葵に居合の達人が普段上半身を鍛えていないと言う話をした。極限まで下半身を鍛錬することでマッハ7とか8とかの剣を遣うのだ、と。
 意外だった。葵の頭の中では突き=腕力=腕立てorバーベルと言う図式が確立されていた。それが当り前だと思っていた。居合の達人なんて絶対に丸太のような腕をしているものだと…。
 「実感ない顔してんな」
 先生が笑った。どうも自分は考えていることが顔に出てしまうようだ。
 「まあしょうがないか。でもね、実際ウチの流派では足を地面に叩き付けたり擦り付けたりして力を作るの。剣道とか見てると打つ時にどーんって足踏みならすじゃん? あれよ」
 「あ、それ分かります」
 葵も剣道部の練習は何度か学校で見た事がある。確かに足を踏み鳴らしていたし、何より目の前の男は地面に足跡を刻みながら打撃を放つ。
 「そんで足の裏から力が拳へ伝わって行くのを意識してみて。足、膝、腰、胸、肩、肘、拳って次々に連続して動く感じ。こう―」
 言うなり男が動いた。全てを見落とさぬよう葵はそれを凝視する。
 腰の位置はキープしたまま、すっと右膝が前へ出る―
 「はっ!」
 ズシン!
 腰が捻れ、続けてその捻れを一気に解放する。そして胸、肩、肘と次々に回転し、拳が打ち出された。
 バオッ! と空気を巻き込むもの凄い音がして、そして男はまたもや残心のままぴたりと静止した。
 葵が真剣な眼義しのまま固まっていた。獲得した情報を必死に頭の中で分析する。
 …全身が螺旋状に捻れたように見えた。回し蹴りの様な要領でいいのだろうか?
 「―分かる? 軸足でしっかり地面を掴んで体の軸を安定させて、そんでわざわざ音を出すように思いっ切り足を踏み出す。ほいやってみな」
 (やってみなって…)
 葵は戸惑いの目を男に向けた。が、男はにこにこして葵を見ているだけだった。こういう有無を言わせないのが一番「鬼コーチ」だと思う。
 大体そんな簡単に言ってくれるが、自分はまだ何も教わってないのだ。出来たら苦労はない。しかし何だか期待でいっぱいの目で見られているのでやらない訳にもいかない。ハラを決めて下半身を教わった通りに、上半身はまだ何も聞いていないので仕方なく空手で構えて、そして言われた通りに足を踏み出した。
 力の流れを意識して―
 ―わざわざ足を踏み鳴らす!
 ズシン!
 と、位置をキープした腰が自然に捻れ、その反動で勝手に腰が元に戻ろうとする。
 体(たい)が乱れそうになる、必死で地面を掴み、動きを制御する。
 ―腰、胸、肩、肘!
 ゴオ!
 風が鳴り、そして葵は残心の構えのまま静止している。
 ―あれ?
 おかしい、と思った。奇妙な感覚だった。こんなにも自分の力を実感したのは初めてだった。自分にはこんなに力はないはずだった。
 「……………」
 体がバラバラになりそうなくらいに力が全身を突き抜けた。自分の拳が初めて風を切った。それほどに、力強かった。
 呆然とする葵。やがて男の声が耳に届く。
 「いいねえ。やっぱ空手の人は腰の捻りがいいわ。拳の捻りもいいし」
 凄い。一体今まで自分は何をしてきたのかと思えるくらいに。
 このパワー。この打撃力。
 葵は一瞬にして「力を作る」と言うことの意味を悟った。なるほど、これなら必要なのは腕力ではなく体を安定させるための下半身だ。
 「じゃ、今日はこれでおしまい」
 「えっ?」
 自分の会心の打撃に半ば陶酔していた葵が、その言葉にふと我に帰った。
 「おしまい?」
 「そう、おしまい」
 聞き違えたかと思って確認してみたが、あっさり「応」と答えは返ってきた。せっかく面白くなってきたのになぜ…。
 「いきなりハードな事しても効果あがんないよ。でも言った事は納得できたでしょ?」
 またもや葵の表情から読み取ったのか、男は宥めるように言った。
 確かに納得はした。憮然とする葵は、口を尖らせて「はい」としかしちゃんと答えた。
 「じゃあそれでいい。今日はとりあえず力の流れを実感できればそれでいい。今日のテーマはそれだし。それに体力作りじゃないんだから汗だくになる必要はないよ。不満?」
 「あ、いえ…」
葵が慌てて顔に書かれた「不満です」の文字を消した。こんな事では強くなるのに一体何年かかるのかと思ったのだ。分からないように小さく溜息をつく。
 「あと、絶対に家でこの練習はしないこと。これ約束」
 「え? なんでですか?」
 もちろんするつもりだった。何もかも見透かされているようで何だか面白くない。
 「一つは誰にも見られたくないと言うこと。技は流派の宝物だからね。あと、元々自分の持てる以上の力を使う技術だからね。体に掛かる負担は相当大きい。無闇にやると膝やっちゃうぞ」
 「はあ…」
 「約束できる?」
 「はい、それは…」
 まあ、仮にも先生がそう言うのならそれはそうするが…。
 「あの、先生」
 「はい?」
 上着を取りに行った男が葵の声に振り返る。
 「あの…じゃあ家で一人で出来るトレーニングって何かないですか?」
 「トレーニング? したいの?」
 はい、と葵がはっきりとした意志で返事をした。
 坂下先輩は当然家でも練習している。いや、あの人の場合「学校でも」と言うべきか。どちらにせよ、そこに追い付くためには自分も少しでも何か練習していなくては気が気でない。
 「ふむ。じゃあさっきの〈鞍上歩〉を気の済むまでやってちようだい。これはいくらやっても損はないから」
 「あんじょうほ?」
 葵が目を丸くする。本当に質間の多い一日だ。
 「ああ、さっきの中腰のやつ。いくつかある構えのための基本姿勢。何にせよ膝の力はいるし」
 葵は一瞬天を仰いだ。あの「しごき」をやれ、と。何だかすぐに気が済んでしまいそうだ。
 ふと気付く。
 「あの…上半身は全然何もしなくていいんですか? バーベルとか」
 「いらんいらん」
 即答だった。よほど筋トレが嫌いなのだろうか?
 「バーベル上げて付く筋肉はバーベル上げることしかできないよ。ナチュラルな力にはならない」
 「でも―」
 でも、そう言う自分は太い腕をしている。そんなんじゃあ説得力のないこと甚だしい。
 ん…と少し男が考え込んだ。
 「まあ、握力は鍛えるべきかな。硬い拳は強い拳だと思うし。ちなみに昔俺は毎日雑誌一冊破ってた。ジャンプとかマガジンとか、週刊のやつ。それだけ」
 そして笑った。「大変だぞ、あれ破るのは」と。
 「……………」
 葵はいよいよ黙ってしまった。本当にこの人は真面目にやってくれているのだろうか?そんなことで、本当に強くなれるのだろうか…?
 「いいの、黙って言われた事してれば。それとも『何でもします』って言ったのは嘘?」
 「いえ、それは…」
 俯く。―嘘じゃない。嘘じゃないけれど、何か確証のようなものが欲しかった。あ、だめだ。目の奥が熱くなってきた。泣きそう…。
 「―大丈夫だよ」
 優しい声。
 「俺はこれに関しては嘘はつかない。でも地味なことの反復、結局それ以外に強くなる方法はないんだ」
 葵の肩に手が置かれた。大きな手。しっかりとした重量感。
 「それより一番恐いのは怪我だ。勝手に勝手な練習されて怪我されたらたまらない」
 葵が顔を上げた。男と目が合う。確かな言葉に、涙はすっと引いていた。
 と、男が眉を歪め、首を傾げた。
 「いや、強くはならないか、」
 「ええっ!?」
 思わず噴き出してしまった。そんなオチはなしだと思った。
 「いや、最後まで聞いて。どうやってもそんな短期間で強くなるのはやっぱり無理なんだよ。でも、約束通り先輩には勝たせてあげる。来月、再戦だ」
 「ええっ!!」
 たったの一月であの坂下先輩に…!? そんなこと―
 「そんなこと無理に決ってるって思ったでしょ、今—」
 男が笑う。また読まれた。よほど分かりやすい顔をしているのだろうか?
 「大丈夫だよ。何も難しい技を覚える訳じゃない。聞いてると、その坂下先輩って純空手のひとでしょ?」
 はい、と葵は答えた。頷いて、男は続ける。
 「うん、なら大丈夫、ストイックな武道家はそれ故に弱点がある。少なくともそれに勝てる戦い方は教えであげられる。でも、それは〈勝ち方〉であって〈強さ〉とは違うでしょ? 本当に強くなるかはその後の自分次第」
 空手に勝つ戦い方…。要するにあの時自分の考えていた「タックルからのサブミッション」みたいな事なのだろう。それを打撃で…? いや、打撃とは言ってないか。それにしてもそれが本当だとすれば…。
 「一月。一月だけ変わった練習してみない? 実際どの程度出来るかは俺にも分かんないけど、でも、それで勝てればめっけもんって事で。
 勝負は時の運だ。例え勝てなくても、それは必ず自分のコヤシにはなると思うし」
 そして、ね、と男は笑った。
 その目には自信の色が満ち、それは底知れぬ深さを湛える…。
 ―この人について行こう。
 それは、葵にそんな風に思わせる魔法の光だった。長い伝統に裏打ちされた確かな力―
 「ああっ!思い出した!」
 突然、ぱんっと男が手を打った。葵はびっくりして思わず背筋をしゃん、と伸ばしてしまう。
 「なな何ですか?」
 「そう言えば―」
 男が葵を見た。大袈裟にしまったと言うような表情をして。
 「―腕立て伏せって胸にいいって聞いた事がある。大きさにも形にも」
 「……………」
 見透かされてる様な気がして、すかさず腕を組むようにして葵は両手で胸を隠した。
 突然何を言い出すのか…。
 やはりこのヒトは計り知れない。

        4

 結局、今日の練習はそれでお開きとなった。
 精神的に充実していたからか気が付かなかったが、大した運動もしていないのに葵の体は疲労コンパイだった。先生の言うように「練習=運動」ではないのだと今では葵にも実感できる。
 そして先生の遣う技が極端に瞬発力に特化していると言うことも…。瞬間瞬間に凄い動きをするからこそ動きにメリハリが出て相手に読まれにくいのだと言うことも、先生との試合から葵はぼんやりと学んでいた。
 自分でも凄い進歩だと思う。
 ひたすらがむしゃらにウェイト・トレだとかバッグ打ちだとかを続けて強くなると言う今までの考え方とは根本的に違う、理論とイメージによって今持っているものを変質させると言う先生の練習法はとても合理的で、いちいち頭で納得して練習できるから効率も高いように思う。まさにIDの勝利だった。とは言えまだ二日しかたっていないのだが…。
 このまま三十日もこの方法で練習を続けたら、確かに強くなるだろう。もしかしたら、もしかするやも知れない。
 葵は既に、この自分の「師匠」に全幅の信頼を寄せている。
 「―お待たせしました」
 先にさっさと帰ってしまおうとする先生を捕まえて「ちょっと待ってて下さい」と告げ、自分は大急ぎで本堂の裏へ回って「必殺早着替え」を使用。あっと言う間に体操服から制服に着替え終えてまた、戻ってきた。その間約二分。歴代二位の記録だった。
 そして二人で並んで石段を降りる。
 石段を踏みしめる音だけが辺りに響いていた。静かなのも悪くはないが、やはり二人でいるのにちょっと不自然だろうか?
 「―葵ちゃんは何で空手を?」
 沈黙がいよいよ気まずくなり始めて何か話さなきゃと葵が思いはじめたその時、ちようどいいタイミングで男が口を開いた。
 ほっとしたせいか無防備に微笑む。
 「たまたまなんです―」
 そして視線を宙に遊ばせた。そうすることで過去の記億を探し出せるとでも言うかのように。
 「たまたま町の空手道場の練習を見ました。そこで見たんです、綾香さんを」
 葵が立ち止まった。まだ石段は二桁近く残っていたが、つき合って男も立ち止まる。
 「空手をやってる綾香さんはそれは生き生きしてて元気いっぱいで、綺麗で可愛くて凄くかっこよくて…私もあんな女の子になれたらなあ、って。それで…」
 男が笑った。
 「ふうん、女の子ってそんなもんかな。男なんて大概ケンカ強くなりたいから、だぞ」
 つられて葵もくすりと笑う。
 「でも駄目ですね、私。体も小さいし才能もないし、綾香さんみたいに積極的な性格でもないし、気も小さいし…」
 俯いて、またくすりと笑った。今度は自嘲気味に。少し寂しそうに…。
 「関係ないよ、そんなの」
 暗雲を貫く光のような、それは明確な否定だった。
 「今じゃ誰も信じてくれないけど、俺も昔気弱かったんだ。体も小さかったし」
 え、と小さく呟いて葵が顔を上げる。
 男はまっすぐに前を向き、紫に染まり始めた山並に視線を向けていた。
 「でも—強くなれば気は大きくなるよ。だって何が相手でも殴り合いになれぱ絶対勝てるんだぜ? そりゃ気も大きくなるわな」
 不意に視線がこちらを向き、その瞳に葵の姿が映った。色んな事を乗り越えてきた人だと、葵は直感的にそう思った、
 「だから大丈夫。葵ちゃんだってきっと気は大きくなるよ。それに強くなれば自信つくから、積極的にもなる」
 男が笑った。その目には、経験に裏打ちされた確かな自信が揺らめいている。
 「―ところで、じゃあ葵ちゃんの最終目標はその綾香さん?」
 「はい、憧れています。エクストリームのチャンピオンで、坂下先輩がどうしても勝てない唯一のひとですから」
 「ふぅん。何かの雑誌とかで見た事ある気もする…。でも勝てないったってグラウンドでしょ?」
 「いえ、スタンディングでも、です」
 男の眉間に怪訝そうに皺が寄る。
 「打撃で? 空手に?」
 「打撃で、空手に、です」
 「中国拳法か何か? 通背拳とかそう言う間合の長い」
 葵にはそれがどんな拳法かはよく分からなかったが、話の腰を折りそうなのでそのままにしておく。
 「いえ、空手です。お二人は同じ道場の同流同門なんです」
 「じゃあそりゃ、坂下先輩が無意識にでも、手心加えてるんだよ。―愛してんじやないの?」
 「えっ」
 絶句した。それは結構大変な発言のような気がする。何気ない子供の落書きにこそ真実が描かれると言うが…。
 「で、でも、お二人とも女のひとですよ!?」
 「人間そのものを愛せれば性別は関係ないよ」
 そして男は歩き出した。一瞬立ち尽くした葵も慌ててその後ろ姿を追いかけるように石段を降りる。長い髪の束が左右にリズムを取って揺れている。
 もうすっかり正面に見える山並は黒く沈み、なんだか恐竜の背ビレみたいだと思った。
 明日もいい天気になるだろう。
 日々変わっていく。
 伸びようとしているのが分かる。
 何か、別の領域に足を踏み入れつつある。
 楽しい。
 強くなっていく自分が。
 高みに近付こうとしている自分が。
 この人は道を示してくれる。
 けれど、登って行くのは自分。
 いま初めて、私は自分の足で頂点を目指して歩いている。
 一つの道を極める喜び―
 あの人を超えるため。超えて、気持ちを伝えるため。
 あの人と同じ高みで物を見るため。
 そして憧れのあの人にずっと付いて行くため―
 「たあっ!」
 翔んだ。
 そして全ての想いを宙に解き放つ。
 「元気だねえ…」
 男が年寄り臭く呟いた。
 スカートが翻る。白い。どうやらブルマは脱いだらしい。
 着地。予想以上に膝は疲れていたが、それでも上手く膝のクッションを使って音もなく地面に降り立った。
 「先生も早くっ!」
 「へいへい…」
 そして男は早足で石段を駆け降りた。
 狼とも死神とも呼ばれる男が長い髪を風に遊ばせて駆け、葵に並んだ。二人の影が夕闇の街へと溶けていく。


        《To be Continued》