1.崩れゆく思い


   1

 「―ぅぐっ!!」
 破裂音とも取れるような坤き声が体育館に低く響いた。
 死角になっていた。
 気付いた時には、右膝はまともに自分の腹にめり込んでいた。
 ずむんっ! と言うその鈍い昔は自分の耳にも届く程だった。
 脊椎を揺るがす衝撃。そして胃袋がひっくり返るような感覚。
 次の瞬間、目の前が暗くなり白い光が幾つも浮かんでは消えた。
 「ううぅ…」
全身から力が抜け、何かにすがりつくように膝から崩れ落ちる。
 その場にうずくまり、両手で必死にお腹を押さえる。内臓が飛び出してしまわないように…。
 「―ぅえっ、えぇぇ…」
 途端に胃の中のものが逆流してきて、堪えきれなくなって、そして本人の意思に関わらず激しく嘔吐した。ウレタンマットを敷いた床に黄色っぽい胃液がまき散らされる。
 いつも試合の前には緊張してものを食べられなかった。それが幸なのか不幸なのか、吐き出されたのは酸っぱい液体だけだった。
 胃液がバチャバチャと音を発てて何度も床に落ち、広がる。―大勢の観衆の前で。
 しかし何もかも吐き出すと嘔吐は次第に治まった。けれども続けて全身を泥をかき回すような苦痛が襲い、涙がボロボロと零れた。
 それまでっ! とどこかから聞こえた気がしたが、例え聞こえなくてももう身動き一つ出来なかっただろう。
 ボロボロと涙は落ち続けた。それは多分苦痛だけでなく…。
 歯を食いしばり、何とか右手を付いて顔を上げた。
 自分を打ち崩した道着の(それも練習着!)膝が見え、そしてその上に黒い帯。
 激しい乗り物酔いのような不快感が頭の中を渦巻き視界がいびつに歪んだが、必死に堪えて更に視線を上げた。
 見下ろしていた。
 そんな人ではないとよく知っていたが、けれどもその目には呆れたような、蔑んだような光が見え隠れしているようだった。
 キリ…と奥歯が軋んだ。握りしめた右手が小さく震える。
 そこには先輩が―いや、さっきまで先輩だった今や越えるべき壁が、そこには大きく立ち塞がっていた。

   2

 赤く夕照に染まる帰り道を、松原葵は独りとぼとぼと歩いていた。小さな身体がますます、より一層小さく見える。赤い制服が夕陽に溶けて、その存在感は今や消え入らんばかりだ。
 「はあ…」
 もう何度目だかの溜息。それもダース単位の。
 お腹に手を当てると、まだ胃の辺りがぎゅっと潰されるように苦しかった。膝が肝臓だとか子宮だとかに入ってなかっただけでも不幸中の幸いだった。でも―
 (晩ごはん、食べられないだろうな…)
 そうしたら母親に何を言われることやら…。それも、葵の溜息の原因の一つだった。
 両親は空手を始める事に猛反対していた。女の子なんだからそんな野蛮で危険な事やらないで、もっとピアノ、だとかそう言う「女の子らしい」事になさい、と。
 でも、道場で見た綾香さんはとってもキレイで光ってて、すごく「女の子」だった。
 けれども十歳の葵に、その気持ちを上手く伝える事は出来なかった。
 次の日、葵はしょんぼりしてその事を道場で話した。綾香は腕組みしてぷりぷりとバイリンガルで怒っていたが、その時、ひょこっとその横から男の子が顔を出した。
 「―じゃあ私が葵ちゃんち行ってお父さんとお母さんに話ししたげるよ!」
 それが―坂下先輩との初めての出会いだった。


 一体この人は何歳なんだろう、と幼い葵の心にすらそう思った。
 その小学生は大の大人二人相手に真正面から正論を吐き、持論を説き、遂には「空手は暴力でも野蛮でも危険でもなく、己れの心と身体を鍛錬する高尚な『道』であり『法』である」ことを葵の両親に納得させ、その場で入門の許可まで取ってしまった。
 この一件で両親はすっかり先輩の事を信頼してしまい、「坂下さんがそう言ってるのなら…」はこの後の松原家に於て重大な接頭語となるのだった。


 そう言う経緯もあり、坂下先輩はある意味で葵の目標ではあった。しかしそれは「こんな立派な人になれたら」という目標であり、空手での目標はあくまでも「綾香さんのように」だった。とは言え先輩が大恩人であることに変わりはない。
 しかし自分はその大恩人を裏切った。もっともそれは単純に「綾香さんがこっちに行くから私もこっちにします」なだけだったのだが…。
 先輩はやはり驚いていた。寺女に入らなかった時点で、すっかり葵は空手部に入るものだと思っていたのだろう。しかし、空手を始めたきっかけが「綾香さん」である以上、今や葵に空手を続ける理由はなかった。自分も「エクストリーム」に移るのだ、と。
 そして挑み掛かった。
 そこに到る経緯はともかく、エクストリーム・ルールでの対戦だった。例え坂下先輩が慣れないグローブとレガースを着けたとしても、空手のキャリアの差はどうにもできないのは分かっている。才能の差も、遺伝子の段階で既にどうにもならないことも知っている。
 けれどエクストリームにはサブミッションがある!
 それは空手にはなくてエクストリームにはあるもの―タックルから入るグラウンドでの攻防。そこになら自分にも勝機は十分あるはずだと、葵は考えていた。しかし―
 坂下先輩は軽快なフットワークと前蹴りで距離を取り、緊張でガチガチになっている葵を寄せ付けなかった。そして隙を突いて一気に距離を詰め、空手の間合いで打撃戦を仕掛けた。
 下がらせてもらえなかった。それはただの空手の試合だった。
 一瞬葵が腕を取る場面もあったが、立ち組みは空手にもあるのだ。簡単に組み手は切られ、そして―戦慄の膝が来た。
 勝負をさせてもらえなかった。空手でも、エクストリームでも…。
 「はぁ…」
 溜息をつくと、まだお腹がぎゆっと掴まれるように痛苦しかった。その痛みが悔しかった。負けた事実よりも、手も足も出なかった自分が…。
 「あ」
 ふと気が付くと、足は自然に神社へと向いていた。今日はもうそんな気分じゃないのに日々の習慣と言うのは恐ろしいものだと、葵は独り苦笑した。
 仕方ない。重い足取りで長い石段を一歩一歩踏みしめ、登っていく。いつもの通り人気はない。
 ―自分は空手を辞め―捨てることで坂下先輩を裏切り、そして今日、エクストリームを名乗って大々的に敗れることで綾香さんをも裏切ったのだ。
 (どうすればいいんだろ…)
 恐らく、二人ともまるで今日の事など気にせず、と言うか気にも止めず変わらぬ態度で自分に接してくれるだろう。けれどももう自分の方が同じように接することはできない。きっと。
 エクストリームを名乗り、坂下先輩に勝利すること。
 それが、先輩に自分の決意を示し更に綾香さんに存在を認めて貰う唯一の手段だと、葵は今や知っていた。
 「はー…」
 石段が溜息を吸い込んで静寂へと変える。
(それが出来れぱ苦労ないですよね…)
 一体何年かかることやら…。
 再び葵は苦笑した。
 あるいは、それは自分自身に向けられた嘲笑かも知れなかった。